言葉が心を伝達する
ぼくは子どものころ、自分のことを「うら」と言っていた。友人を呼ぶのに「われ」と言った。わし(私)らというべきところを「うらら」、あんたらを「わんだら」と言った。学校へ上がっても先輩が田舎言葉を使うので、それを下品とも思わず小学校時代はそれが通用した。
社会へ出ると、地方地方によって独特の言い方があり、また漫才、落語、芝居、小説などから、いろんな言い回しのあることを知って世間は広い、ということを実感した。
自分のことを、ぼく(僕)、私(わたし、わたくし)というのは極めて平均的だが、「われ」「おれ」「おら」「おいら」「おれっち」「おらたち」、鹿児島の西郷さんは「おいどん」、夏目漱石は猫に「わが輩」と言わせて、その小説が出世作となった。江戸時代の大名や公卿は「余」、天皇は朕。
相手を呼ぶ時もいろいろあって「あなた」「あんた」「君」「おまえ」「てまえ」「おぬし」「わろ」。複数呼びの場合は「きみたち」「あんたら」のように達、等をつけるが、ときには、「あなた方」「あんた方」、江戸時代の武士は「おのおの方」と呼びかけた。
いま、なぜこんな一人称、二人称の文法のいろはのような話を持ち出したかというと、言葉づかいの乱れが社会秩序の乱れに関係しているように思われ、それが人の世の娑婆を悪くするのでは、と心配するからである。
朝晩の挨拶運動は早くから提唱されているが、家庭、学校、職場、社会で正しく実行できているか、と問えばあやしい。上司や先輩に対して「お早う」は失礼になるが、挨拶に限らず、このごろは敬語がうまく機能していない。親や上司に同輩や仲間同様のぞんざいな言葉を使う傾向があり、慶弔時の正しい言葉づかいのできない人がいる。
言葉の乱れは、コミュニケーションの場が対話か電話(ケータイを含む)に集約しているからかもしれない。つまり言いっぱなしで、言語に反省の余地がないからである。
その点、電話化以前の社会は書き言葉による通信がコミュニケーションの正しい表現に役立った。手紙文を書けば、おのずと、時候の挨拶を述べるし、敬語を使うことに意識的になる。
また、友人か先輩か、単なる事務上の要件か、ものごとの依頼や要請か、恋文か、その他、内容によって使用する言葉に思い入れや配慮が伴う。
つまり言葉が人間の心、感情を伝達するのであるから、やさしさ、厳しさ、うれしさ、楽しさ、つつましさなどが人間社会をおだやかに、平和に、秩序立てることになる。
先ず挨拶ありき、挨拶こそが人間のふれあいの潤滑油である。【押谷盛利】
2010年03月08日 15:24 | パーマリンク
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