滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2008年11月29日

小泉容疑者と現代社会

 元・厚生省次官夫婦らを殺害した小泉毅容疑者(46)は、孔子のいう論語の「不惑」の年をとっくに過ぎている。人生における要(かなめ)の年代で、いわば日本を支える基幹年齢層である。
 理工系を得意として、少年時代の印象は賢くて明るい。大学を中退して社会人になったが転々として仕事が長続きしない。
 大学中退から今日に至るまでの4半世紀は長いが、その間の消息は不明な部分が多い。
 最近の2年間は無職だが、滞ることなく家賃を支払っており、逮捕時にも現金8万余円を持っていた。
 彼の見えない4半世紀の生活はおいおい明るみになるだろうが、これまでの聞き込みや関係者の話から分かったことは、人間性が荒(すさ)みきっていたことが分かる。
 気に入らないと大声を発して怒鳴り散らし、相手に恐怖心を与えることが多かった。
 近くの住人何人かが被害者になることを恐れて転居した話も伝わっている。
 タクシーがすれたと抗議し、補償を受け、病院通いを理由に毎日のようにタクシーを利用した。
 当たり屋の味をしめたのか、何かに言いがかりをつけて金をまきあげた形跡を感じとれる。
 そうした荒れた生活と心が言動に現れて暴力団員風にもみられたようであり、眼光も鋭く、裏社会で生きている感じが強い。
◇彼は少年時代、かわいがっていた犬が保健所に殺されたことにうらみをもって犯行に及んだと自白したが、その経過が余りにも長すぎて真実性に乏しい。
 彼が真実、犬の生命を重んじる動物への愛護心があるならば、人間を殺害する行為との矛盾、理由もなく2人を殺し、1人を刺した犯罪に対しては死刑もしくは長期懲役を覚悟しなくてはならぬが、そのことをどう考えたのであろうか。
◇彼の精神分析は容易なことではないが、図書館で官僚の住所を見つけ、それをたよりに被害者宅を見聞するあたりはしっかりした知性を感じさせる。
 殺害を自首して警視庁に出頭するパフォーマンスには一種の分裂症が垣間みられる。
 しかし、人を殺害しては、彼の人生は暗闇であり、結果は裁判を待たねばならぬが地上から消されてゆくか、牢獄で人生を終わらねばならぬ。
 生きるということ、気に入らぬ者を怒鳴りつけ、裏社会であれ、何であれ、好きに生きてきたこれまでの人生にけりをつけることを望んでの犯罪とは信じられない。
 つまり、殺人の動機が全く見えてこないところに今回の事件の不可解さがあり、これまでの心理学や犯罪統計を超えた別次元の因縁が作用している。
◇だから、法や、学問がいかに追及しても真相は解明できぬ。人間の体内に生じるガンのような腫瘍である。ガンは早期に発見し摘出したり、対症療養すれば大事に至らぬが、精神的ガンは発見も困難なれば治癒策も難しい。
 第一に本人が病人であると自覚しないからである。
 実は心を病む精神的ガン病者がうろうろしているにも拘わらず、その予防や対策が全くおろそかにされているのである。これゆえに、信じがたい犯罪や殺人事件が毎日のように発生しているが、為政者や国民はこの社会的現象をどう受けとめているのか。
 根本から現代人の生活を総括しなければならぬ。【押谷盛利】

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2008年11月28日

滋賀を盛り上げる気持ち(見聞録)

