滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2015年02月26日

近江商人と士魂商才論

 維新直後の日本は開明的な士族の指導による殖産興業政策と商人の協力によって各地で企業が盛んになり、地域振興が進んだ。
 彦根藩では、士族の武節貫治らが、彦根の興隆と士族救済を目的に近代的製糸工場の建設を計画した。
 このため、最近、世界遺産に登録された富岡製糸場に700名以上もの士族子女を派遣した。生糸は輸出の中心であり、外貨を稼ぐ戦略的製品だった。武節らの目論見は滋賀県の方針として、籠手田安定知事の指揮のもと、彦根藩士族で県の役人だった中居中蔵らが推進した。
 県営彦根製糸場は明治11年に発足。続いて、山中利右衛門による山中製糸場、堤惣平の堤製糸場、下郷伝平の近江製糸場、小谷朝永ら日野商人による日野製糸場、西川甚五郎らの八幡製糸場。大正6年には近江絹糸が設立されるなど、士族と商人の士魂商才が関西を活性化させてゆく。
 金融関係では、明治12年、第百三十三国立銀行が彦根に設立し、役員や株主に旧藩主以下有力な士族と商人が参加した。後の滋賀銀行の前身である。
 彦根は製糸器械に用いるカランの製造を通じて、バルブ産業に発展した。さらに彦根藩の有力士族で、衆議員、後の司法大臣・大東義徹に中井源三郎、阿部市郎兵衛ら湖東、日野方面の近江商人が協力して近江鉄道が創設され明治34年に開通した。
 こういう背景のなか、大正期になって国立彦根高等商業学校が設立された。当然の如く建学の精神に、「士魂商才」が掲げられた。
 滋賀は江戸期から麻布の産地だったが、明治17年、当時の知事らの協力で、機械製麻布の近江麻糸紡織会社を大津に設立、その重役には県下各地の有力近江商人が就いた。
 明治20年には京都と連携して琵琶湖疎水を推進し、この年、近江商人が結束して綿紡織業へ参入する。
 有力近江商人・能登川の阿部市郎兵衛は分家の市太郎とともに江戸後期に京都、大阪に出店し、関東、北陸、東北、北海道にまで麻布、綿布、紅花、生糸などを交易し、開港後は輸入金巾などをも扱う屈指の近江商人だった。その阿部家の遺訓が近江商人の士魂商才の真髄に迫る。
◇正直なれ。着実なれ。勤勉なれ。時間を守れ。約束を破るな。国家のためには私事を顧るな。忍びて続け。小康に安んずるな。油断大敵。世界の大勢を察し時運に遅れるな。広く読み、聴き、視よ。労働を厭うな。品性の修養を怠るな。大利を欲せば小利をも捨てるな。投機を避けよ。時間をあけてよく考え、実行は猶予するな。冨を善用せよ。
 この遺訓こそ士魂商才そのものの道である(滋賀大経済学部・筒井正夫教授・「士魂商才の精神と士魂商才館」参照)。【押谷盛利】

