滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2010年01月30日

鳩山演説の社説比べ(見聞録)

 「いのちを、守りたい」―と、詩的な文言で始まった29日の民主党・鳩山首相の施政方針演説を受け、各新聞は30日朝刊の社説で一斉にこれを論じている。
 どの社説にも共通する指摘は、小沢幹事長の資金管理団体による土地購入問題と、日米関係修復への道筋が、首相の口から語られず、理念ばかりが先行した点だった。
◇朝日は「聞く方が気恥ずかしくなるほどの理想を語り続けた」と前置きし、「理念を語り国民の共感を呼び起こそうとするのは、リーダーにとって大切なことだ」と理解を示した。
 そのうえで、「マニフェストにせよ、資金の問題にせよ、逃げていては、政権を率いる首相の覚悟に疑問を覚えざるをえない」とし、「首相も民主党も、演説の美辞に酔っている暇はない」と締めくくった。
◇読売は「危機打開の決意が足りない」との見出しで、冒頭から「財政危機にも、政治倫理の問題にも正対せず、政策断行の優先順位も不透明だ」と、批判している。
 政治とカネ、日米関係修復問題を取り上げ、「言葉だけが走って政策内容に明確さを欠いては、施政方針としては物足りない。このままでは、内政も外交も混迷が避けられない」とした。
◇毎日も「理念先行で実現力には『?』のつく演説」と疑問を投げかけた。詩的で抽象的な文言の羅列に「主要政策をどう実現するか、手段、工程が明示されなかったのは残念」としている。
◇産経は「国益守る決意なきは残念」との見出しで、「空虚なスローガンを並べた」と論じた。しかし、「教育やまちづくりなどを行政だけでなく地域住民やNPOと担う『新しい公共』の考え方を改めて唱えた。地域社会の再生と肥大化した『官』のスリム化を同時に実行するものなら注目したい」と、期待感を示したのが、民主党に批判的な産経にしては異色か。
◇日経もNPOの活力など「新しい公共」の概念を取り上げたが、「総じて具体論に欠ける」「首相は『政治とカネ』の問題でもっと踏み込んだ見解を示す必要があった」と断じた。
◇さて、首相演説で印象に残ったはガンジーの「七つの社会的大罪」を紹介した部分。
 その大罪は▽理念なき政治▽労働なき富▽良心なき快楽▽人格なき教育▽道徳なき商業▽人間性なき科学▽犠牲なき宗教。
 なるほど、金もうけ主義で、個人の権利や自由ばかりが優先され、公共精神が失われつつある昨今の日本社会を言い当てているようで、興味深い。
 ただ、母親から毎月1500万円ものお小遣いをもらっていた首相が「労働なき富」を大罪と断じるのは、笑えないジョークだ。

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2010年01月29日

内閣の命運を占う金言

 俗な言い方だが、鴉の鳴かぬ日はあっても小沢記事の載らない日はない。
 小沢一郎さんは党を支配し、内閣を支配するという日本唯一最大の権力者のように印象づけられているが、気の早いマスコミは鳩山内閣のことを「小鳩内閣」と皮肉っている。小さな鳩とは、やさしく、かわいいイメージの筈だが、小沢に支配される鳩山内閣と理解すれば背筋が寒くなる。
 さて、その小沢幹事長関連の記事だが、29日の大手新聞のうち、全く対照的な二つの特徴を発見したので、まずそれを報告する。
 一つはアッと驚く驚天動地の大ニュースである。産経1面の3段記事「小沢氏、辺野古近く土地購入」「17年 移設中間報告後、投機か」。
 辺野古は、いま最も注目されている沖縄の米軍普天間飛行場の移転予定地であり、在日米軍再編の中間報告が日米で合意した直後に小沢氏の個人資産として登記されている。投機目的ではないか、と疑問視されるが、こういう不動産取り引きに鋭敏な感覚と手腕を持つ日本一の権力者が日本の政治のリーダーにふさわしいか、どうかは議論の余地がない。
 この産経の記事と対照的な紙面は朝日である。鴉の鳴かぬ日はあっても、というくらい、どこかに小沢記事があるものと、1面から32面まで目を通したが、これはまた珍しいことにどこにも「小沢」の「小」の字も見当たらぬ。
 もともと朝日の報道は小沢氏に関する限り寛大であるが、これは朝日が中国、韓国、北朝鮮に好意的で、同様に小沢氏がこれらの国と親しいので、アウンの呼吸で仲よし連鎖を続けているのであろう。
 小沢さんは天皇の政治利用でさえ、平気でやってのける実力者だから、朝日が天皇や皇室の記事に敬語を使わない感覚とウマが合っている。
 西郷隆盛は「子孫のために美田を買わず」という名言を残しており、また「金も地位も命も欲しがらぬものは始末におえぬが、こういう人物でなければ国家のためには役立たぬ」と、これまたすごいことを言っている。
 今年から始まったNHK大河ドラマの主人公「坂本龍馬」は明治維新の開幕寸前、テロに倒れたが、倒閣と維新を前にして、大久保利通や木戸孝允、西郷隆盛らと新政府のポストについて話しあった。それぞれが顕官、大臣、軍の実権等を念頭に議論したが、龍馬は「オレは何も役職はいらない。船を造って貿易日本の先頭に立つよ」と、たんたんとその志を述べた。
 それらの先人の話を思うにつけ、小鳩内閣の両指導者の器量の浅薄さと汚れを痛感する。
 先週の金曜日、京都で全国青年会議所大会が開かれ、約5000人が集まった。講師に立った小泉元首相は「政治家が政治献金や政治資金で不動産を買った話は聞いたことがない」と語ったが、この内閣の命運を占う金言といえよう。【押谷盛利】

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2010年01月28日

宗教の規律、戒律(見聞録)

