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手抜き現象の気味悪さ

 麻生首相が「未曾有」を「みぞゆう」と読んだというので、その国語力が問われているが、首相に限らず思い違いしてスカタン読みすることは珍しいことではない。
 われわれは生まれて以来、日本語に接しているから、国語は得意なはずだが、国語とて勉強しなくては上達しないし、読解力のみならず、表現力がともなわない。
◇だれもが政治家や役人、弁護士、作家になるわけではないから、国語力をきわめるなんて大層なことは考えなくてもよいが、一応の常識程度の国語力は国民としての不可欠な教養であろう。
 国語の大事なことは今に始まったことではなく、明治以来、日本人は読み、書き、そろばんが出来れば一人前といわれた。読みは読解力、書きは書道と表現力、そろばんは算数である。
◇言葉は時代とともに変化するが、いつまでも変化せずに親しまれているのが古典である。しかし、その古典を読解するのが難しい。古事記、万葉集、源氏物語などの難しさは時代の変遷によるものとして、解説文にまたねばならぬが、心もとないのは、たかだか100年ばかり前の明治の文豪や詩人の作品が読み難くなったことである。明治、大正文学が古典に属するようになったことを思えば、国語学習の容易でないことがわかる。
◇国語力は本を読むこと、文章を書くことで上達するが、そればかりではダメで人と会話すること、人の話を聴くことが大事である。
 それを考えると、現代の情報化社会は、国語力をつけるにはマイナス要素がありすぎる。まず、家の中で会話が少なくなった。家族みんなが別々のテレビ番組を見、一家がそろって食事時などで会話することをしなくなった。
 テレビやビデオなど映像に遊びの時間を多く割き、読書の時間が少なくなった。手紙を出す習慣が失われて、電話か、ケータイのメールがそれに代わった。新聞や雑誌についても難しい文章や論文を敬遠し、事件もの、うわさもの、漫画などを見るだけという傾向が強まった。
 これがいわゆる活字離れ現象だが、これでは古典どころか、現代の文書にすら接する機会を失ってしまう。
◇このような現象を一口でいえば、ずぼら社会による文化の墓穴である。
 ずぼら社会は経済成長と科学技術の発展によって生まれたもので、いわば後遺症、公害のようなもので、その病状は取り返しがつかないほど深刻である。
 ずぼらは、手抜き現象に集約される。手抜きとは、手を抜くこと。汗をかくこと、辛いこと、苦しいこと、時間のかかることから逃げる流儀を指す。
 一番分かり易い手抜きは、掃除、洗濯、炊事である。これは素晴らしいことで女性が家事から解放されることを意味した。つまり、家事の電化によって、女性の生活時間にゆとりが生じ、それが女性の社会進出に一役買った。
 電話は電話器を回して、電話番号を交換手に申し出て、先方とつないだ時代があったが、それがダイヤル方式からプッシュホンに代わった。なるべく手をかけぬよう、らくをするやり方である。
◇家で炊事をすれば手間がかかるし、生ゴミが出る。それが出発点となって、外食産業や、加工食時代になり、火鉢やコンロから「チン」時代になった。
 手を使うのも足を使うのも、頭を使うのもいや。それが今、われわれを気味悪い世界へ誘ってゆく。【押谷盛利】

2008年12月11日 17:51 |


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