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2015年07月30日

国家の根源的役割とは

 ぼくは常から思っていることだが、防衛とか独立、平和など外交は、ときに政権の思惑を超えて一貫性がなければならぬ、ということ。政権は総選挙などによって交替することがあっても国の防衛や外交にぶれがあってはならない。
 国家・政府の根源的な役割について作家の百田尚樹氏と前東京都知事・石原慎太郎氏が月刊誌「WILL」9月号に有益な対談をしているので一部を紹介する。
 石原「日本の政治家は歴史を知らないし、知ろうともしない。わが同胞が拉致されても沈黙している国ですからね。セオドア・ルーズヴェルト大統領の時代に、モロッコで、アメリカ人女性の中学教師が家族旅行中に誘拐され、夫を殺されハーレムに入れられた。それを知ったセオドア・ルーズヴェルトが即時に軍艦を送って砲撃を開始し、その威圧によって女性教師を取り戻す。私はまさに、これが国家だと思います。そういう責任を、たとえ一人の国民に対しても果たし得ない国家に私たちは税金を払う気もしない。そもそも国家、政府というものの最も根源的な役割は国民の生命と財産を守ることです。それを行い得ない国家は国家の名に値しない」。
 百田「集団的自衛権もそのための法整備ですからね」。
 石原「以前ブッシュ大統領が来日したとき、都知事として明治神宮に参り、流鏑馬を見たんです。そのとき、隣に座ったパウエル国務長官に拉致の話をして、どう思うか、と訊いたら、分からない、言われても事実として理解できない。これだけのことが事実として判明しているのに、一体、日本の政府は何をしてきたんですか、と聞き返されたことがある。こういう状況が改善されない限り、いかなる政党が国政を担当しようとも国民の不信感はつのるばかりです」。
 百田「過去、一人の国民の命を助けるため戦争が起こったケースはいくつもあります。あとは島、領土を守る戦争です。代表的なのがフォークランド紛争です。アルゼンチンにフォークランド諸島を取られたイギリス議会では、遠方の小さな島のため戦争するのはどうか、と大半が懐疑的なムードだった。そのとき、サッチャーは、開戦に反対する閣僚たちに、この内閣に男は一人(私)しかいないのか、と机を叩いて怒鳴ったそうです。国民一人であろうと、小さな島であろうと、国家にとっていかに大事かということです」。
 2人の対談は、国家の根源的な役割を論じたが、いま、日本の安倍総理叩きをやっている民主党や一部報道陣は、日本が、ベトナムやチベットになるのを望んでいるのだろうか。火の用心、戸締まり用心の安保法制は国家の独立、平和を確保するまさに現下緊急の要件である。刻々変化する国際平和環境に、遅れをとって、後で後悔しては国を亡ぼすだけである。【押谷盛利】

