おいしい食べ物と人間
水が凍るのは気温が零下以上に下がるからだが、さすがに寒い。その寒さに風が加わると寒いというよりも痛いという感じである。
われわれは、夏と冬と、その中間の春や秋を生きているから生活環境としては幸せな恵みを受けているといえよう。もし、年中、暑いところに生活していれば、寒い生活は実感がない。逆に年中、寒いところに生きていれば夏の感触は分からない。
腹が減っているから食べ物がおいしいので、仮りに満腹の状況や、病気でおなかの空きを感じない人はご馳走を出されてもおいしいとは思わない。第一、食欲そのものが出てこない。
そう考えれば、美食指向はともかく、食べ物を最もおいしく味わえるのは昔でなら乞食、現代ならホームレスの人かもしれない。
ただし、食べ物は、犬や猫が食うような餌ではないから、単なる腹ごしらえのような感覚で食っては本当のおいしさは味わえないし、血や肉に有効につながらない。
乞食の食べ物と一般の食べ物の違いは食べ物の出来上がるまでの過程の違いである。
食べ物は、たとえば農産物ならば土地と肥料と水と太陽の恵みに加え、耕作し、世話をする農家の心が加わる。そして、家庭においては調理する食文化の過程を経るのが一般である。しかし、ここから先に人間特有の宗教的情緒が加わらないと本当のおいしさと完全な滋養につながらない。
宗教的情緒とは大仰だが、要するに手を合わす感謝の心である。「いただきます」、「ごちそうさまでした」という「ありがたさ」の心が不離一体に働くことが他の動物にない食文化の特徴である。
残念ながら、このごろは農耕や自然の恵みが忘れられて、ともすると「餌」を食う感覚でコンビニなどに走る。餌感覚は「おカネ」主義の反映である。カネを払えばいいんだろう、という物感覚だから、食べ残したり、捨てたりすることに罪悪感を持たないのである。
食べ物は神さまが人間に下さった贈り物だと思えば、ゆめゆめ粗末にできないし、捨てることなど思いもおよばない。
昔、冷蔵庫のなかったころは、ご飯がすっぱくなることがあった。食べてもおいしくないので、これを糊に加工して、洗濯ものに利用した。
俳句の季語に「衣被」がある。「きぬかつぎ」と読むが、これは里芋(田芋、小芋)の皮つきのままの料理である。いまの人は里芋の皮を捨てるが、昔の人間は、その皮を煮て食べた。月見芋などは皮つきのままゆでる。
食べ物に関する人間の知恵は数限りなくあるが、それは食べ物によって生かされることを季節の変動や災害、飢饉などによって学んできたからである。
増長して、拝む心を失っては大ペケである。【押谷盛利】
2010年01月15日 14:54 | パーマリンク
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