 プロバスケットボールの滋賀レイクスターズが来月、いよいよ湖北地域に上陸し、米原市の県立文産会館でホームゲームを行う。
 レイクスターズは、湖北町速水出身の坂井信介さんが中心になって立ち上げたチーム。「滋賀に担げる神輿がない」とプロスポーツチームの不在をもどかしく感じ、昨年4月からチーム設立に奔走していた。わずか、半年でリーグ加盟にこぎつけ、今秋からの参戦となった。
 坂井社長は「3年以内に優勝を目指したい」と意気込み、長浜ドームでの開催も夢見ている。
 地元での開幕戦から4連敗したものの、その後は独走する琉球ゴールデンキングスの10連勝を阻止するなどの活躍を見せ、ここ最近3連勝して、6勝6敗の五分となっている。今週末には守山市民体育館で埼玉ブロンコスを迎え撃つ。
◇試合結果もさることながら、「ブースター」(サポーターの意味)の開拓も欠かせない。
 目下、県内の学校などで「バスケクリニック」と題したスポーツ教室を開催している。依頼があれば、選手やチアリーダーが現場を訪れ、子ども達とバスケットボールを通して交流を深めている。
 滋賀県のバスケットボールの競技人口は他県に比べて多く、10代では20人に1人とも言われている。レイクスターズが地元を代表するプロチームとして定着する素地は十分ある訳だ。
◇司令塔・ポイントガードの小川伸也選手は長浜小、長浜西中でプレーしていた。チアリーダーの林留美さんは長浜市八木浜在住で、市役所勤務を経て、現在は市内の企業で事務を担当しながらの二足の草鞋。
 坂井社長をはじめ、チーム関係者への取材で伝わって来るのは「スポーツを通して滋賀を盛り上げたい」という熱い思い。
 それに共感するからこそ、お膝元で行われる来月13、14日のホームゲームでは、満員の観客席で選手やチアを迎えられれば、と願う。

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2008年11月27日

殺人事件と複合汚染

 道義のすたれた世の中を末世(まっせ)という。仏教による言葉で、末法の世。釈迦入滅後の仏法の衰えた世をいう。のちの世、後世。
 末法は仏法の行われる時期を三つに分けた時期のうち、最期の退廃時。釈迦の教えが説かれるだけで修行するものもなく、悟りをひらく者もいない時期。
 さきの秋葉原の無差別殺傷事件、今回の元厚生次官宅への相次ぐ襲撃、殺傷事件を考えると、いよいよ末世、末法の世の到来かと、しみじみ強い不安感にさいなまれる。
◇マスコミや事件捜査の関係者は、本人の言葉や行動、生活の実態等を追いながら、事件の核心や真実を追及しようとするが、ぼくはナンセンスである、と思っている。
 はっきり言えることは、小泉毅容疑者(46)は分裂症であり、神経が正常に機能していない。ということは、あるときは普通人としての知能や判断力を発揮するが、別のときは自己の判断や行動に対するチェック機構(人間としての良心、良識)が消えていくのである。
 言わば、正常に生きているかと思えば、別のときは全く正常性のない生き方をするのである。これがいわゆる分裂症で、根源は脳細胞に存在するが、ロボット時代に入ったにも拘わらず、わが科学は、このうれうべき病気を根絶したり、治癒することはできない。
 しかも、なお恐るべきことは、これら分裂症的人間がますます増えてゆくことである。
 ストップをかけられないところに今日的危機というべきか、文字通りの末世の悲しさを苦しみつつ生きねばならぬのが現代の文明人である。
◇この末世現象はぼくが早くから訴えている新時代の複合汚染によるもので、近代文明の負の部分の集積が近代人の墓穴を掘ってゆくのである。
 複合汚染の実態は限りなく複雑で、広汎にわたっており、一部で懸命に反省と切り換えが叫ばれているにも関わらず、その波は止めようもなく激しい勢いで人類の明日をむしばみつつある。
 複合汚染は、快適な暮らし、豊かな物質、豊かな食糧、便利でスピード感のある生活を夢見た人間の欲望の所産であるといえば皮肉だが、まぎれもなく、この近代的物質文明のゆきつくところが手に負えぬ汚染を副次的に生むことになった。
 しかも、これは物質文明の世界に止まらず精神性の上に画期的な変化をもたらした。それは宗教の衰微、もしくは無神論の台頭、さらには道義心の低下、伝統や歴史の軽視。
 これらは最終的に自然破壊と反自然生活に結びつくようになり、残念なことに、人間を幸せにするはずの近代文明が逆に人間を不幸に、そして人類の破滅路線に向かうのである。
◇複合汚染を詳述するには、紙数が足りぬが、今回の事件のなかに一つのヒントをうかがうことができる。
 小泉容疑者は、犯行の前日、田舎にいる父親に何十年ぶりに電話している。そして、近く手紙がつくはずだから読んでくれ、といった。父は、息子が嫁ごでも迎えてくれるのか、と喜んだというが、この一連の報道の中で、多くの人は、子離れしていない父、父離れしていない息子を思うのではないか。容疑者は未婚だが48歳である。世帯の早い人は孫を見ている年齢である。その、いい齢(とし)をしている男が、子供か20歳くらいの青年の心境で父に甘えの電話をしているのだ。
 このような現象は小泉容疑者だけでなく、今の日本の若い男性にも随分多く見られる異風景である。家庭内で子を育て、20歳前後に毅然と独立してゆく人間の成長、この人間界の自然の伝統が今は乱れられてしまった。さらに言えば、容疑者は定職のないまま普通の生活をし、酒も飲んでいる。実はこういう人間が増えているのだが、それを国も社会も正視していない。精神汚染のほんの一例である。【押谷盛利】