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2015年07月28日

獅子身中の虫と万犬吠ゆ

 「獅子身中の虫」という。百獣の王・ライオンにも泣きどころがある。それは体内に巣食う虫である。人間で言えば、体内のがんである。
 もう一つ格言を書いておこう。「一犬吠ゆれば万犬吠ゆ」。村で、どこかの犬が吠えると、村の犬ことごとくなき騒ぐ、という意味。
 安倍総理が命がけで日本の独立と平和を守ろうとしているのに、安倍さんの属する自民党の中に安倍つぶしのがんのような幹部がいるのが耳障りである。なかでもがんの筆頭は二階総務会長である。総務会長は幹事長に次ぐ党3役であるが、なにかことがあると、かっこよくマスコミに登場して、一体この男の本心はいずこにあるのか問いたいときがある。
 例えば、彼は中国に顔がきくというのが自慢らしい。中国共産党の幹部に会ってもらえるというこの自慢の顔は、先方にとっては日本叩き、安倍叩きの都合のよいスパイのような存在であろう。彼の発言を聞いていると、「中国に対し未来を展望し仲よくしなければならぬ」の一点につきる。その彼の未来志向の言葉に中国政府は具体的にどう答えているのだろうか。反日の記念集会を盛大に行ったり、反日の記念堂を大々的に宣伝したり、あるいは尖閣や南シナにおいて軍事的脅威を発信し続けている。
 二階氏は3千人以上の訪中団を指揮して、中国詣でをしたが、先方にどんな貢ぎものをしたのか。日本を売る貢ぎものなら、先方は歓迎して当たり前である。逆に言えば、二階氏は中国詣でによって、どんな利益を得ているのだろうか。先方は一党独裁の国であるから二階氏を養うのに予算も議会も関係ない。
 中国詣での自民党幹部のもう一人は、かつて総理をつとめた福田康夫氏である。政権幹部の中国詣での第一号は、民主党政権時、幹事長だった小沢一郎氏である。二階氏はかつての小沢一郎の弟子で、今日あるはまさに小沢さまさまである。
 さて、万犬吠えるの話だが、昨年秋のスパイ防止法から今日の平和安全法制の国会審議を通して、朝日、毎日、中日新聞らの大々的反対キャンペーンは、とても常識の枠では考えられないヒステリックなもので、なにも知らない人は、彼らの宣伝に乗って、ほんとに戦争になるのかと心配する。
 民主党の悪乗りも一役買って、国会前へ国民を動員する煽動宣伝について言えば、かつての岸内閣時代の「安保反対」闘争の再現をねらっているとしか考えられない。当時の反安保闘争の学生は今は職場を定年退職しているが、国は亡びるどころか、安保のお陰で日本の平和が続いている。いまの国際的平和環境は当時とは比較すべくもない危険性を膨らませているが、その実態を正確に訴えるのではなく、1にも2にも「戦争反対」「徴兵反対」をやるから、日本国中、だれかれなしに「戦争反対」をいう。まさに万犬吠える異常さだが、考えるがよい。日本人のだれが戦争を好むというのか。百人が百人、みんな日本人は戦を憎む。
 日本が戦に巻き込まれぬよう、他国が日本にちょっかいをかけないよう戸締まりをするのが今回の安保法制である。
 残念乍ら、日本には、中国、朝鮮を喜ばす「先方のお抱え」がいるので、国民は活眼をもって冷静でなければならぬ。【押谷盛利】

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2015年07月23日

消防署と火消しの時代

 伊香、東浅井、長浜、坂田の消防署を統轄する広域消防署が古くなったので、近く建て替えるという。
 消防の仕事は火災だけでなく、水害対策のほか、救急医療や建築物の確認など守備範囲が広い。火事や洪水に自治体間の境界で出動に遅れがあってはならないから、広域消防は全体を的確に把握し、緊急手配や出動に一分のゆるみも許されぬ。
 江戸時代は消防を火消しと呼んだ。火事は江戸の華といわれたほどであるから、自警組織ではあっても火消しの役割は大きかった。住民も火消しを尊敬し、地域における彼らの活躍に物心で協力した。
 今はサイレンがけたたましく鳴るので、情報のキャッチは早いが、江戸時代は、「半鐘」がサイレン代わりだった。釣り鐘を小さくしたもので、これを「火の見やぐら」に吊るし、火事や洪水、事件などの場合、これを叩いて地域に知らせた。
 このほかにも地域の安全と民衆の不安のない生活を確保するため「番屋」や「番所」が置かれた。番屋は番人の詰めている小屋で、今の交番所の元祖である。番所は番屋より1枚格が上で、初期警察署のようなものだった。
 江戸時代は幕藩体制で、中央は幕府、地方はそれぞれの藩主が統轄した。幕藩体制にしろ、明治の官僚制度といい、役人が庶民に向かって指導する政治だから役人天国というか、官員さんが幅をきかした。いまでいう国家公務員である。
 公務員は末端行政につながるが、政治家をうまく使って、世渡りをする。明治に入って百姓は農家となり、工場労働者は職工といわれたが、後には組合をつくり、政治への発言権を高めた。
 言葉の変遷は面白いもので、鉄道員を汽車ポッポ、略して「ポッポ屋」といった。郵便の配達は郵便屋、商人は「あきんど」、板前は今の調理師。
 明治時代までは、女性は腰から下につける肌着を持たなかった。俗に下穿きというが、今のようなパンティー時代は随分後のことで、ぼくが小学生のころは、川で泳ぐとき、6年生の女子は丸はだかで泳いでいた。世相は文明を反映しているが、いまのような便利、快適、文化生活は、江戸や明治、大正人は腰を抜かすにちがいない。【押谷盛利】

