滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2015年01月31日

県教委は全員腹を切れ

 ものごとは決めたら後に引けないというものではない。金銭貸借などの契約は法律がカバーするが、行政が事務処理上、A案にするか、B案にするか、それともC案を採用するかは、当事者の裁量であり、たとえ内定しても裁量の過程で不適当と思われれば白紙にして検討しなおすことはあり得ることだ。
 いま、湖北で問題となっている長浜高と長浜北高の統合問題もこれと同じで、両校関係者、そのOB、湖北の教育関係者が喜んで賛同する新校名をつけない限り禍根を残す。
 「あやまちを改むるにはばかることなかれ」と昔の人は言ったが、県教委は振りあげたこぶしの下ろしどころがなく、新しい知事をかつぎ出したり、どさくさまぎれに「長浜北高案」を2月県議会に提案し、平成28年度開校へつき進んでいる。
 識者が考えれば統合高校の名称を「長浜北高」とするのはふさわしくない。この名称は県教委が一般に公募し、「統合新校のあり方を考える懇話会」がその応募のうち5案をしぼって県教委に判断を委ねたもの。
 その過程を振り返ると、統合新校の推進役ともいうべき県教委そのものが出発に当たり、無見識と無知をさらけ出している。
 一般公募は人気投票や通常の選挙ではないから、「数」がものをいうたぐいのものではない。公募の前に「これだけは守るべき」という前提を明示しなければならぬ。
 さらにいうなれば、県教委自身が統合新校のスムーズな発足と湖北地域から祝福されるべき名称について一定の常識的な枠を決める必要があった。
 その常識的な枠は新高校に学ぶものは湖北を居住エリアとする限り、①長浜にこだわらない②既存の両校の統合である以上、両校関係者の綱引きによる後遺症を避けるため、「長浜」「長浜北」の名を外す③将来の人口減少を念頭に大胆にして雄飛する発想。
 これらの枠を公募前に意志統一して、その枠を逸脱しないことを条件に公募するべきだった。
 今からでも遅くない。純粋に湖北の普通進学高校の誕生へ向けて、名前は振り出しに戻すがよい。
 もし、今のまま突っ走るなら県教育委員は教育長以下、全員腹を切って、県民に侘びよ。
 繰り返しいう、提案予定の校名はふさわしくない。祝福されざる赤ちゃんはかわいそうではないか。【押谷盛利】

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2015年01月29日

ただごとではない獣害

 このごろ、一般にはいちいち公表されていないが、山村近くを通る国道や高速道路での獣(けもの)の事故が多発している。
 多くは夜間であるが、長距離のトラックなどに鹿や猪、狸などがぶつかって死んでいる。放置すると大きな交通事故になりかねないから、長浜動物霊園へその処理が要請される。
 これは最近、同霊園の赤尾藤樹社長から聞いた話だが、この冬は山のけものたちの事故が記録破りに多発している。
 なぜか、それは去年の山の生りものの不作だという。ドングリ、栗、その他の落葉樹にはけものたちの食欲を充たす山の幸がつきものだが、去年は不作も不作、人間界でいう飢饉の年だった。そこで、食を求めて山を降り、里へ足を向けるが、その道中で車にひかれたりする。
 赤尾社長の話によると、正月以来、休むひまもないほど処理に追われるが、共通しているのは、猪であれ、鹿であれ、みな痩せ細っていること。食べ物に困って、腹ペコペコというのが実態らしい。
 このごろは、全国的に鹿と猪、熊の増殖とその被害が叫ばれている。一つは猟友会の会員が減って、山の動物をのさばらしているわけだが、それよりも直接的なのは、人間が山の管理を放棄しているせいである。
 人間が山へ入ると、けものたちは恐れて隠れるし、人間の立ち入らない深山を生活圏とする。ところが、今は、山は荒れ放題で、実のなる樹は杉や松など常緑樹に取って代わったから、去年のような不作の年は山のけものにとっては死活の大問題である。
 去年の暮れ、雪が降るまでは熊の出没がケタ外れに多く、農山村を恐怖に陥れたが、今は冬眠期で、熊は洞穴に籠もっている。
 鹿はものすごく殖えて山林が死滅するのでは、と心配されるが、それを象徴しているのが霊仙山で、多賀町、米原市をつなぐこの霊仙は、登山者のあこがれの山だが、今は頂上どころか、中腹までがはげ山になってしまった。鹿が草や木を新芽のうちから食べるので、みどりの再生がストップしてしまった。それと引き換えに土砂崩れが恒常化して、下流部は死の山となることを警戒している。いま読者は、試みに、奥びわ湖をのぞむ西浅井の大浦—菅浦を夜中に通行すれば分かるが、山のふもとや低地にピカピカと鹿の目の光りに驚くだろう。車のライトの反射で、鹿の目が光るのだが、その数が実に多いという。
 鹿は樹木の皮を食うが、これがなくなれば、地上に生えている草や灌木を根こそぎ食ってしまう。里へ出てくるのは、村人の作っている野菜類がお目当てである。山家では、何を作ってもみな、猿や鹿、猪にやられるので、作ることを放棄する傾向が強く、これは大問題である。
 ひところ、竹生島の川鵜が糞害で山のみどりを枯らして大騒ぎとなった。最終的には銃撃で70%ほども駆除したが、自然との共存をいうのも分からぬではないが、それでなくとも村が消えてゆく不安の将来、獣害に人間さまがお手上げというのは、ただごとではない。【押谷盛利】

