滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2015年08月29日

土下座する鳩山元首相

 鳩山由紀夫という元、民主党代表で民主党内閣の総理大臣を務めた男が、何をどう狂ったのか。わざわざ韓国へ出向き、まるで逆立ちするように、「申しわけない、申しわけない。慰安婦も植民地化もみんな日本が悪かった」「私は元総理だが、こうしてお詫びに参上致しました」。
 まるで韓国の反日世論に迎合するようなこの行動と発言は、日本国民を侮辱するのもいいとこである。
 韓国に対しては、さきに安倍首相の70年談話で明らかにされているように、安倍首相が、韓国におけるかつての日本の政策に深い悲しみの言葉をのべた。
 日本のことなら、すぐに反発する朴大統領が、う〜んとうなるほどの感銘を与えたのである。
 現首相が明らかに哀惜の発言をしているのに、鳩山はこれを無視するように、「お詫び行脚に参りました」と土下座して、韓国のマスメディアの格好の餌となった。
 今にして思えば、こんな反日思想を持つ男が民主党を代表していたということは、民主党そのものが日本のためではなく、韓国や中国に土下座外交していた証しである。
 こういう元首相がいるから、中国もこれに輪をかけて、とんでもないことを吹っかけてきた。それは中国の新華社という共産党本部の報道機関が発表した評論で、「日本の天皇は中国に詫びよ」というとんでもない声明である。
 天皇は国民統合の象徴であり、日本国民のあこがれの元首である。かりそめにも日本の天皇を鳩山如き元首相と同列に扱うこの横暴さは礼を欠くにもほどがあり、明々白々、いまなお、日本を敵視する反日の大絶叫というべきである。中国びいきの日本の政治家は、中国と仲よくせよと、もの分かりのよいことをいうが、相手国の中国は仲よくしょうとするどころか、日本国民を傷つける最大の侮辱言動を明らかにした。
 天皇敵視のこの声明は、日本国敵視、日本国民敵視の最大級のもので、取り消さない限り、日本の国民感情はおさまらない。
 日本における中国びいきの政治家や財界人は、この新華社声明に何と応えるか。なぐられても、バカにされても、何をされても「ごもっとも」と頭を下げるのか。国民は鳩山の反日を許してはならない。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月27日

滋賀県は災害に備えよ

 「台風一過」というが、25日の夜の恐怖は忘れられない。ごうごうたる嵐は、家も庭木も吹き飛ばすばかりの勢いで、不安のどん底に沈む人間の弱さを見せつけた。
 台風の爪跡は全国各地に及び、浸水、山崩れ、土砂の流出など眼をおおうばかりの惨状で、いまさらの如く、滋賀に生きる幸運を思わないわけにはゆかぬ。
 しかし、昔から災害は忘れたころに発生する。滋賀県は琵琶湖総合開発で、琵琶湖の治水に成功したが、かつては、台風ごとに湖辺の浸水や田畑の埋没に泣いた。最近は河川のはん濫もなく、湖に注ぐ河川の流れはおだやかである。
 ならば、滋賀県は災害に強いのか、そう自慢する根拠はどこにもない。
 これまで、伊勢湾台風を除き、多くの台風は滋賀県を北東進するころにはエネルギーが弱まり、被害らしいものを残さなかった。
 備えあれば憂いなしというが、災害に強い滋賀は備えが充分なのだろうか。必ずしもそうはいえない。
 いま、仮に、50㍉、100㍉の瞬間豪雨が降れば、河川は大丈夫だろうか。山崩れや土砂の流出は避けられるであろうか。
 バケツの水をひっくり返したような豪雨が1時間も2時間も降れば必ずどこかでアウトの悲鳴が聞こえるはず。
 伊吹山の裾を流れる姉川のはん濫は、そのまま米原、長浜の穀倉地帯を土砂で埋めるだろうし、長浜市の鳥羽上山、米原市の醒井方面の石灰岩さく地などはひとたまりもなく崩れ去るにちがいない。
 幸いにして、これまで、豪雨を逃れてきただけで、この先、世の中、どう変貌するか、地球や気象条件の変化は人間の知恵の及ばない世界である。
 ぼくは、むしろ、災害に弱いのは滋賀の特質であり、あらためて、防災対策や砂防事業、治山治水に万全を期する必要があるのではないか、と訴えたい。災害のないことを当たり前のように思って、土木費などを惜しんでいては、いざというとき、間に合わない。
 村が減り、人口が減り、人の暮らしが難しくなればなるほど過疎地帯の安全対策や防災に力を入れなくてはならない。
 いま、安全だからといって将来の保証のないのが災害である。災害防止と治山治水は県土の防衛と民心安定の基盤である。
 県はもちろんのこと、各市町とも思いを新たに、備えあれば憂いないしの政策を推進してもらいたい。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月25日