 十二支の動物に扮した「ドラえもん」のぬいぐるみを販売していたシンガポールのマクドナルドが、イスラム教徒に配慮して豚(日本ではイノシシにあたる)を除外。キューピッドに差し替えて販売したところ、客から苦情が殺到し、新聞に謝罪広告を出すまでの騒ぎになった。
 同社は昨年末からキャンペーンのため、十二支のドラえもんを販売。ただ、同国にイスラム教徒のマレー人が数多く住んでいることに配慮して、イスラム教で食べることを禁じられている豚を排除した。
 ドラえもんはシンガポールでも人気が高いため、国民の収集熱が高まり、品切れの店が続出。さらに、人口の大半を占める中華系国民から「自分の干支がない」「コレクションが完結しない」などの苦情が相次いだ。
 同社のイスラム教徒への配慮は過剰反応だったようだが、宗教の違いによる数々の紛争を見る限り、食を扱う同社が示した姿勢は決して間違いではないだろう。
◇各宗教には、それぞれ宗教上の理由で数々の食事制限があるが、特にユダヤ教が複雑で興味深い。
 まず、「不浄な動物」とされる豚を食さないのはイスラム教と一緒だが、「脊椎」や「うろこ」を持たないイカ、タコ、エビ、カニ、ウナギ、貝なども食べてはならない。
 特に「豚禁止」は非常に厳格で、「ブイヨン」「ゼラチン」「肉エキス」にも豚肉・骨が含まれているため不可。日本で売られている多くの食品がNGとなってしまう。
 そして、特殊なのが「乳製品と肉料理の組み合わせ不可」。例えば、チーズバーガー、サラミやハムの乗ったピザ、ハムとチーズのサンドイッチ、肉入りのクリームシチューなどは食べてはいけない。献立に乳製品と肉料理が一緒にあることも許されず、一方を食べた後は一定時間(胃の中で消化されるまで?)が経過するまで、もう一方を食べることはできない。
 これは「子ヤギをその母の乳で煮てはならない」との旧約聖書の教えを拡大解釈したものだそうだ。
◇ユダヤ教の禁止事項で驚くのは毎週金曜の日没から土曜の日没までの「安息日」。仕事好きの日本人には考えられないことだが、この日は家事を含め、一切の労働を禁じている。
 安息日は旧約聖書の「モーセの十戒」で示され、現代社会では、パソコン、テレビ、携帯電話などの機械の操作、火を使った調理、車の運転など、すべての「労働」を禁止している。もちろん、公共交通機関はストップし、オフィスや商店は閉められる。
 外出は教会への礼拝などに限られるから、ユダヤ人は家族揃って自宅で食事して団らんの時間を過ごしたり、友人を招待しておしゃべりするのが一般的。
◇この数々の規制がユダヤ人をユダヤ人たらしめていると考えるが、最近は改革派と称して、これらの戒律、規律を守らない大人や若者が増え、保守派が警鐘を鳴らしていると聞く。
 人種、民族、宗教が交錯する今の世界にあって、自国の宗教や文化をどのようにして守ってゆくのか。イスラエルだけでなく、どの国家も抱える問題だ。

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2010年01月27日

天上からの神の発信

 絵の世界はデッサンと色彩にあると言われるが、画家に限らず、芸術家は現実の色や形から美を発見する。そればかりでなく空想のなかから真実を追求し、感動的な作品や音曲を創作する。
 それは文学の上でもあてはまることで、風や水の音、鳥の泣き声、花や木や雪への一瞬の出会いからそのものの発する本質をキャッチして、詩に昇華する。これを感度とか感性という。
 曇りなき感性といって子どもの絵などに作品の真実性を発見することはよくあることで、世間ずれした大人の目よりも天真爛漫の子どもの目の方が正直である。
 裸の大将の山下清画伯の絵は緻密で、うっかり見落とすようなことでも大胆にすくいとって、鑑賞者をアッと言わせるが、それは彼に邪心がないからで、描かれる対象と描く彼との距離がないことを証明している。
 俳聖と呼ばれる芭蕉の知的水準は子どもどころか、漢籍の教養といい、世間風に言えば大学の先生級以上だが、それでいて、自然や人情の真実をとっさに発見できたのは、常に心を無にしての鏡のような心境を保持したからであろう。
 芸術は神の心を人間の心につなぐ福音のようなもので、秀れた芸術家は神から選ばれたというべきで、天性のひらめきや心眼、心耳を持つ。
 したがって、暮らしに王侯貴族のような華麗さや豊かさは望むべくもなく、どちらかといえば、芸術を生むため貧しさに耐え、体をすり減らしているともいえる苦難の人生であり、長寿者は少ない。
 人間の幸、不幸、生き甲斐はどんなメジャーで計ることができるだろうか。
 ともすると、現代人はおカネがすべてであり、人間の成功、不成功、幸、不幸をカネで計りたがるが、確信をもってそう言えるだろうか。
 山ほどおカネを持っていても病床にあって医師とクスリの厄介にならねばならぬ人は決して幸福とは言えない。その点、芸術家は、たとえ暮らしが裕福でなくともその作品を通じて多くの人に精神的感動を与えることができる。
 人は、秀れた音楽、劇、映画、小説、詩、絵画、書、彫刻、写真、その他工芸品に興味を持ち、それを鑑賞するのに時間とカネを惜しまないが、それは芸術家の作品を通じて神の心が地上に反映されているからである。
 人々の心を癒し、生きる希望や喜びを与えるのが偉大な芸術であり、人を傷つけ、人を裏切り、常に争うカネの亡者の世界に対する天上からの美の発信と考えるべきである。
 天上からの美の発信は精神世界のみならず、生活という生ぐさい肉体面にも届いているはずである。
 その一つが環境に対する警鐘であり、第二が食生活の自然回帰である。
 人間は科学と技術を過信して、宇宙を征服しようとしたり、カネのために自然に反する農業や食品を生産したりするが、反省することをしない傲慢さが真綿で首を締めるように人類を破滅に追いやるのではないか。
 天をあがめよ。天を畏れよ。【押谷盛利】

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2010年01月26日

文化財防火を考える(見聞録)

きょう1月26日は「文化財防火デー」。
 昭和24年の同日、現存する世界最古の木造建造物だった法隆寺の金堂が炎上し、壁画が焼損したのを契機としている。
 この火災で、文化財保護の世論が高まり、翌25年に文化財保護法が制定された。29年には法隆寺金堂の修理事業が竣工し、それに伴って啓発事業が行われるようになった。そして、昭和30年、当時の文化財保護委員会(現在の文化庁)と国家消防本部(現在の消防庁)がこの日を「文化財防火デー」と定めた。
 毎年、この日を前後して全国で文化財防火運動が行われ、湖北地域でも、先週末の23、24日、4カ所の社寺で訓練があった。
◇総持寺(宮司町)や飯開神社(湖北町延勝寺)の訓練は2面で紹介した通りで、地元消防団などが日ごろの訓練の成果を確認した。
 総持寺の訓練で、長浜消防署の鍔田鉄雄署長は、社寺火災の大半が放火や焚き火によるものだとし、▽不審者が出入りしにくいように境内を明るくし、燃えるものを置かない▽焚き火する場合はあらかじめ消火の準備を―と、注意を促した。
 また、同寺の高橋祐純住職は「滋賀は奈良、京都に次いで、多くの文化財がある。湖北はそれぞれの社寺が貴重な文化財を守り、その文化財は地域の人のおかげで今まで残ってきた。将来、私達の子孫に受け継がなければならない」と呼びかけた。
 数々の文化財が今に残るのは、我々の先祖が大切に守ってきたから。それを次代にバトンタッチするのが我々の使命だろう。
 文化財防火デーを機に、今一度、身の回りを確認し、防火の意識を高めたい。