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2015年02月24日

江戸期の日本の国難

 21日付の時評「欧米に支配されたアジア」によれば、幕末期の日本がよくぞ欧米の進出を食い止め得たか、先人の命がけの愛国心が偲ばれる。
 日本は太平洋戦争を「大東亜戦争」と名づけた。一つはアメリカによる経済封鎖の打開、いま一つは、欧米によるアジア各国の植民地の解放がねらいだった。
 維新後の日本の近代化の中核となった士魂商才は、皮肉にも日本の敗戦と同時にアジアの解放につながった。
 19世紀半ばからほぼ100年間、欧米の支配下にあったアジア各国、インド、ビルマ、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドシナ、フィリピンなどは、みな戦後、独立を回復した。まさに日本の大東亜戦争がアジアの解放につながった。
 それにしても幕末期、日本はどうして、欧米やロシアの支配下からまぬがれたのか。
 振り返れば維新前後、黒船以来の国難を克服したのは幕府、反幕府の両翼で、命がけで対処した愛国の志士による働きと日本国民の文化性にあった。アメリカとの通商条約を、勅許を待たずに締結したのは大老・井伊直弼の英断だったが、このため彼はテロに殺された。
 開国ならじと反幕府の薩摩や長州は、薩英戦争や馬関戦争を始めたが、軍事力では植民地化を防ぐことは不可能と知って、坂本竜馬、西郷隆盛、木戸孝充らによる維新の夜明け前の活躍が始まる。
 日本は欧米やロシアからねらわれたが、国内は江戸幕府の鎖国期の平和のなかで、文明の花を咲かせ、外国人らを感動させる礼儀正しい美しい国家をつくっていた。国内交易によって食物や日用品は行きわたり、寺子屋による教育は普及した。歌舞伎、能、絵画、茶道、俳句などの独自文化が西洋列強の日本認識を変えた。
 維新の先覚リーダーたちは、欧米の近代化を学び、進んで日本の資本主義化への経済態勢を固めた。その指針が福沢諭吉の「学問のすすめ」であり、渋沢栄一の士魂商才の理念であった。
 日本で明治期、企業家として名をあげたものの3割から4割が士族出身者であった。彼らにとって殖産興業や企業経営は、純粋な利益追求の経済行為というよりも日本の富国強兵を支えるための国事であった。彼らは卑屈・虚言・権謀・術数を排して、正義に基づく武士道を経営の根幹とした(滋賀大経済学部・筒井正夫教授・「士魂商才の精神と士魂商才館」参照)。【押谷盛利】

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2015年02月21日

欧米に支配されたアジア

 滋賀大学経済学部の筒井正夫教授の「士魂商才」の論文は、幕末から明治期にかけての、日本の危機を打開した当時の先覚者の辛苦と愛国の姿が生々しい。
 歴史をさかのぼれば、江戸時代後半から明治に至る約100年間、いわゆる19世紀の日本は、一つ歯車が狂っていれば欧米の植民地政策の犠牲になっていたかもしれぬ。
 明治維新(1869年)を軸に、日本は封建社会から資本主義へ近代化するわけだが、その困難期を克服したのは国民の愛国心と為政者の開明による政策だけではなかった。その背景にあったのは、経済であり、三方よしを信条とする士魂商才の商業道徳だった。
 士魂商才は近江商人に集約されるが、筒井論文は、それに言及する序論として、19世紀後半のアジアをめぐる国際環境を詳述している。
 読者を圧倒させる驚きはこの時期、アジアは欧米各国に支配され、植民地化、さらに奴隷化の悲運をかこつことになる。
 イギリスは1857年、インドのムガール王朝を滅ぼして植民地に組み込んだ。18世紀後半にはマレー半島に、19世紀前半にはペナン、シンガポール、マラッカを支配し、1886年にはビルマを併合した。
 フランスは1858年以降、ベトナムに侵攻、以来1867年にカンボジア、1893年にラオスを保護国としてインドシナ三国を併合した。
 オランダは1619年、インドネシアのジャカルタを占領し、以後同国のマタラム王国を滅ぼして植民地にし、住民の抵抗を弾圧してスマトラ島を支配し、20世紀初頭にはオランダ領東インドを作って植民地体制を確立した。
 アメリカは17世紀から19世紀末にかけて先住民(インディアン)を圧迫し奴隷化を進めた。1845年にはメキシコから独立したテキサスを併合。1846年のメキシコとの戦争で、カリフォルニア、ネバダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ、ワイオミング・コロラドの大半を併合した。さらに1899年にはスペインとの戦に勝ち、フィリピン、グアム、プエルトリコを含むスペイン植民地の大部分を獲得し、キューバを保護国とした。
 またスペイン戦争の結果、フィリピンを植民地化し、1898年にはハワイ王国を滅ぼして自国領に編入した。
 ロシアは18世紀にカムチャッカから千島列島に至り、北海道をうかがい、1860年には清(中国)の国境を脅かして沿海州を割譲させた。1853年には樺太に上陸して占拠、1861年には対馬を占領した。
 19世紀は列強の支那への侵攻も深まる。イギリスは1840年のアヘン戦争で清に勝利し、香港を割譲させた。1856年には英、仏が戦争を吹っかけ、天津条約によるキリスト教布教と内地への商船渡航の自由、賠償金、アヘン貿易を承認させている。
 ロシアは旅順、大連を租借地として軍港を建設。ドイツ、フランス、イギリスも広州湾、威海衛、九龍半島を清から租借した(滋賀大・筒井正夫教授の論文・「士魂商才の精神と士魂商才館」参照)。【押谷盛利】

