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2012年03月31日

旅の目的は観光にあらず?(見聞録)

 1人旅は出会いがいっぱい—。インターネットの旅行サイト「旅行比較ねっと」が利用者を対象に意識調査を実施したところ、1人旅はグループで旅行するよりも、旅先での人との交流・出会いが3倍多いことが分かった。男女2617人の回答をまとめた。
 1人旅について、「したことがある」との回答は男性59%、女性49%にのぼり、「してみたい」との回答も男性22%、女性24%あり、回答者の8割が1人旅を肯定している。
 旅先での出会い、交流については、複数での旅行の13%に対し、1人旅は41%になった。
 1人旅の動機(複数回答)は62%が「気分転換」と答え、「観光」(46%)よりも多かった。以下、鉄道、釣りなどの「趣味」(27%)、「食べ歩き」(17%)と続く。
 「旅人といえば誰を思い浮かべるか」との質問には1位が松尾芭蕉、2位がスナフキン、3位が中田英寿という結果となった。
 自由回答では「何も知らない小さな自分を発見できた」「初めて会った方と話したりして、世界観が広がった」「紛争の実態がわかった。ニュースは偏っている」とあり、旅先で学ぶことは多いようだ。
 小生も学ばされることが多い。たとえば、反米の急先鋒のイランを訪れた時。日本のテレビや新聞では同国の反米集会の様子が伝えられるが、現地の若者は、経済の低迷や宗教警察の取り締まりを嫌い、アフマディネジャド大統領の反米政策に愛想を尽かしていた。そしてインターネットで入ってくる欧米の自由な空気に憧れていた。
 パレスチナ自治区への攻撃など無慈悲な武力政策が問題視されるイスラエルでは、国民が常に爆弾テロや砲撃に悩まされ、欧米並みの高い生活水準にありながら、死と隣り合わせの生活を送っていた。若者は「玄関前に爆弾を仕掛けるような奴等が悪い」と自治区への攻撃を支持し、国際社会のイスラエル悪者論を一蹴していた。
 さて、1カ月後に迫ったゴールデンウイーク。今年のカレンダーでは5月1、2日に休みを取得できれば最大9連休になる。割高な旅費や渋滞などマイナス要素もあるが、交流や出会い、日常生活では得られない新たな発見のチャンスでもある。有意義に生かしたいものだ。

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2012年03月30日

あぐらかきのバカヤロウ

 洋服と、机の時代だから、畳の上での生活や着物姿が過去の遺物となりつつある。しかし、着物時代に用いられてきた言葉は生きている。
 その一つに「胡座」がある。あぐらをかくといえば「だらしない座り方」、つまりは行儀の良くない姿勢のこと。これに対し、正しい座り方を正座という。足を崩さぬ、ションとした姿勢である。
 人前であぐらをかくのは不作法であり、客人ならば無礼であるが、このごろは、畳の生活や作法が身についていないから正しく座ることができず、若い女性などは母親から「なんです、お行儀の悪い」と叱られる。風俗は時代とともに変化していくので、いつまでも石頭でいられぬが、肝心なことは、行儀作法もさることながら、姿勢の悪い座り方は体形にも影響するし、健康上の問題も生じる。
 あぐらは膝を崩すので、見た目にもだらしがないが、こういう姿勢を身につけると前かがみになりやすく、腹部を圧迫するので長くは座れないし、話を聞くにも読書するにも身につかない。正座は姿勢がよく、精神を統一しやすい、健康上にもいいが、日常的に慣れないと、足が痛くなり、しびれが強く、急に立てないことになる。
 昔の女性はとくに行儀が強調され、服装は着物だったから、正座が求めらた。それが慣習となっているから長年の訓練というか、上手にコントロールして、足のしびれで立てないというようなことはなかった。
 それはともかく、ぼくが問題提起したいのは、政治家や公務員の勤務ぶりの精神の弛緩である。分かりやすく言えば、公務員は身分が保証されているから、がんばらなくても、さぼっていても、月給や地位に関係しないから、気のゆるみ、横着が出るのである。
 明治以来、日本はお役人天国だったし、いまも官僚政治といわれるくらい実質的に官僚が支配している。役人は賢いから政治家(議員)の前では尾を振って、忠実な働き手の顔を見せるが、裏へ回れば、自分の分野の予算をいかに多くとるか、新規事業に政治家の同意を得ることに腐心する。日常の勤務の上で、決定的な欠陥は冒険や新しい試みに対する逃げの姿勢で、よく言われる前例主義から脱けられない。
 どんな問題でも新しい事象にぶつかると、記録を点検するなどして、過去にどう処理していたか。前例があるか、ないかを極端なほど重視し、毎年、毎年、同じことの繰り返しでのほほんと生きてゆくやり方がこれである。だから、新しいことに挑戦する意欲もなければ、仮に外部や市民から画期的提言や要望が出ても、それを素直に取り上げて対応しない。議員に対してもそうだが、多くは「検討しましょう」「考えてみます」というだけで、新しいことはすべて先送りするか、口を濁して時間をかせぐ。
 そのうちポストの異動があったりして、事業の予算づけなど何年も後に行われたり、うやむやになったりする。こういう性格的欠陥が逆作用して、とくに、勉強や研究をしなくとも月給、ポストに影響しないからと、みんなで渡れば怖くない式の気のゆるみが、ときには職場放棄や、勤務中の私用や脱線などが横行する。これがいわゆる、あぐらかきである。
 真剣に、創意工夫をこらし、全力投球するのが本来の使命だが、楽することを覚えて、自分やポストにあぐらをかくのである。
 役所に目を光らせ、効率的行政に住民の立場からチェックするのが議員の職責だが、これまた選挙時だけ目のいろを変えて、あとは月給ドロボウ同様に胸のバッチにあぐらをかくものが多い。
 ひどいもんである。年金会計に何千億円もの穴をあけた「AIJ投資顧問」に疑惑と不信の声が高まっているが、全国約580人の厚生年金基金に天下っている旧社会保険庁などのOBのうち半数を超える402人が基金の資産運用を担当していることが分かった。投資に詳しくない役人の古手に大金の運用をまかしているのだから、いいかげんなもので、あぐらをかいて、高給をくらっているだけである。バカヤロウ。

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2012年03月29日

電気代値上げに見る傲慢さ(見聞録)

 東京電力は4月から企業向けの電気料金を平均17%値上げする。9割近い企業が値上げを拒否しているが、東電側は同意しなければ電気の供給をストップさせるとの「脅し」をちらつかせている。
 東電は電気料金の値上げについて、原発停止に伴う火力発電の燃料費の増大によるもので、原発事故の処理や被害者への賠償ではない、としている。そのうえで「社の収支は厳しく、できる限り早期にこれを改善しないと燃料調達に支障を来たし、電気の安定供給に影響を及ぼしかねない」と説明している。
 しかし、利益が出るか出ないか常にぎりぎりの経営を余儀なくされている中小・零細企業にとって、17%の値上げは死活問題であり、4月以降に契約更新を迎える23万件余りのうち、87%が値上げの同意に至っていない。
 これに対し東電は、同意が得られない場合、早ければ5月下旬にも電気の供給をストップする可能性を示唆し、ひんしゅくを買っている。
 関東知事会も28日、「人件費の削減が先決」と値上げの中止を要請したが、その際の指摘で興味深いのは東電社員の高給。東電は給与20%削減を打ち出しているが、それでも大卒は年平均835万円にのぼり、「55歳で1200万円」という。
 知事会は「中小企業と同じにしろとは言わないが、値上げで痛みを受ける中小企業の思いを考えれば、(削減幅を)再考すべきだ」と訴えたが、東電に響くとは思えない。
 東電の値上げに対し、関西圏も悠長に構えてはいられまい。関東圏の企業のコストアップの余波は、商品価格などに転嫁され全国に及ぶであろう。
 さらに、全原発が停止している関西電力も火力発電の燃料費増大を理由に、電気料金を上げるかもしれない。
 製造業であれ、小売業であれ、そして市民生活であれ、今の世は電気がなくては、成り立たない。しかし、その電力事業を一民間企業が競争原理を働かせることなく独占していることが問題の根幹だ。
 東電の一方的値上げと、電気をストップさせるとの傲慢な姿勢を見るにつけ、電気事業の自由化と新興電気事業者の育成が急がれる。