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2010年01月25日

鳩山、小沢の一蓮托生

 「信なくば立たず」という。これを鳩山さんと小沢さんに献上する。政治は国民の信頼感に支えられて円滑に機能する。
 世論の圧倒的支持で祝福された鳩山内閣が、発足4カ月で崩壊寸前の危機を招いているのは、総理の鳩山さんと与党・民主党の幹事長である小沢さんの信頼感が地に堕ちたからである。
 極端にいうと、国民は、この2人に任しては税金なんて払っていられるか、という不信感である。
 鳩山さんは架空の人物や死んだ人の名前で個人献金を受けたとウソの申告をしたり、お母さんから12億円もの大金をもらいながら、秘書のせいにして、「知らなかった」と押し通している。そんな話は宇宙はともかく、地球では通らない。秘書は起訴されたが、普通なら、鳩山さん御自身の手に縄がかかる。
 小沢さんの政治献金をめぐる黒い噂は、かつての先生である田中角栄元首相や金丸信副総裁級の大型である。
 不動産購入の複雑にして、非常識な背景や政治資金規正法の違反のほか、ダム建設をめぐる企業からの裏献金。贈収賄容疑も晴れていない。晴れていないどころか、現、元秘書(うち国会議員1人)ら3人が逮捕されている。
 全面対決とうそぶいていた小沢さんが、急に態度を変えて、検察庁の聴取に応じたのは、逮捕をまぬがれるための戦術転換だった。口先だけは強気だが、深く追及されると「知らない」「関知しない」「秘書に一任している」と、これまた鳩山さんと一緒である。
 世間では、国の最高権力者2人がともに傷をなめあっている、と見ている。
 傷をなめあっているのはお2人の勝手だが、そのため、国政上の大事な景気浮上や天下り用の政府関係の法人整理、基地を含む外交問題などが足踏みしては、国家、国民の不幸である。
 世間では鳩山―小沢の関係を一蓮托生といっている。
 一蓮托生は仏語で、死後、極楽の同じ蓮の花の上に生まれることをいい、一般には、行動や運命をともにすることのたとえに用いる。分かりやすくいえば、運命共同体である。2人がともに極楽へ行くか、地獄へゆくかは、三途の川でエンマさんの判定を待たねばならぬが、この娑婆は民主主義の自由国家であるから、先ずは法の裁きとともに、国会自身の信が問われる。
 その点で、国民に納得出来ぬのは、民主党の沈黙状況である。口から生まれたほどの論客ぞろいのこの党に期待したものは何か。それは清新性と大衆性であり、真実一路の政治であった。
 残念ながら開かれた大衆性は忘れられて一人の独裁的傾向を強くし、国民の不信を解く自浄能力を欠く状態である。どんなにいいことを言っても、その実践行動がこれに反すれば国民は信頼しない。
 鳩山内閣は死に体内閣だが、与党がほおかむりでごまかせると思っているなら寒の滝にでも打たれて身心潔斎して出直すがよい。【押谷盛利】

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2010年01月22日

婚活の社会背景と老い

 豚カツ、串カツは食べ物の名だが、カツはカツでも、このごろは、就カツ、婚カツが新聞活字に登場する。
 食べ物のカツはカツレツの略で、薄切りの肉の西洋文化。こちら就活、婚活は活の文字が示すようにカタカナには無縁な漢字文化である。
 就職活動が社会問題となるのは就職戦線が厳しいからで、昭和の初期のように「大学は出たけれども」と嘆く就職難を背景にしており、景気浮上とか雇用創出などが問われている。
 婚活は平成の現在を象徴している社会現象といっていい。恋愛か、見合いか、という日本人の結婚パターンが、さま変わりした結果で、晩婚化と独身指向の世相が反映している。
 見合い結婚は双方をとりもつ仲人が大きな役割を果たしたが、今は無用論が幅をきかし、挙式における名目上の仲人すら否定する若ものが増えた。
 仲人が影をひそめたから恋愛至上主義ということになるが、ここにもまた問題があって、友達としての遊び感覚はあっても結婚に踏み切ることをしない青春謳歌派が多くなり、そのことが晩婚型を生む社会背景となった。
 一つは女性の男性に対する理想の高さが結婚のハードルを高くしている側面もある。高学歴、高収入、マイホームの条件をクリアーするには年配の男性しかないから面倒である。
 いま一つは男性の草食性化と恋愛オンチによるわけだが、このような結婚砂漠に雨や緑の風を送るべく現れたのが婚活ビジネスや婚活ボランティアである。
 婚活は旧来の常識を破って、若ものの領域ばかりでなく、老齢者層の中にも広がりつつある。それは嫁しては二夫にまみえずの古い封建的モラルが消えたことにもよるが、家族制度の崩壊で老人と若ものの同居する世帯が少なくなったことにもよる。それと同時に女性は熟年にさしかかると独身で老後を迎えるよりもよきパートナーを選んで安心と安定の生活を願うようになる。男性は高齢化へ進むほど孤独に堪えられず、妻亡き後の再婚を考える。
 時代の変遷とともに寡婦ややもめに対する社会の目も変わり、老人福祉の側面からも老後の結婚がすすめられるようになった。
 ここにおいて、婚活そのものが年齢や舞台を超えて社会のニーズに脚光を浴びるようになった。
 婚活はともかく、少子高齢化が進む日本においては、老人福祉の一環としても、孤独を避けて老人たちがパートナーと共に幸せで健康な老後を送れるよう社会も周りのものも温かく協力することが望ましい。【押谷盛利】

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2010年01月21日

湖北の「元気」届けたい(見聞録)

 滋賀夕刊ではきょう21日付の紙面で2つのコーナーを創設した。
 一つは、湖北の商店主による企画で、▽店の歴史▽商品▽人物▽経営哲学▽人生哲学―などを紹介する。記者が取材するのではなく、店主の目線で執筆してもらうのが特徴で、意外な昔話や、誰も知らない逸話が出てくることに期待したい。
 第1弾は長浜商店街連盟会長の富田浩徳さんにお願いした。「かどや」の前身が、伊吹山の薬草を販売した薬草店だったことや、県内で初めて生クリームを使ったケーキを販売したことなど、興味深い原稿を頂けた。
◇もう一つは、記者が地元企業を訪問して、インタビュー形式でその特色を紹介するコーナー。
 湖北地域には、面白い事業や研究に取り組んだり、また、大手にはないユニークな視点で踏ん張っている企業がたくさんある。誰もが日ごろから使っている「モノ」が、湖北地域産でありながら、地元住民が知らない、なんてことも。
 その辺りを掘り下げて、いかに元気な企業が湖北地域で活躍しているのかを、紹介できればと願う。
 第1弾はホームページ制作やネットショップ運営の「プロクルー」さんにお邪魔し、お話をうかがった。20代、30代が活躍する若さあふれる職場、IT技術を駆使した企業展開、そして、湖北地域を盛り上げようとの心意気を新鮮に感じた。
◇滋賀夕刊新聞社は昨秋で、創刊から50年を迎えたが、この50年間は読者、スポンサーに支えられた歴史でもある。発刊し続けられたことを皆さんに感謝し、少しでもハッピーなニュースを伝えられれば、というのが小生の願い。
 リーマンショック以来の世界景気の低迷で、企業や家庭は我慢の時を過ごしているが、頑張っている企業や商店の紹介を通し、明るい紙面作りに心がけたい。
 なお、この2つのコーナーは今後、定期的に掲載する予定です。

