リンゴの唄と並木路子
歌は世につれ、世は歌につれ、というが、歌は唄っても楽しいし、聞いていても楽しい。年齢に関係なく、誰もが好きな歌、好きな歌手がいるはず。
プロ野球の新人が毎年期待され、高嶺の夢をみるが、そのうちの何人が一軍のレギュラーに定着するか、道の険しさは人生の険しさそのものである。
歌謡曲の世界だって同じである。美空ひばりのような不世出の天才は別格としても、長く名を留め、死後もなお愛され歌われる歌手はそう多くはない。
歌謡曲は作詞、作曲に恵まれることが大きな条件だが、なんといっても歌手の持つ人格と雰囲気、歌唱力が世に出るか出ないかのキーポイントであろう。その点でぼくが感心するのは戦争に負けた昭和20年、日本人の心に明るい灯を点した並木路子の「リンゴの唄」である。
敗戦の混乱に日本人の心は打ちひしがれていた。都市は焼野原になり、外地からの引揚兵、食糧難、闇市、占領軍にチョコレートをねだる子どもたち。そうした暗い世相を吹っ飛ばすごとく歌われたのがリンゴの唄だった。
「赤いリンゴに、唇よせて、だまってみている青い空。リンゴはなんにもいわないけれど、リンゴの気持ちはよく分かる。リンゴ可愛いや、可愛いやリンゴ」。
この歌は、戦後の日本映画の第一号になった「そよかぜ」の主題歌だが、作詞のサトウハチロー、作曲の万城目正が当時、松竹少女歌劇で歌ったり、踊ったりしていた新人の並木路子を抜擢した。
彼女は10年前の2001年4月、79歳で他界したが、70歳を超えてもリンゴの唄で全国を駆け巡り、晩年は各地の施設を慰問し、多くのファンを泣かせた。
彼女は歌手として登用されたとき、悲嘆のどん底にいたという。東京大空襲によって母を亡くし、父と兄を戦地からの帰還船の撃沈によって失った矢先である。監督から「明るく歌え、明るく演じろ」といわれても家庭的不幸からなかなか思うようにならなかったが、「リンゴの唄」のもつ生命感に勇気づけられるような不思議な力に少しずつ癒され、この歌によって希望を持つようになり救われたと、生前に述懐している。
映画はヒットしなかったが、歌は爆発的にヒットし、戦後最も寿命の長いレコードをつくり、「戦後50年スペシャル、究極の昭和歌謡史」のステージでナンバーワンにランクされた。
「いい歌というものは、すべて人を勇気づけ、元気にさせる力を持っている」、とは彼女の信念で、老人施設を慰問する場合、歌を通じて記憶を蘇らす効果や痴呆行動がある程度の期間少なくなったともいう。
車いすの人が彼女の歌を聴いて立ち上がり、数日間歩いたとか。拍手や手拍子ばかりでなく、立ち上がって指揮をとる真似、女性では歌に合わせてスキップを踏む人もあるとか。施設側の反応が歌の寿命の秘訣を物語っている。
この歌には一般には知られていないが、一番の歌詞が幻となり、改作されている。
最初の一番は「リンゴ畑の香りにむせて、泣けてくるよな喜びを、若さに濡れてるリンゴの瞳」だったが、「泣けて」という暗さや悲しみの言葉のないようにと作詞のサトウハチローが削除した、という。これは裏話であるが、作曲ともども「明るく、明るく」が歌の命に宿ったといえよう(禅と念仏社刊、季刊誌・禅と念仏創刊号参照)。【押谷盛利】
2012年01月13日 15:26 | パーマリンク
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