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雪国の今昔と芭蕉の句

 「をりをりに伊吹を見てや冬籠」
 これは俳聖・松尾芭蕉の俳句である。
 長浜八幡宮の境内にこの句碑があるが、俳句に興味のない人は関心がないかもしれぬ。
 冬籠は冬ごもりと読む。深い雪に閉ざされて、雪除け以外にすることがなく、仕方なく家に籠もることをいう。
 家に籠もって何をするのか。男は縄ないや藁仕事。女は縫いものなど、日頃は多忙でかまっていられぬ衣服の修復などに精を出した。
 「をりをりに」は文語表現で、口語調。現代風では「おりおりに」。ときどきは、といった軽い調子は豪雪への「うらみ節」ではなく、はれた日の伊吹山を眺めて、「やれやれ、この雪もこれで少しは溶けるであろう」。あるいは「ああ、ありがたや、今日は畑へ出かけて大根でも掘りましょう」。といった淡い希望が裏打ちされている。
 雪国の人の雪をのろう声ではなく、雪を肯定し、雪と生活を共にする心境、言わば、先祖以来の大自然の掟に頭を垂れ、白魔というよりも、天の恵みとして半ば諦めの心境がこの一句に集約されている。
 これはどこにもある雪国風景で、この句の場合、芭蕉が弟子の家に招かれて句会を催したさい、たまたまの豪雪の体験を詠んだもので、近江の方から見た伊吹なのか、岐阜の方から見ての伊吹山かが、しばしば問題とされるが、豪雪の本場は関ヶ原方面、つまりは美濃の垂井や大垣方面の冬籠りと解釈する方が自然ではないか、と、ぼくは鑑賞するが、長浜八幡宮の境内の句碑を重く見る人は、これは湖北地方から眺めた伊吹山に違いない、と意地を張るだろう。
 ものの見方は、ひいき筋の主観に左右されることが多いが、文学はそういうところに屁理屈をこねるのではなく、作品がどんな環境で、どんな風景、どんな人心を表現しているのか、といった点が評価されるべきである。この句の場合、長浜で詠んでも、大垣で詠んでも、そんなことはどちらでもよい。大事なのは「冬籠」という運命的は環境と、信仰の如く崇められている伊吹山なのである。
 同様に京都方面の人は比叡山を眺めては季節を問わず、ある種の感慨に打たれるのである。それは比叡山と京都の歴史の関わりであり、比叡山の尊宗される仏教のメッカ性によるものである。
 あるいは和歌山、奈良方面の人が大峯山や吉野山に特別な思いやあこがれを抱くのも同様である。
 問題は今と違って、除雪の近代化のない、そして暮らしそのものが農に根ざす江戸期という時代の大雪と住民の姿の文学的短詩形表現の価値である。
 今日、このごろの北陸や湖北の大雪と晴れた日の伊吹を思うとき、昔日のわれわれの祖先の生き姿が想像され、今の世に生きる幸せをかみしめる思いである。【押谷盛利】

2012年02月03日 15:53 |


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