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再び統合高校について

 高校の統合問題に関し県教委の責任を追及した1月31日付の時評に多くの方から賛意の手紙や投書、電話を頂き改めて、ことの重大さを確認しました。
 しかし、読者のAさんから2月5日付の「名は体を表す」の時評について、矛盾ではないか、歴史的に知られる名称なら「長浜北」で決まり、との投書もあり、あらためて私見を申し上げます。
 5日付の時評は町村合併など、地名に関わる問題について言及し、その具体例として、旧長浜の元浜町とか、朝日町、東近江市、甲賀市を述べました。地名は本来、動かないものですが、市町村合併法や住居表示法などによって変わります。しかし住居表示法で住居の地名は変わっても本籍や土地登記上は従来のままです。土地の名は県単位であれ、地方名であれ、古くは古事記の時代から千数百年の歴史と伝統を持っている。したがって、昭和や平成の町村合併においては、歴史的に広く知られる名称が望ましいので、東近江市や甲賀市、長浜の朝日町、元浜町などはよろしくない、というのが5日付の「名は体を表す」の本旨です。
 Aさんは、地名と学校名を混同されているが、地名は本来動きませんが、学校名は時代の進運、変遷によって名称だけでなく立地も変わります。明治の20年代のこと。滋賀県に初めて商業学校が生まれ、滋賀商業学校と呼ばれ、大津市内に開校したが、これが後に近江八幡市に移り、八幡商業に名を変えました。
 長浜でいえば、県下で最も早い時期の小学校として開智学校が発足したが、後に長浜小学校となった。
 長浜商業学校は伝統を誇る高校だったが戦後、西高、長浜商工高、現在の北星高校に。長浜北高も前身は長浜高等女学校だった。
 一千年以上、短くとも何百年以上の歴史を持つ地名と、文明度と社会の変貌で校名の変わる学校名とは同じ土俵で議論できるものではない。名は体を表すでいえば、長浜市の最南に立地するといわれる新学校が「長浜北」では初っ端からミステイクと言われましょう。
 重ねて申し上げる。いまからでも遅くない。県知事も県教委も広く納得のいく新統合高校の名称を考えること。【押谷盛利】