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2015年07月21日

共産党宣言と宣伝煽動

 いまから約170年前の1848年、マルクスとエンゲルス共著の「共産党宣言」がロンドンで発行された。いわゆる共産主義者の綱領で、世界の共産主義革命の聖書のような重みをもった。
 これまでの社会のすべての歴史は、階級闘争の歴史である、として、現在のブルジョア時代はプロレタリア革命にとって変わる、と宣言し、共産主義者の役割と闘争方針を示し、万国の労働者団結せよ、と訴えた。
 この共産党宣言の中に、ブルジョア時代における議会活動について、次のような指導をしている点が注目される。
 議会は、共産党議員にとっては、宣伝の場であり、国民を煽動することを任務とする。つまり議会は共産党の宣伝と煽動の場である、と規定した。
 日本の共産党は国会から地方議会に至るまで、選挙で選ばれた議員が活躍しているが、不思議なことに、共産党宣言の約170年後の今も、宣言に規定した通りの「宣伝、煽動」に情熱をかき立てる。例えば、日本共産党の機関紙「赤旗」は昨年秋における秘密保護法や今議会における集団的自衛権の平和維持法制の国会審議について、全紙面あげて、連日、反対のキャンペーンを展開したが、それは司令塔の如く、国会から地方議会までを指導した。
 そればかりでなく、国会議員も地方議員も全くの同じレベルの議論を展開し、地方議会では、関係ないと思われる国政問題について知事や市町長に質問した。質問に意味があるのではなく、共産党宣言にそって、議会を宣伝、煽動の場にしただけの話である。
 宣伝、煽動について言えば、日本の大手新聞の中にも、朝日、毎日、中日(東京新聞)などの紙面を見ると、何でも戦争に結びつけ、反安倍闘争をかき立てる。社の方針に何か意図的なものがあるのか、疑問視する編集が連日繰り返される。編集の幹部や記者の中に、宣伝、煽動が頭にあるのかもしれない。共産党宣言を忠実に実行しているとは信じがたいが、ひそかに思うことは、この3大新聞は、中国や北朝鮮に人気があるのではないか。それは「反日」に重点をおき、日本の新聞でありながら、共産国家の人権無視や辺境民族の圧迫、環境劣悪などについて、筆が及び腰である。しつこい安倍叩きキャンペーンは、共産国を喜ばすだけでなく、日本の国民に対する宣伝煽動の役割を担っているのではないか。
 もし、本気で、日本叩きや安倍叩きに情熱を燃やすとあれば、その情熱の根源は何か。共産党宣言が、ブルジョア社会からプロレタリア革命を展望するように、日本の自由民主主義政治を排して、共産党を中心とする革命的政治風土に傾斜しているのかもしれぬ。
 共産党宣言にいう革命へのチャンスに備える宣伝、煽動に国民は迷わされてはならぬ。
 国民は日の丸の平和主義を誇り、歴史と伝統の皇統連綿の祖国を愛している。【押谷盛利】

