滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2014年11月29日

熊の暮らし、よもやま話

 人間が山を捨てたから、熊が山を降りて里へ出た。これはぼくの考えである。
 長浜市の尊勝寺といえば、旧東浅井郡湯田村の中央で、閑静な代表的農村である。山には縁のない平地であり、どちらかといえば長浜市の市街地に近い。
 そんな平地の尊勝寺で27日、早朝、西主計の男性(48)が熊に襲われ、顔、頭、手などをけがした。熊は近くの竹やぶで猟友会の会員に射殺された。冬籠もりに備えて、腹いっぱい食べ続ける習慣があるから、今年のようにどんぐり不作の年は、いつどこに現れるやら不安なことである。
 今年、熊に襲われた負傷者は市内で3人目だが、山家でなくてもくれぐれも注意と対策が望まれる。
 ぼくの小学校時代は、降雪時の冬を除いて、天気の良い日は毎日のように山へ入った。春はわらび、ぜんまい、蕗採集、夏は酔い葉、いたどり、いわなし狩り、秋は松茸、しめじなど茸狩り、それに栗拾い。このほか、年間を通じて、柴刈りや枯木切り、燃料の落葉かきなどに精を出した。
 家の屋根が萱葺きのため、何年かのうちに区分けして屋根の葺き替えがあり、その萱屋根用の萱を刈るため大 吉寺山の持ち山へ父と一緒に通ったこともある。
 父は美濃に近い県境近くまで出かけて炭を焼いたが、その手伝いに木を伐採したり、炭を負い出したりするのがぼくの役目だったが、炭焼きだけは生涯致すまいと心に誓ったほど苦しい厳しい山仕事だった。これ以外にも先輩や腕白小僧などに連れられ、戦争ごっこしたり、食べもの探しなどした。
 いわば、山と一緒に暮らし、山におんぶされて、成長したわけだが、それほど山に深入りしながら、熊に出くわしたことは一度もなかった。遠くにいるのを見たこともなかった。おそらく、人間の動きを敏感に知って、それとなく熊の方が姿を隠したのであろう。
 山仕事専門の村人にも熊にやられたという話は一度も聞かなかった。あのころに比べると熊の数が増えたのだろうか。それとも猟師が根気よく成果をあげたのであろうか。なにしろ、皮も肉も胆も高価に売れたから猟師にとっては稼ぎの宝庫だった。熊だけではなく、鹿もいのししも猟師にねらわれた。
 戦後、食糧事情がよくなり、牛、馬、鶏、豚肉が市場にわんさと出回る時代だから、いつとれるのか猟師頼みの不確実な食品よりは酪農業者の大規模な食品が消費者に歓迎された。
 猿は山のおっさんと言って、村の人は相手にしたらアカンと教えた。しかし昔はそうでもなかったらしい。古い民俗用品の記録に猿の皮を利用して草履の被いにしたとある。
 熊は臆病もんだから警戒心が強く音に敏感だという。それで、ラジオを鳴らしたり、鈴をつけたり、歌を唄ったり、仲間としゃべりながら歩くのがよい。もし熊に会えば、目を見ることなく、そろりそろりと後じさりして、熊との距離を遠ざける。驚いて声をあげたり、背を見せて逃げてはいけない。こんなふうに注意を受けるが、一番大事なことは人間の存在を知らすため、音を発信することである。このためには山へ一人で入ってはならぬ。話し相手がいることは熊を近づけない妙薬である。【押谷盛利】