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2010年01月20日

小沢疑惑と民主党批判

 民主党は未知の魅力と生る実の大きさと、おいしさを期待されて国民の圧倒的支持を受けたが、政権100日で、その魅力と期待が早くも色あせてきた。
 小沢疑惑を通じて鳩山内閣と民主党への支持率は減速を早めているが、そうかといって自民党への待望論は出てこない。
 自民党政権にはこりごりだ、という国民の先入観はそう簡単には消えない。しかし、目下の民主党には愛想が尽きる。そう考えている国民が多いのではないか。ここは一番、日本の前途と国民の心を察知した救国新党を中心にした政界の再編成を推進すべきであろう。
 小沢一郎民主党幹事長はカネの生る木の育て方がうまいのか、網ですくう集金力の天才なのか、ともかくおカネと力に長年の政治的キャリアを生かせて与党の最高峰の地位を占め、事実上、日本の政治を支配している。
 その、日本一の政治的実力者に政治資金をめぐる疑惑の目が注がれ、元秘書や現職秘書のほか、子飼いの国会議員までが逮捕された。
 これだけでも実にゆゆしき一大事で、政治に信と正義を求めるならば小沢氏は役職の辞任、さらには議員を辞職すべきであろう。
 事件は検察の調べを経て、裁判に付されるが、問題がこれだけ発展し、連日のように報道が詳細化しつつあるのは、時の権力者を焦点にした政治の近代化と明朗化を願うからである。
 小沢氏側は検察権力の暴走といった批判をする前に、かく、事件が明るみに出た経過を反省し、問題そのものが小沢氏自身の不徳によるものであることを認識する必要がある。
 民主党は党内の自浄作用が機能しないばかりか、検察を牽制する党内調査委を立ち上げたが、これは公明、公正な検察、裁判に対する政治権力の乱用である。むしろ、国民に対する背信行為である。
 国民は小沢疑惑に関する小沢氏の説明責任を疑問視している。不明な部分や不可解な部分は本人が検察当局の要請に応じて答えるのが通常で、われわれ国民一般が重要な参考人聴取、あるいは本人自らの疑惑に関して、出頭要請を受けた場合、これを拒否すれば、たちまち身柄を拘束されるではないか。与党の幹事長なるがゆえに聴取を拒むことが許されるのか。
 小沢氏は全面対決を後退させて、聴取に協力するという態度に出ているが、この間の鳩山総理の援護発言といい、民主党権力の独裁政治の危険を国民は感じているのではないか。【押谷盛利】

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2010年01月19日

金美齢さんの少子高齢化論(見聞録)

 新しい長浜市の誕生を祝って、17日に行われた記念式典では、評論家・金美齢さんの講演があった。
 テレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」などの出演で知られ、昨年、台湾国籍から日本人に帰化した。
 その金さんが講演で、少子高齢化の問題点を指摘していたので、以下、紹介したい。
 金さんは「素敵な人と結婚し、子どもを産む。子どもが所帯を持ち、孫を産む。そして真面目に仕事をする」という、祖先から延々と続いてきたサイクルが、今の日本で壊れつつあり、ともすれば結婚や出産を面倒と考える風潮を問題視。「社会や大人が悪い手本を見せているから。大人の責任です」と訴えた。
 そのうえで、「1人で生きるよりも(結婚して)2人。2人よりも(子どもをつくって)4人。4人よりも(孫に囲まれて)10人が良い」と話し、地域全体が非婚化や少子化を、「問題」として認識する必要があると説いた。
 また、高齢化について「先進国すべてが抱える問題」としながらも、自身75歳を迎える金さんは「働くことが元気に生きることにつながる」「高齢者というだけで使い物にならない、という考え方はだめ」と述べ、高齢者が活躍できる環境づくりが必要だと述べた。
◇地域、そして国家の活力を奪う少子化。その要因は「個人」を優先する風潮ではないかと小生は考える。結婚や出産よりも自身の時間やお金の自由を優先し、条件に見合う相手がいなければ、結婚はしないとの風潮が…。
 一方、高齢化は必然的現象だが、いかにして健康で長生きするのか。その基本は「家でゴロゴロ」せず、地域活動やボランティアに参加して絆をつくり、「生きがい」を見つけることではないだろうか。
◇結婚し、子どもをつくり、真面目に働く。そして地域活動やボランティアに汗を流す―。その当り前を、金さんも説いている。

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2010年01月18日

小沢疑惑と鳩山民主党

 小沢一郎民主党幹事長が検察と対決するというのは本人の自由だが、一国の総理が、これを支援するというのは行政秩序のぶっ壊しである。
 なぜなれば、検察庁は法務大臣の指揮下にある法務関係の役所である。その法務省所管の役所が一切の不法行為に目を光らせ、この国の正義と秩序、国民の幸せを願ってそれぞれの任務を全うしているのだが、そのやり方を批判し、全面対決だ、とうそぶいている小沢氏を「戦って下さい」と激励する鳩山総理は、まるで検察当局の努力に水をぶっかけるようなしぐさである。戦闘中、味方の後から砲弾が飛んでくるのと同然である。
 今回の場合、もし総理が小沢一郎氏の勝利を確信し、それを背後から応援するような言動をとれば、行政秩序の上から総理の部下である検察陣はやる気をなくするかもしれない。士気を失って、国民のための正義の追及を諦めることがあるかもしれない。
 検査は法を守る立場で非法、不法を検挙し、起訴という裁判手続きを行使する極めて重要な職掌を持ち、それゆえに政治信条や思想、宗教を超えて厳しく違法行為を追及してゆくわけだ。
 その追及の過程において、追及される側に加担するような総理の発言は行政が立法(政党)に屈服する印象すら与えかねない。三権分立の憲法の精神を踏み砕く暴走といっていい。
 それにしても、小沢追及のこの問題に関する民主党内の動きは寒々しい限りである。「もの言えば口びる寒し民主党」とささやかれているのがそれである。
 政治が民主的であるか、独裁的であるかは発言の自由が存在するか、どうかがきめてである。中国や北朝鮮に発言の自由がないのは知られているが、こういう国は権力者の意志命令で政治が動き、人民の心は政治に反映されることはない。
 民主主義の国、日本の、わけてもその名に「民主」と冠する民主党が日本全土をゆるがしている与党の小沢幹事長の黒い影をめぐって、気味悪いほど沈黙を守っていることである。
 しかも、党本部からは「マスコミに対して下手なことをしゃべるな」と口止めがかかっているではないか。
 重要な、まさに党の命運に関わるような今回の小沢疑惑は、すでに、小沢氏の現、元秘書、国会議員の逮捕に至るまで発展しているのである。それなのに、何一つ党内議論がなされず、所属全国会議員が「もの言えば口びる寒し」の状況下にあることは、理屈はともかく、この党は幹事長支配の一党独裁政治下にあるといえよう。【押谷盛利】