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2015年07月18日

安保法案反対を喜ぶ中国

 安保法案が16日、衆院を通過した。日本が丸はだかで、いつ、どこで侵略されても無抵抗で、相手さんのお好きなようでは、国の独立はもちろん、国民の幸せははかれない。
 安保法案が衆院の特別委で議論されるなか、一部のマスコミと野党は犬の遠吠えの如く、狂おしいばかりに反対ののろしを上げまくった。反対するにもことかいて「徴兵制反対」、「戦争反対」と何も知らぬ国民は、ほんまに戦が始まるのかと心配したほどである。
 この安保法案は、日本の戸締まり法案であり、他国の侵略を未然に防止する抑止力がねらいである。
 日本を平和ぼけというが、日本人は政府も国民も戦争を好むものではなく、むしろ世界の平和の礎になってきた。衆院の特別委で議論されたが、野党は、緊急にして明白な防衛上の危機を訴えた。
 アホかいな、とぼくは思う。どこの国であれ、ことに最近のように軍事的、技術的能力が開発されている国際情勢の中で、緊急にして、明白な危険など理屈をこねている間に攻撃や侵略が進んで行く。外国の侵略の牙は、緊急明白なマンガのようなことはしない。それとなく、わからぬうちに既成事実をつくり上げてゆくことは、中国の南シナ海における埋め立てや軍事基地化をみても明らかである。いつの間にかボーリングして、埋め立て工事が進む。アメリカも東南アジアのすべての国もア然としてながめているうちに、海上軍事基地がデビューした。
 このように国際情勢の平和環境が急速に変化している昨今、ああでもない、こうでもない、と反対し続けて、その理由に戦争を上げるのはお門違いもいいとこで、一体民主党や他の野党と一部のマスコミは、貴方方の祖国はどこですか、と尋ねたい。
 しっかり覚えておくがよい、安保法案に反対して喜ぶのは中国と北朝鮮である。中国が「がんばれ」「がんばれ」と反対勢力にけしかけているのか、どうか。日本の政治家には反日を国是としている中国へ、うれしそうに訪問するやつがいる。日本人の中国詣でのだらしなさは、先方に足下をみられるだけで、決して日本のプラスにならない。
 それにしても維新のふらふら腰はお笑いぐさである。与党と協議する代案を用意しながら、本気なのか、見せかけか、カッコよく是々非々を訴えるつもりか、それとも世間から忘れられぬよう目立ったところを見せたかったのか。野党の反対陣営のなかで、生活の党の小沢一郎氏と維新の松野頼久代表が隣り合わせで、仲よく共産党らと会合している写真をみて、胸が悪くなった国民もいるはず。維新は「橋下に還れ」。
 ぼくが心配している間に外国では「北朝鮮が軍の幹部を銃殺した」と報じている。他方、中国では200人を超す民主的弁護士が逮捕されている。こういう共産国家はいつ、どこで何を起こすやら一寸先は闇である。その闇の共産国家を利する言論が日本のマスコミや野党のなかで行われている点を国民は忘れてはならない。【押谷盛利】

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2015年07月16日

もの不足時代と感謝の心

 戦後生まれのA子さんが、「もののないときに生まれたのがよかった。ものの溢れている今の世を生きて、ありがたいこと、と、涙が出るほど感謝しています」。
 彼女の幼少期は昭和30年までの7、8年で、そのころの記憶は貧乏と物不足の社会だった。まだ大都市には焼け跡が残り、父母や兄や姉は、食べものの確保やおカネ稼ぎに日も夜もなかった。
 洗濯はたらいの中で洗濯板の上をごしごしともむ重労働だった。どこへ行くにも自転車を漕ぎ、自家用車があるのは村に1戸か2戸だった。リンゴやバナナは高級でとても口に入らなかった。革靴も買ってもらえず、草履や下駄履きが普通だった。テレビや冷蔵庫、クーラー、掃除機が昭和30年代から競うように登場して、大変な人気だったが、さて、これを一般の人はどうして買ったのだろうか。
 食うものもろくに食わず、着るものも着たきり雀で、全財産を電化製品に掛けるといっても言いすぎではなかった。そして、夢にも思わなかった車社会に突入した。
 いま、しみじみと、かつての貧しい、もの不足のころが思われて、「ああ、ありがたや、こんなにぜいたくして、いいのかしら」と、つい、今のゆたかさを感謝する。
 「ああ、ありがたや」と感謝する心。この心は、子供のころの貧しい生活を体験したお陰である。もし、裕福ないまのような時代を子供のころから経験していれば、ありがたいと感謝する心は育っていないのではないか。
 A子さんのこの話を聞いたぼくは、今の世は、ほんとうに物溢れの豊かさに恵まれ、欲しいものは何でも手に入るし、食べものも季節外れのものだけでなく、外国からの珍味に食欲を満たすことができる。住宅、衣料、生活の文化レベルの高さ、豊かさ、何から何までこれ以上のぜいたくはない。
 それでも、つい、愚痴が出たり、何が気に入らぬのか、不足が出る。感謝を知らぬ、罰当たりめ、といいたいが、ものに馴れて、ありがたみを知らない人は逆にいえば不幸な人生といえるのではないか。「感謝」の心こそが人間の幸福につながるのでは、とそんなことを教えられたのである。【押谷盛利】

