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消えてゆく湯潅と家族

 芭蕉は「奥の細道」に「月日は百代(はくたい)の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と喝破している。百代は、ひゃくだい、長い年月のこと。過客は行き来する人、行きすぎる人、旅人をいう。要約すれば人間の一生は旅のようなものだ、となる。毎日毎日が旅であり、過ぎゆく年もまた旅人なのだという達観である。
 仏語に「不生不滅」という言葉がある。生じることも滅することもなく常に不変である、という悟りの境界である。永遠の旅であるから、雨の日も雪の日もあるが消えることはない。
 滅することはないが、山あり谷ありで、恐ろしいことも不安なこともある、との意味で、人生を「不定(ふじょう)」と説く向きもある。
 不定とは定まらぬこと、確かでないこと。老少不定、生死(しょうじ)不定ともいう。
◇映画「おくりびと」が米アカデミー賞に輝いたのをきっかけに、これを観るべく映画館が割れるばかりに人気を集めているのは嬉しい悲鳴であろう。日本人の死生観に警鐘をもたらせる効果もあって、最近のうれしいニュースの一つである。
 人間は損をした、得をしたとか、儲け話や、流行などには気味が悪いほど敏感であるが、一番大切な生死の問題に案外無頓着である。死んだらおしまいである。何も残らない。持っていてもあの世へは持ってゆけぬ…などと割り切っているのに、いざ病気して、先行き不安を感じると、たいていの人はあわてふためく。
◇病気の原因は何だったのか、と、さかのぼって反省すると、暴飲暴食、過労、たばこ、ストレス、美食、運動不足、塩分、脂肪分過多、などあげられるが、病気が進行して末期症状になれば、どんな薬も治療も食事療法も決定的効果は期待できぬ。すべては因によって結果が生じるのみである。
 その点、人生は旅であり、不定である、と達観できる人は強い。さらに言えば、われわれは、肉体を借りて生きているにすぎない。本質は不生不滅であると信ずることが出来れば最高の幸せであろう。
◇「おくりびと」の映画で、納棺夫の存在がクローズアップされたが、忘れられてゆく言葉に「湯潅(ゆかん)」がある。死体を棺に納める前に肉親が湯水でぬぐい清める儀式で、湯洗いともいう。
 葬儀が専門の式場で行われ、一切が業者任せになってきたから、家族や近親者が湯潅することをしなくなったが、これがいいのか、いけないのか問題である。死者に心があるならば、業者による納棺ではなく、身内の者による湯潅と納棺を望むのは当然ではないか。
 親さまの最後を世話するのが子としての喜ぶべき務めではないか。もし逆縁にして、親より先に死亡すれば大恩ある親さまの湯潅、納棺が出来ないではないか。
 家族による湯潅の風習の消滅は、その後の弔いの厚薄にも影響するにちがいない。年回や供養が略されて、万事、お寺任せになってゆけば、身内親族の交流もうとんぜられてゆく。家を中心とする日本の伝統文化も形が変わってゆき、それらが日本の村社会、地方の荒廃につながってゆくことを思えば悲しむべきことといわねばならぬ。【押谷盛利】

2009年02月26日 15:57 |


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