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2010年01月16日

大震災から15年(見聞録)

 阪神淡路大震災から17日で15年目を迎える。倒壊した建物の下敷きや火災などで、6000人以上が亡くなったが、今、三ノ宮や神戸など都心部を訪れると震災は遠い過去のような賑わい。ただ、被害の大きかった長田区を歩くと、ところどころに空き地や駐車場があり、被害の名残りを見ることができる。
◇当時、小生は20歳で、神戸市内で一人暮らししていた。幸い被害の軽微な垂水区のマンションに住んでいたので、ケガはなかったが、下から突き上げられ、体が宙に浮いたような、あの衝撃は今でも忘れることができない。
 轟音と振動がいつまでも続き、棚に置いていた物はことごとく床に落ち、食器や窓ガラスが破損した。
 電気はその日のうちに復旧したが、水道とガスはストップしたままで、給水の長い列に並んだ。近くの大型スーパーに買い出しに行けば、店に入るのに3時間待ちという具合。
 友人は、住んでいた長田区のアパートが全壊、全焼。ぺしゃんこになった建物から命からがら逃げ出していた。
 通っていた大学は4月まで休学となり、時間を持て余した小生は少しボランティア活動に参加しただけで、あとは、液状化現象により泥にまみれたポートアイランドで復興アルバイトに精を出していた。
◇当時の滋賀夕刊をめくると、17日付は「湖国も震度5の強震」との見出しで、湖北地域の被害を伝えている。市内では七条町で民家のブロック塀が12㍍に渡って倒壊し、平和堂長浜店でも大型ガラス25枚余りが割れた。
 長浜市社会福祉協議会では義援金や救援物資を受け付け、長浜病院や長浜赤十字病院は現地に救護医療班を派遣した。
 21日付では「支援の輪続々役場に」との見出しで、湖北地域の住民から義援金や物資が社協や役場に寄せられていることを報じている。
 また、フタバヤ、湖北精工、長浜信用金庫、マツイ機器工業、浜ちりめん工業協同組合など複数の企業・団体から大口の義援金が寄せられ、震災から1カ月で長浜市だけで8574万円の義援金が集まった。
 市民も自主的に現場へ赴き、炊き出し支援などに取り組んだ。
◇天災から逃げることはできないが、被災地では支え合いとボランティアの心が欠かせない、ということを、改めて考えたい。

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2010年01月15日

おいしい食べ物と人間

 水が凍るのは気温が零下以上に下がるからだが、さすがに寒い。その寒さに風が加わると寒いというよりも痛いという感じである。
 われわれは、夏と冬と、その中間の春や秋を生きているから生活環境としては幸せな恵みを受けているといえよう。もし、年中、暑いところに生活していれば、寒い生活は実感がない。逆に年中、寒いところに生きていれば夏の感触は分からない。
 腹が減っているから食べ物がおいしいので、仮りに満腹の状況や、病気でおなかの空きを感じない人はご馳走を出されてもおいしいとは思わない。第一、食欲そのものが出てこない。
 そう考えれば、美食指向はともかく、食べ物を最もおいしく味わえるのは昔でなら乞食、現代ならホームレスの人かもしれない。
 ただし、食べ物は、犬や猫が食うような餌ではないから、単なる腹ごしらえのような感覚で食っては本当のおいしさは味わえないし、血や肉に有効につながらない。
 乞食の食べ物と一般の食べ物の違いは食べ物の出来上がるまでの過程の違いである。
 食べ物は、たとえば農産物ならば土地と肥料と水と太陽の恵みに加え、耕作し、世話をする農家の心が加わる。そして、家庭においては調理する食文化の過程を経るのが一般である。しかし、ここから先に人間特有の宗教的情緒が加わらないと本当のおいしさと完全な滋養につながらない。
 宗教的情緒とは大仰だが、要するに手を合わす感謝の心である。「いただきます」、「ごちそうさまでした」という「ありがたさ」の心が不離一体に働くことが他の動物にない食文化の特徴である。
 残念ながら、このごろは農耕や自然の恵みが忘れられて、ともすると「餌」を食う感覚でコンビニなどに走る。餌感覚は「おカネ」主義の反映である。カネを払えばいいんだろう、という物感覚だから、食べ残したり、捨てたりすることに罪悪感を持たないのである。
 食べ物は神さまが人間に下さった贈り物だと思えば、ゆめゆめ粗末にできないし、捨てることなど思いもおよばない。
 昔、冷蔵庫のなかったころは、ご飯がすっぱくなることがあった。食べてもおいしくないので、これを糊に加工して、洗濯ものに利用した。
 俳句の季語に「衣被」がある。「きぬかつぎ」と読むが、これは里芋(田芋、小芋)の皮つきのままの料理である。いまの人は里芋の皮を捨てるが、昔の人間は、その皮を煮て食べた。月見芋などは皮つきのままゆでる。
 食べ物に関する人間の知恵は数限りなくあるが、それは食べ物によって生かされることを季節の変動や災害、飢饉などによって学んできたからである。
 増長して、拝む心を失っては大ペケである。【押谷盛利】

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2010年01月14日

団塊世代の活躍願う(見聞録)