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2012年03月28日

首相の量産と知価革命

 今世紀の始め以来、世界の文明が変化しているという。物質文明の物の豊かさよりも満足の大きさを求めるようになったというのである。作家で評論家の堺屋太一氏はこの変化を「知価革命」と呼んでいる。
 食べ物でいえばグルメ指向であろう。何杯ものご飯でなくて茶碗に半分でもうまくて栄養のあるおかずがあればいいというのがこれ。
 衣類でいえば着捨て指向がこれである。何枚もの洋服でなく、気に入ったのを買って、気に入らなくなればいさぎよくポイして、また好きな柄や流行の服を求める。数よりも質で勝負というこの考えは、住宅においても同様である。
 昔の農村型はでっかい2階建てをほこらかに建てたが、これは冠婚葬祭を念頭に置いた伝統の様式である。広い家はフスマを外すと大ホールになり、結婚式も披露宴も法事も、あるいは村の寄り合いにも利用したし、2階の各部屋はお客用の寝室になった。
 いまどきそんな豪邸を欲しがる若ものはいない。家族が充分機能する便利第一主義のマンションに人気が寄るのは数より質を求めるからである。
 時勢がこのように変化してゆき、それに輪をかけるように断捨離なる捨てるモラルが叫ばれ出した。
 この知価革命を本物とするには産業界の英断も必要だが、政府や政治家のアタマの切り換えが先決である。アホーや欲ぼけのガンクビをたくさん揃えたって何の足しにもならないことは、ここ10年の政治を見れば一目瞭然である。
 小泉さんの後の内閣は、安倍、福田、麻生(以上自民)、鳩山、菅(以上民主)に至るまで、5年で5人の首相。まるで判で押したように1年1首相という奇体な政治ショーを演出した。まさに首相の量産である。数より質の時代に逆行したこのお粗末さは、与野党議員の数のお粗末さの裏返しである。
 議員を減らせ、公務員を減らせ、とは天の声だが、この声は世界の潮流の「数よりも質」の時代の知価革命に由来する。
 ただし、これは文明国の知的革命であって、発展途上国では、いまなお「物の豊かさ」を追っており、この内外の情報を正しくキャッチして誤ることのないよう指導するのが政府の仕事だが、今の政権党や野党はコップの中の争いに精力を無駄づかいして、大切な貿易などの振興に知恵やカネを出し惜しみしている。アタマが悪いのか、考える能力が錆びついているのか、いまの日本の不況を「デフレ」のしわざと、はしゃぐのみで、なんでデフレか考えることもしない。
 もの余りの量産体系によるインフレ渇望論だが、知価革命の現代的意義がまるで分かっていない。自分本位だから分かろうともせず、なし崩しに日本を第2のギリシアに追いやる危険性なしとしない。【押谷盛利】

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2012年03月27日

幻の議長不信任案(見聞録)

 先週の19日、長浜市議会総務教育常任委員会で、委員長(当時)の浅見勝也議員の不信任決議案が可決され、浅見議員が委員長を辞任した。
 決議は、浅見議員が所属する会派「プロジェクト21」(北田康隆代表)が藤井勇治市長に独自の高校再編案を提言したことへの反発だった。
 昨年9月、市議会は県教委の進める高校再編計画の白紙撤回を求める決議を全会一致で可決。その後、県教委は計画決定の1年先延ばしを決めた。
 プロジェクト21は、2020年には湖北地域の高校の新入生が260人(7学級分)減り、さらに5年後には180人(4学級)減るとして、長浜・長浜北高の統合校の新設、農高の伊香高への移転統合、などを盛り込んだ提言書を今年1月、藤井市長に提出した。
 これに対し、共産党や今浜会などは「白紙撤回決議と整合性がない」と批判。共産党は「県教委の再編を後押しするもの」と、撤回を求めていた。
 これらの反発にプロジェクト21は「白紙決議は、県の進め方を否定するものであって、現状維持を肯定するものではない」とし、独自の再編案を示すのは「政治の使命」と訴えている。
 しかし、19日の総務教育常任委員長の不信任案は賛成5、反対3で可決された。
 実は22日の市議会本会議でも吉田豊議長(提言時はプロジェクト21に所属、現在は無所属)に対する不信任案が提出される手はずだった。しかし、前日までの票読みで、1票差で否決される公算となったことから、提案が見送られた。
 仮に提案されれば、吉田議長が退席し、田中伝造副議長が採決することになる。21日夜の情報では、賛成は共産党3、今浜会5に、新しい風の5が加わり計13票。反対はプロジェクト21の7、新しい風の5、公明党の2の計14票。
 さて、市議会を真っ二つに割ったであろう「幻」の議長不信任案。公序良俗に反した行為をしたわけでも、議会内で暴言や暴力行為を働いたわけでもないのに、会派独自の提言を行っただけで、水面下で1票差まで詰まる攻防があったことに違和感を覚える市民も少なくないだろう。
 これらの不信任案は、1市6町合併協議の頃から続く今浜会とプロジェクト21の対立が背景にあり、それに高校再編反対を訴える共産党と、新しい風の会派内分裂が加わった産物と推測できる。
 しかも、否決される公算が大きいから、議長の不信任案を提出しないというのでは、とても筋が通ったものではない。
 万一、昨年9月の白紙撤回決議を金科玉条のごとく扱い、この期に及んで反対や白紙撤回だけを叫んでいれば事足りると考える議員がいるとすれば、それは思考停止ではないか。白紙撤回を全会一致で決議したあの熱意を思い返し、湖北地域の将来の高校はどうあるべきか、積極的な調査活動や提言を行ってもらいたい。

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2012年03月26日

平成改革と2人の至言

 元経済産業省の古賀博明氏は、公務員改革など骨のある政策で民主党政府ににらまれ、事実上のクビになったが、その見識と不退転の勇気が逆に国民の人気と支持を得ている。
 目下はマスコミ界の売れっこでもあり、大阪維新や、みんなの党のブレーンとして、日本の将来に提言している。日本の政治の閉塞感と堕落は教育崩壊のみならず、各省庁至るところに問題をはらみつつも抜本的対策を講ずることなく、じり貧状態を続けている。
 平成の世紀的大改革ともいうべき船中八策を掲げて政界へアピールしている大阪維新の政治塾は24日開校し、2000人を越す受講生が明日の日本の救世主たるべく熱意に燃えている。
 大阪から火の手の上がった平成大改革ののろしが全国にひろがり、解散前の日本の与野党議員に衝撃的な影響を与えているのは、一にも二にも大阪維新の人気が雪だるま式にふくれ上がっていることによる。
 このことは国民がこれまでの自民、民主両党による政治に愛想を尽かし、「ノー」という強い姿勢を見せている証しである。
 大阪維新の政策ブレーンでもある古賀氏は、今年1月の文藝春秋に「今年こそ内なる開国を。それこそが平成の開国。そのために変わる勇気」との一文を載せている。
 これによると古賀氏は、「社会の閉塞感の最大の原因は成長の道筋が見えないこと。成長しないから雇用も所得も税収も減少。少子高齢化の中で増税しても何の未来も見えない。閉じた世界を開いて、新規参入する企業や若者が自由に活動できる、そんな社会を作れば日本は再び輝きを取り戻すことができる。そのためには、農協、医師会、電力会社という既得権グループと戦わなければならぬ。自民党は既得権と一体だった。民主党も票と金の欲しさに自民党化してしまった。だから必要なのは既得権と戦う成長戦略を実行する政治勢力を支援して内なる開国を進めることだ」。
 「もう一つの内なる閉ざされた世界がある。真実を隠す組織と真実を伝えないマスコミ。東電もオリンパス、メルトダウン、放射能汚染、政府が情報を操作し、マスコミはそれに支配される。今、求められるのは真実を伝える勇気。過ちを認める勇気だ。過ちを認める勇気をもつことで過去と決別し、新しい政策、行動につなぐことができる。そのためには一人一人が変わること」と訴えている。
 文藝春秋1月号は「日本はどこで間違えたか」を特集しているが、このなかで、作家の堺屋太一氏が、官僚主導の誤りを指摘している。
 「日本は1990年ごろまでは上り坂が続き、2006年ぐらいまでは世界の好況に支えられ、もの造りで稼ぐことができたが、この間に世界の動きに鈍感で、経済的地位も政治や文化の活力も低下した」と分析する。
 氏は、1980年代から世界の文明が変化、物財の豊かさよりも満足の大きさを求めるようになったと言い、これを「知価革命」と呼んでいる。
 このためには、「官僚主導を棄てて国際化を進め、創造力に富んだ知価社会を創るべきだ。成長産業の医療、介護、情報、観光などに人材と技術と資本の流れを阻む官庁間の仕切りを外すべきだった」「国家公務員を各省別年次順の身分制度から、適材を適所に充てる公務員制度改革が08年以降停止したのが重大である」と告発している。至言というべきである。【押谷盛利】