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2015年02月19日

滋賀大学と士魂商才館

 木之本町の江北図書館の貴重な歴史資料が滋賀大学の総合研究棟「士魂商才館」に保管され、活用されることになった。
 士魂商才とは古くて新しい言葉である。一口でいえば、近江商人が世界に雄飛した商業道徳であり、明治以来の日本経済発展の哲学でもあった。分かりやすくいえば武士の魂で商人の才能を発揮することだが、その名をそのまま用いた士魂商才館が滋賀大に設けられたのは昨年12月のこと。その経緯と意義について、昨年、同大学経済学部・筒井正夫教授が論文・「士魂商才の精神と士魂商才館(1)」を発表されたので、同論文を通じてあらためて近江商人の活躍と湖国の誇りについて逐一紹介したい。
 滋賀大の前身は彦根高等商業学校であり、彦根藩主であった井伊直弼の武家の教養と広く社会一般の利益を追求した近江商人の精神にあやかって、士魂商才を建学の精神とした。彦根高商の建学の精神と伝統がそのまま滋賀大経済学部に受け継がれた。
 士魂商才の精神は石油関連事業で国内屈指といわれる出光興産の創業者・出光佐三に見ることができる、と筒井教授は述べている。
 彼は明治18年、福岡県の小さな商人の子として生まれたが、父から「勤勉」「質素」「人のために尽くす」の三つの精神を叩きこまれたが、これは近江商人の信条であり、武士道とも重なる。
 出光は①問屋の中間搾取を省く②消費者のための良製品の開発、合理的流通の開拓と安価な商品③自店の利益より国家のことを第1に考える④石油の新製品の特質を世界的視野で捉え情報収集力を生かす⑤社員を大事にし、出勤簿、就業規則、定年なし。人間尊重主義、経営家族主義。これが出光興産経営の原点だった。
 士魂商才の精神は、明治維新時、福沢諭吉、渋沢栄一のとなえた言葉であり、維新後の彦根藩の歩みとともに深い関係がみられる。
 明治3年、高知藩が取り組んだ藩政改革は「人民平均(平等)」。人間は士農工商隔てなく、貴賤上下の階級によるものではない、を基本理念に、国家の独立には士族だけでなく平民も報国の義務があり、教育を通じ知識・技能を磨き、自主・自由の権利、自由な職業を通じて富国強兵、文明開化を説いた。
 この高知藩の改革は彦根藩にも影響を与え、家禄制の廃止、常備兵への平民の登用など近代的改革に生かされた。
 このような個人および国家の独立自尊の精神こそ福沢が用い、わが国資本主義の生みの親とも言われる渋沢栄一のとなえた「士魂商才」の理念である。
 国家の独立のためには、富国が必要であり、国民一人一人が独立した精神と実業が不可欠。その実業を振興させるものが商才。福沢は、商才も旧来の町人根性によるのではなく、世界の大勢を判断し、創意・工夫・発明によって富を創り出す「士魂」によらねばならぬと説いた。
 いま日本のヘソ、近江は彦根の滋賀大に「士魂商才館」が生まれたのは極めて意義深いと言わねばならぬ。【押谷盛利】

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2015年02月17日

四方拝と雪やこんこの歌

 敗戦のショックと、占領軍の政策で、戦後の日本は、過去の歴史や伝統を否定するムードが支配したが、戦後70年の今年、過去の日本のなつかしい風物、文化に触れることの意義は大きい。
 例えば、正月の童謡はどうだろう。戦前の正月は小学校で四方拝の儀式があった。
 1月1日の早朝、天皇が伊勢の皇大神宮や四方の神々を拝し、五穀豊穣・天下太平を祈られる。これがいわゆる四方拝で、国民はこれにならい、小学校で式事が行われた。国民、みんなが参加するのが建て前だったが、公職者を来賓に大部分は小学生だった。式が終わると紅白の饅頭をもらって帰るのが嬉しかった。
 この四方拝の式典で歌ったのが「年の始め」だった。
 ①年の始めのためしとて
 終わりなき世の めでたさを
 松竹たてて 門ごとに
 祝う今日こそ 楽しけれ
 ②初日のひかり さしいでて
 よもに輝く 今朝のそら
 君がみかげにたぐえつつ
 仰ぎ見るこそ とおとけれ
 歌詞①の「終わりなき世」は永久不変の日本ということ。このめでたい年の始めに、松竹の門松を立てて祝うのは本当に楽しいことよ、とたたえた。
 ②は初日のひかりが四方に輝き、その朝の空を天子さまのお姿を拝する様に仰ぎみるのは実に尊いことである、という意味。
 童謡で思い出すのは「雪やこんこ」。
 ①ゆきやこんこ あられやこんこ
 降っては降っては ずんずん積もる
 山も野原も わたぼうしかぶり
 枯木残らず 花が咲く
 ②雪やこんこ あられやこんこ
 降っても降っても まだ降りやまず
 犬は喜び 庭かけまわり
 猫はこたつで丸くなる
 「雪やこんこ」は、雪が降り出すと、遊び仲間とよく歌ったものだが、不思議にも雪を不快視せず、どちらかといえば、もっと降れとばかり歓迎している図である。
 ぼくら、湖北地方でも山家の方は毎年大雪に泣かされた。豪雪で屋根の雪下ろしを2回や3回せねばならなかった。
 それなのに、雪やこんこは「枯木に花が咲く」とか、「犬は喜び庭かけまわる」など、内容が明るくて、湿っぽさや、うらみ、つらみがない。
 いわば大自然のなりゆきまかせ。雪があってこそ、夏の水の心配が解消されるのだ、という農家の深い思いが秘められているのかも。そういう「雪歓迎」の戦前の日本は、水不足で田植えの出来ぬ年もあり、水争いで、白装束姿の「井落とし」事件も珍しくなかった。琵琶湖から水を逆水するのは戦後の技術であり、戦前は雨乞い祭で天に水を祈願した。
 蛇口をひねれば水の出る今の時代、ときには頭を冷やして、むかしむかしの水苦労を偲び、川を湖を大切にしよう。【押谷盛利】