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2008年11月26日

諸行無常と熊谷さん

 「不思議な話」、「不思議な事件」、「不思議な出会い」。
 だれでも経験することだが、驚くほど不思議な思いをすることがある。
 25日のぼくの心境がそれであった。
 この日、ぼくは正午から好日社の歌会に出席していた。
 歌会が終わって新聞社へ帰ったのは午後5時前だった。帰社と同時に一番先に目にしたのはその日の滋賀夕刊である。4面を見ると「熊谷健三氏が死去」と2段記事でトップに報じているではないか。
 ぼくと熊谷さんとのつきあいは50年にもなろうかという古い誼みである。滋賀夕刊にはときどき小説を発表してくれたり、投書を送ってくれたり、ときには有益な情報や紙面批評を頂いたりして、言わば滋賀夕刊の社友のような貴重な読者でもあった。
 その熊谷さんの死去の記事の隣りに、余呉町の残景寺の住職・横山義淳さんの「仏語・世ばなし」が載っている。
 見出しを見て、あっと驚いたのである。「諸行無常の響きあり」とあるではないか。まるで熊谷さんの死と、諸行無常が響きあっているかの如き編集ぶりで、そのタイミングのよさにびっくりしたのだが、4面の一番下の戸籍欄を見ると「お誕生」が5人。「ご結婚」が12組。そして「おくやみ」に10人。熊谷さんを含めると11人がこの世を去っている。
 生まれてきた赤ちゃん、新しい世帯を持つ新婚夫婦、めでた、めでたのニュースであるが、その一方で、野辺送りの死を迎えるのが諸行無常の人生である。
◇そのとたん、ぼくはこの日の歌会での北川三子さんの歌を思い出した。
 「あかときの舎那院さんの鐘の音 諸行無常と身にしみるなり」。
 これが三子さんの歌である。歌会で諸行無常の歌に触れて帰ったその直後、滋賀夕刊で「諸行無常の響きあり」の横山住職のエッセイを読んで、そのあまりの偶然、不思議さに驚いたことである。
◇さて、熊谷さんは滋賀夕刊を通じて、広く読者にさよならのメッセージを伝えている。
 93歳、文字通りの天寿を全うされたが、死出の旅にあたり、「いま、黄泉(よみ)の世界を目指して三途(さんず)の川を渡ろうとしています。長い間いろいろと有り難うございました。永遠にお別れします。さようなら」と書いている。
 おそらく死期を予感して半年程前に書き残したのでは、と長男の幹男さんは語っている。
 熊谷さんは大腸ガンが転移し、20年の間に4回も入退院や手術を繰り返し、最期は喉頭ガンの放射線治療を受けて自宅療養を続け、家族の厚い介護の中で永久の眠りについたが、生前、尊厳死協会に入会し、無理な延命施術を拒否したこともあって、医師、家族らの協力のなか、ろうそくの火が消えてゆくような老衰死であった。
 わが家で、家族にみとられながら一世紀近い大往生を遂げられた故人の生きざまは見事であり、それまでの人生に珠玉のような光りをそそぐのである。
 熊谷さんは多くの小説や文学作品を世に残したが、現役時代は時計商としてパウにも参加し、商店街の育成にも尽くしてきた。ご冥福を祈るばかりである。【押谷盛利】