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2012年03月23日

学力低下と長浜北高問題

 今日の日本人の堕落の原因の一つ、教育崩壊について書いたが、なんぼ頭がよく、成績が優れていても人間としての生きてゆくべきモラルや愛と感謝の心のないものは評価すべきではない。教育とは智、徳、体の総合的人間完成を目的としなくてはならぬ。
 教育崩壊については、戦後の教職員組合(日教組)の社会主義的政治闘争の弊害を書いたが、これに力を貸したのが55年体制のもたらした自民党と社会党のなれあい政治だった。
 いまもそのなれあいの後遺症で、日本の行政や教育には幾多のゆがみが生じているが、それらを点検し、改革してゆくのがこれからの指導者であり、世代である。
 改革すべきところの根は深く、教育界ばかりではなく、至る所に問題点はあるが、いま、その改革への「のろし」が上がっているのは大阪維新の会の橋下市長の指導力と実践力によるところが大きい。いうなれば、マッチをすれば、爆発するほどに国民の不満や怒りが充満していたわけで、これまでの政治の閉塞感がいかに国を危うくしていたかが実証された。
 それでも一部のバカものは、橋下改革やその船中八策にいちゃもんをつけ、国民の眼から維新を放そうとしているが、彼らは古い体制や古いしがらみに固執して、新しい日本を創建してゆく見識や情熱がないといえよう。
 それはともかく、教育についての疑問点をあげる。このごろ不可解なのは、卒業式を「卒業証書授与式」と呼んで恥じない学校や教育委員会の偏向である。民間でもまことの教育を実践している天理教関係の学校では、中学、高校、大学、その他の学校いずれも「卒業式」と呼び、「仰げば尊し」を歌っている。厳粛なる祝典の中の一つに卒業証書の授与が含まれているのである。ぼくらの若い頃は、みんな卒業式だった。いつごろから「卒業証書授与式」になったのか。その変遷のいわれや時日を知りたい。
 ぼくの手元に「長浜商工高等学校」の創立50周年記念誌がある。40年前の1973年発行で、この中に「昭和2年度に最初の卒業式が行われた」と書かれている。「第一回卒業式」の見出しで、本文には「昭和3年3月10日午後1時より第一回卒業式が挙行せられ、来客は町内官公署長。町会議員、町内有力者、父兄等70余名の多数に達した」とある。
 教育行政を司る教育委員会制度は戦後に発足したが、委員は名ばかりで、実態は委員を兼ねる教育長と委員会に席を置く事務職員によって運用されている。名前だけの教育委員会だから形骸化しており、なくてもいいのではと批判されているほどである。教育委員会を無力化し、校長の権限を剥脱するのに精魂を傾けたのが組合であり、教育行政を組合の思うままに進めて来て、その弊害除去に立ち上がる政治家がいなかった。ここに教育崩壊の因子があり、組合の圧迫、圧力に抗しかねて自殺した校長まであった。
 かつて、長浜北高は、東大、京大、その他有名大学へ合格した優れた進学校だったが、途中からおかしくなってしまった。その原因は、陣頭指揮で、教育熱心なやり手の坂口正司校長を組合が追い出してしまったからである。当時の長浜出身の県教育委員・石居良造氏は組合の機嫌を伺うだけで、北高の教育の将来に胸を張ることをしなかった。 (つづく)【押谷盛利】

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2012年03月22日

中国からのニュース(見聞録)

 中国で暴漢に襲われて意識不明となった女子高生が警察によって凍死と判断され、田んぼに遺棄された事件が波紋を呼んでいる。
 女子高生は11日、学校からの帰宅途中、暴漢に襲われ、翌日、道路脇に倒れているのを村人に発見された。通報を受けて駆けつけた警察は「凍死したホームレス」と判断し、県政府に遺体収容を連絡。そして県の担当者は、村人の「まだ息がある」との指摘に耳を貸さず、運搬車を手配し、その運転手は女子高生を隣県に運んで田んぼに遺棄した。
 女子高生は13日、村人に見つけられ、救急車を呼んでもらったことで、一命を取り留めた。
 以上は中国メディアが伝えたニュースだが、暴漢に襲われた女子高生を「凍死」扱いにし、田んぼに捨てるという残酷さに、中国での人命の軽さに背筋が凍りつく。
 共産党の一党独裁で党の役人が法やルール無視のやりたい放題の中国。おまけに人口規模は日本の10倍以上。我々日本人の常識では理解できない事件が起こっても不思議でない。
 昨年も、事故を起した新幹線を埋めて証拠隠滅を図ったり、車にひき逃げされた女児が18人もの通行人に見捨てられ死亡する事件があった。
 一党独裁に胡坐をかく役人の「我欲」ばかりがまかり通り、人間愛や優しさを説いた孔子の思想は見る影もない。
 チベット仏教や西部の新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)などでの宗教・民族弾圧も深刻だ。遠く離れたシリアではアサド政権による反政府勢力への弾圧が苛烈化しているが、これを支えているのも中国だ。先月には国連安全保障理事会の対シリア決議案が中国とロシアの拒否権行使で否決された。
 中国の非常識なニュースを聞くたびに、日本もこの国の非常識な行動の犠牲になるのではないかと心配する。現に尖閣諸島を日本から奪取するため巡視活動を強化し、艦船や潜水艦の航行を日本海、太平洋で活発化させている。
 このやっかいで非常識な国との付き合いは、地勢的にも経済的にも今後ますます緊密にならざるを得ない。ゆえに日本政府が確固たる国家観を持たないようでは、骨の髄までしゃぶられる。

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2012年03月21日

教育崩壊と学校の問題点

 愛と感謝の心がなければ、幸せ感は生まれない、との時評の後段で、今日の日本人の堕落の原因の一つに教育崩壊とマスメディア、政治家の無能をあげたが、今からでも遅くない。これらの健全化と建て直しを考えたい。
 教育崩壊は言われ始めてすでに久しいが、これへの対応の鈍さは、文科省の役人や政治家のみならず、地方行政、教育委員会、PTAに至るまで目を覆いたくなるひどさである。
 ぼくがこう書くと、疑念を持つ人があるかもしれぬ。日本の教育施設は充実しており、高いレベルでの義務教育化は徹底しているではないか。国民のほとんどは高等学校教育を受け、さらに大学、専門学校への高い進学率は世界トップレベルではないか。また幼児教育の充実も特筆すべきではないか、と。
 教育の実態を知る上で、設備、環境の整備は大きな分野を占めるが、問題は中身である。容れものが大きくて、立派でも、教育という中身が腐っていたり、根本的な心の問題が忘れ去られると、それは長い目で、教育崩壊につながる。
 一般に教育崩壊は、生徒が暴れて手がつかず、学級での授業が困難なことをいうが、これは狭義の教育崩壊である。教育現場で、なぜ授業困難な事態が生じるのか。そこには教える先生と教わる生徒の師弟の絆がないわけであり、生徒同士の共に学ぼうという友愛の心がない。いうなれば学級砂漠である。学級砂漠化が教育困難校を招き、さらに国全体の教育崩壊につながるが、その原因は教育現場に愛と感謝の心が流れていないからである。
 だれも気兼ねして声を出さないが、日本の教育現場に愛と感謝の心を流さなくなった最大の因子は教育現場の教師の労働組合、日教組(日本教職員組合)の社会主義革命的理論を背景とする政治闘争偏向主義による。教育委員会の形骸化や校長の無力化は日教組の政治闘争の収穫であり、それはそのまま日教組の教育支配を現出した。
 大阪市では、職員労働組合が人事にまで影響を与えたと言うが、日本の教育界でも同様に、日教組のOKがなければ校長の椅子が危ないといわれ、各学校の運営は組合の発言と了承が重きをなした。
 日教組に支配されると、なぜ「愛」と「感謝」の心が育たず、学級砂漠から大きく教育崩壊につながってゆくのか。
 それは日教組の理論的背景である社会主義革命のためには「愛」と「感謝」の心が邪魔になるからである。
 戦前は学校の教師は「先生」と尊敬されて慕われてきた。戦後、日教組の政治闘争が教育現場に滲透するようになって以来、教師自ら「おれを先生と呼ぶな。おれは、月給をもらって君たちに教えている教育労働者」と、位置づけ、スーツ姿を廃して、ジーパンやジャンパー姿で神聖な教壇に立った。したがって、卒業式といわず、卒業証書授与式と名を変え、「仰げば尊し我が師の恩」という卒業の歌もやめてしまった。
 学校がこんな風だから、親を大切にという親孝行なんかを教えることはさらさらなし。
 戦後、道徳教育に猛反対して、これを教えなかったのが、日教組であり、それが教育界でまかり通ってきた。愛の最大のものは国家への愛であるが、その心を枯らすため「君が代」や「日の丸」を否定しつづけ、法律で決まっていても卒業式に歌わなかったり、起立しない教師が、いまなお話題になるていたらくである。(つづく)【押谷盛利】