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2015年07月14日

蛇のいなくなった野道

 このところ、野道を歩きながら思うことは、蛇と蛙を見ないことである。蛇は太くて長い「青大将」どころか、ちび蛇に出会うこともない。蛇が消えたのではなく、人間が蛇を消したのである。
 ぼくの少年のころ、登下校の際、必ず道で出くわしたのが青大将だった。川から這い上がって、石垣づたいに道へ出て、人家の生垣へ姿を隠すが、たいていは、長い姿そのままに道をゆっくり横切るから、その場に出くわすと、道を塞いでこちらの行き来を妨害する。蛇に通行妨害の心はないが、天気の良い日は、おいしいご馳走に腹を満たして、「ああ、ありがたや」と唄っているか、どうかはともかく、天下泰平の自然の実相である。
 蛙は蛇の餌ばかりではなく、鴉も鷺もねらう。田植えの時期、田んぼの中で夜毎鳴きはしゃぐのは毎年のことだが、だんだんその鳴き声が、弱まってゆくようだ。以前は、おたまじゃくしがたくさん遊んでいたが、今は見られぬ。
 梅雨のころは雨蛙が緑色に変色して庭のくちなしの葉の上に乗っかっているのを見たが、その雨蛙も姿を見せない。
 人間が一人勝ちして、他の小動物はみんな消えてゆくのであろうか。そういえば、ミミズも姿を見せないし、かたつむりもどこへ旅だったのだろうか。
 ぼくの家の前の溝川にザリガニがいたが、このごろは見かけない。中学校の土堤の下の小川には、メダカがいないばかりか、水すましも見かけない。これは、長浜市内の十一川流域でも感じるのだが、川魚が棲んでいないのは、水はあっても水が死んでいるのであろう。蝉の季節だが、蝉時雨といわれるほどの蝉の鳴き声を聞くことがあるのだろうか。これでは病院に人間さまの患者が増えるのも道理である。【押谷盛利】

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2015年07月09日

借金と破産と夜逃げの話

 ギリシャの金融破綻は国のリーダーと政治の重要さを世界に教えた。
 破綻は、破れほころびること、と辞書にある。物事が、修復のしょうがないほどうまくゆかなくなること。行き詰まり。日本の新聞で「A社が破綻」と報道すれば、それは「破産」と同義語ととらえてよい。
 破産は完全なるパンクを意味するが、これでは余りに響きが強すぎるので、表現を一段穏やかにして「破綻」としたのは、おカネの話で、国民へ直球を投げることの恐ろしさからである。
 銀行など金融機関で、おカネが借りられるのは、個人にしろ、会社にしろ、借りる方に信用があるからである。
 銀行はお堅い上にも堅いから「保証人」を出させるし、担保も入れさせる。しかし、本当に行き詰まったものは、決められた利息も元金の償還もかなわぬまま、バンザイする。経営の失敗か、不採算な投資による大出血かはともかく、銀行の公金融を締め出されれば、たのみとするところは闇金融でしかない。
 闇金融は法律を無視しての高利をとるところや、貸金のうち、最初に金利を差し引くのもあり、なかには暴力金融の仮面をかぶるのもある。どっちにしろ、闇金融に走ることは個人にしろ、会社にしろ、経営の破綻に直結する。
 戦前の商人は物の売り買いにあたっては信用第一として、仕入れ商品の支払いは半年、一年の「きわ」(決算期)だった。貸した側は半年間のうちに売り上げた商品代金を箇条書きに記して請求する。
 夏に清算するやり方を半夏生払い、その年の12月31日、または翌1月末を「大きわ」と言って、商店からの買い入れ代や、人夫賃、小作料なども清算した。極端にいうと、「きわ」から「きわ」までは1円のおカネがなくとも村では生活できた。
 しかし、清算すべき日に払うことができないとなると、難儀なことである。その家やその店は戸を閉めて「夜逃げ」するか、全財産を貸し主側に提供して「破産」に至る。
 破産は個人や企業だけでなく、市や町、県、今回のギリシャのように国にも起こり得ることを念頭におかねばなるまい。【押谷盛利】