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2014年11月27日

「オイ、オイ」の挨拶と八草峠

 国道303号線を岐阜県境へ行く道中、滋賀と岐阜の境界の峠に出くわす。この峠を八草峠と呼ぶ。
 昔、彦根藩の井伊の殿さまが視察にやってきた。眼下にひらけている江州の田畑と琵琶湖を眺めながら、天下の太平に安堵した。その視察の記念に松を植えた。殿さまは彦根藩二代の井伊直孝公で、お手植えの松は美濃側へは枝を出さなかったという。松も他領へ枝を張るのを遠慮したのであろう。
 この松は昭和26年、新八草峠が開通したから役目が終わったのか、幹周り5㍍もありながら枯れてしまった。樹齢250年余の老松だった。
 八草峠の山の谷間の底に八草村があった。地籍は美濃(岐阜)に属しながら行政区は近江(滋賀)側に属した。村の人は山仕事、木地師、薪炭などで生活したが冬は2㍍を超す大雪なので、家に籠もるしか仕方がなかった。
 村人は一致結束して村の繁栄と住民の幸せを願ったから陸の孤島のような独特な生活システムを持った。
 その一つがお互いの出遇いのときの挨拶だった。
 この村では、人々の挨拶は「オイ」の一言だった。だれに、どこで会っても村の中では「オイ」の一言だけで、ほかのことは決して言わない。
 「オイ」と言葉をかけられたら「オイ」と返せば、それでよい。だから道で人が遇えば「オイ」「オイ」でおしまい。
 もし「オイ」のほかに何か言いだしたら相手は村に向かって、あるいは仕事に出ている山の方に向かって「オイ、オイ」とオイを大声で二度繰り返す。
 これは「よそものが来たぞ。気をつけよ」という合図である。村のものや、村となじんでいる人なら「オイ」に対しては「オイ」と応じるだけで、他のことは口にしない。
 「オイ」は挨拶というよりも知らぬものを警戒するさぐりのようなもの。だから大声で「オイオイ」と呼べば「侵入者があるぞ」という警戒だから、村のみんなは集まって対処しなければならぬ。
 「オイ、オイ、オイ」と3回繰り返すと、どこに何をしていても総員集合、ということになる。
 とても面白い風習だが、八草村は昭和の初め、1戸減り、2戸減りして、みんなあちこちへつてを求めて離村したから、今は廃墟の跡だけを残して、古い物語は消えてゆく。
 この村の人たちは、地籍は美濃の人なのに、岐阜方面へ行くのを「美濃へ行く」といった。
 それは当然で、生活の環境は伊香郡木之本に属し、毎日、金居原や杉野へ炭を背負って売りに出る。その金で米や日常品、食品などを買って帰った。雪が降れば杉野村で宿泊した。日本全国、「オイ」だけの挨拶は八草村しかなかったのでは(坂内村誌・参照)。【押谷盛利】

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2014年11月25日

日本人の優しい言葉遣い

 日本人は心やさしい民族であることを、言葉を通じて立証したいと、思うこのごろである。
 なぜ、そんなことを思うのか。国際環境の中の日本、たとえば外交、通信などによる日本語のやさしさが険のある外国の言葉に押されて、わりを食っている場合が多いのではないか。ふとそんな思いをするからである。
 北朝鮮の報道官が記者会見やテレビ放送で語るのを聞くと、まるで喧嘩腰で、腹が立って仕方がないといったふうの怒鳴り声である。
 韓国人の喧嘩を見たことがあるが、言葉に刺があるだけでなく、声を張り上げて相手が逃げねば張り倒すばかりのパンチである。
 これらに比べると、日本語の優しさ、穏やかさは際立っている。
 料理や飲み物で「まったりした味」という。ひと言で言えば、日本語は「まったり」である。
 海に囲まれた島国、山と川と緑の中で、助けあいつつ、協力しつつ何千年を生きてきたのが日本民族である。
 長い歴史のなかで、日本語は角がとれて、語感にやさしさが籠もるようになった。ことに弥生人の多かった関西は、京都や奈良に都があった影響でやさしいもの言いが息づいた。なかでも近江や湖北の言葉は穏やかである。
 朝は「おはよう」「おはようさんどす」。道で会えば「こんにちは」「どないしてはる」「みなはんお元気ですかいな」。野作業などしている人にあえば、「おきばりやす」。夕方だったら、「おしまいやす」。道で話をして、別れるときは「ほな(ほんんなら)行ってこほん」。話を聞きながら次を促すとき「それで」というのを「ほいで」。さ音を、は音にするから、ひびきがやさしい。京言葉の「はんなり」が象徴している。七はしちだが、ひちという。質屋は「ひちや」四十七士は「しじゅうひちし」。は音は耳障りがよい。ほれる、ほてる、ほかす、ほんね、ほんま。「ほんにゃ、今夜はこれで、おやすみやす」「えらい、ひきとめてごめんやで」。他家を訪ねるときは「ごめんやす」。
 長浜では、なつかしい昔言葉が町起こしに一役買っている。「よばれやんせ○○」「ごんせ○○市」。よばれは「招ばれ」、招待のこと。昔は法事、結婚、おこない、還暦、その他のお祝いに、隣り、親族、友人を招待する。ご馳走で接待するから親族の女性は前日から大忙しである。これが「よばれ」の語源で「よばれやんせ」は、「頂いて下さい」。
 「やんせ」言葉は湖北の代表語で「きゃんせ」「しやんせ」。「しゃ」が「さ」に詰まって「早よ、さんせ、遅刻するぜ」。
 「ごんせ」は「おい出下さい」。「ごんす」は「きゃはった」。「坊さんがござった」は「坊さんが来られた」。
 間もなく総選挙だが、日本人は、ストレートに相手の心臓を突くような言葉を避け、やんわりと言葉を選ぶ。それにしても言葉の乱れの多い昨今である。【押谷盛利】