 定年退職後、家でゴロゴロするくらいなら、地域活動やボランティアに参加しては―、というのが小生の願いだ。
 昨日の13日、長浜市で地域活動に取り組む「だんき会」を取材したが、長浜北小学校で子ども達と触れ合う会員は皆、とびっきりの笑顔。「孫のように可愛い」と目を細めていた。
 毎月、会報も発行している。会員の村居庄平さんが編集しており、記事の流れ、見出し、写真の配置は新聞のようで、その編集力に脱帽する。彼らは、ほんの数年前まで、企業でバリバリと働くサラリーマンで、紙面からそのパワフルさが伝わって来る。
 ちなみに、「だんき会」の名称は、「男が輝く」という意味の造語「男輝」と、「温かい気持ち」の「暖気」を掛け合わせた。
◇会の結成のきっかけとなったのは、長浜市が主催したセミナーだが、「湖北地域介護認定審査室」が担当しているのが興味深い。というのも、地域活動の支援なら「市民協働課」あたりが担当しそうものだから…。なぜ、介護保険の担当部局が地域デビューを応援するのか。
◇そもそも、なぜ団塊世代の地域デビューを自治体が促すのか。
 高度経済成長期を支えてきた団塊世代は、会社中心の人生を歩み、地域の活動には疎遠だった。地域の課題を何もかも自治体任せにした結果、住民が地域に無関心になり、自治体の仕事が増えた。
 しかし、どこの自治体も財政難に陥っている今、地域課題の解決には住民が率先して取り組む必要があり、定年退職で時間と、40年もの会社生活で培った技術や経験を持て余している団塊世代の活躍が望まれている。
◇そして、もう一つの目的。
 退職により活躍の場を失った団塊世代の男性は家にこもりがちになり、外出せず、会話は家族とだけ。これでは、体も脳も劣化する。
 最新の研究では積極的な気持ちの持ち方と行動力が「生命予後」に大きく影響しているという。要は定年退職後を元気に過ごすためには「生きがい」を見つけ、行動することが必要というわけだ。
 老後を健康に過ごしてもらえれば、それに伴う医療費や介護保険料は圧縮でき、自治体の負担も軽減する。だから、介護認定審査室が地域デビューを応援するのだ。
◇退職後、まだまだ仕事ができると考える人は多いだろう。
 自ら地域に入っていくのは苦手かもしれないが、家でゴロゴロしているくらいなら、意を決して、ボランティアや地域活動の世界に飛び込み、「金もうけ」とは別次元の喜びに触れてはどうだろうか。

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2010年01月13日

小沢幹事長と竜虎の話

 このところ、日本の政界を動かしているのは、民主党の小沢一郎幹事長であるが、世論は必ずしもその動きを歓迎していない。鳩山内閣の支持率が50%を割り始めたのは国民の関心が小沢批判を胸に温めているからであろう。
 問題の小沢幹事長は12日に記者会見して国民の前に頭を下げた。自身の政治資金団体である「陸山会」の土地購入に関する疑惑や西松建設をめぐる献金疑惑などについて「国民に誤解を与え、ご迷惑、ご心配をかけた」として陳謝した。
 しかし、その一方で、「計算ミスはあったかもしれないが、意図的に法に反するような行為はしていないと信じる」と述べた。
 この問題、連日のように新聞に報道されているが、頭の中に残っているのは4億円という数字である。偶然であろうが、昨年12月、鳩山首相の元秘書が偽装献金事件で起訴されたが、その立件額も4億円だった。小沢氏やその元秘書が強制捜査されるか、在宅起訴となるか、今後の捜査が注目される。
 鳩山さんは総理大臣として国家と国民の運命を担っている。小沢さんは与党の事実上の支配者として、国会の舞台を取り仕切っている。行政府と立法府が互いに牽制し、かつ、協力し、国家の舵取りを間違いなくやってほしいものだが、このところ、両指導者をめぐって暗雲が立ちこめ始めた。
 雲は天に生じ、天に浮くが、古来、瑞雲、暗雲、怪雲が人々の心に明暗を放つ。雲から瑞気を、あるいは怪気、不安を感じるのは、人間がそれと悟る予兆による。
 鳩山―小沢のコンビによる今の日本の政治から国民は瑞雲を感じるか、暗雲の予兆と見るか。少なくとも怪雲が漂い始めたことは間違いない。
 昔から世に傑出した大物2人を「竜虎」にたとえる。鳩山、小沢、いずれが竜か虎かは、すでにイメージが国民に定着してきた。小沢の虎は常に牙をむくし、向かうところ敵なしの勢いである。鳩山は虎と対等の力を持つ竜ではなく、やさしい鳩である。
 対等の力関係ではなく、小沢の力と意志を鳩山の包装で飾っているにすぎない。
 男女の情交を雲雨の情というが、相打つという竜虎の関係でなく、相抱くという雲雨の情とみれば分かりやすい。
 人間、寿命が尽きるとき、西の空から「みほとけ」の雲に迎えられて極楽へ往生することを願うが、そのお迎えの美しい雲を紫雲という。
 美しい紫の雲に迎えられるか、怪雲、雷を誘い、一天かき曇り、豪雨に洗われるか。当分政局から目を離せない。国民は主体的に判断し、発言せねばならぬ。【押谷盛利】

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2010年01月12日

有り余る元気を大志に(見聞録)

 10日、長浜ロイヤルホテルで開かれた長浜市の成人式。
 男性はダークカラーのスーツ、女性は艶やかな振り袖。男女ともに「茶髪」が主流で、黒髪が少数派なのが、世代の変化を感じさせる。
 式典そっちのけで、何年ぶりかに再会した旧友とのおしゃべりに盛り上がり、携帯電話で写真を撮り合う光景は恒例だが、それにしても今年の新成人は落ち着きがなかった。
 他県では新成人が逮捕されるなど「荒れた成人式」がニュースで伝えられ、この時期の風物詩ともなっている。
 過去の長浜市の成人式を取材している限り、式典中はおおむね静かにしていたが、今年は騒がしくて市長や議長、新成人代表のあいさつが聞き取りにくかった。
 また、会場内でたばこを吸ったり、奇声を発したり、あげくに壇上にのぼったりと、一部の新成人は、見ていて恥ずかしくなるほど、大はしゃぎ。
 たった30分間の式典でさえ、静かにしていられない様子に、「学級崩壊」の文字がふと浮かんだ。
 あいさつに立った青木甚浩議長が「例年になく元気のいい人が成人になりましたね」と皮肉を込めたが、真に受けている新成人がいないことを願う。
◇新成人代表のあいさつでは、クラーク博士の「少年よ大志をいだけ、それは金銭や自分欲のためでなく、また人が言う名声という、空しいもののためであってはならない。人として持っていなければならないものを成し遂げるためにこそ、大志を持て」との言葉を紹介し、学ぶこと、人間性を鍛えることの大切さを訴えた。
 景気低迷で就職氷河期が続く厳しい時代だが、新成人の皆さんには有り余る元気を大志に注ぎ込んでもらいたい。