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2008年11月25日

金田一講演を聴いて(見聞録)

 長浜文芸会館で24日、言語学者・金田一秀穂さんの講演を聴いた。
 秀穂さんは日本語学の権威である祖父・京助氏、父・春彦氏に続く日本語研究の第一人者。現在は杏林大学外国語学部教授を務めている。海外での日本語教育経験も豊富で、最近はテレビのクイズ番組などに出演しているとあって市民約250人が聴講に訪れた。
 秀穂さんは大学の講義や研究室で若い学生を相手に気兼ねなくおしゃべりする関係からか、「最近、若者の言葉が乱れている」との批判に対し、「正しい日本語はどうでもいいんじゃないか」と疑問を投げかけている。
 言葉は「気持ち良いコミュニケーションのため」「より良い人間関係を作るため」に存在し、そして生き物のように、常に変化し続けていると。
 「正しい日本語を知っている人は少数派」とさえ語り、新聞やテレビのニュース番組などは万人が理解できる言葉遣いを求められるが、友人、家族、職場では、その空間でしか通じない言葉がふさわしいという。
◇「あっざーす」。これは最近の若者が用いる「ありがとうございます」の略。テレビ番組でも若手タレントが用いているが、これで感謝の意が伝わるのか、と、多くの大人が眉をひそめていることだろう。
 しかし、格闘技などのあいさつで使用される「おす」は「おはようございます」、寿司店などの「らっしゃい」は「いっらしゃいませ」、宅配便などの「ちわー」は「こんにちは」というように、あいさつの省略はすでに市民権を得ており、言語変化の観点から必然性がある、と秀穂さんは指摘する。
 若者言葉だけでなく、コンビニやファミリレーレストランでの形式的で無機質な、どこか変なあいさつも、言語学上、必要性があって生まれた。
◇「あっざーす」も言語変化上、致し方ないと語るのだが、秀穂さんは「それでも腹が立つ」という。
 というのも、常に言語変化のアクセルを踏んできた若者に対し、すでに言語感覚を確立している大人は若者のそういった言葉遣いを直感的に「乱れ」と受け止め、ブレーキをかける。
 その両者のバランスのうえで、言語は緩やかに変化するという。
◇「言葉は自身の心を表現し、心は言葉で形作られる」―。金田一さんはこう分析している。
 どうすれば気持ちのよい言葉遣いになるのか。それは、人へ伝えたいという気持ち次第だという。
 「あっざーす」「ありえない」「びみょー」「普通にかわいい」など眉をひそめる若者言葉が氾濫する一方で、大人の間でもうんちく本を参考にした形式的な手紙やあいさつが広がっており、それは、薄っぺらな言葉の羅列に過ぎない。
 秀穂さんはそう警鐘を鳴らしている。

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2008年11月21日

湖北地域の将来は?(見聞録)