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2014年11月20日

政界悲話、「民主」と「みんな」

 衆議院の解散について語った安倍晋三首相の毅然たる態度と明快な総選挙への大義は際立って頼もしく覚えたが、これに対する野党の党首や幹部らの発言は何となく湿っぽい。
 これでは端から戦いにはならない、と思わせるほど、その動きが冴えない。野党に迫力がないのは野党第一党の民主党が党としてさまになっていないからである。民主党には党内をリードする実力者がいない。
 ぼくに言わせれば、野党で一番しょんとしているのは、早くから先を読んでいた橋下維新の党くらいである。
 橋下氏は、いずれ迫る衆院解散を前に、野党の結集による新党構想を掲げていた。みんなの党から出て「結い」をつくった江田氏が、維新の橋下氏と新党構想を語ったとき、両者は最終目標を政界再編成、新党結成に置いた。両者の先見性とその感覚の新鮮さは、両党の統一を段階的なものとして、急速に政界再編成への波が高まるだろうと予測した。
 ところが、再編成への兄貴株たる民主党がふらふらと秋の時雨期のように定まらぬ鬱陶しさをかこった。先が全く見えぬ点では、民主党は落第生である。
 民主党が政界再編成の軸ならんとすれば、民主党そのものの解党的苦しみを避けることは許されぬ。具体的にいえば、この党は労組に支配され、労組と不離一体の社会主義的集団と、保守党と変わらぬ民主自由主義的集団との混合部隊である。
 混合部隊なるがゆえに野党として踏ん切りの悪い国会闘争を続け、フヌケ呼ばわりしたくなるほど党の進路が定かでない。それはスパイ防止法でも集団的自衛権への態度でも今回の消費税増税議論にも見られるとおり、左右の対立を爆発させずにごまかしてきたに過ぎぬ。
 したがって、政界再編成、野党合同となれば、先ず、民主党自身が、さきがけて仲間別れの儀式を経なければならぬ。今回、眺めていると嵐の道を避ける無難な世渡り派が大勢を制した。いわば一緒に同居すれば、選挙時に組合の巨大な力におんぶできるという打算があった。
 哀れを見たのは「みんなの党」である。5年前、渡辺氏をリーダーとした政治改革の夢に国民は共感し、あっという間に成長した。前回の総選挙時、当時の維新と、みんなの党の選挙協力が真剣に話し合われた。両党の性格や方針は一つとなっておかしくない大衆性と改革性を持っており、ことに維新の橋下氏は積極的に渡辺氏に手を差しのべた。
 このとき、渡辺氏は、党内の協力派の江田氏を役員から外してまで、選挙協力を拒否した。渡辺氏の心境那辺にあるや、ぼくはこの時点で、いずれこの男は消える運命にある、と見た。
 哀れにも「みんなの党」は近く空中分解する。リーダーの質が党員と国民からソッポをむかれ、激しく荒れる雪道をカッパも着ずにどこさ行くのか。【押谷盛利】