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2015年01月27日

昭和は遠くになりにけり

 「敗戦を知るや知らずや召集の兵らひそかにしらみを潰す」
 これは軍隊時代を回顧したぼくの短歌である。
 海軍のことは知らないが、陸軍に入っていた兵隊でしらみに泣かなかったものはいないのではないか。しらみは「虱」と書く。微小で扁平。人畜の血を吸う害虫で繁殖力が強く、なかなか退治できない。なぜ、軍隊でシラミがはびこったのか。兵隊は、昼は訓練に追い回され、夜は班内で古兵にいじめられて寝る時間が不足する。風呂に入ってもていねいに体を洗うひまがなく、石鹸を使うこともない。下着類は休日に洗濯するが、これまた十分に汚れを落としきれない。
 シラミは不潔が好きで、だれかが知らぬ間にうつされるとあっという間に同じ班の仲間たちを襲う。
 いま、日本人でシラミを知っている人はどれくらいあるだろうか。戦争が終わった昭和20年から25年ごろに占領軍のアメリカがシラミ退治にDDTを教えた。髪の毛の多い女性は頭からこの白い粉をかぶった。有機鉛素系の強力な殺害効果を持つが残留性が強く、環境や生物を死に追いやる劇薬で、間もなく使用が禁止された。そのころを知る人以外、戦後育ちの者は幸いにもシラミを知らない。
 戦前の農村の子供、とくに小学生時代の女の子はみんな髪の中にシラミを宿した。母親が櫛けずって毎日退治するが追いつかない。
 血を吸うから、かゆくて寝られず、兵隊の悩みのタネだった。
 ぼくの大学時代、名古屋の友人宅へ遊びに行った時の話。確か昭和18年ごろだったか、一晩、ノミ(蚤)に食われっ放しで朝まで眠ることができなかった。友人やその家族は慣れなのか、平気で寝ていた。
 吸血虫でいえば、これは昭和16年ごろの話だが、大阪の定時制高校に通って下宿していたころ、早朝、まだ、ぼくが眠っているのに、家の人が「ばたばたばた」と柏子木を叩くように大きな音を立てるので、びっくりして眼を覚ました。何をしているのかと見れば、みんなの枕元においている幅5㌢、長さ50㌢、厚さ2㌢くらいの木片を思いきり床にめがけて叩いているではないか。初めて見る異風景だが、実は南京虫退治だった。板の裏側に無数の穴をあけて、夜の間に人の血を吸った虫が、腹をふくらせお休み中というところ。穴へ入る南京虫の特性を利用して退治しているわけだが、これにはたまげて、1カ月くらいで、ここを引きはらった。
 石鹸を使わず、洗濯を十分にしない非衛生的環境下の戦時中の話で、日本人の平均以下の暮らしの貧しさを書いたが、それを知る人は80歳以上の人かもしれない。
 戦争中、赤紙で軍隊に召集された人に、無事を祈って贈る千人針があった。真っ白の手ぬぐいを何枚か重ねた腹巻で、これに「力」という文字を書いたり、木綿の糸で点のような結びめをつくる。敵弾が当たっても結びめで食い止めるという発想らしいが、これが戦地ではシラミの宿となって兵隊を苦しめた。
 ぼくが入った伏見の野砲隊で、班長が毎晩ぼくらを一人一人個室に呼んで、シラミ検査をするが、その訓戒の話が長々と続き寝不足がちのぼくらは泣く思いだった。そればかりか、兵隊に根性を入れてやるとばかり、上等兵や古兵は初年兵のぼくらを一列に並べて、顔を殴ったり、編上靴(スリッパ)をくわえさせたり、人権なんてものはかけらもなかった。これは順送りで、初年兵が二年兵になると、新しい兵が入隊する。そしてそれをいじめる。いやな思い出だから、だれも語らないが、それらを知る在郷軍人会もなく、戦友会もメンバーが亡く、消滅した。
 昭和は遠くになりにけり。【押谷盛利】