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2015年02月10日

戦前の小学国語教科書

 戦前の日本は、小学生の子どもにどんな教育をしていたのだろうか。ぼくは興味しんしん、昭和10年ごろの文部省(いまの文科省)発行の小学国語読本を読んでみた。
 「尋常科用巻七」とあるから尋常小学校の高学年、5年生か、6年生用だろう。このなかにある「大阪」という1章が面白い。
 「汽車で大阪駅に近づくと、晴れた日でも、空がどんより曇ったように見えます。それも其のはず、大阪は俗に煙の都といはれ、大小八千以上の工場がここにあって、林のやうに立ち並ぶ煙突から、たえず黒い煙をはき出して居るのです。大阪は實に日本第一の工業都市で、各種の工業がはなはだ盛んです」。
 ぼくの父は大正の始め、まだ独身のころ、村では飯が食えぬということで、友人たちとともに大阪へ就職した。ところが、この国語の「大阪」のように、汚れた黒い空気で、胸が悪くなり、こんなところに住んでは命がどうなるかしれないと、早や早やと見きりをつけて、生まれ故郷へ帰ってしまった。
 後年、ぼくに、汚れた空気でも我慢して働いていれば、そのうち芽が出て、成功していたかもしれない、とぼくに話したことを覚えている。
 煙の大阪、いっぺんにいやになった大阪を、昭和11年発行の国語の教科書で認識したわけだが、いまの北京の空が目に浮かぶ。
 尋常科用の「巻三」は、小学三年生用の教科書かもしれない。このなかに「国びき」の項がある。
 「神さまが、どうかしてこの国をもっとひろくしたい、と、おかんがへになりました。国をひろくするには、どこかのあまった土地をもって来て、つぎあはせたら よからう と、おかんがへになりました」。
 この本の23章に「むしば」が載っている。
 「花子さんは、はが いたいので、一ばんぢゅうくるしみました。朝になっても、まだ いたいのが なほりません。花子さんは、おかあさん と一しょに、は の おいしゃさまへ行きました。おいしゃさまは、すぐ 見てくださいました。
 『やあ、二本ならんで むしばが できてゐる。おくゎし を たべすぎましたね。』といって、くすりで洗ったり、くすりをつけたり して 下さいました」。
 これらは文章のほんの一部だが、感心するのは敬語が正確に使われていて、友人や親、先生に対する言葉づかいの模範が示されていることだ。それと、文章の構成について、句読点の「、」や「。」をしっかりつけ、節と句をうまく組み立てて章に仕上げている文法上の見えない工夫である。
 小学校の国語教科書が、とても大事だと思うのは、作文にして書く場合にも、相手と話す場合にもリズムよく、そして表現が的確で、分かりやすく編集していることである。
 当時の国語教科書は旧かなで、文語調だからいまの人はとっつきにくいかもしれないが、戦前までは、新聞、雑誌、小説も文語調が多く、とくに古文に親しむには文語の知識なくしては困難であるから、ときには昔の小学生か中学生の国語の本を見て、頭の体操をすることを奨めたい。【押谷盛利】