言論の自由と新聞の投書

 「一凡人」と記す無名の方から、ときどき投書を頂く。毒にもクスリにもならない話題はともかく、一見識、あるいは思想性を感じる投書は、投書子本人が、どこの誰であるのか、仕事は、年齢は、と聞きただしたいことがある。発信人がだれか分からない文書は、言論の自由とはいえ、これは怪文書の類いである。
 覆面強盗というが、覆面怪文書は、一種の筆面テロともいえる。
 投書といえども必ず読者の反応はあるはずで、内容によっては、聞きただしたいこともあろうし、本人に直に議論したい人もあるかもしれない。しかし、覆面のままでは、とりつくしまもなく、逆に採用した編集部の無責任を追及されかねない。
 法の許す言論の自由は、おのずから本人自身の責任が担保されねばならない。万一にも怪文書によって、人の名誉が傷つけられたり、社会不安を引き起こすようなことがあれば、テロ行為として刑事事件の対象になりかねない。
 滋賀夕刊に送られてくる投書は、発表段階で、とくに匿名を希望すれば、それに応えるにやぶさかではないが、最初から無名のままの怪文書であれば、そのまま採用することはテロ行為に加担することになる。
 これは、すべての新聞の投書に関する原則であり、もし新聞が意識的に投書の名を使って、偏った言論を、投書枠を通じて宣伝したとすれば自らの自殺行為といえよう。新聞によっては、一方的な主張の投書が毎回のように見られるが、こういう編集方針を見るとその新聞の公正さが信じられなくなる。
 これまで、わが社へ投じられた「一凡人」の投書は、そうした物騒な内容ではなく、かなり洗練された知識人の言論とみられるが、それであればこそ、投書子に教えを乞う読者もあるだろうし、編集部として細部にわたる質問やあらたなる提案、あるいはその見解の根拠に関する質問もあるかも知れない。それが全くかなわないのが発信人隠しの怪文書なのである。
 こう書けば、賢明な「一凡人」さんは、わかってくれるであろうから、現在、編集部に保管している投書は、本人の氏名、電話、年齢を届けてくれれば、掲載することになる。
 それにしても、投書はある程度、紙面の制約があり、長文のものは割愛、カットすることは当然である。
 いずれにしても、怪文書のそしりを免れ得ない文書は、法の許す言論の自由の恩恵には浴し得ない。
 少し涼しくなったので、あらためて言論の自由について考察したまでである。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月20日

一寸の虫にも五分の魂

 「一寸の虫にも五分の魂」という。生きとし生ける一切の生物は自己の生存と子孫の繁栄に血眼の努力を続けている。
 お盆は先祖の霊を供養するだけではなく、あらゆる生物への慰霊に人間の美徳が込められている。
 命ほど尊いものはないのに、今の世は、日常茶飯事の如く殺人事件がひんぴんと多発する。
 戦後の日本は1955年(昭和30年)までは生きることに無我夢中だったが、産業、経済の復興とともに70年代から車社会、3K社会に突入し、モラルよりもカネに支配されるようになり、そのゆきつく結果が人間関係の稀薄化と人間相互の不信を招いた。
 生命の神秘、尊厳に触れることのない第2次団塊世代以降は、学校で道徳教育を受けることも、実社会で人間の絆をかみしめることもなく、怒り心で突発的に人を襲ったり、傷つけたり、暴行の果てが殺人になることもあった。言わば幼年期のわがまま精神体質がそのまま大人の体の中に居座ってしまった。
 子供が池の蛙を平気で殺したように、大人になっても気に食わねば殴ったり、傷つけたり、殺したりする。
 一寸の虫にも五分の魂どころか、どだい、己れ以外の他者の存在に心を開くことがない。仲よしの友人や恋人でも気に入らねば消えてもらいましょう、とはまさに人間以下の単細胞だが、いまの世はそういう危険因子を持つ人があまりにも多すぎる。
 道を歩いても電車に乗っても、いつ命が傷つけられ、奪われるか、くらやみの世となった。人間崩壊の根はどこまではびこるのか、悪魔の世を救うものは宗教でしかない。そういう思いを深くする昨今である。
 それにしても不可解なのは、大阪府高槻市で起きた中1少女殺害事件である。夜一緒に行動していた男子は行方不明というが、彼らはノラネコのように深夜に遊んでいた。2人の家庭は放任状態だったのか。我が子の行動に無関心というのは許せない。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月18日