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2015年01月22日

吉田松陰の忠誠心と正成

 20日付の時評「死は残酷だ。時間が怖い」の結びの箇所で、始め「七生報国の正成の心に学びたい」と書いたが、社員から「正成」だけでは読者に分かりにくいのではないかとクレームがついた。正成は有名な歴史人物だからそれで通ると思っていたが、そうでもないことを気づかされ、正成の上へ楠木を付け足した。
 念のため大辞泉で調べると正成はないが、正成流があり楠木流のこととあった。そこで楠木流を引くと、独立では出ていないが、楠木の見出しで、姓氏の一、河内の土豪で、正成以来名を挙げた家系とあり、正行など武将の名が出ている。その楠木の頂の末尾に「楠木流」があり、正成を流祖とした兵法の流派、正成流、と解説していた。
 正成は有名人物だから名前だけで通ると思ったのは戦前派のぼくの早合点で、戦後の団塊世代以降の者は、占領政策と、その後の政府の自虐思想で、日本の歴史教育をゆがめてしまった。ひらたく言えば、日本人でありながら、日本に関する歴史音痴となってしまった。
 ぼくは偶然にもさきの戦争を回顧した一文のなかで、正成の「七生報国」の心を取り上げた。それには伏線があって、その文章の後段に「広島にて軍人たりしが死なざりき この強運を生きて七十年」なる自作の短歌を載せた。広島の真ん中の修道中学に野営していたぼくの所属の船舶隊は原爆の落ちる2週間前に九州へ移動していた。2週間という時間がぼくの生死と運命を変えた。ぼくは、これは神仏に生かされたものと感謝し、ご恩返しに七生報国の正成の心を学びたいと、殊勝な気持ちになったのである。
 「七生報国」は後醍醐天皇に仕えて、建武の新政に尽くした楠木正成が後、天皇に反旗をひるがえした足利尊氏に神戸の湊川で敗れるとき、子の正行に残した言葉で「七度、生まれ代わっても大君のため国のため尽くす」という忠誠心。
 今年は正月からNHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が話題となっているが、この中の主人公は吉田松陰の妹である。吉田松陰は幕末動乱期、大老井伊直弼の安政の大獄で逮捕されたとき、自らの死を予知して、松下村塾の門下生に遺書ともいうべき「留魂録」を書いた。この中に「身はたとい武蔵の野辺に朽ちるとも留めおかまし大和魂」と歌い、最後に「七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘わんこころ吾れ忘れめや」と詠んだ。
 松陰が崇敬していた正成を思い、正成が自刃するさい、残した「七生滅賊(報国)」の誓いを遺書とした。松陰と留魂録については別の機会に述べる(月刊誌「歴史人」2月号参照)。【押谷盛利】