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2014年11月19日

雨に決潰の日本と解散

 今年は雨が多かった。恵みの雨と言いたいところだが、8月下旬、広島を襲った雨はゲリラ雨とも呼ばれ、山崩れによる土石流でマンションや住宅が埋没し、死者74名の大惨事となった。
 気象庁の専門家の研究によると、ゲリラ雨は今年の特徴だったが、この傾向は将来も避けられないという。
 来年も再来年も5年、10年後も雨の被害が予測されるという
 物騒な話だが。雨による水禍を逃れる方法として、いつでも逃げる準備をしておけという。まるで負け戦覚悟の消極的対応である。
 ゲリラ雨であるから、始めからコースが決まっているわけでなし、同じ地方でも集中的に降るところと小降りのところとの差が大きいが、事前に知る気象学上の知恵はまだ自然の神には及ばない。
 これも専門家の見解だが、地球の温暖化で、海水が上昇し、地球の上空が水蒸気でおおわれ、それが雲となり、風に乗って大陸に渡ったり、太平洋上を北上したり、極端にいえば、雲が多く、雨降りに都合のよい気象条件になっている。
 南から温かい風、北から冷たいシベリア風にさらされる日本は、地球の温暖化が進めば進むほど空からの脅威にお手上げとなる。
 いまは昔語りだが、戦前は「雨恵み給え」と雨乞い踊りが村の重大な行事だった。井堰での水の放流で水喧嘩も珍しくなかった。
 琵琶湖の水の逆流による土地改良で、水不足の農家の不安を解消したが、世の中、計算どおりにはゆかぬ。現在は宝のような田んぼが見向きもされず、休耕田や捨て地となって、米作農家は減り、米価も低迷し続けている。このごろは、会社経営の新農業が展開し、ビルの上や人工農園で、雨ならぬ水道の水で野菜づくりを始めた。
 いま、日本で最も心配されるのは山の崩壊である。山村部での人口の減少と山村所有者の山の放棄により、山の姿が変わってしまった。
 鹿、猪、熊などが増える一方、山が荒れて、山の保水力がなくなった。したがって、一定地域に何日も降雨が続いた後、ある日、突然のゲリラ雨が集中すれば多くの山は土砂崩れや山崩れが起きる。鹿の被害で山に木や草がなく、丸坊主になっているところもあり、雨と風の気分次第で広島級の災害が、いつ、どこで起きるか、不安材料はつきない。
 大雨は何も山村地帯に限ったことではない。東京や大阪、名古屋、大都市は豪雨で下水がパンクし、地下鉄は河川の働きをし、都市機能が麻痺する。
 都市の人口集中をどう規制するか、地方の創生をどう推進するか、大胆な政策と国民の安全、福祉に、従来形予算の前年度踏襲方式を根本から見直しせねばならぬ。解散による今度の総選挙は、日本の土台の再構築の10年20年の先を読む国家国民の大事業である。【押谷盛利】

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2014年11月15日

熊と人間の不思議な物語

 熊と人間との関わりはいつからか。人間は熊から毛皮と肉と肝(胆)を頂戴した。仲立ちをしたのが猟師。毛皮はぜいたくな冬のコートや敷物。肉は貴重な蛋白質。
 熊で、一番値打ちのあるのが、肝で、俗に熊の胃という。肝っ玉母さんは「肝が太い」、びっくり仰天「肝を冷やす」、怖いけれど「肝だめし」。言葉から肝の価値を想像するが、その象徴が「熊の胃」であり、いつの時代からか、人間の百薬の長となった。
 熊は冬籠もりして、出産したり、冬眠と呼ばれるように肉体を休める。その間、ものを食べないから、秋のうちに十二分に食べておかなくてはならぬ。
 熊の本場は、秋田、青森、岩手県である。宮沢賢治の小説「なめとこ山の熊」は、熊と人間の愛情物語かもしれない。
 「なめとこ山の熊のことならおもしろい」。これが書き出しである。花巻温泉近くの山で、熊捕り名人の淵沢小十郎が主人公。
 「昔はそのへんに熊がごちゃごちゃ居たそうだ」。
 「なめとこ山の熊の胆は名高い。腹の痛いのにもきけば、傷もなおる」。
 なめとこ山の熊は小十郎が好きで、木の上から小十郎の通るのを見ても見送っているという。熊どもがたまたま小十郎とぶつかったとき、犬など踏み潰しそうな勢いでかかってくれば、どすんと一発鉄砲を射つ。
 「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のもの、里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしてるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれも因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ」。
 あるとき、小十郎は、谷の岩場でよじ登る熊を見た。小十郎は鉄砲をつきつけた。熊は両手をあげて叫んだ。
 「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」。
 「おれはお前の毛皮と胆のほかはなんにもいらない」。
 「もう二年待ってくれ、死ぬのはかまわないが、少しし残した仕事があるし、二年たったらおまえの家の前で死んでやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」。
 それから長い年月が経ち、小十郎は年をとり、弱ってきた。ある時、熊に襲われて、鉄砲を射ったが、熊は倒れないで、小十郎の頭はがあんと鳴って、まわり一面がまっ青になった。それから遠くでことばを聞いた。
 「おお小十郎、お前を殺すつもりはなかった」。
 それから3日目の晩、雪の峯々にかこまれた山の上の平らで、黒い大きなものが環になって回教徒の祈りのようにじっと雪にひれ伏したまま一番高いとこに小十郎の死骸が半分座ったように置かれていた。小十郎は生きているときにように、何か笑っているようにさえ見えた(宮沢賢治・「なめとこ山の熊」参照)。【押谷盛利】

