滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2011年12月27日

2011年の思いを綴る(見聞録)

 2011年の最後の滋賀夕刊のコラムは「見聞録」の当番となった。
 この1年を振り返ると、ニュースは東日本大震災一色だった。自然を前にした人間の無力さと、根拠も無く「安全神話」となっていた原発の危険性を目の当たりにした。小生も被災地で被害の規模に呆然とさせられた。
 湖北地域でも個人、団体を問わず、ボランティアや支援活動が盛んだった。今町や小谷丁野町などが自治会を挙げて支援したのは温かいニュースだった。長浜市社会福祉協議会への義援金は今月26日現在で1135件、総額は2億3900万1097円にのぼった。
 原発事故に湖北地域は無縁ではないことも認識した。若狭湾でフクシマ級の事故が起これば、湖北地域はどれほど汚染されるのか。琵琶湖の水は大丈夫なのか。原発のもたらす経済的恩恵と、自然の空気、大地とを、どう天秤にかけるのか。重大な問いを投げかけられた。
 さて、被災地の復興、原発事故の処理が日本の将来を占うというのに、国政は信じがたい程の迷走の繰り返しだった。菅氏では復興が進まないという理由で、野合と妥協の副産物として野田氏が首相に選ばれれば、大臣は大臣で失言、暴言で次々と入れ替わった。
 民主も自民も挙国一致の救国政権をつくることなく、政争に明け暮れた。
 そして、いつの間にか所得税と消費税の増税が既定路線になり、一方で2012年度予算は財政規律のタガを緩ませて大盤振る舞い。国民泣かせの増税も、結局は浪費—。
 民主、自民のふがいない政治に愛想を付かせた国民は、新たな政策集団を欲している。橋下氏の率いる「大阪維新の会」が先の大阪府知事選、大阪市長選で既存政党の相乗り候補を抑えて圧勝したのも、その表れであろう。
 来年1月には大津市長選がある。目立った争点はないが、30代の新人女性が国会議員経験もある現職に挑戦するのは、古い政治への決別を提示しているとも言える。また、来年は解散総選挙の可能性もある。今の国政の体たらくを繰り返さないため、もっと真剣に政治を見つめるべきだろう。
 湖北地域に目を転じれば、江・浅井三姉妹博覧会は全国から100万人を超える観光客を呼び込み、市民ボランティアのおもてなしの心が光った。これらの観光客が一過性なのか、リピータとなり得るのか、そこが問われるべき成果だ。
 湖北地域を大きく揺るがしたのは県教育委員会の高校再編計画だった。明確な理由が示されないまま長浜と彦根が統廃合のターゲットとなった。市長を先頭にした反対運動の結果、計画決定が先送りされたが、この湖北地域でどのような高校教育を県教委に求めてゆくのか、来年の大きな宿題となった。今春の入試で彦根東高から東大に合格した2人はいずれも長浜市内の中学出身だったことを明記しておきたい。
 今年のニュースを振り返ると、話題は尽きない。 トルストイは「最上の幸福は、1年の終わりにおいて、1年の始まりの自身より、遥かに良くなったと感じることである」と説いているが、読者の皆さんにとって2011年はどういう1年だったのだろうか。
 今年はきょう27日で筆を休めます。この1年、駄文に付き合っていただき、ありがとうございました。新年も頑張ります。

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2011年12月26日

そんな、こんなの年の暮れ

 雪国だから雪が降って当たり前と思いながらも、さて雪を見ると全身から熱を奪われるような冷んやりと浮かぬ気になるのは修行が足りないせいか。
 クリスマスの明けた25日の日曜日、朝寝の窓がいつになく白っぽく、気温のせいか肌が痛い。
 里山を2、3回白くすれば平地に雪が降るとは古老の言い伝えだが、年内雪なしという有り難い調子にはならないようだ。
 寒いといっていも氷点下ではないから雪そのものは水々しく重い。南天も夾竹桃もすっぽり雪を被って哀れなほど枝先や腰が曲がっている。
 降り足らぬのか、26日の朝も前日以上の雪景色。
 こんな重い雪にかかっては山の木はたまらない。伊吹の奥や伊香の山奥の杉林はさぞかし雪折れに悲鳴をあげていることだろう。
 雪が降れば雪籠もりというのが昭和の雪国の宿命だったが、平成の世は雪が降っても道はあけてあり、あちこちの田舎道でさえ融雪設備のお陰で車も人も通行に支障なし。雪道という嫌な名を払うように県や市は業者に委託して早朝のうちに除雪車を走らせるなどして、雪で遅刻や欠勤はあり得なくなった。結構なご時世である。人工雪でスキー場に客を招くところもあれば、伊吹の奥の甲津原のようにカマクラを作ったり、雪合戦のイベントで観光客を吸いよせるところもある。
 「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」は悠久の自然に比べて人間界のはかなさを詠んだ中国の古諌である。窓の雪を眺めながら年賀状を書いていると、あの人もこの人もと今は亡き故人の顔が浮かんでは消えてゆく。年々、賀状の数も減ってゆくが、それだけ、自分の生命力も薄くなってゆくのか、と思えば、一筆一筆の賀状が別れの信号のように思えて切ない。
 ぼくは相変わらず、明けても暮れても時評を書いているが、なぜか原稿用紙に向かっていると怠け心が退散して、ファイトの心がみなぎってくる。
 今年はデイサービスに通っている93歳の媼から声がかかって、彼女の関わりの施設で話をする機会に恵まれた。きっかけはその女性がぼくの時評を他の利用者に回覧して時評ファンの出遇いに高めてくれた。
 大阪市長選の投票前、市民がアホーでなかったなら橋下さんが勝つと書いたときは、あとで、この野郎とぼくを憎む投書があったが、逆に、トラキチで政治嫌いだが、ぼくの時評は大好き、という嬉しい便りも頂いた。
 そんな、こんなで一年ぐらいはアッという間の時間の速さ。ぼくが時評を書くのは今回が今年最後。しばらく年末年始の休みを頂いて、無い知恵は無いままにおつむの充電をと心がけたい。
 読者の御愛読を心から感謝し、新しい、いい年を迎えられんことを祈念してぼくの筆納めと致します。【押谷盛利】

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2011年12月22日

1年の終わりと菜根譚(見聞録)