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2015年01月20日

死は残酷だ。時間が怖い。

 死は残酷である。時間が経てば経つほど死者と生者の距離が遠ざかる。
 死者が死者として完全にこの世から縁を切るのは死者を知る人が皆無になったときとされている。
 ぼくの兄は、ぼくより10歳年長だったが、25歳で未婚のまま戦死した。昭和12年、支那事変が始まるや、すぐ召集された。現役で金沢9師団、騎兵連隊を終えた数年後のことである。
 ぼくは不思議にも兄の召集令状のきたその朝、兄の召集の夢をみていた。
 兄は騎兵で長い剱を吊るし、馬上の写真が格好良かった。しかし1年後、中支で、戦死した。
 昭和13年5月のことだが、父は命が縮むほどのショックを受け、永遠に兄を称えるため大きな石碑を建てた。今は、父も、家を継いだ姉も、その長男も亡く、また親戚も知る人がなく、兄の名を知っている人は皆無に近い。
 大きな石碑は永遠に存在するのか、地中に埋没するのか、墓地の整理で姿を消すのか、予測がつかない。高い山の斜面に位置するので、ぼくの足では登りにくい。ぼくの生存中は、管理に責任を持てるが、ぼくの子や孫以下の時代はどうなるのか。遺書を残しても先行きは未知数である。
 死の残酷性は、みんな同様である。時間が鍵だが、その持ち時間は老齢化とともに短く薄くなる。
 「いくさ終はりて早やも七十年小学校の友はいずれも黄泉にゆきたる」。
 これはぼくの短歌作品である。多くは戦死し、残ったものも病死している。時が経てば生あるものは滅ぶ。そのうち死者を弔うものはいなくなり、生者の中から死者の影は消えてゆく。
 「広島にて軍人たりしが死なざりき この強運を生きて七十年」
 これもぼくの短歌である。広島に原爆の落ちた2週間前、ぼくは広島の暁部隊から九州の唐津(佐賀県)へ移動した。京都の野砲隊に入ったぼくが、その1年後、船舶兵に早変わりして、敗戦を聞いたのは、東松浦郡打上村という山の中だった。特攻の潜水艇を隠す防空壕掘りが仕事だった。穴掘り中に聞いたのが敗戦の陛下のお言葉だった。涙は出なかった。嬉しさが半分、悲しさが半分だった。やれやれ、父母のもとへ帰れる、という喜びともに、神州日本の敗戦という口惜しさである。
 死んでいて当たり前のぼくが、友人仲間が他界しているいま、元気で働かせてもらっているのは神仏のご加護のたまものであり、ご恩返しに七生報国の楠木正成の心を学びたい。【押谷盛利】

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2015年01月17日

敗戦の年から数えて70年

 今年は太平洋戦争が終わって70周年を迎える。戦争に敗れた年を振り返ると思いは複雑である。
 ぼくは敗れた1年前の1944年(昭19)9月1日、京都の伏見40部隊に入隊した。
 中央大学の学生だったが、徴兵延期制度がなくなり、夏休みに故郷の上草野へ帰っていた。お盆前だったと思うが、松田しゅうという娘さん(女子青年団)がやってきた。夕方のことで、ぼくは風呂に入っていた。
 「このたびは、こちらの兄さんもお国のためご苦労さんのことです。役場を代表して入営の赤紙を持って参りました」。
 風呂の中で、この言葉を聞いたとき、来るべきものが来たかという感じで、あわてたというか、身ぶるいに近い衝動を覚えた。風呂上がりのゆったりとした気分は消えて、直ちに入営への段取りが始まった。
 東京の下宿を払うのも大変だったが、休学の手続き、アルバイト先での申し送り、友人や世話になった人へのお別れなど時間が矢のように経ってゆく。アルバイト先の催しによる送別会の料亭へ石を投げられたことや雑炊を食べるため400人程の列に加わったこと、国民酒場でコップ酒一杯に並んだ記憶も新鮮である。
 伏見の40部隊は野砲隊であるが、肝心の野砲は明治のころのおんぼろ砲で、射距離3㌔の手動式が練兵場に配置された。こんな古い野砲が、敵機に備えて空に向かった。野砲は馬が引っ張る仕掛けだから、馬の世話と訓練に泣くことになる。
 年末に伝染病が発生して、正月だというのに兵隊は便所掃除と汲み取りに狩り出される。そのうち野砲はかすんでしまって広島の暁部隊という船舶兵に転属し、敗戦の年の7月、原爆投下の2週間前、広島を出て九州の唐津の山奥へ派遣される。
 戦争を回顧すれば、ろくでもないことばかりで、思い出してはぞっとするが、死ぬまでには少しは真実を伝えておかねば、と思う。しかし、そのころを知る人はだんだん少なく、しかも多くの人は、ぼくと同じで、長く沈黙を続けている。
 かわいそうなのは、ぼくらの仲間で、戦死した人である。靖国で会おうと互いに別れたのに、国の総理の靖国参りが反対されたり、遺族の心情を思うと心が痛む。国のため命を落とした若い兵の心情に国や国民はどう向かうべきか、過ぎた70年は決して長くはない。【押谷盛利】