安倍談話の素晴らしさ

 安倍さん、ほっこり、お疲れさまでした。
 日本の総理の高い見識による戦後70年の談話、日本人の多くは安倍さんを信じお任せしていたはずなのに、内外から、ああでもない、こうでもないと雑音が入り、普通の人間なら鬱病になりかねない局面。さすがに安倍さんは、堂々と、そして、たんたんと過去の戦争に触れ、国内外の亡くなった人々の命の前に痛惜の念を表し哀悼した。
 その中で、広島や長崎での原爆投下、日本各都市での爆撃、沖縄における地上戦で亡くなった犠牲者に思いを寄せた。
 安倍談話のうち、最も素晴らしいと思ったのは「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」との決意である。
 戦後70年ということは、戦争を知る人が80歳以上になっていること。実際に戦争体験した人はほとんど90歳以上になっているはず。何も知らない子や孫、その先々の子や孫がずっと謝罪を続けることは人倫に外れるのではないか。仮に個人の場合、犯罪者は起訴され、判決によって罪科を追及され、刑務所で罪の償いをするが、刑期を経て社会に復帰したとき、その子や孫、親族までもが彼の罪を償わねばならないのか。そんな不条理は許されない。
 国の場合でも然り、全く戦争に関わりのない世代へいつまでもお詫びの宿命を負わせてはならない、と安倍さんはきっぱりと語った。
 日本には、安倍叩きを信条とする反日スパイ集団のようなものがうろうろする。野党の中にも、マスコミの中にも存在する反日のグループは自分の国を貶め、自分の国の総理をこぼつことになぜ精力的なのか。
 明らかに彼らは、自分の拠って立つ位置が日本にあるのではなく、韓国や中国にあるのだろう。中国や韓国は、安倍さんが靖国神社へ玉串料を差し出しただけで牙をむいているではないか。日本人が靖国へ参拝するのは日本人の礼節ではないか。そこまで、信仰の世界にくちばしを入れるのは、自由と民主主義、平和主義を潰す意図が明々白々といわねばならぬ。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月13日

15日はお盆で墓参の日

 15日はお盆である。地獄の釜も休むというからエンマさんもお休みをもらって宇宙旅行でもするのであろう。
 いまは、それほどでもないかもしれないが、50年程前は日本の人口が大移動したといわれたほど、すべての日本人が古里へ帰り先祖のお墓参りをした。
 「千の風になって」という歌が先年流行し、「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません」と、まるで一般の墓参りを嘲笑するような歌詞だった。
 墓場には念仏を太々と彫り、何々家と、それぞれの家の墓主の名が明らかになっている。墓にほとけの霊が宿っているか、どうかは墓に聞くより方法がないが、通常の墓は御影石でできており、家族は代々、家系の死者の遺骨を納めている。納骨の祈念碑でもあり、何世代もの先祖の御霊が眠っているとされている。これは、宗教的なもので、科学技術による解明の対象ではない。
 ほとけさんが、お盆に帰られるから、そこにお参りして、先祖を偲ぶという一様の儀式である。同じ仏教信者でもそれぞれ宗派や本山の意向もあって、お盆祭礼の儀式もさまざまである。
 霊を迎えるため迎え灯を焚くやり方、霊の喜ぶご馳走をつくって迎えの儀式をするところは、盆が終わると送り火を灯す。
 真宗各派は、ほとけは人間界のものではないから、食べものを供えることはしない。家族、親族が墓参りするのは灯りをつけ、線香の香りを放ち、墓石に水を注いで、一心に念仏し、読経し、家族の今日あるのを感謝する。
 ほとけさんが聞いているか、どう思っているか、霊界は世界が違うので、人間流で判断することは不可能である。墓が存在し、その中に祀られている亡き歴代の御先祖さまに会えるという精神的な伝統行事であるから、理屈であれこれ議論する対象ではない。
 霊は存在しない、墓は石製の気休めのもので、古い習慣に迷わされるべきでない、と思えば、墓参りをしなくてよいし、邪魔と判断すれば撤去してもかまわない。
 しかし、残念だが、こうして墓参りの意味をこきおろし、参詣の家族が少なくなってゆくことは、日本の農村、古里文化が消えてゆくことと重なり、すでに明々白々。古里そのものが消えてゆく運命にある。
 少子高齢化と地方の亡びが現実となり、日本の人口の減少に歯止めがきかなくなった。今を生きる人々よ、あらためて、先祖供養の大切さを知るべし。
 あなたは、木の股から生まれたのではない。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月11日