 今年も残すは1週間余り。正月特大号の編集作業に追われながら、この1年の自分を振り返る。
 新年を迎えた当時は、この1年はこうありたい、こうあるべきだと自戒を込め、様々な思いや決意を固めたものだが、年末に近づくにつけ、この1年もまた惰性で時間を浪費し、成長しなかったと、自己嫌悪に陥る。
 そこに追い討ちをかけるように、最近、中国の学者が残した格言集というか人生訓に出会い、自分の未熟さにほとほと嫌気をさしてしまった。
 その学者というのは中国の洪自誠(1573〜1619年)。彼が残した随筆集「菜根譚」は江戸時代後期に日本に入り、加賀前田藩の儒者の和訳で広まった。今では和訳本がいくつか出版されているから、ご存知の方も多いかと思われる。
 「菜根は堅くて筋が多い。これをかみしめてこそ、物事の真の味わいが分かる」との一説から、名づけられた「菜根譚」。その和訳を紹介すると—。
 「思い通りにならぬからといって、くよくよするな。万事上手く運ぶからといって、いい気になるな。永く続く平安に心を許すな。最初にぶつかった困難にくじけるな」。
 「自ら反省する人にとっては全ての出来事は、みなその人の徳を養う薬となる。全ての責任を他に押しつける人は、心を動かすごとに、自らを傷つける。前者は事にふれて善行の端緒をつくり、後者はあらゆる面で悪事の原因を増やす」
 公職での戒め、家庭での心得も説いている。「役人にとって大切な言葉を二つあげよう。『公平を守れば正しい判断ができる』『潔白を守れば権威が生まれる』。家庭生活の中で大切な言葉を二つあげよう。『寛大な心を保てば皆の気持ちが和やかとなる』『つつましく暮らせば不自由はない』」。
 そのほか、「孤高を誇るな」とタイトルされた「山の頂には木も生えぬが、谷間には草木が生い茂る。激しい流れには魚も住まぬが、よどんだ淵には魚も亀も群れ集う。ひとりよがりな行動や、あせった考え方には誰もついてこない。君子として絶えず反省せねばならぬところだ」などの格言は、政治家や実業家に愛されている。
 何より気になったのは「優れた人格によって得た地位は山野に咲く花。放っておいても伸び伸びと育つ。功績によって得た地位名誉は鉢植えの花。ご主人の気持ち次第で植えかえられたり、捨てられたり。権力に取り入って得た地位は花瓶にさした花。見ているうちに、たちまちしおれる」。
 権力、地位、名誉、肩書きに固執するのは、昔も今も変わらないのだろう。言い得て妙な指摘だが、小生としては「縁あって得た地位」の行方を解く鍵が欲しいところ。その答えは自分で見つけるしかないのだろうが—。
 間もなく迎える新年の指南書、人生訓として菜根譚を大切にしたい。

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2011年12月21日

酒と踊りと女の日本史

 われわれは不思議の縁でこの世にいきているのだから生かされていることに感謝、笑って楽しく日を送りたいもの。
 日本人は神代の昔から笑いと音楽を、そして踊りと酒を喜んだ。
 伊勢に祀られているアマテラスが弟スサノオの乱暴な素行に愛想をつかし、天岩屋戸に隠れたため世界は暗黒となった。八百万の神々が対策を講じ、アメノウズメがストリップショーを見せたところ、音楽と笑いで大変な人気をよんだ。一体世間で、何が始まったんやろうかと不思議に思ったアマテラスが岩戸を少し開けて眺めようとしたところ、力のあるタヂカラが岩戸を思いきり引いてアマテラスを外へ出した。とたんに世界が光明と秩序を回復した。
 アメノウズメの踊りは現代日本のハダカショーの元祖であり、酒と音楽と踊りは日本の歴史に一貫して流れている。
 来年からNHKの大河ドラマに出てくる平清盛は、平家にあらずんば人にあらずと威張ったが、その綻びは女と踊りにあった。政敵・源義朝を破ったいきおいで、その妻・常磐御前をものにした。美しい彼女と、その踊りに迷った清盛は、ときわの息子・義経らを生かす条件で彼女にウンと言わせた。その結果、源氏は勢いを盛り返して、頼朝や義経が平家を滅した。
 色仕掛けの元祖は奈良朝後半の弓削道鏡であろう。女性の孝謙上皇の病を癒して、その寵愛を受け、大政大臣から法王に上りつめ、天皇の位に就こうとした。和気清麿の妨害で失敗したが、マラ一本の大勝負はユーモラスな昔語りである。
 明治維新は鎖国をやめて世界へ顔を出す画期的な革命だったが、新政府の頭痛のタネは外交上の負い目にあった。外国とのこれまでの条約はみな対等ではなく、外国人の犯罪者を日本が裁くこともできず、その他独立国として対面を損なう不平等な条約だった。これを是正する条約改正が新政府の最大の課題だった。そこで当時の指導者伊藤博文や山縣有朋らが鹿鳴館という国際的社交場を造り、井上馨外相を先頭に外国の貴賓を接待し、豪華な園遊会や舞踏会を催し条約改正の下準備をすすめた。酒と踊りと女をだしに本命の条約改正へ持ち込む手の込んだ流儀は天岩屋戸流そのものである。
 このほどぼくの読者から一人のファンと名乗って嬉しいハガキを頂いた。名前は「そこそこの虎吉・ゴッホのファンより」とあった。ゴッホのひまわりはぼくの大好きな絵で、虎吉といえば、ぼくもそこそこのファンである。
 75歳で片目。一つ残す目もルーペで拾い読み。趣味の絵も描けず、昔から政治は嫌い。滋賀夕刊のぼくの時評が楽しみの一つ。長生きして下さい…、とうれしいことがユーモラスに書かれていた。アリガトウ。【押谷盛利】

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2011年12月20日

将軍様の急死と報道(見聞録)

 北朝鮮の将軍様が急死した。テロや拉致などの蛮行を重ねた彼の死を、心の底から悼んでいる人はいるのだろうか。
 17日午前8時半に死去した情報は、まったく外部に漏れることなく、51時間後の国営放送で告知された。情報統制の徹底ぶりに、国営放送が伝える「悲しみに打ちひしがれる人民」も用意周到な演技なのではとの疑いも多いことだろう。
 きょう20日の朝刊各紙は、将軍様の蛮行を総括するとともに、日本と国際社会の対応を訴えた。
 読売は北朝鮮の不安定化を見越し、万全の準備を訴えた。「強力な指導者を欠いた状態では権力闘争や軍部のクーデターが起きる可能性を完全には排除できない。大量の難民が流出する恐れもある」と指摘。国際社会の警戒を呼びかけ、中国を中心とする国際社会が「拉致問題解明への協力を拒み、核兵器を保有したままでは、破綻した経済を立て直すことはできない。それを、北朝鮮の新指導部に明確に自覚させる必要がある」と締めくくった。
 朝日は「まず北朝鮮が対外協調にかじを切り替え、『常識の通ずる国』に変わらなければならない」と指摘した。最大の後ろ盾である中国、極東での存在感を増しているロシアなど各国が力を合わせ、北朝鮮と向き合うことを求め、「総書記の死去を契機に、拉致問題の進展を図る糸口をつかむ戦略を立てなければならない」とした。
 毎日は「核、拉致解決への転機に」との見出し。「20代の若者が破綻寸前の国家を順調に導いていけるはずもあるまい」と三男の指導力を疑問視し、中国をはじめ6カ国協議参加国に「万全の備え」を求めた。
 そして、産経は三男の新指導部に拉致問題の解決を求め、日本に対しては「権力の空白と混乱が広がった場合、食糧などを求める脱北者が増え、隣接の中韓だけでなく、海を越えて日本に殺到することも考えられる」とし、難民対策を講じる必要性を訴えた。暴発に備え、自衛隊を中心にした万全の防衛体制を敷くことも提言している。
 また、北朝鮮の体制変革のため、「自由、民主主義、価値観を共有する国が(中略)力を合わせたい」とし、他紙が北朝鮮政策で重視している中国やロシアをけん制しているのが出色。
 今年、北アフリカや中東では打倒独裁者の「ジャスミン革命」が吹き荒れ、チュニジア、エジプト、リビアで独裁政権が倒れた。ミャンマーでは軍事政権が民主化指導者のアウンサン・スーチーさんの軟禁を解き、国際社会との協調路線に転換しつつある。
 独裁からの解放が今年のニュースだったが、将軍様の三男は来年どんなニュースを伝えるのだろうか。