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2014年11月13日

習国家主席と安倍総理

 「日中、笑顔なき対談」。11日の各新聞1面トップは、APEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議の写真入り報道だった。
 見出しが物語るように、わが安倍総理と習国家主席の握手する姿は全くさまになっていない。
 この写真を見て、ぼくは、習近平という、いま売り出しの国家主席が、あんがい、人間的につまらない男だ、とがっかりした。まるで、センブリを呑んだ病人のように苦り切った渋い顔である。センブリは漢方薬で、リンドウ科の越年草。白い花を咲かせるが全体に強い苦味があり、胃腸薬に用いる。煎じて千回振り出してもまだ苦いところからこの名がある。
 アジア各国から、トップのお客さんを迎えた中国だから、習国家主席は、中国を代表して、ねんごろに礼を尽くして首脳部会議のホストをしなければならない。
 日・中は遠い昔から歴史的にも深いつながりがあり、その間、戦があったりして不幸なときもあったが、近隣国としての友好や文化、経済の交流は両国発展の土台でもあった。
 両国は思想的、国家体制的に相対立するが、仲よくすることが世界の平和に寄与し、両国の発展と国民の幸せにつながるはずだ。
 両国の冷えていた関係に温かい灯をともす絶好のチャンスなのに、習氏は、胸くそ悪くてイヤでイヤでたまらん、といった風情で、かたくなにそっぽ向いたまま、手だけは安倍さんを握っている。
 この写真、だれが見ても安倍さんの表情が一枚も二枚も上だ。笑顔をためて、話し合おうという気持ちが出ているが、これをはぐらかすように「きみなんかに聞く耳持たない」と拒絶するような情ない顔だ。便秘している男が、センブリを呑んだようで、ホスト役が世界へ無礼を発信した歴史的醜態である。これはぼくの率直な実感である。
 顔は、その人の体と心を体現する。日本には「顔に出る」「顔がきく」「顔がものいう」という。顔が大事だというのは、その人の幸、不幸が顔に出るからである。
 笑顔は本人の心を幸せにするばかりか相手の心にも幸せ感を誘う。
 日本には昔から七福神の信仰があり、何かにつけて、えびす、大黒、弁天、布袋さんのような顔にあこがれた。
 温顔、慈顔のホトケさんのような顔もあれば、厚顔(つらの皮の厚い恥知らず)、悪魔顔、破廉恥顔もある。
 「借りるときのえびす顔、返すときのエンマ顔」は、人間の得手勝手を皮肉って面しろいが、歴史を学んでも、国民にしたわれ、国民の師表となっている人は、みんな顔がやさしく温かい。遠くは、弘法大師(空海)、法然、蓮如、近くは吉田茂、松下幸之助。ぼくの好きな一休さんや良寛さんも笑顔よしだった。
 再びAPECに戻るが、ロシアのプーチンさんも、笑顔は冷たい。共産圏のお国柄か。アメリカのオバマさんも下り坂なのか、笑顔が消えて、さむざむとした表情が気になる。韓国の朴大統領からもやさしさや温かさが感じられない。
 ひいきでいうのではないが、わが安倍首相は品位と親しさがあって、戦後の日本では最も風格ある大宰相というべきではないか。【押谷盛利】