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2012年03月19日

あなたは幸せか、不幸か

 あなたは、今、幸せですか、と問われたら「はい、幸せです」と答える人はどれくらいいるだろうか。
 すべての日本人に、このテーマで世論調査したら、どんな結果が出るだろうか。表向きは、幸せそうに見えても、そう問われれば、必ずしも幸せです、と答えないかもしれぬ。
 これは、ぼくの勝手な推論だが、「今の生活は不安」「今は幸せとは思えない」、といった答えが、幸せ派より多いのではないか。
 なぜ、そんなふうに推論するかといえば「不足たらたら」「不満たらたら」の声や、考えられない不祥事や反社会的事件が多すぎるからである。
 自分のことを不幸である、みじめである、と考えるのは自虐的思考で、うちに籠もりやすい。言葉を変えればマイナス思考である。「いまは、まずまず。ぜいたくを言ってはきりがないから、まあ、幸せのうちでしょう」と、答える人は、楽観派かもしれないが、前向きのプラス思考である。
 世間にはバカがいて、人を不幸せのように見立てて、こうしなさい、ああしなさい、と夢を押し売りしたり、不幸のタネを切り取りなさい、と煽動したりする。
 明治維新直後の日本は、西洋やアメリカに比べればものすごく見劣りする低レベル、低文化、そして貧しかった。
 その後進国、日本へやってきた西洋人は、貧乏な日本人が快活で、礼儀正しく、几帳面で、親切なのに驚いたという。少しも不幸な顔をしていないのが不思議だったらしい。
 幸か、不幸かは心の問題である。金持ちが幸せで、貧乏人が不幸とは限らない。
 人は世界すべてに共通するが、だれでも生まれ故郷を、そして祖国を愛し、大切にする。人を、物を、社会を、国を愛することは、幸せ感の大事な条件の一つである。さらに大事な幸せの条件は感謝の心である。
 人間に生まれたことが、どんなに素晴らしいことか。今、生きていることが、なんと、ありがたいことか。そう思うのが感謝の心である。したがって、愛と感謝を心に宿している人は幸せである。
 逆に、おカネや物、肩書きや地位、名声があっても不足感、不満感のある人は幸せとはいえない。
 今の日本の世相はどんなんかな、と思う人は、新聞やテレビを見ればよく分かる。ろくでもない、恥ずかしい事件や不幸な事件が絶えないし、若い母親のわが子殺しが珍しくない。おいしいものに殺到するニュースや夢のような文化生活をあおる広告、あるいは健康や美貌を追う記事や宣伝が花盛りである。
 税金を上げねば国の財政がもたない、と政界の議論たけなわの反面、経済界の莫大な脱税や何千億円の年金会計の使途不明、あるいは「おれおれ詐欺」の類似犯による老人の被害。これらを総合的に集約すれば今の時点の日本の世相が見え見えである。しからばどんな世相か。ものあまりを乗り越えた際限もない欲望の世である。その果てしなき欲求のもたらす金持ち日本、肥満日本が至るところで故障続出し、病人王国、クスリ漬け社会を現出したばかりか、閉鎖性社会化による人間不信と家族愛の崩壊。いうなれば繁栄する文化国家の恩恵を受けながら、精神的に貧しいマイナス思考の国民となってしまった。
 百貨店、スーパー、コンビニに溢れる多彩な商品の山やテレビなどに登場する宣伝の実態は、まさしく、豊かな消費国家である。
 それでも日本人は、割引き、タダ、サービスの餌を播けば池の鯉が餌に群がるように列をなす。外観や食欲には目のいろを変えるが、人間として最も重視すべき、内面の充実、精神世界の豊かさについては、関心が低い。
 精神的に堕落した日本人は、それゆえに、愛と感謝の心に遠ざかってしまった。その原因の一つは教育の崩壊、さらにはマスメディアの無見識、政治家の無能である。【押谷盛利】

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2012年03月17日

家事もスマートに?(見聞録)

 容姿や物の形がすらっとして格好が良いさまを「スマート」と呼び、服装や着こなしが洗練されている場合にもそう表現する。
 また、行動や機能、形が洗練されていることや、賢い、利口であることも「スマート」と呼ぶ。元々、英語の「スマート」にはそういう意味があるのだが、日本では前者を指す場合に使われることが多かった。
 しかし、今はインターネットや音楽プレーヤー、カメラ、ビデオなど様々な機能を持つ携帯電話を「スマートフォン」、電気の流れをコントロールし無駄なく活用する送電網を「スマートグリッド」、レーザー光線やカメラ映像で誘導するミサイル兵器を「スマートボム」と表現するなど、知的、効率的であるとの意味合いの方が主流になりつつある。
 何かにつけて、スマートさが注目を浴びる昨今、デジタル機器や時短アイテムなどを活用し、短時間で質の高い家事を行う「スマカジ」を心がける主婦が増えているそうだ。
 江崎グリコが首都圏・関西圏の20〜30代の既婚女性に意識調査したところ、3人に2人が育児や仕事で家事にかける時間が足りないと回答し、少ない時間で質を高めるためスマカジに取り組んでいるそうだ。なお、スマカジは同社の造語。
 例えば▽掃除ロボットの導入▽ゴミの日をスマホ(スマートフォン)のカレンダー機能で管理▽朝起きてすぐ洗濯物を干せるように洗濯機のタイマー設定▽洗濯洗剤はすすぎ1回用に▽手軽で簡単にできるレシピをスマホで検索▽料理は電子レンジやシリコンスチーマー、圧力なべを使って時間短縮▽買い物はネットスーパーを利用する—など。
 スマカジ主婦は、掃除ロボットやインターネットの買い物で時間の余裕を作り、スマホで料理レシピの検索やデータの管理、そして電子レンジや圧力鍋で効率良く料理している。
 ただし、家族にとって由々しき問題もある。というのも効率を優先するあまり、「料理の素」で味付けしたり、ハンバーグや餃子を「手が汚れる」「手間がかかる」などの理由で敬遠したりする傾向がスマカジ主婦にあるからだ。
 手の込んだ料理が食卓にのぼらないとなればスマカジの代償は小さくない。もし、最近、手作りのハンバーグや餃子を食卓に見ないなら、妻や母親が時間に追われているのかもしれない。「家事を手伝って!」のサインかもしれない。たまには掃除、洗濯、料理をバトンタッチして、妻、母親にひと休みしてもらってはどうだろうか。

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2012年03月16日

たがのゆるみ、がたが来る

 大災害、不況、財政危機、こう並べると、昭和の初期、戦前時代の「非常時」という嫌な言葉を思い出す。
 あのころの非常時には銀飯の食えない農家が麦飯を食ったり、学校へ弁当を持ってこられぬ学童があったり、農村から風俗産業に売られた娘が籠の鳥といわれた。
 大学を出ても就職できず、都会の人は一家総出で働いたが、それでも収入が十分ではなく、2階を貸して家計の助けにした。
 旧制の中学、農学校、商業学校へ通うのはゆとりのある家の子だが、自動車も自転車もない明治時代は10㌔、15㌔の道を歩いて往復した。
 年に1回か、2回のすき焼きを「じゅんじゅん」といったが、子供らはその日は昼飯をパスして夕飯に備えた。胸につかえて動けぬほど腹一杯食べた。1年のほとんどは、味噌汁と漬け物。
 学校から帰っても大きい子は赤ん坊や幼児の子守り。
 春の養蚕や田植期の忙しい時は、学校を休んで家の手伝いをするのが普通だった。女子は小学6年生で卒業するや工場などへ寄宿就職。男児も6年生で終わり、後は丁稚奉公か、職人の家へ住み込み労働。そして、盆と正月に土産を持って父母に遇えるのを楽しみにした。いま、明治・大正の人たち、昭和初期の人たちの貧乏と苦労を「ああだった、こうだった」と話したところで、聞く耳を持たないし、「時代が違う」と若ものは端からバカにする。
 そんな貧しい時代でも親は5人も6人も子を育てた。10人以上も出産したお母さんも珍しいことではない。それを思うと、今の世は遊び半分の、浦島太郎の竜宮城の暮らしぶりである。太平の夢に酔っているというのか、それでもなお、なにが不足か、文句たらたら、あれも欲しい、これも欲しいと欲から離れぬ。
 人は40歳、50歳とつぎつぎ加齢すれば皺もよるし、手足も頭も鈍くなる。そこで、延命長寿のさまざまな産業が登場する。女性は若返りに金を惜しまない。
 ご馳走をたらふく食って、動かないからふくれるのは腹ばかりで、脂肪太りが医薬の産業を繁栄させる。ものがたまって、がらくたばかりだから、断捨離といって、捨てなさいと説教する本が出る。「がんは切ったら治る」、「がん切るアホーに死に下手アホー」などと医者の説も百花斉放。
 知らない相手とメールで交際して、カネをごまかされたり、殺されたり。親が施設で亡くなっても、葬儀にも出ず、骨も迎えず、といった不孝ものが増えてゆくかと思えば、幼い子を虐待して殺す鬼も珍しくなくなった。
 世界のトップクラスの経済大国の30年後、40年後、50年後はどうなるのか。華やかに咲いた物質文明の将来は鬼が住むのか、蛇が住むのか。
 なさけないのは、国民に範を示すべき政界のえらいさんや各界の役人衆である。たがのゆるみか、がたがきて、桶の水は漏れっぱなし、外交はへっぴり腰。国家、国民より私利私欲。大阪維新が歓迎されるゆえんである。【押谷盛利】