 守山市の「ピエリ守山」、大津市の「フォレオ大津一里山」、草津市の「イオンモール草津」―。湖南地域に大型ショッピング施設が相次いで完成し、21日までにすべてオープンした。
 京都、大阪への通勤圏としてのベッドタウン化、立命館や龍谷などの大学の誘致など、湖南地域は目まぐるしい程の発展を遂げ、全国でもまれにみる人口増加地域として注目されている。
◇小欄は幼少期から高校時代までを湖南で過ごしたが、当時は守山駅前や草津駅前に商店街が並んでいるだけで、それ以外は田んぼが広がる典型的な田舎だった。琵琶湖周辺には何もなかった。
 それが今や、栗東駅や南草津駅の新設に伴ってマンションが立ち並び、大学誘致で若者人口が爆発的に増えた。企業や商業施設も次々と進出し、新たな雇用も生まれている。第2名神の開通も、今後の成長を後押しするだろう。
◇転じて、湖北地域では、少子高齢化、若者の流出による過疎化が続き、このまま放置すればジリ貧になるのは、容易に想像できる。長浜市の人口はかろうじて微増しているが、ブラジル人労働者ら外国人の流入による効果もある。
 さて、この湖北地域をどうするのか、目下、1市6町で合併協議が進んでいる。
 総務省や県はこの合併を成功させようと積極的に推進し、6町の町長、議員は失職覚悟で編入協議に臨んでいるが、肝心の長浜市議会の意見が分裂し、協議が頓挫している。
 平成22年3月末日までに合併すれば財政的特典が付くのだから、期限内を目指すのが得策だが、これ以上、協議がストップすれば、難しくなる。
◇合併推進を求める市議会議員16人は連名で本日付滋賀夕刊に「合併は新しいまちづくりのチャンス」と題した意見広告を掲載し、合併の必要性と効果を説いている。
 一方、慎重派議員は1市2町(旧長浜・浅井・びわ)のまちづくりを優先させよと訴え、この論調は市議会会派「市民の声」が4日付滋賀夕刊に出した意見広告に見られる。
 合併は自治体のスリム化、効率化を促すが、小欄が注目するのは広域的視点で様々な取り組みを行えること。積極的な土地利用や、道路交通網、公共施設の整備、バス路線の設定などを、これまでの市町の垣根を無くして取り組める。
 幸いにして湖北地域はほぼ平野で、交通アクセスが便利。通勤、通学、生活圏として互いに結ばれており、古くから一体感が醸成されている。
◇合併を考えるうえでどういう視点を持つのか。湖北地域全体の将来を考えるマクロ的視点なのか、現在の長浜市だけを対象としたミクロ視点でゆくのか。
 18日付滋賀夕刊に投書した長浜市勝町の北川康二さんは、親戚関係を引き合いに出し、「湖北は一つ」としてマクロ的視点に立ち、合併を求めていた。
◇田舎の地方都市でしかなかった湖南地域が、今般の成長を成し遂げたのは地勢もさることながら、当時のリーダー達の先見の明があったことだろう。長浜はどうか。