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2015年01月15日

民主党の代表選に思う

 年末の総選挙は何だったのか。15年度予算案をどう骨格づけるか、大事な政治スケジュールは休眠し、野党第1党の民主党は代表選に追われている。
 第1野党は、本来いつでも与党に代わるべく政権をめざして充電しなければならぬのに、いまの民主党はそれどころではない。
 一強多弱の国会勢力図は、第1野党を中心とする野党戦線によって拮抗を図らねばならぬのにその煙も立たない。実は国民の多くも今の民主党には期待していない。
 日暮れの葬礼というが、この党はどこへいくのか、どうさま変わりするのか。安倍総理にとっては鎧袖一触、国民へ公約である教育改革、国防と安全、憲法改正、アベノミクスの推進にエンジン全開のチャンスである。
 それにしても哀れを極めたのは、民主党前代表の海江田万里氏である。万里の海へ漕ぐ力をどう失ったのか、名前負けにしては、傷はあまりにも大きい。
 「汗顔の至り」という。顔に汗をかくほどの恥ずかしさを感じることだが、庶民のわれわれも時には赤面することもあるが、海江田氏の汗顔は一国の前途に関わってくる。
 民主党代表選は18日投開票するが、候補者の3人(細野豪志、岡田克也、長妻昭)はいずれも党の重職を経験しており、過去の民主党内閣時代は大臣歴もあり、だれが当選してもおかしくない。
 ただし、3人の選挙戦を見る限り、党内の多数に媚びを売る心があるのか、本音が薄いベールで包まれている。
 民主党を割ってはならじとする漠然とした愛党心が働いているのか、外部から見れば不安定な要素を包み隠して、流れるように流されてゆく主体性のなさが気にかかる。
 はっきりいって、国防、外交、教育、国際関係への立ち位置にばらつきがあり、それをつきとめれば、保守中道路線と労組系社会主義路線の混合であり、この混合の複雑さが重要な政策の前に意志不統一を見せ、その行き先が国民に見えない。
 かつて古い自民党に族議員があって、政府省庁の予算の争奪戦が繰り返された。そのときの善後策に「足して2で割る」という妙な妥協が流行したことがある。
 主義主張の違いは当然、政策に反映するから、党内の不統一は国民の信頼感に影を落とすことになる。
 例えば、野党再編成という大問題が浮上しているが、これへの見解にも3人の意志はまちまちである。
 米国の共和党、民主党の2大政党対立を想定した政権交代の妙こそ小選挙区制の美点というべきだろう。【押谷盛利】