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2014年11月11日

熊出没と山を捨てた人間

 「熊が出た」。毎日のように怖い話が滋賀夕刊に出る。熊だって生きものだから、動く自由もあれば食べる自由もある。だったら、なぜ、新聞が報じ、警察や市役所が注意を喚起するのだろうか。
 それは山におるべき熊が里に出て、人家を襲ったり、畑を荒らすからである。荒らすだけなら目をつぶることもできるが、人が噛まれたり、殺されるから始末が悪い。人家に出て桶の中の鮒ずしを食っていたり、飼い犬と格闘して傷つけた話もあり、雪が降って彼らが冬籠もりするまでは危なくて山へゆけない。
 今年は山の幸(団栗、栗など)が不作なため食を求めて里へ出る、といわれているが、それは皮相な見方で、真実ではない。
 熊がなぜ里へ出るか、答えは単純である。人間が山から退却したから、熊の領域が山の麓まで広がったのである。
 山は頂上から中腹、裾と三角形の底辺のように里に近くなるほど里の文化に触れる。中腹より下はいままではよく手入れされて、冬以外は人間が炭焼きや柴刈り、あるいは山菜摘み、茸狩り、萱刈りなど、山を生活の一部としてきた。それが、山村人口の減少や老齢化、若ものの離村などによって山を放棄する時代になった。
 山は中腹まで、里の延長域であり、常に人間が出入りしたから熊は中腹以高の深山を住処として生活の場を住み分けた。その住み分けだった山の中腹から里に至るまでの人間の持ち場を捨ててしまったのが、ここ30年の山家の歴史である。人間が退却したから、熊はその跡を襲ったが、里に近づけば近づくほど人間社会の豊かな食糧事情に出くわすことになり、おいしくて、やすやすと手に入るので、里へ出てゆくことが苦にならなくなった。
 ひと昔前までは、うっかり里に近づくと猟師にやられたりするから、人間恐怖が熊社会での親から仔へ申し送りだった。ここ30年の山家の変化で、もはや今の熊には里の恐怖感は消えた。
 山家の変化は熊だけに影響しない、猪も里に出て、手軽に食べものにありつけることを覚えた。鹿は人間の入らないことをこれ幸いと山の緑を食い潰しにかかった。
 霊仙山や伊吹山は頂上近くまでも鹿が遠征し、植物をかたっぱしから食べつくす。そのせいで、天然記念物のお花畑が肌丸出しとなり、霊仙では山肌が荒れて、土砂崩れの原因となっている。その原因はことごとく、山を捨てた人間のせいである。山はますます人間が入らなくなり、荒れようが、荒れまいが、けものたちの自由の天国である。
 ただし鹿や猪のはびこりは、山の地上、地下資源の亡びに通じ、降雨期の山崩れや河川の決壊につながってゆく。山からの人間の撤退は、山で渡世した猟師の貧困と減少にもつながり、政府のいう地方振興は絵に描く餅になりかねない。【押谷盛利】