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2011年12月19日

高僧と画家の長寿漫歩

 医師・日野原重明さんの著した「100歳のことば100選(PHP文庫)」は長寿した有名人の言葉が面白く編集されているので、肩のこらないよう、おりおりに披露する。
 京都の清水寺の前貫主・大西良慶は1983年、107歳で没しているが、100歳のときNHKの記者・山下頼充さんに五つ子が誕生し、その名づけ親になったことは広く知られている。
 良慶は「よく食べて、よく働いて、よく眠ること」を信仰生活のモットーに掲げ、「いつ死んでも、ありがとうや」と悟りの境地に生涯を送った。
 天台宗の古い高僧・慈眼大師天海は1643年、107歳で死んでいる。徳川家康の帰依を受け、2代目秀忠、3代家光にも重用され、比叡山延暦寺の再建や上野の寛永寺の造営など功績をあげた。
 長寿の秘訣について次の言葉を残している。「長命は粗食、正直、日湯、陀羅尼、おりおり御下風あそばさるべし」。
 日湯は毎日入浴。陀羅尼は長文の長いありがたい呪文、御下風はおならのこと。
 このほか「気は長く、つとめは固く、色うすく、食ほそうして、心ひろかれ」とも言っている。
 永平寺の貫首だった宮崎奕保は2008年106歳で大往生。
 永平寺の貫首になったのは93歳だった。生涯肉食をせず、独身をつらぬき、現代の道元(永平寺の開山)といわれた。存命中に1万巻の般若心経を写経した。「ほめられようと、ほめられなくとも、時がくれば花が咲く。自分のやるべきことを黙ってやって去っていく」といい。「身体と心はひとつ。身体をまっすぐにすれば心もまっすぐになる」と説いた。
 滋賀県出身の日本画の長老・小倉遊亀は2000年に105歳で亡くなった。「求道精進」が制作に対する遊亀の覚悟で、花や果物を、また歴史人物を優美に描いた。県立美術館にもその多くが展示されている。「人間は齢をとると、老醜のみじめさを味わなければならない。でも梅の木は年老いてこそ美しさにますます深みを増してゆく」と語り、「梅のように生きたい」と好んで梅を描いた。
 画家で、話題の多いのは横山大観であろう。1958年、89歳で亡くなった。加山又造が「ほとんどの画家は画面のどこから筆を入れて、どこで終わっているかが見抜けるが、どうしても大観だけは分からない」といっている。
 大観や菱田春草の朦朧体は江戸時代以来の日本画をぶち壊したともいわれる。大観の酒好きは有名で酒につかりながら絵を描いたと伝えられる。東京・台東区下谷神社から拝殿の天井絵を頼まれた。快く引き受け、揮毫料を聞かれると、そんなものは要らぬから、大勢で両手で酒をぶら下げてこい、と、こんな調子だった。
 富士に取りつかれたように富士山を描き続けた日本画家の片岡球子はごく最近の人で、3年前の2008年、103歳で亡くなった。一年中、春夏秋冬、100回も200回も富士を眺め、それも山梨県から眺め、静岡県から眺め、神奈川県から眺めるなど四季おりおりのあらゆる姿の富士を写生し続け、一目見て、これは球子の富士と分かる特徴的な絵だった。
 「もうお前いいよ」と富士が言ってくれるまで描き続けます、と言っていた球子は富士山と同様日本一の画家かもしれない。ぼくも球子が大好きで、その展覧会には感動して立ち去りかねた思い出がある。
 画家というのは自然にふれて心がおおらかなのか、長寿している人が多い。日本画の奥村土牛もその一人で、1990年、101歳で没するまで描いた。「描きたいと思った対象なら、人物、風景、動物、花鳥、なんでも失敗をおそれずぶつかってゆきたい」と、これは芸術院会員になったときの感想。「無難なことをやっていては、明日という日は訪れて来ない」。この言葉を知ると穴があったら入りたい人がごまんといるのでは。なにしろ世間の多くは無難に、楽して、お茶を濁したい連中ばかりなんだから。(PHP社刊「100歳のことば」参照)【押谷盛利】

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2011年12月17日

クリスマスの起源(見聞録)

 12月25日のクリスマスまで1週間あまり。神の子イエス・キリストの生誕を祝う日として欧米では神聖視されているが、日本では商業主導のプレゼント交換行事として定着している。
 12月に入ってからは新聞にブランド品の広告が掲載され、折込チラシにはプレゼント用の玩具の宣伝。ラジオからクリスマスソングが流れ、街中にはイルミネーション。クリスマス気分を盛り上げている。
 冒頭、クリスマスを「キリストの生誕を祝う日」と記したが、起源はそうでないらしい。
 中世のクリスマスツリーの再現を研究している安土城考古博物館によると、クリスマスの時期は太陽の力が最も衰える「冬至」にあたり、その太陽の復活を祈る行事が起源だという。
 クリスマスの風習が始まったとされる4世紀初頭、ヨーロッパのキリスト教圏では1月5、6日頃がクリスマスだった。日の出の時間が年間を通して最も遅い時期にあたり、太陽の復活を祈願したそうだ。一方、キリスト教を信仰しない土着の宗教世界では、12月25日が太陽神を祀る特別な日とされていた。この頃は、昼の時間が最も短い「冬至」にあたり、同じく太陽の復活を祈った。
 現代のように暖房器具や豊富な食料のない当時のヨーロッパでは、寒さの厳しい冬は生死に関わった。人々が太陽の復活、春の到来を心から祈願したのは至極当然のことだろう。
 では、現代のようにモミの木を飾り付けるようになったのはいつの頃からなのか。
 これも安土城考古博物館が解説している。
 6世紀頃、ドイツでは冬至に森から常緑樹の小枝を切り出して家に飾る風習があった。これは冬至に限らず、新年や収穫祭、結婚式、棟上式など、新しい門出で行う風習だった。
 この小枝の風習とクリスマスが徐々に融合し、15世紀には常緑樹を切り出して飾る風習が定着した。ただ、その風習が過熱し、次々と森の木が伐採されたため、木の長さ規制や禁止令が出された。
 16世紀になると、切り出した木に様々な飾り物をつるすように。ホスチア(ミサ用のパン、薄いクッキー)、ブレッツェル(輪のようなパン)、リンゴ、木の実など、いずれも当時のドイツで食べていた物だった。太陽の復活祈願に加え、豊かな実りも祈った訳だ。
 現代のような電飾ツリーは、マルティン・ルターが、木の枝越しにきらめく星を見て、ツリーにロウソクをつるしたのが始まりと伝わっている。
 なお、同博物館では当時のツリーを復元し、玄関ホールで展示している。