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2015年02月07日

寝こんだら呆けますよ

 50年後に、日本の人口は1億を切るという。しかもその人口の割合は老人比率が30%以上になる。悲しい悲鳴がそれに続く。10年後の2025年には5人に1人が認知症に。15年後の2030年には4人に1人、2060年には3人に1人が認知症に。
 これは今年初めの厚労省の発表である。予測にはいい予測もあれば、その逆もあるが、いまの日本のように、結婚はしない、子供は産まない状況が続けば、高齢者社会と認知症社会の出現は必然である。
 これまでの推計では、2012年に65歳以上の認知症は462万人、7人に1人だったが、10年後は1・6倍の730万人となり、5人に1人が心配のタネとなる。
 あなたは大丈夫か。夫婦が今こそ真剣に自らを点検せねばならぬ。いま、高齢者は1100万世帯といわれ、このうち独り暮らしがその半分の500万世帯。夫婦のうちどちらかが欠けると、残った方が認知症になり易いと専門家はいう。話す相手がなく、家に籠もりがちとなり、体と頭を使う機会が減る。
 独り暮らしの高齢者は火事の心配、隣家とのトラブル、ゴミ処理その他で、目が離せない。認知症に加えて、ケガ、病気、突発事故の可能性もあり、近所や民生委員、地元自治会の頭痛のタネだが、本人が「まともである」と頑固ぶるのも厄介である。
 だれもが認知症になるわけではないと思いつつも実際は5人に1人となるのだから、それを脅しととらずに予防につめとるしか方法がない。よくいわれることだが、①運動②高血圧の改善③人との交流④糖尿病にならぬこと⑤禁煙⑥バランスのよい食事などに気をつけることが予防につながる。
 こういう点を考えると、高齢者は老人クラブを活用し、老人クラブの指導者は社会福祉協議会の協力を受け、地元自治会と一体となって高齢者の健康と呆け防止に力を入れてほしい。あらためていえば、老人の健康は呆け防止の第一要諦である。
 「寝込んだら呆けますよ」。
 「転ばぬように」。
 「風邪を引かぬように」。【押谷盛利】

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2015年02月05日

名は体を表す。知事殿

 長浜高校と長浜北高校との統合について、新設校の名称に関する県教委の無見識、無知を批判したぼくの時評が藤井長浜市長や三日月県知事の耳にまで達し、大きな反響を呼んでいるのは嬉しい限りである。ぼくは、県教委は腹を切れと、その責任を追及したが、ぼくの所へは賛成の投書や電話が寄せられ、その一つは「腹を切れ」でなく「首を切れ」とあった。
 昔から「名は体を表す」という。体とは、そのものとしての形、姿、ものごとの本質、と大辞泉は説明している。
 県教委が決めて、近く県議会に提案するという統合校名「長浜北高」はよろしくないと詳細にぼくは論じ、「いまからでもおそくない。過ちを改めるにははばかることなかれ」と書き、最後に、生まれても祝福されない赤ちゃんはかわいそうである、と訴えた。
 学校の名称であれ市町村の名称であれ、エゴや妥協で市民から歓迎されぬのは不幸である。市や町の合併、新住居表示法による住居地域の統合名称など、昭和30年ごろから先輩は苦労した。その苦労の背景は、地域のエゴと狭いひとりよがりが激突するからである。そこで、A案とB案を足して2で割るといった妥協案が決まることとなる。
 例えば、いま、東近江市が生まれたが、あの名称をよしとするものはいない。あの地域には八日市と能登川がある。なぜ、歴史的に、そして広く知られる八日市や能登川を採用しなかったのか。それは綱引きによる混乱を避ける不見識による。甲賀市もそうである。甲賀郡の中心には水口がある。ぼくは水口市として残すのが賢明ではないかと思う。
 市街地の長浜には新住居法で元浜町とか朝日町が生まれたが、なんとも分からぬ命名である。地域には古くから親しまれている町名があったはずである。その点、三ツ矢元町、南呉服町、北船町、神前町、八幡東町などは賢明な新町名といえる。
 名前でいえば、このごろ生まれた赤ちゃんはかわいそうである。親がユニークな名前を、と思う気持ちは分からぬではないが、日本語としてどう読むのか、かなをつけねば読めない名前が多すぎる。かく読むべしと、強引に親の好みでつけた名前だが、学校へ上がるようになると友人たちが互いに名を呼ぶのに困ることさえあるのではないか。
 ぼくは少年のころ、盛利という名が好きではなかった。利益が盛んと読んで、欲の深い名前と思ったからであるが、後年、この名が大好きになって、親に感謝している。それは西郷隆盛の盛と、大久保利通の利ではないか。明治維新の元勲の名前にあやかったものと、ぼくは親さまの深い思いに気づいたのである。
 ぼくの友人・大島君は息子の名に「大」をつけた。「大島大」である。なんで、とぼくが問うたところ、彼は読みやすいし、上から読んでも下から読んでも同じ。それに選挙で名を訴えるのに親しみやすいからと、さきざきの息子の幸せを夢に画いていた。【押谷盛利】