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2012年03月15日

2区にも第3極が登場(見聞録)

 きのう14日に行われたみんなの党、世一良幸氏の立候補表明の記者会見。霞が関の官僚組織で経験した不合理がみんなの党への入党、立候補の動機だった。
 同氏は「省益優先」の縦割り組織に愛想を尽かして霞ヶ関を飛び出したが、その組織について「自分の省庁の予算と権限、天下り先を確保すれば評価される」と語った。
 「省益優先」という恐ろしい思考が、省庁の共通認識というから、消費税を増税したところで食い潰されるのは目に見えている。
 この霞ヶ関の治療を誰が担うのか。「政治主導」をうたって政権交代を果たした民主党も、その象徴組織である国家戦略局の設置を断念するなど、官僚組織によって骨抜きにされ、結局、「脱官僚」を果たせずじまい。それ以上に天下りを容認するなど、官僚に取り込まれてしまった。
 ゆえに、大阪維新の会やみんなの党など、民主でもない、自民でもない第3の政党が注目を浴びる。来たる総選挙は民主、自民の2大政党が後退し、政界再編が訪れるのは想像に難くない。
 さて、みんなの党や大阪維新の会を支えるブレーンには高橋洋一氏、古賀茂明氏ら元官僚が揃っている。彼らは江田憲司氏(みんなの党幹事長)が立ち上げた「官僚国家日本を変える元官僚の会」(通称・脱藩官僚の会)のメンバーでもある。省益優先の組織にいた元官僚達がその経験則から、今の官僚システムを放置すれば日本は沈没してしまうと危機感を訴え、民主でもない、自民でもない、第3極に期待を寄せ、その政策論をサポートしている。その一員に世一氏も加わっている。
 次の総選挙、滋賀2区では強固な人気を誇る民主現職の田島一成氏に、自民元職の上野賢一郎氏、そしてみんなの党の世一氏が挑戦することになる。民主、自民、そして第3極の登場で、日本の将来を占う国政の縮図が滋賀2区にも登場する。有権者はどのような投票行動をとるのか。

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2012年03月14日

借金と国債と金融不安

 心配症のぼくは、50年後の日本のことが気にかかる。人口がメッチャクチャに減って、8000万人余になり、老人1人を若もの1人が支えねばならぬ超高齢化社会を予想するのだが、当然ながら50年後に生きているわけではない。
 西郷隆盛は子孫のために美田を残さず、と言ったが、美田はともかく莫大な借金を残してやすやすと生きるほど日本人は乱暴ではない。
 なぜ借金を恐れるのか。借金は返さねばならぬが、返せなかったらどうなるのか。この首を差し上げますといっても、薹のたった古い首など誰もつばはかけても貰ってはくれない。
 ぼくの親戚のAさんの話だが、事業に失敗して破産した。高利の金を借りていたから矢のような催促を受けた。一部を返したが、他は暴力団が関係していたため、最後は追い詰められてAさんとその妻が自らの労働で支払うことになり、暴力団の支配下に置かれた。結局夫婦は離婚し、かつての盛んな時代の豪邸は人の手にわたり、両者ともどこに住んでいるのか、うわさにもならぬほど忘れ去られている。
 銀行が融資するのは、借り手に信用があるか、確たる担保が存在するか、信用できる保証人がある場合で、なかでも一番の根幹は本人そのものの信用度である。
 個人は借金で首が回らなくなれば、夜逃げしたり、自殺したりするが、国が借金で身動きができぬようになったらどうなるのか。
 世界の注目のギリシアはEUのヨーロッパ諸国の支援で危機を乗り切っているが、政情不安で一つ違えば内乱が起きかねぬし、そういうことにならなくとも国民の生活上へのしわ寄せは避けられぬ。社会福祉どころか、貧困を強いられ、治安の乱れや不安に泣かねばならず、国におさらばして外国へ亡命する人も出てくる。
 EUのお助けで混乱を助けてもらっているが、それは厳しい条件下の話である。例えば、国債を持つ国内の銀行への償還は50%に減額されるとか、銀行がいやといえば、それこそただの紙片になる可能性もあるから、身を切る痛さで銀行は半額償還に涙を呑む。その後の国内の金融を考えれば、ぞっとする話になる。銀行が潰れるのでは、と取り付け騒ぎが生じるから、払い出し額は制限されるし、金利は上昇して、新規の貸し出し市場が国の経済の発展にブレーキとなる。自国のカネが信用できないとあれば、国際金融市場で孤立化する恐れがあり、輸出入の先細りや不利が予測される。
 金融不安が頂点に達すれば銀行の破綻につながるが、そうなれば、貯金の払い戻しができなくなり、国民の暮らしや国家の経営は闇に転落する。
 カネが自由に出回り、ものの売り買い、カネの貸し借りが自由になるのは資本主義経済の長所だが、その根底には「信用」が存在する。信用がなくなれば個人も国家も同じこと。個人は安心して生活できなくなり、国は警察力で治安を守ったり、軍隊で外国の侵略を防ぐこともできない。
 50年後の日本に、そういう不安がないことを祈るがゆえに、このままの日本で、先行は大丈夫なのかと心配が先立つのである。
 国は税金という収入がなければ国債という借金で穴埋めしたらいいではないか、と、そんな悠長なことを考える時代ではない。
 これは国だけの話ではない。県も市も借金行政におさらばする覚悟を持て。国民も身を引き締め国難に対峙せねばならぬ。【押谷盛利】

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2012年03月13日

がれき受け入れの輪(見聞録)

 東日本大震災の被災地復興の障害となっているがれき。震災から1年を経過しても、その処理は全体の6%しか終えていない。全国の自治体で震災がれきを受け入れる「広域処理」が進まないからだ。
 野田佳彦首相は11日、再度、広域処理を全国に呼びかけ、追加支援策を発表するなど、政府としての決意を示した。
 12日、静岡県島田市は試験焼却で排出したガスから放射性セシウムが検出されなかったとする検査結果を市議会に報告。同市長は近くがれきの受け入れを正式表明する。
 北九州市議会も12日、市に受け入れを求める決議を自民、民主・社民、公明、共産の4会派共同で提案し、可決した。徐々に受け入れの輪が広がっている。
 震災がれきについては、福島県は県内で、岩手、宮城両県は全国で広域処理することになっている。
 広域処理が進まない一番の原因は、放射性物質に対する住民の不安だ。政府が「安全な数値」と言ったところで、この1年の政府の姿勢から、それを信じる住民は少数派であろう。
 島田市は住民の不安を取り除くため、科学的に安全性を実証したケースとして注目される。焼却灰のセシウム濃度は1㌔当たり64ベクレルで国の基準値(8000ベクレル)を大幅に下回った。市民の要望で焼却施設周辺の小学校で測定した放射線なども問題なく、すべての検査で国や県の安全基準をクリアした。
 安全性さえ確認できれば、受け入れを容認する声は多数派かもしれない。長野県世論調査協会が2月に県民を対象に実施した意識調査では、「放射線量を検査して国の基準以下ならば受け入れても良い」との回答が全体の81・7%を占め、「放射性物質が心配なので、受け入れるべきではない」の14・9%を大きく上回った。被災地の復興を願う県民の思いが温かい。
 長浜市はどうだろうか。12日の市議会の会派代表質問では「プロジェクト21」の北田康隆議員が被災地支援の観点からこの問題を取り上げ、市の姿勢を問いただした。
 藤井勇治市長は、「国により災害がれきの安全性が担保され、市民の理解が得られた後は、東北の早期復興の一助となるよう、他の自治体と同様に受け入れに前向きに取り組みたい」と答弁した。決して前向きとは言えない答弁に、市民の反応をうかがう市長の苦悩がにじみ出ている。
 湖北広域行政事務センターのごみ焼却炉の能力は、震災がれきの受け入れに問題がないことも、この日の市議会で示された。ただ、焼却灰は関西一円の自治体とともに大阪湾に埋め立て処理しており、焼却灰の受け入れ側の態勢が整わないことには、進まない話でもある。
 いずれにせよ、広域処理には住民の安全確保と不安解消が欠かせない。国の支援策を活用して、自治体が主体的に検討することを求めたい。