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2014年11月06日

生き死は患者が決めよ

 アメリカの20代の若い女性が、尊厳死を宣言した後、夫や家族の腕の中で穏やかな死を迎えた、というニュースが爆発的に国民の心をとらえた。
 人間の生死は昔むかしからの人類の大問題で、これに真向かうために、健康や医薬の学問が進み、宗教が生まれ、法律や哲学部門が成長した。人間は神の子として生まれたが、生まれた時の自分を意識したものはない。同様にこの世からなくなるときも、その瞬間を意識することはない。なぜなれば意識しているときはまだ生存しているからである。
 ぼくの子供のころ、戦前の日本では、人が死ぬのはほとんど自宅であった。ときに金持ちの家などでは、重篤の患者が死の直前、入院することもあったが、あれは一種のプライドの儀式のようなものだった。
 2年も3年も前から患っていた人がある日、入院した。村の衆は、「太郎さんが入院しゃったそうな。もうあかんのや」。世間の評判は真実そのものである。入院したと聞いた後、早ければ、2、3日長くても半月くらいで、ほとけとなって帰ってくる。
 いま、国民の70%は、死ぬときは自宅で、と思うらしいが、統計では、逆に90%が病院か施設で亡くなっている。
 核家族化で、家族がバラバラ、おまけに少子化で、その子が遠く親から離れて独立するから、家庭環境が月とスッポンほど変化した。
 死という厳粛な一大事にピンとくるものがなく、死は葬儀社お引き受け、通夜も湯灌もあなた任せ。7日、7日の忌中法要も一括お寺任せ。
 死の厳粛さを言っても今の世代はもちろん、子供たちは実態のつかみようもない。このごろは長寿社会もいいとこだが、そこで不安なのは高齢者の夫婦2人きりか、もしくは、どちらかが欠けての独り暮らしの家ばかりとなった。
 老人夫婦も独り暮らしも、地域社会のお荷物であることは疑いようがない。早い話が、雪が降っても道をあけられず、屋根の雪下ろしもできない。村の総出で、溝掃除や道の草刈りをするにも老人は「すまぬ」とばかり、手をこまねくばかりである。
 新聞がポストにはみ出て、いつからか取り出した形跡がない。心配して区長や民生委員が訪ねると、一人もののおばあさんが倒れていた、というような嫌なニュースは珍しくなくなった。死はいつからぞんざいになったのか。
 ぼくの子供のころは、重い病人がもうあかんというときは家族が心の用意をして、いつなんどきでも、死者の極楽行きを手伝った。どんなふうに極楽行きを手伝うのか。
 死出の出発にアミダさんが迎えて下さるように、病人に死出の旅のナムアミダブツを意識するように、臨終の鈴を打つ。鈴は小さい鉢形をした仏具で棒で軽く叩くと「リーン」と音を立て響く。家族が死者に念仏をあげると同時に、お寺へ走って、お坊さんに枕経をお願いする。夜の真夜中でもお寺さんは死者枕元で安全な冥土の旅と極楽往生を祈願する。
 いまの世は医療全盛期で、「もうあかん」「事実上、半分はあの世へ行っている」という重い病人で、医療の限界はとっくに果てているのに、延命措置を続けていく。死にたくても死なしてくれない。この矛盾を解決するための尊厳死がたびたび問題になるが、いつの間にやら沈まってゆく。賛成、反対が渦巻くなかで、殺人幇助など物騒な声におびえているのか、真底人の命は長からしめたいと望むのか、医療のもうけのためには末期の施術は手放したくないとの病院の思惑からか。ご老人たちよ、いずれ最後の日が必ずくるのだから、「あなたの末期はどうしてほしいのか」。元気な間につれそいや、息子、娘、嫁などに話しておくがよい。
 「医者のホンネ」の著者・柴田二郎医師(元・山口大学教授)は「生きるか死ぬかは患者が決めるべきである」と説くが、高齢になって、呆けが回ると、正常な判断ができなくなる。リビングウィル(生前意志)の全国組織にでも加盟して、元気な間に、自分の死や治療についての意志を形式化してゆくのが望ましい。
 本当はポンコロリと参らせていただくのが最高だが、とにかく無理をせずに、自然のままに、ろうそくの火が消えるように、さらばするのが幸せであり、命ある限り「ああ、ありがたや」と神仏、社会への合掌をわすれまいぞ。【押谷盛利】

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2014年11月04日

尊厳死宣言で米女性死亡

 4日付の大手各新聞は、尊厳死宣言の米国女性の死亡を伝えている。
 尊厳死は、回復の見込みのない患者が、自然死を選ばず、例えば致死量を超える鎮痛剤を医師に処方してもらうやり方で、自分の意志で、処方されたくすりを飲み死亡することをいう。
 寝たきりで、何年も何十年も介護を受け、植物人間的に生かされて、何の幸せがあるのか。生物学的に生命が持続しているだけで、人間としてのプライドもなければ、人権も無視される。
 不治の病気で、100%回復の見込みのない患者が、自らの意志で、末期における延命施術を拒否することは許される。これがこのごろ増えつつあるリビング・ウィル(生前意志)の問題である。生前に残しておく死後の希望は、普通、遺言というが、これは死後、家族や関係者が見る制度で、死者は死後、遺言の実践を確認することはできない。
 これに反して、生前の意志開示は、病気が重篤となった場合、パイプで栄養剤を注入したり、お腹に穴を開ける「胃ろう」や、酸素吸入、その他、命をつなぐあらゆる延命施術を「ノー」と、入院時に医師に伝えれば、医師は患者の意志を尊重する。この場合、患者の家族が事前に同意していれば問題ないが、遠方から駆けつけた息子や娘が反対すればややこしくなる。肉親の反対にも拘わらず、患者の意志通りに延命施術を止めれば、狭義の殺人幇助になりかねない。従って、生前意志の開示については、入院前に家族にそのことを伝えておくことが望ましく、それを公的に有効に証明する措置として、この運動を展開する団体があり、これに登録しておけば医師はひるむことなく、患者の気持ち通り、延命術はとらない。面倒なのは、病気の緊急性などにより、家族と話す時間がなくて、人工呼吸器をつけたり、致死回避の措置をとったとき、後から、家族に、延命術停止を望まれるときである。一旦延命措置をし、それを止めれば、死に至る。医師にとっては自殺幇助や殺人容疑に関わることで、途中でやめることは極めて困難である。この点での理解度はまだ浅いので老人クラブや公民教育の場で、議論することが望ましい。
 以上、ぼくは、肝心の尊厳死をあとにして、ややそれに近い生前意志の「延命術拒否」の話に字数を費した。
 これは日本をはじめ世界各国で、尊厳死がまだ合法化されていないからである。今回報道されたのは、アメリカで、尊厳死が合法化されている米西部オレゴン州で起きたからである。患者のブリトニー・メイナードさんは予告通り、1日に死亡した。彼女は末期の脳腫瘍と診断され、尊厳死の合法化されているオレゴン州に移住した。彼女は尊厳死を合法化する法律が他州にもできるよう自分の闘病の苦しみを公表した、として、その勇敢さが称えられているが、他方、「自殺はいけない。なぜ、人生を捨てるのか」と批判の声もあり、おそらく、世界で活発な議論の対象となるだろう。メイナードさんは、4月に余命半年と宣告され、カリフォルニア州からオレゴン州に夫や母親と転居、最後は自宅寝室で、家族らの腕の中で穏やかな死を迎えた。「愛する家族よ、友人よ、さようなら。世界は美しかった。旅はいつも私の最良の教師だった」。これはフェイスブックに書き込んだ彼女の最後のメッセージ(4日付、産経参照)。【押谷盛利】