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2015年07月07日

ギリシャと夜逃げの話

 ギリシャは5日の国民投票で、自暴自棄の最悪の道を選んだ。EU(欧州連合)の示した構造改革を蹴って、増税や役人減らし、年金カットのない国内政治を宣言した。借金を返すどころか、帳消しにしろとEUにすごむさまはまともな常識では理解できない。
 ギリシャでは、銀行は国民の預金を事実上、封鎖し、払い戻しを制限している。銀行が破産するとき、預金者が殺到し、死者の出る悲劇が起こり得るが、これを取付騒動という。
 昭和の初め、世界恐慌の嵐の中で、日本の銀行も幾つか潰れたが、その苦い体験から、政府は常に金融界の動向ににらみをきかせ、証券市場に不安の生じないよう二重三重の予防策を講じている。
 ギリシャはEUの不良息子で、これまでにもたびたび緊急支援を受けてきたが、遂に最悪の局面を迎えた。ギリシャがEUを離れれば、その影響はギリシャに止まらず、世界の金融不安を巻き起こし、国債や、株価の暴落を誘い、世界的金融恐慌を招きかねない。そうかといって、借金の上に借金。元金の償還どころか、利息すら払わぬ状況に手をこまねいていれば、親さまのEUの屋台を狂わせる。
 欧州の手堅い金融市場にヒビが入れば、加盟国それぞれが大やけどをする危険が生じる。
 IMF(国際通貨基金)の出方も注目されるが、ギリシャ政府がIMFの注文に反発し、国内の引き締めや役人減らし、増税などにNOと答えた。やけくその無手勝流に走るか。ここは世界といわず、日本自身にもはね返る極めて重要な側面を持つ。
 もし、ギリシャが債務を返済せず、IMFを離脱すれば、いわゆる「デフォルト」状況になる。デフォルトは日本語で分かりやすくいえば「破産」であろう。
 日本では、一つの銀行が破産すれば、国がカバーするが、それは国に資産があるからで、全部の銀行が破算すれば大変なことになる。日本は幸いに堅実な経済政策と安定的な予算により、国債の世界的評判は高い。ただし、ギリシャの影響で世界のドル売り、円買いが金融市場を狂わし、円高と株価の大暴落は必至。当然輸出は振るわず、国内産業の萎縮、経済不振を招く。
 日本の私人や私企業は破産するときはすべての財産を債権者に投げ出すが、それも不可能な場合は夜逃げや自殺することも、かつてはあった。
 ギリシャの国民は夜逃げもできぬが、おカネが価値を失えば、インフレが急進し物の売り買いは物々交換となるし、なによりも国の独立が心配になる。やさしい顔をして狼が近づく心配もある。狼に身を売るとき東西の緊張は新しい局面を迎える。
 日本の国会が「平和安全法」で集団自衛権などに時間を潰しているような呑気な世界平和環境ではない。【押谷盛利】