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2008年11月20日

情報洪水と情報バカ

 来る日も来る日も、ろくでもないニュースが流れてくる。それこそ、ひっきりなしの性悪(しょうわる)の暗いニュースのオンパレードである。
 このごろはニュースと言わず、情報というらしいが、アホが足らいで、なんでも流しておけば国民が喜ぶとみてか、それこそ情報の洪水である。
 大雨による洪水は牙をむくように政治や行政に噛みつくくせに、情報の洪水には知らんぷりしてテレビバカになっているのが大方の国民である。
 その情報過多によって、肝心なニュースや知らねばならぬ情報への関心が薄まったり、反応する感度が落ちてしまった。
 つまり、刻々と報道されるニュースに対して怒ったり、考えたり、悲しんだり、笑ったりする感情が鈍くなった。
◇もう少し分かり易くいえば、われわれの目や耳に触れる情報がありすぎて、どれが肝心なのか、どうでもよいのか、見分けがつかなくなり、ものの軽重の判断すら出来なくなった。
 ニュースといえば、もともとは新聞かラジオの専売特許だったが、いまはテレビ、インターネット、雑誌、週刊誌のほか、趣味、映画、旅、美術、スポーツ、ペット、住宅、食品、医療、経済その他もろもろの専門レポ紙(誌)が山程もある。
 それら私的営利関係情報産業のほかに公営ともいうべき県、市、町の広報紙がある。
 なんぼ有能で、才覚ある人でも、これらのたれ流す情報にすべて目と耳を通すことは不可能である。
 いきおい、ご飯(はん)でいうならば、茶漬けさらさらと流し込むから胃の満腹感のためには摂取量だけが多くて、病気のもとになる肥満体質になる。
 情報を茶漬け同様に流し込むと、消化がうまく出来ず、脳の中の血肉となりにくい。第一、目を通すことや聴くことがわずらわしくなり、単純化、平易化、漫画化を好むようになる。
 これが正直なところ目下の情報洪水による知的汚染であり、窮極すれば情報バカ社会の到来である。
◇カネがない、予算がない、というのだから、県や市、町は一日も早く、ろくでもない広(公)報紙をやめるべきである。
 一般、県市民がどれだけ読んでいるのか、世論調査すればすぐ分かるはずだが、多くは他のチラシ並みに見向きもせずに燃えるゴミ行きであろう。
◇漫画は絵が楽しみで、分かり易いから、そして考える時間がいらないから大人にも子供にも人気はあるが、考えることが億劫(おっくう)になったり、文章を味わいながら読む習慣を失うようになると、思考作業による能力開発にマイナス効果を生じるのではないか、とそれの心配もある。
◇日本の子供の学力低下が問題になって、文部省が学力調査を実施した。その結果が日教組という先生の労働組合との関連のなかで、日教組の強いところは子供の学力が弱いというデータが出て大騒ぎしているが、多くの国民は情報過多の悪い部分の影響で、ものごとの真実を把握しかねている。
 このようなあすの国民の文化的資質に関する問題こそ、もっともっと情報を流すべきであり、国民もそれを求むべきである。【押谷盛利】

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2008年11月19日

ときわに、かきわに考

 ぼくの甥に金属関係の会社を経営している社長がいて、毎年、三陸沖を南下する旬(しゅん)のさんまを送ってくれる。今の「ときわ」、合併前の常磐市に東北工場を設けたのが、きっかけで、季節に入る最も美味な水揚げ直後のさんまを直送してくれるので近所にお裾分けするやら有り難い御縁である。
 常磐は福島県の南東部、太平洋岸にあり、常磐(じょうばん)炭田で広く知られている。
 福島、茨城両県にまたがる炭田で、その中心が「ときわ市」。昭和51年に閉山したが、かつては福岡県の筑豊炭田、北海道の石狩炭田に次ぐ炭鉱の町だった。
 筑豊は日本一の出炭量を誇り、いまの麻生太郎首相の本拠地であり、麻生家は西のお殿様であった。
 石狩炭田は夕張に代表される良質の石炭で栄えたが、平成7年(1995)閉山した。
 今は夕張メロンで有名だが、冬の味覚「石狩鍋」は全国メニューになっている。
◇さて、常磐(じょうばん)を「ときわ」市と仮名書きにしたのは賢明であった。「常磐御前」で知られるように「ときわ」の方が全国向けであり、意味も炭鉱のイメージを払拭して「永遠」を思わせる。
 古事記に「常磐(ときわ)に堅磐(かきわ)に動かず坐(ま)さむ」とある。
 かきわは、固く、しっかりした岩のことで、「ときわかきわ」は永久不変のめでたさをいう。
◇常は一字でも「ときわ」と読み、京都の右京区双ヶ岡(ならびがおか)の南西にある「常磐(ときわ)」という地名の由来はこの地に左大臣・源常(みなもとの ときわ)の山荘があったからと伝えられている。
 源常は7世紀、平安前期の公卿で父は嵯峨天皇。兄弟と共に源朝臣姓を賜わり、当時宮廷政治の首班として一大政治力を発揮した。
 常磐御前(ときわごぜん)は源義経の母で、近衛天皇の中宮に仕えたころ源義朝の妾となって義経を生んだ。義朝の死後、母と子の赦免を条件に平清盛の妾となった。
 このとき一命を許された頼朝、範義、義経らが成長後、平家滅亡の主役になったのは歴史の皮肉といえよう。
◇ときわは、とこいわの音変化で、常に変わらないの意味。常は、一般的には「つね」、「じょう」と読み、いつまでも同じ姿で長く続くことをいう。
 いつまでも長く続いて変わらない物事や道理を「五常」という。仁、義、礼、智、信の五つの不変の道理のことである。
 人が常に守るべき道が常道、戦うごとに必ず勝つのが常勝。
 このごろは常識外れの変人、奇人が多く、常軌を逸した行いもあって、常住坐臥、平穏無事、安らかな人生がおかしくなってきた。【押谷盛利】