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2012年03月12日

東日本大震災と50年後

 円高不況の最中に起きた東日本大震災は予想を超えて日本の前途に暗雲を漂わせている。
 岩手、宮城、福島3県から出たがれきは2253万㌧にもなるが最終処分まで済んだのはわずかに6%弱にすぎない(10日付産経)。放射性物質と含んでいるのでは、という不安が他府県の協力の足を引っぱっているからである。
 東北3県は、大震災と原発事故の被害で多くの事業所が閉鎖したり、廃業しているが、その結果、雇用の機会が得られず、若ものの県外流出が止まらない。
 郷土に踏ん張って再建を誓っているのは、老人層で、このため3県の沿岸自治体の高齢化率は全国平均の23%を遥かに超えて35%内外に高まっている。高齢化率は年ごとに高くなってゆくが、その反面、再建の中核となるべき若ものが減ってゆく。
 2次産業の製造、加工工業のみならず、1次産業の農、水産業にまで影響が出て、住民所得のマイナスと生活上の不安は去らない。集落あげての移転移住も住民の考えや資力、職業などによる実現の壁があり、なにもかも復旧して、安堵の生活が始まるのは何年先、いや何十年先か分からない。恐ろしいのは、その間の時間の速さである。昨年の3月11日以来、早くも1年を経過したが、原発事故の福島県では、強制立退の20㌔以内はもとより、50㌔以内でも除染に懸命だが、除染後の土の処分場が決まらず、その費用や補償などを考えると、国の予算とは言いながら、ここ何十年、国民は税負担の上で、災害地の復旧に協力しなければならぬ。
 さて、その何十年後のことだが、政府の最近発表した50年後の日本の人口は、現在の1億2800万人より4000万人も減って、8500万人になるという。この数字は穏やかではない。その数字を分析しての老人比率の高さが極めて憂慮されている。現状のまま、少子高齢化が進めば、50年後は、労働人口(15歳〜64歳)1人が1人の老人を支えてゆかねばならぬ。今は4人が1人を支えているから、騎馬戦型、50年後は肩車型だとヤユっているが、笑い事ではない。
 現在の膨大な国債(借金)は減るどころか、ますます増えてゆくが、これを返してゆく国民の数は減ってゆくばかりであるから、現在と同じ水準の国民生活を維持しようとすれば、それに帳尻の合う増税をしなければならぬ。増税は不況を呼び、国民の消費意欲を冷やすから、悪循環して産業を萎縮させ、失業者を増やす。
 国家による国民サービスを見直すべきとの議論も出るが、こうなれば、医療、健康保険、生活保護、高齢者福祉などへのしわ寄せが必然となる。
 前を向いても後ろを向いても希望の光は見えないが、それとともに東北3県の復旧の遅れが気になるというのが50年後の予想図である。
 しからばどうするか。現在の行政のあり方を根本的に刷新し、いわゆる橋下大阪市長流の平成維新の断行である。政治のからくりを根本的に切り換えれば、無駄なカネが救われるし、国民の税金を食いものにする政府系の外郭団体や屋上屋の財団法人、官僚の天下りなど一掃できて、年間何10兆円もの節減が可能となる。
 地方を含めての行政改革は荒療治であるが、明治維新の武士の覚悟で、国民みんなが希望をもって、現実の苦難を超えねばならぬ。【押谷盛利】

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2012年03月09日

超高齢化社会の危機

 大学に合格したはよいが、卒業期を迎えると頭が痛い。
 昭和の初め、大学を出たけど就職先がない、と社会問題化したことがあったが、今の大学生も心境は同じである。就職活動という耳新しい言葉が普遍化して「就活」と呼ぶ。結婚相手を探す「婚活」もそうだが、当事者のことを本当に案じて言っているのか、傍観者的に茶化しているのか、なんだか、ふざけたような響きをもたらせて、卒業近い大学生の心が思いやられる。
 昭和の初めの「大学は出たけど」の憂鬱は、当時の日本の貧しさを象徴させた。小作を主体とする日本の農家は米価の下落に泣き、都市労働者は低賃金に泣き、労働者を吸収する新しい産業や工業化社会が進まなかった。
 満州事変は当時の日本の社会的危機に風穴を開ける手段でもあった。当時の為政者が国民所得を増やす政策やそれに基づく消費拡大に無能であり、鈍感だったからである。
 今の日本はどうか。経済、産業は世界のトップ級まで進んでいるのに、やはりここでも政治家たちのその日暮らしの安易な政権運用にかまけて、20年、50年、100年先の長期展望と政策を欠いてきた。
 政治の堕落と無能がいつの間にか年金会計を虫食いにしたり、途方もない借金王国にしてしまった。
 財政を建て直すには昔から収入にふさわしい支出、つまり身の丈にあった暮らしが教えられてきたにも拘わらず、日本の歴代政府は今日の民主党内閣に至るまで「無い袖は振れぬ」の鉄則をやめて、なければ借金、なければ国債、さらには増税と、その場しのぎの政策に明け暮れてきた。
 そのつけ、その綻びが至るところに出始めた。
 就活、婚活もその一例だが、マンション住まいの90歳、60歳の親娘が餓死したという東京の悲劇も綻びの一つである。少子高齢化の進む今の日本は、高齢化率(65歳以上の老人比率)が20%から25%、つまり、4人に1人が老齢者だが、50年後は人口が減って8674万人、そして高齢者が4割を占めるという。生産者人口(15歳〜60歳)1人が1人の老人を支えることになるので、肩車時代になると、これまた茶化している。
 しかし、まじめに考えれば、おちおち夜も眠れぬ大不安材料である。50年後の超高齢化社会が具体的に日本の危機を教えているのに、政府も与野党も相変わらず、党利党略に走り、子孫のために如何に借金を減らすか論じることをしないし、政策化に入らない。
 選挙で票をもらうための助平根性のマニフェストを発表した民主党は、ばらまき予算のために借金財政を招いてしまった。カネも無いのにぜいたくすれば破綻するのは個人の場合でも国家の場合でも同じである。
 政府がぜいたく政策を続けて恥じないから、その心が国民にまで伝染して、右を向いても左を向いてももったいないことばかりである。
 食べもののぜいたく、着るもののぜいたく、日常の暮らしを一つ一つ点検すれば、「いい加減にせんか、罰が当たるぞ」と、ご先祖さまの怒りの声が聞こえるくらいである。【押谷盛利】

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2012年03月08日

議員定数削減論について(見聞録)

 財政再建などの観点から国会議員の定数削減が浮上している。野田政権は先月、「衆院定数80削減」を盛り込んだ大綱を閣議決定した。野党から「内閣の越権だ」と批判され、後に陳謝する有り様だから、実現するのか疑わしい。
 そもそも日本の議員定数は他国と比べて、多いのか、少ないのか。
 OECD(経済協力開発機構)加盟国34カ国の人口100万人当たりの議員定数を比較すると、最も多いのはアイスランドの210人。以下、ルクセンブルク120人、エストニア77・7人、スロベニア45人と、小規模国が続く。イギリスは10・4人、フランスは9・1人、ドイツは7・5人、韓国は6・2人。
 そして日本はというと33位の3・7人。最下位はアメリカの1・4人だった。
 議員定数が多ければ国民の多様な意見を吸い上げられるが、少ないとその逆となろう。ただし、少数政党の参加が難しくなることで、良くも悪くも効率的な国会運営となる。
 他国と比べ、議員の割合がはるかに少ない日本がさらなる定数削減に乗り出す理由は経費節減。80人減らせば、議員歳費や文書通信交通費、秘書給与など総額56億円の削減につながるという。
 この経費節減を狙った定数削減は地方議会でも進んでいる。長浜市の場合、1市8町合併前は100人を超える市議、町議がいたが、現在は30人。
 3月1日には定数を26人に減らす条例案を可決し、2014年7月の市議選から適用することになった。
 その条例案の採決の際に、杉本敏隆議員が行った反対討論が興味深い。
 杉本議員は、定数削減は民意の反映、政策立案、行政の監視など、地方議会の機能が低下すると訴えた。そのうえで「市民から『議員が多すぎるから減らせ』という声を聞く」と前置きし、「働かない議員」のせいで、市民から議員が重要視されていない、と指摘した。
 なるほど、これは国会にも言えること。首相や大臣がころころと代わっても、この国の行政システムは機能し、官僚が国家運営を切り盛りしている。官僚の原稿を棒読みする国会議員の姿も、官僚主導に映る。国民が国会議員を重要視せず、参院廃止論が出るのも当然か。
 もし、国会議員が国民の期待に応える仕事ぶりなら、定数削減に対し「国政参加の機会を奪うな」と国民の猛反発があろう。しかし、その声は共産党など少数政党に限られているのが、実態だ。
 なお、情報公開に積極的な長浜市議会は本会議や委員会をインターネットで中継し、出席簿をホームページに掲載している。この際、自身の投票した議員がどう働いているか、チェックしてはどうだろうか。
 せっかくの定数削減。「働かない議員」が次の選挙で当選するようでは経費節減も台無しだ。