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2011年12月16日

99歳の日本人への遺言

 日本映画界の巨匠で最長老の新藤兼人監督は今年99歳を迎えるに当たり、戦争への反省を求めた「一枚のハガキ」という映画を作り、8月に公開された。
 監督は昭和27年に後の妻となる乙羽信子(故人)を主演に「原爆の子」を発表して以来、大手の映画会社が取り上げないため自らの信念に基づき自主製作を続け、いわゆる商業主義に妥協しない硬骨漢として知られている。
 「一枚のハガキ」は監督が若い日、召集にとられた苦い兵隊体験からヒントを得た戦争告発映画ともいえる。
 「今日はお祭りですが、あなたが、いらっしゃらないので、何の風情もありません」。
 これが一枚のハガキの文面で、このハガキを胸に兵隊はフィリピンに送られたが戦死する。現実には「一枚のハガキ」は農民兵とともに海に消えたが、映画では生き残った新藤さんの手元に残され妻に届けられるというフィクション。
 この筋書きには、新藤監督の若き日の兵隊と生き残った奇跡に近い不思議な運命が背景にあり、しみじみと人生の運、不運と、生きることの尊さを感じさせる。新藤さんは昭和19年(1944)3月28日、31歳で、召集令状を受けた。松竹大船の脚本部員だった。
 氏は20歳のとき、兵隊検査を受けたが体が小さく弱かったから両種合格で、召集されることのない予備軍だった。
 召集によって広島の呉海兵団に入り、100人の部隊仲間とともに奈良の天理教の施設へ送られた。海軍飛行予科練生が入ってくるので、その前に施設を掃除するのが任務だった。1カ月がかりで任務はすんだが、それからあとの仲間の行き先に天国と地獄が分かれる。
 100人の行き先について上官がくじを引くことになった。そのうちの60人がフィリピンのマニラ陸戦隊へ行くことになって輸送船に乗せられたが、着く前にアメリカの潜水艦にやられて全員が戦死。残った40人のうち30人が再びくじで潜水艦部隊に配属されたが、これまた全員が戦死した。残ったのは新藤さんを含めて10人となり、兵庫県の宝塚に送られ、宝塚歌劇団の建物の掃除をやらされる。また、くじで、10人のうち4人が海防艦の機関士となり、これまた戦死。そこで戦争は終わり、当初の召集兵100人のうち6人だけが生き残った。新藤さんはその6人のひとりという喜びとともに生き残った命なんだからとの気負いで再び松竹大船の脚本部で仕事に没頭した。
 新藤さんは97歳になって、いよいよ最後が来たな、それなら、長いこと自分の肩に重くのしかかっていた問題を取り上げようと決心した。それは死んだ戦友のことである。100人の部隊のうち94人はどうやって死んだか、フィリピンに向かった60人は鉄砲を撃つこともなく、目的地に着く前に敵の潜水艦にやられて海底へ沈んだ。こうした94人への思いが膨らみ、お前は黙って死ぬのかという自問自答を繰り返した。だからこれが最後だという映画を作った、と語っている。
 一人の兵隊は後方の家族とつながっており、94人の死はそれぞれの家庭を全部破壊した。ぼくらは二等兵だったからそのことに気がついた。軍隊の最下位から見ると、命令する人と命令されて戦争なんてよく分からず前線で死ぬ人の違いがよく分かるのです。命令どおり死ねといわれれば死ななきゃならない兵隊の立場を、戦争を遂行する人は気がつかないですよ。この気持ちが「一枚のハガキ」にこめられており、新藤さんの「99歳の日本人への遺言」となった。(文芸春秋・9月号参照)【押谷盛利】

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2011年12月15日

長浜市民へお礼の手紙(見聞録)

 長浜ライオンズクラブ(伏木与司夫会長)が11月下旬に市民から募った近江米を、東日本大震災の被災地、福島市内の仮設住宅に届けたところ、被災者の1人からお礼の手紙が届いた。
 福島県内では福島第一原発事故に伴う放射性物質の拡散、農作物汚染で、新米の流通量が減少している。これを聞きつけた同クラブが「おいしい近江米を届けようプロジェクト」を企画し、市民に近江米の提供を呼びかけたところ、会員の用意した分と合わせ計4㌧が集まった。
 12月2日から3日にかけ、被災地を訪れ、現地のライオンズクラブの案内で、福島市内の仮設住宅へ届けた。
 同クラブは「被災地でお米の安全性が不安視されている中、このように安心安全なおいしい近江米をお届けでき、大変意義のある支援になった」と振り返っている。
 さて、長浜ライオンズクラブに届いた手紙。福島市内の仮設住宅に住む83歳の女性からだった。
 「近江米の新米を頂戴し、感謝の心でいっぱいです。今、住んでいる仮設住宅は196戸建っています。周りの皆さんと顔を見合わせる度に、滋賀県から近江米が届くなんて、なんと有難い事でしょう。こんなにも福島を思って頂けるなんて有り難い事だと笑顔を交わしております」と綴っている。
 女性は海岸から500㍍にある浪江町の83戸の集落で暮らしていたが、地震と津波、放射性物質による汚染で、全員が着の身着のままで逃げ出した。
 地震直後、女性の長男(64)は長年、「町の役」をしていたことから、家族が大声で引き留めるのを振り切って、海の方向に向かい、それきり帰らなかった。
 浪江町は福島第一原発から10~20㌔程の距離にあり、住民は県内の複数の自治体に設けられた仮設住宅でバラバラになって生活している。役場も二本松市に臨時移転している
 手紙の女性も震災前は家族8人で暮らしていたが、今は仮設住宅でバラバラとなっている。「故郷を思い出しては涙…、息子を思い出しては悲しみ、もう9カ月が過ぎました」と今に続く悲しみを吐露している。
 手紙は「頂いた近江の新米を霊前に供え、今は亡き息子に、長浜ライオンクラブの皆様、長浜市民の皆様方のご厚意をお話しさせて頂きました。仮設住宅に住んでいる方々皆同じ思いです」と締めくくっている。
 手紙を受け、長浜ライオンズクラブの会員は「まだまだこれから長い支援が必要。今後も奉仕精神に則り、支援活動を展開したい」と語っている。