安倍総理の70年談話の自由

 今年2015年は、1945年の敗戦以来70周年になるので、安倍総理の70年談話が、事前にあれこれ話題となっている。70年の節目に当たり、一国の代表が国内はもちろん、世界に向かって発信するのに、まるで事前審査のように、中国や韓国の希望を取り上げたり、国内のマスコミや政治家が勝手にあげつらうことは全く不愉快な話である。日本の代表は安倍総理であるから、日本及び日本の国会は日本の政治権力を安倍さんに託していることを確認すべきである。日本代表の安倍さんが首相にふさわしく70年談話を発表することを期待すべきである。
 自由国・日本の代表が、発信するというのに、何をいうのか、事前審査のような、あれこれ外部からくちばしを入れるのは自由な言論の侵害である。
 安倍総理は、かつての村山談話などに拘束されることなど断じてあってはならない。かつての社会党代表だった村山氏が政権を握っていた時の話で、彼がもともと共産国の中国びいきだった関係もあって、談話もあからさまなる中国寄りの文字を連ねた。自由国日本が、中国の顔色をうかがうような談話を発表すること自体、いちじるしく国益を損なうことになるのは必然である。まさしく、中国は、村山談話をきっかけに「歴史を変えてはならぬ」と、日本の政治にくちばしを入れ、日本の偏向的マスメディアを利用して、自民党政治を批判し続けた。中国は「お詫びと反省」の村山談話を尻目に、同国内の反日感情の盛り上げを国是として、大々的な抗日戦勝記念館を建設したり、狂ったような反日宣伝に共産党の指導が政策化した。
 安倍総理がどんな談話を出すのか、事前にとやかく制限を受けることなく、総理自身の日本の歩んできた70年を回顧して、日本が戦後果たしてきた自由と民主主義への貢献、世界の平和と経済の発展、文化の向上に尽くしてきた実績と誇りをもって語るべきである。
 この際、70年を回顧するなれば、戦争末期のソ連(現ロシア)の人道無視の悪魔の実態を明からにすべきであろう。自ら、日本との中立条約を破って、満州(北部中国)へ何師団もの兵を侵略させ、日本軍並びに満豪開拓の日本人をすべて拉致し、日本に帰国すべき何百万人を人質同様にソ連の収容所に送った。満州へ侵略したソ連兵は、日本人の所有物を掠奪したばかりか、多くの女性を暴行し、あげくの果てに殺害した。病人や幼い子を連れて、南朝鮮へ引きあげるべく乗った列車を途中でおさえて、ソ連へ逆送するなど、人権蹂躙どころか、国際軍事法廷で裁かれるべき罪悪を重ね、この結果100万人とも50万人ともしれぬ日本人が命を奪われた。この残虐な戦争犯罪をじっと我慢してきた日本政府は、今、ここに70年を迎えるに当たり、克明に世界に発信し、その非をたださねばならぬ。
 安倍さんは70年談話を通じて、この戦いの自衛なる真実と、この戦いが結果として米英諸国によるアジアの植民地解放につながった点をも強調すべきであろう。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月06日