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2012年03月07日

教育の遅れを取り戻す道

 日本の学生は賢いと自負しているが、近年は周辺の国に越されて、あまり威張れないらしい。
 共通テストで英語や数学の実力を競うと、韓国、中国、台湾、香港の学生のレベルが日本人より上位にあるという恥ずかしい話。
 いつからそうなったのか。あわて出した日本の文科省はいまごろになって、週全体の授業時間を増やすことにした。日本の教育水準を低下させた元凶は文科省の役人とこれに影響を与えた組合(日教組)による。これに一枚加わったのがマスコミの偏向報道であった。「ゆとり教育」というバカな発想の提灯持ちしたのがマスメディアであり、学力偏重の差別教育よりも総合的人格完成教育などと叫ぶ組合に、教育という大事な日本人の根幹部分を虫食いにされてしまった。
 日本の教育をワヤにしたのは誰か。その反省に立って、かつて安倍内閣が教育基本法を設けた。国歌や国旗が国民の誇りとして表へ出たのはこの法律によるが、この法律に対して、当時の野党や日教組が猛反対した。教育基本法の国会通過に対する世論のリードについては、マスメディアは極めて消極的であり、むしろ野党寄りですらあった。
 例の「ゆとり教育」は識者がアホ教育と顔をゆがめるほどひどい政策だったが、報道陣は時勢のおもむくところ、と、むしろ推進派の肩を持った。
 学習能力が最高に発揮されるのは幼児から18歳くらいまでの成長期であり、掛け算の九九や英語のアルファベットのように繰り返し繰り返し称えることによって記憶の底に深く閉じ込められるのであり、英語などはリーダーを隅から隅まで暗唱出来るほど叩きこむことが上達の秘訣である。ドロンコになっても走り回るサッカーの練習と同じで、たゆみなく、訓練、訓練、勉強勉強で実力が加速してゆくのである。
 いま、橋下大阪市長の大阪維新の旋風で日本の古い政治や教育界、公務員環境に国民の眼を覚ましつつあるが、大阪府や大阪市が国旗、国歌の掲揚、斉唱を条例化したのは、見事な英断であるが、実はその種蒔きは安倍総理のときの教育基本法にあった。そのころ、これの実践にモヤがかかっていたのに、いま、平成維新の大阪からの発信で声が台風のように吹きまくり、その風圧の激しくなったのは、一にも二にも橋下氏の信念と勇気と実行力のなせるわざである。
 人間、口で、どんなによいことを論じても実行が伴わなければナンセンスである。橋下市長は大阪の教育レベルを高めるべく独自の共通テストを実施し、各学校別にその実態を数字化し、伸び盛りの子をぐんぐん伸ばしてゆく方針を語っている。
 ゆとり教育の公害でテレビ呆けしたり、ゲーム呆けしたり、遊び呆けに学力を低下させたこれまでの教育委員会や日教組の弊を除去することは言うべくして実行できない。不退転の維新の愛国の信念なくしてはかなわない。
 ついでながら、「長浜教育みらいフォーラム」が18日、長浜文芸会館で開かれるが、講師に東京学芸大客員教授・藤原和博氏が招かれた。民間人の初代校長として、東京都杉並区の中学校で画期的な成果をあげ、大阪府知事時代の橋下氏から教育分野の特別顧問を委託されている時の人。他にも高校校長として進学率を急伸させた教育熱心なパネリストを招くなど、極めて有意義なこのフォーラム。藤井長浜市長の企画力と実践力が評価されており、大いに期待したい。【押谷盛利】

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2012年03月06日

震災廃棄物の受け入れ(見聞録)

 6日の朝日新聞の朝刊見開きページに環境省の全面広告が踊った。宮城県石巻市の震災がれきの写真を全面に掲載し、「復興を進めるために、乗り越えなければならない『壁』がある」として、全国の自治体での災害廃棄物の受け入れに理解と協力を呼びかけている。
 東日本大震災の津波被害で岩手、宮城両県に発生した災害廃棄物はそれぞれ通常の11年分、19年分になる。両県は仮設焼却炉を造り、24時間体制で焼却しているが、とても対応しきれない。
 広域処理も、放射性物質の拡散を懸念する「壁」によって進まない。行き場を無くした廃棄物があふれ、被災地の復興が遅れる原因ともなっている。
 共同通信が実施した全国自治体アンケートによると、回答した市区町村の33%が「現時点では困難」、53%が「まったく考えていない」とし、計86%が難色を示している。
 受け入れに否定的な自治体は「処理できる施設がない」「放射性物質への懸念」「地理的に運び込みが困難」「処理能力を超える」「汚染を心配する住民の反発」などを理由にあげる。
 滋賀県や、長浜・米原両市のごみ処理を担う湖北広域行政事務センターも受け入れを検討していない。
 政府は2014年3月末までに処理を終える目標を立てているが、自治体の協力が得られなければ、達成は不可能だ。
 原発事故で放射性物質に汚染された福島県は県内で廃棄物処理を完結させる方針。
 岩手、宮城両県の廃棄物は、これまでに青森県や山形県、東京都が受け入れている。
 義援金、物資、ボランティアなど物心両面で被災地を支援する輪が広がり、「絆」という言葉が見直されたこの1年間。他方で、災害廃棄物の受け入れにこうも多くの自治体が否定的なことに、宮城県の村井嘉浩知事は「誤解に基づく反対運動が活発で、どの自治体も難しい判断を迫られている。これも風評(被害)と言えるかと思う」と口惜しそう(河北新報)。
 特に、受け入れの検討を表明した自治体には住民から非難や苦情が相次いでいる。しかし、その声は多数派なのか。声が大きいだけではないのか。
 被災地支援を求める声無き声に耳を傾ける必要もありそうだ。

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2012年03月05日

「ご退院」「退院」の敬語の差

 5日の大手の新聞は一面に大きく天皇陛下のご退院を報道していたが、一つ、気になることがあるので国民とともに考えてみたい。
 それは、敬語の使い方である。まず、大見出しの活字だが「天皇陛下ご退院」とあるのは産経のみで、他は朝日、読売、毎日、中日、京都各紙は「天皇陛下退院」となっている。
 「ご」がついているか、ついてないかの一字の違いであるが、この一字が決定的な重みと意味を持つ。
 このごろ、日本語の乱れがひどく、ことに漢字の知識が弱まっているので、これをテーマにしたテレビ番組が登場するくらいである。
 表現や漢字の間違いも正さねばならぬが、日本語の乱れのなかで案外見落とされているのが敬語である。
 大学生の求職活動のなかで、雇用者側が面接するのは普通だが、この場合、敬語使用についてどう評価するのだろうか。あらためて考えたい。
 分かりやすくいえば上司に対する言葉づかいが敬語であり、その反対に自己表現に関する部分は敬語を使わない。日常会話だけでなく、集会などにおける挨拶、講演、あるいは文章、手紙などにおいても敬語をなおざりにすることは許されない。
 世の中にはバカがいて、敬語使用を厳格にいえば、人権侵害の如く誤解して、人はみんな平等だから、敬語なんか時代遅れだとばかり、平気でぞんざいな言葉づかいをするヤツがいる。一つはテレビの悪ふざけや遊び番組の影響もあるが、敬語の乱れは秩序の破壊や組織内の規律、穏健さを欠く。
 常識的に判断すれば、今の体制に反発し、国家権力の仕組みを根本的に切り換えようとする考え。例えば、民主主義や天皇制(国王制)を廃して社会主義、共産主義の革命を望むものは敬語に反発する。敬語を使い慣れていれば、それに反発したり、敵意を抱くことがなくなるからという戦略が背景にあるからである。
 そういう意味では、日本の社会主義化を願う人、親中国、親北朝鮮の思想の持ち主の政治家はもちろん、マスメディアを含めて、教育者であろうと、国の歴史や伝統に背を向け、日本の悪口をことさらあばこうとする。
 日本人の日本叩きであるが、これを自虐という。こういう立場の人は、腹の中は天皇制否定であり、天皇陛下のことを決してよく思ったり、尊敬するということはない。
 天皇陛下は日本の元首であり、憲法では国の象徴、国民のあこがれのシンボルと規定している。理屈ぬきの一番大切な、一番尊崇すべき方だが、そのことは、例えば記事にする場合、敬語を用いるのが常識である。ところが、しばしば皇室のご動静、陛下に関する記事に敬語の無視を見ることがある。
 「陛下は、今後は御所で静養しつつリハビリを続けることになる」、「皇后さまは、ほぼ隔日で、病室に泊まりこんで付き添った」=5日付朝日。
 「陛下は当面は御所でリハビリしながら静養される」、「皇后さまは入院中の陛下を献身的に支えられた」、「心の和む音楽をかけたりされた」=産経。【押谷盛利】