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2011年12月14日

負荷があなたを強くする

 ここ数日、ぼくの頭から消えない言葉に「負荷」がある。なんで負荷なのか、どんなときに浮かんだのか、思い出そうとしても雲をつかむようでさっぱり要領を得ない。
 負荷は読んで字の如く荷物を負うことである。ぼくの少年時代は山家暮らしだったから雪の降る前の今ごろは雪籠もりに備えて薪の採取や落ち葉拾いが日課だった。
 薪といっても柴山へ刈り取りにいくほどの力はないからせいぜい近くの山へ入って落ちている木の枝を拾うくらいだった。落ち葉は火のたきつけ用に杉や松の葉をかき集めて、かますにつめ込んだ。
 背負い切れないほど薪や枯葉の荷ができると、これをセタ(背板)にくくりつけて、背中に負って家へ帰った。荷物を負うのだから文字通り負荷であるが、それを負荷と言わなかった。
 徳川家康は人生は重い荷を負って坂道を上がるようなものだ、と語ったというが、できすぎているので、後の世のだれかが箔をつけるため作ったのだろうと思う。
 落語ではないが、昔からよく言われるのに「売り家と書く3代目」の話。
 2代目は初代の勢いのおもむくまま、少々のぼんくらでも潰れることはないが、3代目になれば初代の名声や信望は消えてゆく。えいとこの坊ちゃん然として浮いたか瓢箪。苦労なしの人生だから、雨や嵐に抵抗力はなく、厳しい世渡りを克服する術を知らず、ちょっとの寒さですぐ風邪をひく。だまされもするし、人を過信して穴に落とされたりと、とどのつまりは家も土地も長年実績を誇った企業の看板も売り払うことになる。売り家と書く3代目の悲劇である。
 昔の人は、めいめいの子を立派に世に送り家門の誉れ第一の出世を願った。そのため子どものときから「他人の飯を食わせ」といった。家の飯は父母の愛が籠もっているから甘い。人生は甘いものではないから他人の飯の針を経験するがよい、という遠大な計らいであろう。
 また「若いときの苦労は買ってでもせよ」と教えた。苦労することはお金の問題にしろ、仕事にしろ、人間関係にしろ、学問や稽古ごとにしろ、その人間を土台から鍛えてゆくことになる。一心込めて一筋に修行し精を出すことが人生途上の大成の肥料である、との先人の体験から出た言葉であろう。
 ここにいう苦労、困難が負荷といえるのではないか。言葉を換えれば、負荷は健康の一里塚であり、長寿の秘訣ともいえるのではないか。人間は2本足で歩く動物であるが、頭や胴体、腰を支えているのは足である。足の負荷は宿命であるが、それがしんどいからといって、人におんぶしてもらったり、車に乗せてもらったりいわゆる足の楽ちんを考えていれば足は弱くなる。足の骨折で長く入院すれば高齢者は歩けなくなるし、なかには痴呆になることもある。足の負荷の重みである。お腹の胃は燃料を消化したり、血液製造の大事な臓器であるが、口にうまいからといって、やたらに酒やビールを流し込んだり、胸がつかえるほど食べものをとると、胃が悲鳴を上げる。負荷しきれないからである。
 一人前になっても親に負荷させているドラ息子がいるが、健康な人が生活保護を受けているのは個人の命をお国に負荷させているようなもの、大ペケである。【押谷盛利】

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2011年12月13日

結婚はご縁と勢い(見聞録)

 一昨日の日曜日、北ビワコホテルグラツィエで豪華な結婚披露宴が開かれた。
 新郎は有村治子参院議員の弟で、秘書を務める有村国知さん。有村さんの父親は元県議、兄は現職県議という政治家一家。新婦は湖北・湖東で倉庫・物流業、自動車教習場、ホテル、レストラン経営など幅広い事業を手掛ける「新木産業」・田中健之社長の令嬢、田中良枝さん。
 出席者は親族や友人のほか、国会議員、県会議員、企業の社長、金融機関の役員など、県内の政財界の重鎮が夫人同伴で顔を揃え、稀に見る盛大さ。新郎、新婦及び、両家の家柄が代弁されていた。
 料理のコースは豪華にして繊細で、ワインはソムリエの田崎真也さんが自ら選んで紹介した。「今日は飲まない」と宣言していた小生の細君はすぐさま方針転換し、最初から最後まで料理と共にワインを楽しんでいた。
 この披露宴の心地良さは、料理やワインだけではなかった。あれだけの重鎮が出席しながら、祝辞や来賓紹介などの堅苦しい「儀礼」が無く、出席者に「心ゆくまでコース料理とワイン、歓談を楽しんで」との両家の心配りが光っていた。
 乾杯の前の鏡割りは、来賓から女性のみを選んで行われ、華やかだった。
 さて、披露宴では2人の馴れ初めから結婚までの歩みが簡単に紹介された。出会いと同時に惹かれ合い、デートを重ねて、1年も経たないうちに、とんとん拍子で結婚へと行き着いた。
 結婚というのは「ご縁」と「勢い」なのかもしれない。
 その宴席に出席していた藤井勇治市長。先日、小欄で紹介した「街コン」に興味を示し、「詳細は後日」ということになった。
 独身男女の出会いの演出と地元飲食店の活性化の一石二鳥イベントがひょっとして長浜で実現するかもしれない。というのも、先の長浜市議会の一般質問で、杉本敏隆議員が「結婚推進課」の設置など、市に「婚活」を応援するよう求めたところ、消極的な答弁の担当部長に代わって、藤井市長は担当者の配置を検討すると語り、婚活支援に積極的な様子だった。
 独身男女の「ご縁」を演出し、出会いや交際、そして結婚が盛んになれば、長浜の活力となること間違いない。この湖北地域で新郎・新婦の笑顔に出会える、そんな取り組みに期待したいところ。

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2011年12月12日

エコと省エネ問題に関し

 このごろはアホの一つ覚えのように「エコ」という言葉が流行している。
 エコといえば時流に沿って世の中に貢献している、と羊のようにおとなしい人々をごまかしているのが商品開発の魂胆であり、行政の見え見え政策である。
 エコはエコマークで知られる通りエコロジーの略であり、資源の再利用による商品や環境保全型の商品などによる自然環境保護運動である。分かりやすくいえば人間も自然の一員であるとの、視点から人間生活と自然の調和を考え、それを実行することである。
 もっと突っ込んでいえば、自然に反しない生き方である。
 地球の温暖化をめぐる京都協定が国際舞台でもめているが、温暖化の元である化石燃料を最も多く使っているアメリカと中国がこの協定に参加していなかったから、京都協定にはもともと無理があった。それでも国際問題として地球の温暖化防止へ世論を高めた意義は評価されよう。
 個々の立場から省エネをどう推進するかが一つのテーマであるが、いうことは立派でも実践が難しい。何度まではストーブを点けないとか、室温が20度を越せば暖房をオフにするとか、窓に日の当たる部屋は適温に加減するとか。どこまでエコに取り組んでいるかは疑問である。
 ぼくは社員が暖房器を設けてくれているので感謝しているが、いまのところ、まだ使っていない。部屋の温度が5度くらい下がったときは使用しようかと思っているが、今年はわりかし温かい。
 ぼくの気に入らないのは、エコといいながら酒、酢、醤油などのガラスや陶器製の容器を再利用しないやり方である。牛乳などは紙パックを利用しているが、なんでもかんでも使い捨てを美徳とするやり方には自然保護の上から賛成できぬ。
 生活の話になれば家庭の主婦の領域かもしれないが、生ゴミの使い捨ても気になるし、毎日の料理や汁ものの残りを水道に流したり、ゴミ化するのももったいない話である。
 例えば味噌汁にしても資源の味噌やだしが使われているのだから最後の汁でも捨てずにとことん口に入れるべきである。
 車の使用はガソリンで空気を汚すというので通勤距離に応じて制限する案が叫ばれたが、役所、企業でどれだけ実施しているか。これは料理の問題だけではない。歩くことによって健康保持に役立つからである、
 このごろは大都市の老人の方が田舎の老人より足腰が丈夫だという。それは地下鉄やバスの利用で歩く機会が多いからだ。例えば地下鉄を毎日利用すればいやが応でもあの長い階段を上り下りしなければならぬ、と、なれば歩くことは最も手近なエコである。
 電化製品を筆頭に、現代は省エネ製品や省エネ流が生活の隅々にまで浸透しているが、手や足を使わぬやり方、こまめに料理をせず、加工食品にゆだねるやり方は、手、足、頭を使わぬかもしれぬが、その逆に体力を弱め、添加物などの影響で健康障害の因となる。人間が医療の世話になり、クスリ漬けになることはエコに反することを知らねばならぬ。
 いかに反自然の生活をしているのか。お互いに反省したいと思う昨今である。【押谷盛利】