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2014年11月01日

製薬会社の思惑と医療界

 「文芸春秋」11月号に出ている近藤誠医師(近藤誠がん研究所長)の「健康長寿を願うなら医者も薬も信じるな」が大きな反響を呼んでいる。
 ぼくは、この論文のなかで、近藤医師の指摘している医療界の問題点について深く考えさせられた。
 その一つが、30日の時評で取り上げた「天プラ医者」。このほかの医療の問題点として▽製薬会社の介入▽厚労省の思惑▽日本の人口構造を取り上げている。
 製薬会社の介入は、近時問題になっている降圧剤・デイオバンで行われた臨床試験の不正。抗がん剤であれ、どんなクスリであれ、製薬会社が後援した試験の論文では不正がつきもの。アルツハイマーのクスリであるアリセプトも、効果があったとする臨床試験は製薬会社が後援したもので、論文の著書欄には製薬会社の社員が何人も並んでいる。近藤医師は、このクスリを飲んでいる人は、やめた方がいいでしょうと、言い切っている。
 また医者たちも製薬会社の利益となるよう基準価値を勝手に設定してきた。たとえば高血圧の診断基準は、以前は上の血圧が160、下が95だったが、2000年に日本高血圧学会が突如、根拠となるデーターもなく上を140、下を90に切り下げた。この結果、高血圧人口がそれまでの1600万人から2100万人増えて、3700万人になり、降圧剤の売り上げも、以前の2000億円から、2008年には1兆円を超えるようになった。
 高脂血症でも製薬会社から巨額の研究費が出ている。日本動脈硬化学会の重鎮たちが根拠もなくコレステロールの基準値を低く設定したため、膨大な数の健康人がクスリを飲まされてきた。
 以上の近藤説は、一般の国民には分かりやすい製薬会社と医療界の癒着である。癒着によって、国民をクスリ漬けにし、もうけたカネで政治や医療を動かすのであるから、国民は辛い思い、苦い思いで天プラ医師のいいなりになっているといえる。
 次に近藤医師は厚労省の思惑を追及している。厚労省は医療に関しては現状維持をはかり、あわよくば勢力拡大を期する。
 老人保健法に肺がん検診が書きこまれたのは87年。X線撮影による肺がん検診が無効という米国論文が発表された翌年のこと。これは、戦後、結核が減少するのに伴い、X線による結核検診の廃止が取り沙汰されるようになったため、検診業界を天下り先としている厚生省(現厚労省)が危機感を抱き、折から増えてきた肺がんに目をつけ、検診の存続を図ったもの。
 官僚にとっては、自分が管轄する業界が繁栄することが一大関心事。厚労省の縄張りは、病院など医療機関、製薬会社、医療機器メーカーなどで、検診受診者が増えれば、自然と病人が増え、医療費増大と業界繁栄につながる。
 近藤医師のこの見解は納得のゆく話で、国は医療費の増高を減らす政策を立てるが、他方、厚労省と医療界、製薬会社、三者の仲むつまじい縁で、医療費は増え続け、病人だらけのくすり漬けという不可解なインチキ長寿が国民を不幸にする。【押谷盛利】

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