ぼくの戦争体験と思い出

 支那事変が始まったのは、昭和12年7月だった。ぼくのいとこは、始まってすぐ召集され、敦賀の19連隊に入った。現役のとき陸軍1等兵だったから、成績のよい方ではなかった。ぼくは、そのころ、小学校の高等科2年生だったが、いとこが明日入隊するという前夜の妻のうろたえと、泣きあかした悲しい姿が今も忘れられぬ。いとこは、新婚間もないころで、若い妻は、別れたくない、と一晩声を上げて泣き崩れた。いとこは、北支の石田部隊に属し、2年程戦ったあと、無事召集解除で古里に帰ってきた。戦の最中、敵弾が前進する班の頭上に、炸裂したときは、生きた心地がしなかったが、それを恐れて前へ進むことをしなかった戦友がかえって戦死するという皮肉も見てきたという。いとこは2度目の召集をまぬがれて在郷軍人として大阪で働いた。
 ぼくは、それから7年ほどして、中央大学時代に学徒出陣で召集された。
 ぼくの故郷は旧東浅井郡・上草野村野瀬だが、小学校の男子同級生11人のうち、5人は戦死した。残る6人は無事に帰ったが、戦況が振るわず、沖縄、フィリピンへ行けなかったのが幸いした。15、16歳で、少年飛行士や海軍機関兵に志願したものは、いつの間にか白木の箱におさまって帰ってきた。
 ぼくは昭和19年9月、伏見の野砲隊に召集され、古い明治の野砲で操作の訓練を受けた。
 兵隊時代の思い出を語れと言われれば、ぞっとするほどの嫌な日日の連続だった。何しろ軍隊に人権などあろうはずがなく、班の上等兵や古兵にこきつかわれて、しぼられてばかりの忍従の生活だった。脱走するわけにもゆかず、病気になって入院できれば、とそんな変な気分だった。なぐられるのは毎日のことで、こうした訓練を経て強い軍人になるのか、と、いつの間にか、そんな地獄の環境になじんでいた。
 入隊した最初の1カ月は、くたくたに疲れ果てて、不思議にも夢を見ることがなかった。
 組織は大隊、中隊、小隊、班と下部組織へ広がるが、班の仲間が唯一の頼りで、なぐり役は一等兵や古兵だった。誇りも自尊心もなく、命令のままに起居し、訓練を受けた。
 ぼくは、野砲から、途中で、船舶の暁部隊に転属し、広島に派遣されていた。原爆の落ちる2週間前に広島を発って、佐賀県の唐津に移ったのが幸いして、一命を助けられた。
 唐津では、東松浦郡打上村に入り、山に壕を掘って、特攻潜水艇を格納する作業に明けくれた。
 戦争終結の玉音放送を聞いた気分は、複雑だった。ああ、やれやれ、これで故郷へ帰り母に甘えられるのかという安堵感とともに、「このまま、復員して、それで自分たちの責任は果たせるのか」、といううしろめたさだった。とても後の世の若い人の参考になるような思い出にはつながらない。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月04日

世界1位、日本の平均寿命

 厚生労働省の発表によると、去年の日本人の平均寿命は女性が86・83歳、男性が80・50歳で、女性は3年間連続で世界1位。これに続くのが香港、スペイン。男性は一昨年より順位が一つ上がり、香港、アイスランドに次ぐ世界3位。この結果、日本は世界でトップクラスの長寿国となった。
 平均寿命の延びについては、厚労省は、医療技術の進歩により、日本人の主な死因のがんや心臓病、肺炎などに対する治療が効果をあげていると指摘している。また健康志向の高まりにより元気な老人が増え、今後さらに平均寿命の延びる可能性がある、と分析している。
 女性と男性の平均寿命の差は6・33歳で、一昨年より0・07歳縮まった。
 平均寿命は、寝たきり老人や植物状態も統計の中に加えられているが、気になるのは、健康寿命のことである。健康で長寿している人はめでたいが、病床で福祉の世話を受けている人の中には、痴呆症や胃ろうの人もあるだろう。長寿、即幸福といえないところに、老人福祉のむずかしさがあり、そのことは国家の医療費にも関係する。
 ところで、戦前の老人は、どれくらいの長寿だったのか。たいていの人は還暦(60歳)を過ぎると隠居するが、家の仕事は息子に任せて、ぽつぽつ死んでゆく。70歳以上は珍しく、80歳くらいになると村でも評判になった。88歳を米寿というが、そんな長寿者は村に1人もいなかった。ぼくの祖母は健康長寿だったが、それでも77歳で亡くなった。ぼくの親戚で70歳を超える人は珍しかった。戦前は村に医者がおらず、隣の町まで治療に通った。病院は死ぬ1週間くらい前に入ったが、「どこぞのAさんは、長く患っていたが、とうとう入院したらしい。もうあかんのやろう」と村でうわさした。入院は治療するのではなく、死の前の儀式で、それも貧乏人には縁がなかった。
 なにしろ、歯を磨くでなし、栄養のある食事をするでなし、朝、暗いうちから野良に出て、夜は星を仰ぎながら家へ急いだ。仕事に疲れてもマッサージを受ける人はほんのわずかで、ぼくは、毎晩、父の背中を足で踏んだ。背に乗って、あちこち足踏みするのを父は喜んだが、安定性がないので、長い台所用のホウキを逆さにして杖代わりにした。背、腰、足裏などを踏みながら、「そこ、そこ」という父の声を頼りに「もうよい」の声を待った。
 医師不在だから、家の老人がさい配して、越中富山の置き薬を頼りにした。たいていは胃ぐすりの熊の胃、風邪用のトンプク、感応丸などが売れ筋で、ぼくはくすり屋のくれた風船で嬉しそうに遊んだものである。野ばんに近い暮らしだから、石鹸を使うこともなく、女子は髪にしらみがへばりついて、しらみ取りがその家の母親の役だった。おそらく下着や肌着は着たきり雀で、洗濯はしなかっただろう。
 食べ物は、冬はみそ汁、夏はどぼ漬け、年に何回か餅搗きをしたが、団子が何よりの馳走だった。正月と春祭、お盆が休みで、他は年中、働くのが農山村のしきたり。ふだんは塩辛いものを取るので、中風になる人が多く、60歳を超えれば上々の長寿だった。
 そういう戦前の貧しい暮らしに比べると、今は有り難くて後光が射す。世界1の長寿・日本はそのうち平均寿命90歳を超えるかもしれない。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )