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2011年12月09日

戦争体験と戦後の復興

 日本が太平洋戦争を始めたのは昭和16年(1941)12月8日だから、まる70年を経過する。
 真珠湾攻撃やマレーシア攻撃で勝った、勝ったと大騒ぎしていた翌17年、日本上空をアメリカの飛行機が偵察した。東から西へ列島を縦断してそのまま無傷で中国大陸へ消えた。
 ぼくはこの年、大阪の扇町二商に通っていたが、国語のN教師が「なさけないこっちゃ、先が思いやられる」と日本の防空体勢の貧困をもらしたことがある。あんに、こんなことでは戦に負けると予言していた。
 それはそうだろう。日本の飛行機は抑撃しても落とすことはできず、高射砲は弾は射っても敵機に届きもしなかった。
 敗戦の年の初春だった。ぼくは広島の宇品近くの島で暁部隊に所属していた。何も知らない兵隊が即席の電工技術の講習を受けていた。その矢先の昼頃、空襲警報で近くの山へ避難した。パンパンと高射砲の音がしたが敵の飛行機は人の顔が見えるほど近かったが、弾は当たらず、そのまま広島の方へ去っていった。
 戦争の終わる1週間くらい前だった。ぼくは九州の唐津の近くの山で穴掘りをしていたが、徹夜勤務の代休をとって町へ遊びに出た帰り道、敵の飛行機に見つかって機銃照射を受けたことがある。あわてて近くに停まっていた貨車の下へもぐり込んで助かったが、青くなったことを覚えている。機上の米兵の笑い顔が見えたくらいだから随分地上近くを飛んでいた。
 もうそのころは日本の空は空き屋みたいなものであちらさんのなさっしゃる通り、踏んだり蹴ったり、手の施しようもない状態だった。それでも陸軍は竹槍で国土を守るといきまいていたが、無謀を通りこしてムチャクチャの破れかぶれだった。もし、陛下が決断されず、あのまま戦を続けていたら、日本はどうなっていただろうか。海岸は海と空から爆弾を雨と嵐のように受け、各地に米軍が上陸する。国土を守る軍は旧式な砲や銃で刃向いもならず、竹槍を持たされた女性たちはみすみす死ぬばかりで、国民は悲鳴をあげながら山へ逃げたり、戦死するばかりだった。戦を止めるべく奔走した衆議院議員・中野正剛は憲兵に追われ、身の危険が皇族方に及ぶのを心配して割腹自殺したが、軍と政府はその葬儀さえ、国民に知らせることを禁じた。原爆はもちろんのこと、日本の大、中都市は敵の飛行機の爆弾投下の訓練場にされたことであろう。国民は夜は灯火管制で電気の明かりが外にもないよう電球を黒いものでおおったり、消した。そんなことお構いなしのしたい放題の米軍機だった。
 結果的には全土焦土に近い負け戦だったが、日本人は器用というか、勤勉というか、戦後の食糧難を克服して戦後5年も経たぬうちに復興した。
 その忍耐力、奮起心、塩と水で生き延びて奇跡の復興から世界の経済大国に立ち至らしめた先輩の苦労を偲び、その健闘を称え、併せて神仏のご加護に感謝するばかりである。【押谷盛利】

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2011年12月08日

長浜でも街コンを(見聞録)

 晩婚化・非婚化と、それに伴う少子化は国力の衰退につながりかねない。そんな危機感からか、7日の市議会一般質問で杉本敏隆議員が市役所に結婚推進課なり、結婚推進支援室を設けてはどうかと提案した。
 このままでは少子化が進展し、2050年に日本の人口は1億人、2100年には今の半分の6400万人に減少すると指摘している。
 非婚・晩婚化の背景について、非正規労働、派遣労働などの不安定な労働環境、少子化の背景について育児・保育環境の不十分さなどを挙げながら、お見合いネットワークを持つ「世話焼きおばさん」が少なくなったことも一因に挙げた。
 そのうえで、結婚相談業務を、農家の後継者対策の観点から農政課が担当していることについて「時代にそぐわない」とし、担当課の設置や、全市あげて出会いの場の創出などを求めた。
 担当部長の反応は、民間業者がお見合い相談や出会いイベントを開催しているとして、消極的なものだった。
 さて、各地で結婚を応援する企画が盛りだくさんだが、「街コン」という言葉をご存知だろうか。
 自治体や商店街などが主催し、出会いの場の創出と地域活性化を目的とした大規模な合コンのことだ。街や飲み屋街を舞台にグループで食事やお酒を楽しみ、異性との親睦を深める。参加費を支払うと、街コンに参加するお店を自由に行き来でき、飲食できる。都市部では1000人規模の参加があるという。
 街コンの魅力は異性同士の出会いを演出できるだけでなく、飲食店にとっては若者に来てもらえる機会ができ、新規顧客の開拓につながる。
 長浜なら黒壁界隈など旧市街地が街コンの舞台にうってつけ。一般的な居酒屋のほか、フランス、イタリア、韓国料理、焼き鳥、バーなどが揃い、新しい飲食店も次々とオープンしている。湖北地域の若者が旧市街地に集い、絆を深める良い機会となるだろう。
 商店街なり、飲食業組合なり、市、商工会議所なりが手を携え、街コンを企画しても面白いのではないだろうか。

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2011年12月07日

12月8日、ぼくの戦争体験

12月8日は、日本人にとっては何となく、うしろめたい陰鬱な日である。
 海軍の特殊潜航艇が真珠湾を攻撃して太平洋戦争を始めた日である。今から60年前の昭和16年のこと。
 敗戦の8月15日は痛恨の記録や思いとか悲しみがマスメディアを飾るが、12月8日は引け目感じるのか、バツが悪いのか、新聞やテレビがあまり大きく取り上げない。
 戦争の記憶は日日に薄くなり、体験者はだんだん減ってゆくが、勝った方も負けた方も多くの犠牲者と物資を消滅し「よかった」ということにはならない。過去の例を教訓として世界の政治家はいかなる場合も戦をしてはならないと腹の底から誓ってもらわねばならぬ。
 ぼくは兄と、いとこを支那事変で亡くし、太平洋戦争では小学校の学友10人が戦死している。ぼくは運がよいというのか、神さまが寿命を与えて下さったのか、兵隊にとられはしたものの外地へ征くことなく、無事復員することができた。
 昭和19年に京都の伏見の16師団・野砲部隊に入った。計画ではフィリピンへ派遣される予定だったが、もう船がなく、軍の作戦は内地で敵を防ぐ守りにあった。このため、鳥羽の海岸の陣地構築にやらされたり、九州の佐賀の海岸で、敵艦に体当たりする一人乗りの特攻船の格納庫造りなどをやらされたが、所詮は竹槍のたぐいである。ぼくが入った伏見の野砲隊には明治時代の古い野砲があって、これを手動で訓練したが、後にこれを練兵場に移して高射砲代わりに空へ向けた。こんな古い代物で高空をゆく敵機が落とせるのかと半信半疑だった。
 敗戦の年の20年7月、ぼくら各地から集められた兵が暁部隊を編成し軍の防衛作戦に取り込まれたが、銃も剣も弾丸もなく、お粗末な装備で、多くは防空壕掘りなど土方まがいの日常だった。ぼくの所属していた中隊は広島原爆の2週間前に九州の佐賀県・唐津の山奥へ派遣された。あのまま広島にいれば、市中の中心、修道中学(当時)を営舎としていたから全部爆死するところだった。
 大学のぼくの友人で一人は海軍の特別幹部候補生として少尉に、もう一人は陸軍の航空特幹将校になっていたが、乗る飛行機がなく、外地へ征くもならず、無事復員した。昭和18年以前に入隊したものはフィリピンや沖縄で戦死している。
 運・不運もあるが、飛行機も軍艦も戦車も砲も弾もなく、その上、石油、ガソリンのないないづくしで、戦争を続けた軍の指導部の気の狂いに腹が立つ。【押谷盛利】