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2012年03月03日

関西同友会のカジノ提言(見聞録)

 大王製紙創業家の御曹司がカジノに熱中したあげく、会社から55億円もの大金を借り入れ特別背任罪で起訴されている。マカオのカジノに入り浸り、1回の掛け金が1500万〜3000万円にのぼったという。
 金持ちがギャンブルで身を滅ぼす「お手本」を示したが、マカオのカジノにとっては、売上に大いに寄与してくれた上客だった。
 一夜にして莫大な売上を稼ぎ出すカジノは地域経済にとって魅力的な存在だ。その実現を目指し、関西経済同友会は2日、カジノを含む統合型リゾートを大阪湾岸の舞洲(此花区)に整備するべきと提言した。
 リゾートは、カジノ2カ所、ホテル1万室、商業施設300店舗、国際会議場などを6000億〜9000億円かけ整備し、外国人観光客を中心に年間300万人の来場を見込む。
 同友会の提言は、2010年にオープンしたシンガポールのカジノを手本にした。同国は日本と同じくカジノを禁止していたが、合法化してカジノを含むリゾート施設を2カ所にオープンしたことで、世界有数のカジノリゾートとして成功を収めた。売上は3990億円にのぼり、雇用は直接、間接合わせ5万9000人になるというから、その経済波及効果は大きい。
 この提言に対し、舞洲の土地の大半を所有する大阪市の橋下徹市長も「舞洲に統合リゾートが来れば、周辺施設が息を吹き返す。国の法律が整えば、真っ先に手を上げたい」と賛同している。
 カジノ構想については滋賀県議会や長浜市議会でも話題になったことがあった。琵琶湖に大型カジノ船を浮かべるプランを議員が提案した。県市は法整備、青少年への悪影響などを理由に「議論が必要」とかわした。
 日本は競馬、競輪、競艇といった公営ギャンブルに加え、365日オープンのパチンコ店があちこちにあり、世界でも稀に見るギャンブル大国だ。「大人の社交場」でもあるカジノだけが違法なのは不思議だが、既存ギャンブルの既得権益保護というのが理由であろう。
 昨年末、韓国ソウルを訪れた際、ヒルトン内のカジノをのぞいたが、ブラックジャックなどのテーブル席はどこも満席だった。他国のカジノ同様に中国人客が目立ち、庶民にはなかなか手が出ない高レートのテーブルを占拠していた。
 仮に日本にカジノリゾートが実現した場合、地勢学上、中国の富裕層が押し寄せることは想像に難くない。地域経済へのカンフル剤となろう。
 ただし、課題は多い。ギャンブル依存症や治安悪化は言うまでもなく、何より合法化のための法改正が難しいだろう。
 他方、カジノリゾート誘致の動きは世界で活発化し、ベトナムやフィリピンも名乗りをあげている。日本も踏み込んだ議論に入ってもいいのでは。

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2012年03月02日

お市と盆梅と道州制論

 道州制のことをぼくが書くと、「なぜ、今?」と素朴な質問を聞くことがある。
 憲法には「地方自治」が定められているが、それは形だけで、日本には事実上、地方自治はない。
 地方自治とは、地方の政治、行政は地方の住民に寄せるもので、地方が主体となる国の組織だが、日本は明治以来、役人(戦前までは軍を含む)中心の中央主権国家で、財政(国家の収入)はすべて国が握り、地方は交付金というアメや補助金というおしきせにぶら下がった。一にも二にも中央お大事に、ペコペコと東京参りが府県の仕事だった。
 そういう中央集権型政治で、経済界も各種団体も一世紀以上慣らされてきた。その膿を摘出して、時代にふさわしい合理化と小さい政府を、と考えたのが行財政改革で、そのなかでも一番のウエイトを占めるのは公務員改革だった。一口に公務員といっても、高級官僚もあれば労組に所属する職員もあり、長い労使の慣行やなれあいもあって、声はすれども実は上がらずで、政府の与党は変わっても実態は変わらない。
 日本の政治の行き詰まりと閉塞感の元凶は旧態依然たる中央集権型政治である以上、これを改めるには根本的な制度改革がなされねばならぬ。その根本的制度改革が、道州制であり、つらぬく思想は文字通りの「地方自治」の実現である。
 中央集権の国家権力は金を中央に吸い上げて威張るだけで、国民の幸せに通じるきめ細かい政策や府県の持つ特殊性、歴史、伝統を無視するひとつかみのモデル事業にあけ暮れする。それどころか、中央支配を強化するため、組織を複雑にし、休眠状態の部所をそのままにしながら、新しい役所を増やしたりする。中央政府は本来は司法、徴税と外交、防衛、教育、それに一貫した国土政策くらいで、他はすべて地方に委譲するのが本筋である。
 ぼくは「井の中の蛙大海を知らず」の教えの通り、狭い地域根性で政策を論じたり、進めたりしてはダメだと思う。
 例えば、身近かな市町村合併を見ても、長浜市を中心に、坂田を含めた1市12町が時運のおもむく正しい合併と思ったが、坂田郡の縄張りを意識した一部の指導者が、これを拒み米原市をつくった。結果的には随分バカげた話で、合併コースを歩みながら行政のムダを省くことにならなかった。
 教育改革にしても、県教委は時代の動きをキャッチして、高校の統合整備を計画しているが、一部の反対者は、母校の歴史や伝統にこだわって、長期的な子供の将来や教育上の実りに目をふさいでいるところが見え見えである。
 池を海にする先見性や視野の展開が望まれる。同様に関西を念頭に置く場合、つねに「滋賀」と「琵琶湖」にこだわり、県の枠、県境を出ようとしない閉鎖性が気になる。
 滋賀は国のヘソ部にありながら真ん中に琵琶湖があるため県土が狭く、産業は後進県だった。今日、人口が急増し県民所得が全国でも上位に位置しているのは、極端にいえば大阪のお陰である。大阪の経済力と産業が滋賀に及び、その労働力が滋賀をベッドタウン化したからこそ、今日の繁栄を見たのであり、京阪神なくして滋賀の繁栄はありはしない。
 ならば、大阪圏の一員として、高い視野から滋賀の将来を論じるのが時代に遅れをとらない県のリーダーや各市の首長、議員らの取るべき姿勢であろう。
 一つの例をあげる。長浜の盆梅といっても、世界や全国には通じないが、関西州の盆梅、大阪都の盆梅といえば、直感的に長浜が浮上する。江、三姉妹の大河ドラマは、長浜の地名で観光客を動員したのではなく、信長の妹・お市と浅井長政の小谷城が歴史ファンの目を射止めたのである。
 市町の壁を取り除いたように、ゆくゆくは府県の壁をなくするのが新しい近代的地方行政である。
【押谷盛利】

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2012年03月01日

きょうから火災予防運動(見聞録)

 今から85年前の1927年(昭和2)3月7日午後6時27分、京都の丹後半島北部を震源とするマグニチュード7・3の大地震が発生した。
 住宅の全壊は丹後半島を中心に1万2584戸にのぼり、死者2925人を出した。
 夕食の時間帯だったこともあり、風呂や台所では薪が燃え、居間の火鉢やコタツには炭火があった。
 建物はこれらの火種を抱えたまま倒壊したため、またたく間に炎に包まれ、建物の全焼は6459戸にのぼった。下敷きになった住民の多くが助け出される間もなく、焼死する惨事となった。
 特に旧峰山町(現・京丹後市)では住宅の全壊と全焼が97%に及び、町民の4分の1にあたる1103人が亡くなった。
 地震による火災の恐ろしさをまざまざと見せ付けた北丹後地震から3年後の1930年3月7日、その火災を教訓として、大日本消防協会が近畿地方で防火運動を実施した。日本で初めての本格的な防火運動の始まりだった。
 その防火運動は今に受け継がれ、きょう3月1日から7日までの1週間、全国で一斉に春季火災予防運動が行われている。
 スローガンは「消したはず 決めつけないで もう一度」。日ごろの火の用心の習慣を再確認し、▽寝たばこは絶対やめる▽ストーブは燃えやすいものから離れた位置で使用する▽ガスこんろなどのそばを離れるときは必ず火を消す—など、基本的な防火ルールを徹底したい。
 消防庁の統計(2010年)によると全国の建物火災2万7137件のうち、出火原因は多い順に「こんろ」4612件(17・0%)、「たばこ」2764件(10・2%)、「放火」2694件(9・9%)、「放火の疑い」1648件(6・1%)、「ストーブ」1444件(5・3)となっている。
 2月に長浜市内で発生した火災も、たばこやこんろが出火原因として疑われている。
 火災予防運動週間を機に、家庭で出火を誘発しかねない行動をとっていないか、日ごろの生活を見直したい。

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