君は図るを何と読むか
ぼくは、時評の中の文言で、ときどき読みがなをつけるが、あれをルビともいう。
読者のなかには、ルビなんか付けなくとも読めるものを、とご不興の向きもあるかもしれないが、いつごろか悟るところがあって、やや読みにくいと思われる漢字にはかなをつけて読者の便宜を図ることにしている。
実はその「図り」であるが、3日の読売に「学力考」なる企画記事の中に中学の1年社会の授業中の「改善を図る」を「ズる」と読む生徒が何人かいて先生を戸惑わせたと書いていた。
小・中・高・大学でも共通して問題となっているのが、学力レベルの低さである。
小学6年で学ぶ2分の1+3分の1を多くが5分の1と答え、短針と長針の役割が分からず教室の時計が読めない生徒さえいるという。
ぼくは、読者の国語の理解力をレベル以下とは決して思わないし、昔の小学校出の人が今の高校生以上の国語力のあることを知っている。
けれども、やはり活字文化に疎遠になりがちな現代、読みにくい文字にはふりがなをつけるのが筋ではないだろうかと、ひとり合点してルビをつけることにしている。
例えば、4日の初仕事の時評を参考にすれば、吉書、硯にそれぞれ「きっしょ」「すずり」とルビをつけた。同様に季節の「旬」、機織り、初機、箒、判を捺す、他人任せ、など、つけなくともいいようだが念のためルビをつけた。
俳句の大家の中には、使用する文言にふりがなをつけることを許さぬという人がいる。そういう指導者がたむろしている世界だから、初心者から老練の人までが極力、ルビを使わぬようにしているが、ぼくはこれには反対である。
俳句は何も俳人だけの文学ではなく、広い意味では国民の文学であり、日本人で芭蕉や子規を知らぬ人はほとんどいないのではないか。
だとすれば、明治時代の文語表現が新聞記事から姿を消して、短歌の世界でも現代かなづかいが主流をなしている状況を思えば、難しい漢字はなるべくふりがなをつけて、読み易く、一般に親しまれるように表現すべきではないか、と、ぼくは思うので、ルビつき俳句には賛成である。
俳句の大家が難しい漢字を駆使するのは学のあるところを誇示しようとするのか、それとも俳界という特殊な世界の自惚れか、自己顕示欲か。ぼくに言わせれば驕りであろう。
一句の鑑賞には人それぞれに鑑賞力の違いはあろうが、少なくとも読むという共通の土俵に上がらねばこの短詩形文学の繁栄はない。ぼくは、ものを書きながら、自分の読解力の弱さもさることながら、漢字を書く能力の低下していることにあきれることがある。
どうしても思い出せない場合は辞書にたよることになるが、面倒でも辞書なしには文章が書けない。
これは日本人一般の共通の悩みかもしれないが、とにかく、手紙は書かず、本は読まず、電話、ケータイ、パソコン、テレビに現を抜かす時代だから、活字離れが深化するのは当然である。
しかし、せっかくの時評だから、一人でも多くの人に親しんで読んで頂きたいから、失礼とは思いつつもふりがなをつけるのである。
同様なことは演説など話し言葉にも感じることである。学のあるのは分かっているが、一般の人には理解できぬヨコ文字や専門語が飛び出したりすることがある。そんな場合、解説したり、分かり易く話す工夫をすべきだが、大方は一方通行である。聴衆が居眠りするのは拒否反応と心得るべきであろう。【押谷盛利】
2010年01月08日 16:00 | パーマリンク
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