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2010年01月08日

君は図るを何と読むか

 ぼくは、時評の中の文言で、ときどき読みがなをつけるが、あれをルビともいう。
 読者のなかには、ルビなんか付けなくとも読めるものを、とご不興の向きもあるかもしれないが、いつごろか悟るところがあって、やや読みにくいと思われる漢字にはかなをつけて読者の便宜を図ることにしている。
 実はその「図り」であるが、3日の読売に「学力考」なる企画記事の中に中学の1年社会の授業中の「改善を図る」を「ズる」と読む生徒が何人かいて先生を戸惑わせたと書いていた。
 小・中・高・大学でも共通して問題となっているのが、学力レベルの低さである。
 小学6年で学ぶ2分の1+3分の1を多くが5分の1と答え、短針と長針の役割が分からず教室の時計が読めない生徒さえいるという。
 ぼくは、読者の国語の理解力をレベル以下とは決して思わないし、昔の小学校出の人が今の高校生以上の国語力のあることを知っている。
 けれども、やはり活字文化に疎遠になりがちな現代、読みにくい文字にはふりがなをつけるのが筋ではないだろうかと、ひとり合点してルビをつけることにしている。
 例えば、4日の初仕事の時評を参考にすれば、吉書、硯にそれぞれ「きっしょ」「すずり」とルビをつけた。同様に季節の「旬」、機織り、初機、箒、判を捺す、他人任せ、など、つけなくともいいようだが念のためルビをつけた。
 俳句の大家の中には、使用する文言にふりがなをつけることを許さぬという人がいる。そういう指導者がたむろしている世界だから、初心者から老練の人までが極力、ルビを使わぬようにしているが、ぼくはこれには反対である。
 俳句は何も俳人だけの文学ではなく、広い意味では国民の文学であり、日本人で芭蕉や子規を知らぬ人はほとんどいないのではないか。
 だとすれば、明治時代の文語表現が新聞記事から姿を消して、短歌の世界でも現代かなづかいが主流をなしている状況を思えば、難しい漢字はなるべくふりがなをつけて、読み易く、一般に親しまれるように表現すべきではないか、と、ぼくは思うので、ルビつき俳句には賛成である。
 俳句の大家が難しい漢字を駆使するのは学のあるところを誇示しようとするのか、それとも俳界という特殊な世界の自惚れか、自己顕示欲か。ぼくに言わせれば驕りであろう。
 一句の鑑賞には人それぞれに鑑賞力の違いはあろうが、少なくとも読むという共通の土俵に上がらねばこの短詩形文学の繁栄はない。ぼくは、ものを書きながら、自分の読解力の弱さもさることながら、漢字を書く能力の低下していることにあきれることがある。
 どうしても思い出せない場合は辞書にたよることになるが、面倒でも辞書なしには文章が書けない。
 これは日本人一般の共通の悩みかもしれないが、とにかく、手紙は書かず、本は読まず、電話、ケータイ、パソコン、テレビに現を抜かす時代だから、活字離れが深化するのは当然である。
 しかし、せっかくの時評だから、一人でも多くの人に親しんで読んで頂きたいから、失礼とは思いつつもふりがなをつけるのである。
 同様なことは演説など話し言葉にも感じることである。学のあるのは分かっているが、一般の人には理解できぬヨコ文字や専門語が飛び出したりすることがある。そんな場合、解説したり、分かり易く話す工夫をすべきだが、大方は一方通行である。聴衆が居眠りするのは拒否反応と心得るべきであろう。【押谷盛利】

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2010年01月07日

未来をつくる新成人(見聞録)

 11日は、今年度に成人を迎えた若者が新たな門出を胸に誓う「成人の日」。長浜市内では前日の10日に成人式を執り行い、約1500人が大人の仲間入りする。
 成人を祝う儀礼の歴史は古く、男子には「元服」や「褌祝い」、女子には「裳着」「結髪」などがあったが、近年のような成人式は、終戦間もない1946年、埼玉県蕨町(現・蕨市)において実施された「青年祭」がルーツ。
 敗戦後、次代を担う若者に明るい希望を持たせて励まそうと、当時の蕨町青年団長が青年祭の開催を呼びかけたものだった。
 同町の青年祭に影響を受けた国は、1948年に公布された祝日法で「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」として、1月15日を「成人の日」に制定。それ以降、ほとんどの自治体がこの日に成人式を行うようになった。
 現在は祝日法改正により、1月の第2月曜日が成人の日となっている。
◇成人式は、当初こそ20歳を迎える若者を祝福、激励する催しだったが、近年は会場に入らなかったり、式典中の私語や携帯電話の使用などマナーの悪さがクローズアップされた。
 このため主催者の自治体は首長や来賓の挨拶などの式典を短縮し、新成人の有志に催しを企画してもらう同窓会的な雰囲気を強めている。
◇滋賀夕刊は、きょう7日付の2・3面で「成人式特集」を組み、市内の新成人15人に、決意や抱負、両親への感謝の言葉を投稿してもらった。
 この皆さんは、成人式の式典後に開かれる「新成人を祝うつどい」の実行委員会のメンバー。
 それぞれが、20歳の門出を迎えるにあたって、家族や地域への感謝の気持ちと、恩返しの決意を綴り、大人としての自覚や責任を胸に抱いていることがうかがえ、長浜の未来をつくる若者が頼もしく思える。
◇敗戦の焼け野原から資源のないこの国を経済大国に成長させたのは、勉学に励み、額に汗して働き、じっと忍耐と努力を重ねてきた先人達だ。
 その恩恵を享受している今の若者たちは、先人に恥じない努力が求められている。輝かしい未来をつくるのは若者だ。その思いを胸に、新たな歩みを進めて欲しい。

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2010年01月06日

一流と三流の混在時代

 大工には鉋と鋸が生命であるが、このほかにも手斧や鑿、錐など大切な道具がある。
 大工の親方を棟梁というが、昔の棟梁は今のような綿密な設計図は持たなかったが、それでも200年、300年もの耐用を誇る寺院や住宅を建てた。
 鉋のないころは、手斧がその役割を果たしたが、ちょうなは今も「ちょんな」の名で親しまれている。
 道具が一人前揃い、そして立派な設計書やそれに基づく材料が支給されたからといって、必ずしも立派な建築が建つものではない。そこには目に見えぬ職人の総合的な技術が要求されるからである。
 木造建築の基本は材木大工であるが、その前提の用地と基礎工事は不可欠であり、総合建設の場合、壁、屋根、樋、戸、障子、電気、上下水道、排水工事、冷暖房など多種多彩な工事と専門職人の技術をまたねばならぬ。
 このごろ、問題になるのは材料は支給されてもそれを使いこなす職人が不足していることである。逆にいえば、部品メーカーの指示に従えば特技のある専門職人でなくても、つじつまを合わせてどうにか格好がつくのである。つまりは玄人と素人の隔たりが薄くなった。
 住宅メーカーの説によれば築後20年保てば上々で、多くはそのころ移築するのが一般という。安かろう、悪かろうが、現代のあらゆる商品の潮流かもしれないが、それが勝ち抜き合戦の必勝法かといえば、左にあらず、といいたい。
 早い話、レストランや料理屋で、あそこの飯はうまい、うまくないがよく話題になる。うまい飯は使用する産地の米にもよるが、一番大事なのは炊飯の技術である。
 炊く釜や鍋にもよるし、水も重要な条件である。それにカマドで炊くのか、電気ガマなのか、ガスガマか。カマドの場合、燃料は割木か炭か、柴かも無視できぬポイントであり、さらには蓋の圧力、火の加減、炊き上げた後の保管、保温も味に関係する。
 これらを総合すればやはり、飯を炊く技術、専門職の領域となり、一流の板場はそれらにやかましい。
 昔のお母さんは、おばあさん、その前の代の大ばあさんらのやり方を見習って、いわばわが家の伝統の味を継承してきたが、今はそれがない。スイッチ一つでテレビを見ながら、昼寝しながら飯が炊けるからである。
◇話を元へ戻すが、大工がいい仕事をするのはいい腕を持つからで、その腕前は口で説明しても身につくものではない。
 鉋にしろ、他の道具にしろ、使い方に骨があるが、そのコツは先輩職人の作業や姿の中から自ら発見し会得するもので、説明を聞いて身につくものではない。
 2年、3年の徒弟時代の辛苦研鑽がちょっとしたきっかけから先輩を乗り越えるほどの技術のコツにつながるのである。
 その点でいえば、現代は職人不足のマニュアル時代であり、一流と三流の混在する時代である。たとえ一時的にはもうからなくとも、専門の技術に支えられた一流のものが最後には勝利するのではなかろうか。
 それは大工や板場の領域のみならず、学校の先生やお寺の住職にも、さらにいえば新聞記者にもいえることだろう。【押谷盛利】