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2015年02月03日

他人の家へ土足で上がる

 「人間よ、苦しみなさい。そして反省し、生まれ変わりなさい」。大宇宙からの神の御声が聞こえてくる。
 いま、世界の最も高い関心事は、フランスはパリの風刺週刊紙を襲ったイスラム国過激派のテロ事件と中東を舞台にしたイスラム国人質事件と後藤さんの殺害である。
 週刊紙が、イスラムの預言者ムハンマドを冒涜したとして、編集長ら8人がテロの犠牲となった。
 人質事件では、日本人2人が巻き添えにされ、1人は早くに殺され、残るフリージャーナリストの後藤氏は、ヨルダンに拘束されているイスラムの女性テロリストの解放を条件に助かるのでは、と期待したが外れた。
 いずれにしてもイスラム国の強烈な宗教帰依心のテロリズムと、英、米、仏などを中心の言論の自由国による反テロとの戦いである。
 悲しむべき実態であるが、ここにきて、信仰と宗教、言論の自由について、現代を生きる世界の人々に今こそ大宇宙の神の御声の前にひれ伏し、懺悔し、その生き方に180度の転換をせねばならぬ。
 われわれの先人は、山や海、樹木や石に至るまでそこに神がおわしますという敬虔な心を持っていた。二見浦の二つの島に、しめ縄を張るのも、神社の湧き水を御手洗と呼んで手や口をすすぐのも神仏への絆と考えた。太陽を「お日さま」、月を「お月さん」と仰いで合掌したのはつい100年程前までの日本人の暮らしだった。
 今の人間は果てしなき開発と創造に酔い、科学技術こそが幸福のシンボルと盲信し、その結果、大切な大自然への畏敬と感謝を忘れ、自らの住む国の歴史や伝統を軽んじ、父祖の慰霊どころか、父母への孝養心すら失ってしまった。
 人間は物質文明に麻痺して、カネや物に生き甲斐を見出そうとするが、カネ以上に大切なものを忘れてしまった。それは神とのつながりであり、神の子としての絶対的な霊的世界の存在である。
 いま問題のイスラム国は、イスラム教に基づき宗教国家の独立を目指すが、厳しい戒律や信仰心によって、世界にその信者を広げている。イスラム教は世界にその信徒は7億、キリスト教、仏教とともに世界3大教といわれているが、いま、世界の文明派に問われるのは、地球の荒廃に追いうちをかけている人間の心の荒廃である。
 他人の家へ土足で上がるものは、強盗か狂人のたぐいである。神を崇め感謝する謙虚な人間は土足で人の家へ上がることはしないし、たとえ宗教の違いはあっても、他家を訪問すれば、当家に祀られている神仏に合掌するのが礼儀である。言論の自由があるからといって、その人の信じる神や、その国の人が帰依している神仏を悪しざまに言ったり、笑いものにして風刺の対象にするのは、心霊へつばする野蛮な行為といえる。
 それに反発して、テロ事件を起こすのはもちろん許されないし、神への背徳である。このさい大事なことは、信仰と宗教に関する人間の大自然回帰であり、地球上からの暴力根絶である。【押谷盛利】

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