2015年08月01日

敗戦とGHQ総司官マ元帥

 8月といえば、日本人には暗いイメージが伴う。それは原爆投下、敗戦を思うからである。
 同じ8月でも今年は敗戦70年、めでたいとは言えないが、敗戦を契機に今の日本が誕生したとも言い得る。
 8月を論じるとき、世界的に話題のつきないのは6日の広島、9日の長崎原爆の投下であろう。原爆が日本の降伏につながった、という説は、もしあのまま戦が続行すれば、彼我の軍人の大量死や日本国民の犠牲は計り知れぬ、という人間の価値観につながる。だが一方で、世界初の原爆投下という人類滅亡の野望を糾弾する国際的良識論も根強い。
 1945年3月には死者10万人ともいわれる東京大空襲に続き、日本全土、至るところに敵機の襲撃と爆撃が繰り返され、政府はひそかに戦争終結の方途をめぐらした。敗戦のどさくさにまぎれて、日本上陸を考えていたソ連(現ロシア)の裏をかいて、アメリカは原爆を投下した。
 日本の敗戦は8月15日の天皇の玉音放送によって混乱無く国民に知らされたが、もし、この放送が戦争継続の軍部によって差し止めされていたら、日本国内は無秩序の混乱で部分的に戦争は続いていたかもしれぬ。
 日本の敗戦で、日本人に強くイメージングしているのが占領軍総司令官マッカーサー将軍である。もし、占領軍の最高司令官がマッカーサーでなかったら、いまの日本はありえたであろうか。分断国家になっていたかもしれないし、占領後、ソ連、中国、イギリス、オーストラリアは、天皇制の廃止を主張していた。日本の分割統治を強く主張していたのはソ連のスターリンで、北海道、東北をソ連、関東から関西をアメリカ、西日本をイギリス、中国に分割占領させるべく工作した。ソ連の意図を拒否したのは、マッカーサーで、彼は1951年、トルーマン大統領から解任されて、4月16日、帰国した。飛行場までの沿道は20万人もの人が小旗を振って見送った。
 マッカーサーのイメージは偶像に近かった。いまの若ものでも、マッカーサーの名前は知っており、戦後の日本を改革した、と応えるほどである。事実、彼の占領政策で、農地は開放され、労働3法も生まれた。
 有名なのは、1947年の二・一ゼネストがマッカーサーの命令で中止になった事件であろう。伊井弥四郎全官公庁共闘委員長は、ラジオを通じて涙ながらに占領軍の命令を伝え、ゼネスト中止を訴えた。
 惜しまれて日本を去ったマッカーサーは、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の明言を残したが、51年5月、米上院軍事委員会で「日本人は12歳である」、また同じ議会で「日本人は勝者にへつらう傾向がある」とも証言した。
 8月はまさに、多くの日本人にさまざまな思いをよみがえらせる。あらためて靖国に合掌。(WILL9月号「マッカーサーの通訳官」参照)。【押谷盛利】

| | トラックバック ( 0 )


しが彦根新聞
滋賀夕刊電子版
滋賀夕刊宅配版
滋賀夕刊デジタルトライアル
 
長浜市
長浜市議会
長浜観光協会