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2015年07月04日

紫陽花と水の好きな植物

 「あじさい」の美しい季節である。漢字で紫陽花と書くが難しい。咲き始めてから、花の色が変化するので七変化ともいう。別名「四葩」は、花びらのように見える4枚の萼の中心に細かい粒のような花をつけるからこの名がある。
 あじさいは、酸性土では青、アルカリ性の土では赤紫色になる。咲き始めは白で、次第に色が変化する。雨の好きな植物で、雨後の一瞬は総立ちして歓喜に燃える。逆に長く雨が降らねば、しょぼんとして、命が枯れるようなみすぼらしさを見せる。
 あじさいの雨好きはこの季節、梅雨期と重なることを意味している。逆に言えば、あじさいの咲くころは雨具なしでは外出しないこと。
 ぼくは、あじさいの雨をよぶ元気の根源は何か、とときどき考える。
 雨後に怒濤の如き勢いを見せるのは、地下に根を張るこの植物の太古からの遺伝子のせいかもしれない。
 植物には、あじさいばかりでなく水を好むものが多い。
 例えば、蓮である。泥地の池に美しい白い花や赤い花を咲かせるが、泥の中は蓮根が地に潜って、人間の食用に役立っている。
 醒井の街中を流れる地蔵川は冷たくて、水は澄み、針魚が生存するほどだが、この水の流れの中に生息しているのが有名な梅花藻である。一年中、水の中に生存しつつ、夏になると白い花を咲かせる。
 水ぎわに咲く花で、ぼくの好きなのは、谷川の岸辺、石垣のくぼみを寝床にすむ「雪の下」である。雪の下は、鴨足草、虎耳草とも書く。湿地を喜ぶ多年草で、葉は丸く厚みがあり、葉も茎も毛を帯びている。夏、白い花をつけるが、「雪の下」なる名前が何ともいえず、清らかで、まるで山深い渓谷のしずかさに出会った感じである。
 渓谷の流れの中で、落としてならないのは「山葵」であろう。
 わさびの根っこを磨って、造りに添える清潔感は山の中の清らかな谷川に生息しているからで、素敵な日本料理に花を添える。
 あじさいからは雨、水生植物、雪の下へ思いを馳せたが、大自然に生かされている日本人の生活環境のありがたさが身にしみる。【押谷盛利】

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2015年07月02日

駅東の米原市役所は最低

 米原市は、行政を単一化するため、これまでのばらばら市役所を一つにする新庁舎建設を急いでいる。建設場所は意見が多く、難航しているが、市当局は米原駅東の市有地を想定している。
 結論から言えば、最低の立地案である。時間はかかってもよいから、後の世の市民が納得し歓迎できる土地を物色すべきである。
 ぼくは、米原市の議員や区長、各種団体の関係者などが念のため、お隣りの長浜市役所を見学することを奨めたい。長浜市役所は、旧長浜病院跡に昨年12月に完成したばかりである。新庁舎の6階は長浜の市街地が手にとるように見渡せる設計で、東に伊吹山、西に琵琶湖を眺められる。
 新市役所を中心に市街地の開発が積極的に進み、市役所がその市街地の核としての重みと働きをしていることを立体的に知ることができる。
 ひるがえって、今、米原市が企画しているJR米原駅東の市有地を考えてみよう。
 米原駅東の市有地は、同市が駅東部の開発を目的にした整備事業の一つで、このほかにも売り出し用の土地はあっても、これに目をつける企業は少なく、せっかくの土地整備事業が効を発揮することがなかった。
 いま、米原市が市役所用にと手を上げたこの土地は、いつまでも遊休地にするわけにはゆかず、役所の計算違いを一挙に解決するための、どさくさまぎれの一策である。もし、ここに決めて、市役所が建てば、米原東部の発展や市街地開発が可能なのだろうか。
 仮に6階建の市役所が出来たとして、その6階から米原を俯瞰すれば、どんな米原を見ることができるか。東は目の前に山がおおいかぶさっているだろう。西はJRの米原駅構内と長い鉄道線路があり、米原駅を見るにはふさわしいが息が詰まる。新幹線越えに開ける駅西の風景は高層マンションや駐車場が目立ち、琵琶湖へ広がる。わずかに市街地を思わせるのは、現米原市役所、文産会館、公民館、免許センター、小、中学校くらいで、せっかくの駅前通りが動脈としての効を発揮していない。
 米原駅東に市役所ができたとして、これを拠点に市街地が形成されると思うものはだれもいまい。西は駅、東は山の向こうに息郷、醒井。南は鳥居本から彦根へ通ずるが、生活道路ではなく、産業道路化して、住民の利用する企業もなく、新しい企業進出の可能性が薄い。
 率直に言って、市街地を背景にしない市役所はナンセンスである。
 ぼくは、駅東案は最低であるとしたが、ならば、将来を見越しての好適地はどこにあるだろう。これはあらためて言及するが、北陸線の坂田駅から旧国道及び、新国道を結ぶ宇賀野、顔戸、高溝あたり一帯を指摘したい。この広大な区域は、目下企業の進出が活性化し、住宅が計画的に建てられており、すでに市街地化へ一歩前進している。注目すべきであると思う。【押谷盛利】

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