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2010年01月05日

お屠蘇とお雑煮(見聞録)

 小生の元旦の朝の楽しみ方は、お屠蘇をちびちび頂きながら新聞に目を通すこと。薬味とミリンの甘さが心地良い。
 お屠蘇は、約1700年前の中国、ちょうど「三国志」の時代、名医・華佗が1年の厄除けと健康のために、山椒や桔梗など数十種類の薬草を調合して酒に浸して飲んだのが始まりと言われている。要は薬草酒だ。その名前は、邪気を屠り、魂を蘇らせることに由来する。
 大晦日の夜に日本酒とミリンを調合し「屠蘇散」を浸して作るのだが、屠蘇散がスーパーに見当たらず、結局、酒屋で試供品の屠蘇散を頂いた。
 ここ湖北地域では、正月に飲む祝い酒を「御屠蘇」と称し、屠蘇散を用いた薬草酒を作って飲む習慣は少なそうだ。
◇正月に欠かせないお雑煮は、それぞれの家庭に伝来のレシピがある。
 小生の家庭に伝わるのは、焼いたブリをほぐして、焼いた餅、サトイモと一緒に器に入れ、上から澄まし汁を掛けて、最後に三つ葉をのせる。
 滋賀夕刊の社員に、お雑煮のレシピを聞いたところ、まず、澄まし汁派と味噌汁派に分けられ、餅以外の具もばらばらだった。
 ハマグリ、焼き豆腐、カシワ、カマボコ、セリを入れ、鰹節をかぶせる賑やかなお雑煮もあれば、▽サトイモと大根▽豆腐と鰹節▽カブラのみ▽白菜のみ▽ゴボウのみ―というように肉や魚を入れなかったり、餅だけのシンプルなお雑煮も。
 餅は、長方形の切り餅と丸餅に分けられ、それも焼いたり、煮たり、と計4通り。
 いずれも家々の伝統のレシピを引き継ぎ、その種類の豊富さが楽しい。

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2010年01月04日

初仕事、ささやかな喜び

 あっという間に消えるひかりのような正月三日。雪のお陰で冬籠もりはできたが、朝からの屠蘇きげんで、予定の読書は牛歩にも及ばず、所詮、食って寝ての子どもに還った静かな三が日だった。
 根っからの仕事好きなのか、やはり、なにかしていないと落ち着かぬ。きょう4日は滋賀夕刊の仕事始め。いま書いている時評は「筆始」。午後、印刷機がフル回転した後、今年の情報発信が読者の手元に届くわけで、この初仕事が刷り始め。
 筆始は書初でもあり、いかめしく吉書ともいう。昔の武家が年の始めに上司に差し出した書類が語源だという。書初には筆と硯がつきものだが、硯に重点を置けば初硯ということになる。
 パソコンの今日、筆始でもあるまいが、さしあたり、ぼくの場合はペン始めというべきだろう。
 昔の人は几帳面で、季節季節の旬を大切にし、月に日に、木や花に、日常の生活においても喜びや夢を託した。仕事始めはその一つで、元気で新年を迎えることができ、いよいよ新しい年の仕事にかかるのだ、という意気込みや抱負が伝わる。
 昔の農家は農作業のかたわら機織りをした。それが機始であり、織初、初機ともいう。今は、安い衣類が出回り、新品を買ってはおふるを惜しげもなく捨ててゆくが、戦前までは、ほころびを直したり、裂け目を繕うのは主婦の役割で、正月三が日の休みのあと、初めて縫い針を持つのが「縫い初め」。小学校で女子に運針を教えたのは遠い夢のような話。時の移りが兎の住む月へ旅行できるというのだから、お針がなくなり、お針子が死語と化し、着物はあっても着付けのできぬのがご時勢。
 正月三が日は洗濯もせず、箒も持つなとは子どものころの母の言葉だった。だから「掃き初め」「初箒」なる季語がも生まれたわけだが、小沢チルドレンの新代議士が、小沢キャプテンのいうままにせっせと点数を稼ぐのを「ぞうきんがけ」という。自分の意思を殺して、ひたすら親方に忠勤を尽くす姿はいとおしくも哀れであるが、小沢一郎もかつては田中角栄にぞうきんがけした。
 歴史をさかのぼれば信長に仕えた秀吉のぞうきんがけが有名である。
 幸か不幸か、今の世はぞうきんの作り方も知らねば使い方もしらない。自分の顔の手入れには朝夕どころか、トイレのたびごと熱心だが、家の掃除や屋敷内の手入れには全く無頓着、土手も川も道路もなべては他人任せ、役所任せ。
 仕事始めの余暇に、頂いた年賀状を丹念に読むが、多くは年の終わりのあわただしさを証明するように木で鼻をくくったような味も素っ気もない風情。
 なかには清水めがねの正広さんのような五言絶句の漢詩で、老境未まだくたばらずの気概に触れるものもあるが、こうしたユニークな賀状は珍しい。どの賀状も判で捺したように「祈健康」型だが、健康がいかに大事か、みんな分かっているにしてはこの国の医療費は増えすぎる。
 90歳を超えたぼくの歌友は「車イスの世話になりながら、やっと年を越しました」とささやかな喜びを訴えていたが、涙ぐましい思いでこれを読んだ。【押谷盛利】

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