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2015年01月13日

パリのデモと日本人

 「円満は息災にあり七日粥」。これは花藻彦根俳句会・前田弘子さんの正月句である。
 円満は平穏、豊かさの象徴であり、その源は健康による。これが句意である。
 しかし、複雑な国際社会に住む今日、健康だけでは平穏に暮らせない。フランスはパリで、仏大統領のほか、EU加盟の各国首脳が先頭に立って160万人の反テロデモが組織化された。フランス全土では300万人に達するという新春の世界的大ニュースである。
 シリアに根づく狂信的宗教の軍事行動化ともいうべきパリの週刊紙襲撃テロ事件がきっかけとなった。
 テロ集団は週刊紙の編集長を銃殺し、多くの人質を拘束し、さらに分派が各地でテロを組織化し、自由を伝統とするフランスのみならず、EU加盟国の前途に暗雲をもたらした。
 国際的テロから自由と平和を守れの声が、EU加盟国の合い言葉となったのは意義深いことだが、テロ集団の背後にはアルカイダが存在するともいわれ、アメリカも日本も対岸の火事化することは許さない。
 かつて日本にはオウム真理教の地下鉄サリン事件が発生した。劇薬の煙で何千人の死傷者が出た。アメリカではニューヨークの高層ビルが飛行機によるテロに爆破された。
 科学技術の進歩と情報の近代化によって、世界の地理的距離は狭まり、われわれの食と水はもとより、その生活空間はテロにとっては丸はだか同然である。
 戦後の日本では、大道寺ら赤軍革命派のテルアビブ空港襲撃による事件と逮捕者解放の超法規事件や、同じく赤軍派の日航機ハイジャック・北朝鮮入り事件も生々しい。
 いま、日本では、アメリカ資本のマクドナルドの異物混入が連日のように話題になっているが、かつては、中国産ギョウザの毒物事件が食品界を恐怖におとしいれた。中国は長らく、その原因を日本にかぶせたが、後に、中国国内の従業者の不満による毒物混入が明らかとなった。
 加工食品に異物を混入して、消費者離れを策するやり方は極めて卑劣だが、ライバルを市場から遠ざけ、あるいは業績をおとしめるには手っ取り早い方法かもしれない。
 企業や人をおとしいれるのは目に見えない一種のスパイ活動ともいえるが、これが組織化されて、外交や経済活動に暗躍すれば公然たるスパイである。一昨年末、政府が法律化した「秘密保護法」は、ぼくのいう「スパイ防止法」である。スパイの暗躍にきめ細かく対処し、スパイ天国として世界の笑いものになる愚は避けねばならぬ。
 それにしてもこの法律に反対した一部マスメディアの罪は大きい。
 政府やメディアは国民の自由を守り、国民の安全・平穏のさきがけとならねばならぬ。拉致被害者の救済を求める世界的デモを東京で組織せよ。産経のソウル支局長の発信自由と日本帰国を求める東京デモを世界の自由国家に訴えよ。【押谷盛利】