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2011年12月06日

舞台は世界に、回転寿司(見聞録)

 家族で気軽に食べられる回転寿司。安さを売りに複数の大手チェーン店が全国で店舗展開し、長浜市内でも週末はいつも順番待ちの行列が出来ている。
 回転寿司の魅力は手軽さであろう。カウンター越しに板前と対面する昔ながらの寿司店は高級なイメージがあり、財布を確認してから出掛ける覚悟が必要だが、回転寿司は1皿100円の低価格も珍しくない。
 大阪で誕生して半世紀。寿司を回すという遊び心と、最近の低価格路線ですっかり庶民の味として定着したが、今度は海外に打って出るチェーン店が増えている。
 きのう5日には、「スシロー」がソウルに海外1号店を出した。平成30年までに韓国内に80店舗の出店を見込み、中国への進出も検討するという。
 「かっぱ寿司」はすでに韓国に5店舗を構え、今後100店舗を目指す。
 「無添くら寿司」は一昨年、アメリカに上陸した。衛生面にうるさい同国の洗礼を受け、皿に蓋をかぶせる配慮がなされており、アメリカで成功すれば、ヨーロッパなど他の先進国への進出の足がかりとなろう。
 一方、回転しない一般的な寿司店はすでに世界の国々で市民権を得ており、主要な都市では必ず見かける。
 米、魚、海苔、野菜を使うことからヘルシーとされ、その盛り付けがオシャレとされる。
 以前訪れたイスラエルのテルアビブで、「寿司バー」なるところを訪れた。日本人に最先端の寿司を体験してもらおうという現地の友人の計らいだった。案内されたバーは薄暗い店内、大型モニターに写されるビュージックビデオ、大音量の音楽、色とりどりのカクテル―と、何とも落ち着かない空間だった。
 オシャレでヘルシーな食べ物として、流行に敏感な若者の注目スポットとなっていたが、味は日本人にはイマイチ。寿司を握っていたのはフィリピン人やタイ人など東南アジア系だった。
 イスラエルの若者が器用に箸を扱い、醤油とわさびの味を受け入れていたのが新鮮な感動だったが、値段はイスラエルの物価にしては高価だった。
 中東の若者が夢中になる程、世界に浸透した寿司には、高級品とのイメージもまた定着している。
 果たして回転寿司はそんな高級イメージを打破し、海外でも庶民の味方となりうるのだろうか。小生としては、新鮮な生魚を扱う寿司は、繊細な技術と心配りを持つ日本人独自の食文化と自負していたいのだが。

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2011年12月05日

日野原さんの長寿の秘訣

 希有の長寿者・医師・日野原重明さんの「100歳のことば」を紹介したが、この本のなかで、日野原さん自身が若々しい言葉を書いている。
 2005年(H17)、氏は文化勲章を受けている。94歳のときである。報道陣から感想を聞かれた氏は「きわめて壮快な気分です。でもこれからが本番です」と答えている。
 94歳の身が「これからが本番」と言い切る自信と前向きの心境に圧倒されるが、「今度百歳になってこの本を著すに当たりこれからがさらに、本番」と語っている。よぼよぼの百歳や寝たきりの百歳とはケタが違う。
 以下、この本の中にある日野原さんの言葉を抜粋する。
 「寿命は長ければ長いほどよいわけではない。めいめいが与えられた寿命は、めいめいが自主的に生き甲斐を持って使える時間でなければならない」。
 氏は小学生のころから病身で、大学1年では結核性胸膜炎で1年間休学している。自信のない健康だったが神様から寿命を頂いたと思い、以来、時間の大切さを自覚し、医師以外の仕事にも積極的に関わるようになり、その場その場の感動が積極性と好奇心を招くとも語る。
 「最後のステージには、勇気と行動力が必要」。
 人生の最後のステージに立つとき、それは仕上げの舞台だから生き方を自由に選びとることができる。それには勇気と行動力が不可欠。
 「ともに喜ぶと喜びは2倍になる。ともに悲しむと悲しみは半分になる」。愛し愛される2人では2倍、家族4人で喜べば4倍に、辛いこと、悲しいことも4半分になる。
 「創めることは未来に花を咲かせることだ」。
 氏は、平成12年に新老人の会を発足させ、3つのスローガンを上げている。①愛し愛されること②創めること③耐えること。
 老いることは物事を創めなくなることだ。もうこのままで終わりだと萎縮することだ。氏は創めること、未来に花を咲かすことを願うようになって、今日まで、いろんな活動を創めている、という。
 「人間はみな未完成で死んでいき、完成などありえない。完成できると考えるのは人間の傲慢である」。
 働き盛りの者が死を迎えるとき、まだ残した仕事がある。いまはまだ死にたくない、と無念がる気持ちは分かるが、たとえ途中で挫折しても、自分の人生には意味があったし、労多くして報われることは少なかったけれど、これで満足しておこう、とさようならできる人は幸せ。
 以上、日野原さんの信条の一端をPHP文庫「100歳のことば」から取り上げたが、氏自身が明確に述べているように神さまから頂いた寿命が第1、第2は生活の仕方、構え、第3は心の持ち方。これが氏の寿命の因縁となっているのではないか。
 いずれにしても高齢化社会の今日、長寿者が厄介者扱いになっては悲劇である。長寿が喜ばれ、祝われるためには健康でなければならぬ。(PHP研究所発行「100歳のことば100選」参照)。
【押谷盛利】

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2011年12月03日

広告・宣伝あれこれ(見聞録)