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2015年01月08日

「おさがり」と「おため」の話

 正月三が日に降る雪や雨のことを俳句では「おさがり(お降り)」という。
 おさがりの「お」は美称、あるいは敬称で、さがりの「降」は高いところから低いところへおりること。エレベーターを昇降機と訳したのは正解である。
 神事の祭典の最初、神官が神さまを迎えるにあたって呪文を唱える。これを降神の儀という。
 お降りはなんでもない言葉のようだが深い意味を持つ。それは神さまが正月にあたり、大切な水をおみやげに下さったと解するからである。日本人の心のやさしさやおおらかさは、列島の位置する大自然の恩恵による。いかに人智が進んでも大自然を征服することはできない。
 近年、科学技術の進歩でややもすると自然の尊さを忘れ、自然の中で育まれてきた歴史や伝統を忘れがちだが、正月にあたり古き、よき日本への復古について述べたい。
 「おさがりを頂く」という。神さまや仏さまへのお供えものを頂くのがこれである。この「おさがり」が「お降り」である。
 「相伴」は普通「おしょうばん」というが、本来は神さま仏さまへのお供えの「お相伴」で、昔の人は、おいしいものを作ったり、思いがけないご馳走をもらったりすると、まずは神さま仏さまにお供えする。そして、その残りを頂く。これがおしょうばんで、だんだん人間界にゆきわたり、友人やお客にご馳走するとき、接待側の家族も一緒に頂く。「おしょうばんにあずかり、ありがとうございます」とゆかしい挨拶をする。
 「ため(為)」という言葉は近ごろ、死語化しつつある。丁寧語で「おため」という。若い人は知らないが、この言葉は、人づきあいの上でとても素晴らしく、永久に残したいものと思う。
 お産のときや家の普請、その他慶弔の際、祝儀や悔やみを受けることがある。後日、そのお礼というか、お返しに物品を持参して挨拶をするのが普通だった。
 それを持参したもの、あるいは使いのものに「ありがとう」と受けとって終わりとするのは現在の大部分だが、このとき、なにがしかの「物」や「こころざし」を相手に渡すのが、「おため」である。贈り主はたいていフロシキに包んで持参するから、それを返すとき、フロシキに入れて渡すのが「おため」の常識である。
 日本人はものの名に「お」をつけることが多い。
 にぎり飯を「おにぎり」、すしを「おすし」、食事の折の菜を「おかず」「おみそ」「お茶」「お菓子」「おしんこ」。「お」は御であり、敬意や愛情のこもった接頭語であり、日本人の心のやさしさの象徴である。
 いまは、一部のマスコミの反日思想で、天皇陛下や皇室の方のニュースに敬語を使わないが、これは国の伝統や歴史を傷つけるもの。ぼくは常に反省を促している。
 「顔は心」と同様、言葉は心である。つっけんどんな言葉、やさしさのない言葉、相手をかまわない言葉づかいをするのは共産党の国では通るかもしれないが、大自然に恵まれた日本の国民にはふさわしくない。【押谷盛利】

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2015年01月06日

いい顔、怖い顔、美しい顔

 長浜市春近町の天理教の佐藤さんから「陽気ぐらし」の詩を頂いた。
 『顔も進化する』
 いつもほほえんでいる人は、だんだんといい顔になります。
 いつも悩んでいる人は、だんだんと暗い顔になります
 いつも怒っている人は、だんだんと恐い顔になります。
 いつも人に思いやりをかけている人はだんだんとおだやかな顔になります
 いつも感謝や感激をしている人は、だんだん美しい顔になります
◇   ◇
 昔から顔は心の鏡といわれ、思っていることは顔に出る。
 「借りるときのホトケ顔、返すときのエンマ顔」は人間の勝手さを諷刺したもので、借金するときはやさしい笑顔で相手の機嫌をひく。いよいよ返す段になると、借りたときの嬉しさを忘れて、つっけんどんなエンマ顔になる。
 顔役、顔が広い、顔が利く、顔に免じて、顔を貸す、顔を立てるなどなど、顔は大事だが、その顔をつくるのは本人自身である。心がけのよい人は毎朝鏡に向かってにっこり笑う。心の底から人を信じ、人を愛する気分で、笑みをたたえる習慣をつけると、いつの間にか、「あの人はやさしい」「あの人の顔はつやつやしている」と評判になる。
 テレビドラマ「京都地検の女」シリーズをはじめ、多くの映画、舞台などで主演を務める名取裕子さんが、雑誌「すきっと」の昨年12月1日号で、女優の心がけについて語っている。いつも思うことは「真面目に一生懸命生きている人たちへのエールになるような作品にしたい」「演じる人物の人生を噛み砕いて自分のものにして、表現する作業を常にやっていますので、人の何倍もの人生を生きているような気がします」「終演後もファンの方々とお話ししたり、一緒に写真を撮ったりして大騒ぎになって…」。
 そんな彼女にストレスがたまって、1日2回の舞台がひと月も続くなかで、ふくらむ不安感から舞台の合間に胸の動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなって舞台の袖で医師に往診してもらったことも。
 その原因は父の死。継母のアルツハイマー、遺品の整理、家の処分や後始末などによるストレスだったという。ストレスは顔に出るだけでなく、心を追いつめ、肉体の綻びを誘発する。
 年の始めに当たって、改めて健康と美しい顔に関心を持ちたいと思う。【押谷盛利】

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