 ボーナスとクリスマスを控え、購買意欲をかき立てるテレビCMや新聞広告、折込チラシが目立つようになった。
 今朝の新聞折込にはクリスマスプレゼント用の腕時計、ゲーム、玩具などの宣伝、お歳暮関連のチラシが入っていた。
 全国紙には「カルティエ」「エルメス」などの高級ブランドの全面広告が踊り、彼女や妻へのクリスマスプレゼントの「プレッシャー」と感じ取る男性もいることだろう。
 全国紙の全面広告は定価で何千万円という金額だそうだが、物入りな年末の日本を、カネが回れば景気が良くなるとばかり、広告で購買意欲を盛り上げる。高級ブランド品を買える余裕のあるお金持ちにはドンドン消費し、景気浮揚に一役買ってもらいたいところ。
 先日、「電通」から「日本の広告費アンケート」なるものが届いた。
 広告に関わる業界の統計資料として活用するため、広告を扱うさまざまな事業所に送っているようだ。
 発行物の概要から、広告収入、掲載内容、主な読者層など詳しいデータの記述を求めている。
 アンケート調査と一緒に入っていた2010年の「日本の広告費報告書」が興味深い。
 この資料によると、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、インターネット、フリーペーパー、ダイレクトメール、新聞折込チラシなどの国内の広告費は総額5兆8427億円。景気低迷に伴う広告予算の削減で、2008年比で約8500億円も減少している。
 広告費のシェアを分析すると、稼ぎ頭はテレビ。広告費全体の3割、1兆7321億円を占めた。
 2番目はインターネットの7747億円。前年比9・6%の伸びで、広告業界の中で唯一、売上を伸ばしている。
 3番目は新聞の6396億円、4番目は新聞折込チラシの5279億円。いずれもインターネットの台頭、広告宣伝費の削減の直撃を受け、右肩下がりとなっている。
 近年の全国紙の広告を見ていると、健康食品や健康器具、介護付き不動産情報、懐メロCDなど、年配をターゲットにしたものが目立つ。
 インターネットやフリーペーパーに若者向けの広告を奪われ、全国紙では高齢者向けの商品の宣伝しか扱えなくなっているのだろうか。それとも新聞を取らない若者が増えているからなのか。
 これら年配向けの広告が増えていることを「広告の高齢化」と評する専門家もいるが、今の日本の消費構造を代弁しているようだ。

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2011年12月02日

百歳の言葉・日野原さん

 11月末の時評「歳月人を待たずの自戒」の後段で長寿は喜ぶべきことだが、ただし前提がある。健康での長寿でなければならぬと書いた。そして、その長寿法について考えてみたいから参考になることや意見があれば聞かせて欲しいとも訴えた。
 ぼくの友人が早速貴重な新刊本を差し入れてくれた。本の名前は「100歳のことば100選」。編著者は今年100歳の日野原重明医師。PHP研究所発行の文庫本である。日野原さんは高齢化社会における稀代の人気スターである。
 ご本人が言っているからかけ値のない真実の姿であろうが何とも忙しい百歳の働き盛りである。医師としての診察や回診、聖路加国際病院理事長としての執務、各地での会議や講演、新老人の会の主宰者、小学生たちへの命の授業、新聞、本、雑誌への原稿書き、インタビュー。
 その日野原さんが100歳を迎えることになって、自分の日日の行動を少し変えようと考えたという。1年に講演を170回、4年間にわたって10日に1度どこかの小学校で命や平和について語り、年4回は海外へ出て子供に授業を英語でしてきたが、そんなハードペースを8割に下げようという。忙しいスケジュールをこなすには睡眠時間と休養時間を削らねばならぬ。週に1度は徹夜するし、寝るのも午前1時か2時。それでも朝6時半には起きる。つぎのゴールを110歳に決めているので、これからは8割方自粛して寝る時間をもう少し増やす。つまり12時半以後は仕事をしない、と決心した。こんな天狗の孫のような日野原さんだから生活上学ぶべきところがたくさんある。
 まず、歩くこと、目標1日5千歩、2、3階は足で上がる。エスカレータに乗ってもそれを階段のように上る。
 食べものは控えめ、若いころのように食べると腹囲が広がり、体重が増え、メタボリック症候群になるから、動物性脂肪はひかえる。朝はリンゴジュースに良質のオリーブオイルを15㌘入れる。それにバナナ1本それだけ。昼は牛乳1杯とクッキー3枚。夕食は大皿に色のついた野菜サラダ山盛り、あとは魚料理、油は植物油、ステーキは週1度くらい。それに豆類。
 寝るのはうつむけ。下着は薄着で、寒暖の調整は上着で。
 考えることに集中していればお腹はすかない。読書は大事。原稿を書くための引き出しを充実させる。人に会ったら笑顔。会話のときは最初に高い声から始める。
 人生は50歳とか60歳で前半、後半と分かれるものではない。ハーフタイムはだんだんあとに来る。あとにくる人生の方が濃縮する。
 日野原さんのようなこんな生き方はだれもできないが、その思い、その趣旨はよく理解できるし、ごもっとも、ごもっともである。
 この本のなかには多くの著名な長寿者が出てくるので、それらの人々の生き方、寸言がまた楽しいので、おいおい紹介したいと思う。【押谷盛利】

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2011年12月01日

今年のベストセラー本(見聞録)

 今年も残すは1カ月。歳末を迎えると、その1年の傾向が「今年の漢字」や「流行語大賞」で紹介されるが、今年、売れた本から世相を探ってみたい。
 オリコンが1日に発表した年間本ランキング(集計期間2010年11月22日〜2011年11月20日)によると、毒舌執事が殺人事件を解決する東川篤哉氏の小説「謎解きはディナーのあとで」が163万部で1位だった。ドラマにもなり、人気を集めた。
 2位はダイエット本「樫木式カーヴィーダンスで即やせる!」の141万部。3位は料理レシピ本「体脂肪計タニタの社員食堂500㌔カロリーのまんぷく定食」の126万部だった。
 4位には昨年1位の「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」が根強く残った。5位は3位の続編「続・体脂肪計タニタの社員食堂もっとおいしい500㌔カロリーのまんぷく定食」、6位も2位の後継本「樫木式カーヴィーダンスで部分やせ!」と続く。
 7位はサッカー日本代表の長谷部誠さんの啓発本「心を整える。勝利をたぐり寄せるための56の習慣」。8位は「寝るだけ!骨盤枕ダイエット」、9位は俳優・水嶋ヒロさんが「齋藤智裕」の作家名で書いた小説「KAGEROU」、10位は作家・曽野綾子さんが老後の心構え、気構えを記した「老いの才覚」。
 上位10作品のうち実に5作品がダイエット関連。2位と6位の「カーヴィーダンス」は樫木裕実さんが実践するダンスで、テレビや雑誌で紹介され人気を集めている。
 11〜50位にも美容や健康、自己啓発本が集中的にランクインし、東日本大震災や原発関連は見られなかった。「未曾有の大災害」に見舞われながらも、国民の関心は「自分磨き」ということなのだろうか。
 小生は最近、前横浜市長・中田宏氏の「政治家の殺し方」(幻冬舎)を読んだ。
 改革派市長として敏腕を振るった同氏が「利権に群がるハイエナ」「公表すればするほど揚げ足を取る記者たち」「続々と届く職員からの『死ね』メール」「特殊勤務手当という名の第2のお給料」などの見出しで、実際に経験した自治体経営のトンデモナイ実態を赤裸々に綴っている。
 利益誘導を求める市議会議員、ネガティブ報道ばかりのマスコミ、血税とも思わずお手盛りの手当を受け取る市職員—など、同氏のレポートを読むと、政令指定都市という巨大組織とそれを取り巻く業者、議員、マスコミがいかに市民感覚から外れ、好き放題やっているかが分かる。
 横浜市と同様の問題を抱える大阪市役所に、解体的大改革を訴える橋下徹新市長が民意を受けて乗り込むのも、当然であろう。

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