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2008年11月18日

大麻に見る罪意識(見聞録)

 大学生の間で大麻汚染が広がっている。慶応大、関西大、法政大、同志社大、早稲田大の学生が相次いで逮捕された。その背景に、若者の罪意識の希薄化があるのではないだろうか。
◇大麻取締法違反の最高刑は所持で懲役5年、営利目的の栽培で懲役10年。
 しかし、同法は大麻種子の所持、大麻の使用について処罰する規定がない。このため、大麻種子がインターネット上で販売され、誰でも容易に入手できる。そして栽培、吸引、売買…。
 さらに、ネット上では日本の大麻規制を批判し、少量所持を認めているヨーロッパの国を例に挙げて、大麻の使用を擁護するサイトや書き込みが少なくない。
 紀元前から薬草の一種として利用され品種改良されてきた歴史や、タバコやアルコールに比べて有害度が低いとのデータを紹介し、「大麻を合法化せよ」との論調も。
 今の若者がネット上に溢れるこういった情報に感化されて、大麻を購入したり、使用したとしても何ら不思議ではない。「危ない遊び」くらいにしか思っていないのだろうが、法律で規制されている以上、その代償は小さくないことを知るべきだ。
◇大麻は、免疫力の低下、白血球の減少、異常行動、思考力低下などを引き起こし、社会生活ができなくなる場合もある。また、ヘロインやコカインなどの覚せい剤のゲートウェイ(入り口)となりうる。
 先月、米原市内の男性に覚せい剤を売ったとして名古屋市内のイラン人の男2人が逮捕されたが、自宅からは覚せい剤のほか、違法ドラッグ、大麻などが押収された。売人は大麻も覚せい剤も分け隔てなく扱うのだ。
 最初は、依存症状の少ない大麻を興味本位で試したつもりが、その好奇心から覚せい剤に手を出してしまうことに。そうなれば後戻りはできない。「人間やめますか」のフレーズに代弁されるように、覚せい剤は使用者の精神、身体を蝕むだけでなく、身近な人間関係、家庭をも破壊する。
◇広がる汚染を食い止めるには、ネット情報に惑わされない徹底した啓発が必要ではないか。もはや芸能界や角界だけの話ではない。

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2008年11月17日

いちやつきの言葉遊び

 男女が、でれでれするのを「いちゃつく」というが、明治時代の文語文は「いちやつく」と書く。
 明治に入って、文学者の間で、文章の文語体に疑義を唱える人が増え始めた。それまでは役所の文章、手紙文、作家の評論、小説など、すべてが文語体だったが、文章はもっと安易でなければ、との世論が高まり、作家や詩人の中から言文一致運動が高まり出した。
 つまり、話し言葉のように文章も口語体にするべきだという文体論である。明治後期から大正、昭和を経て、小説や評論等から文語体は消えたが、今も詩歌の世界では文語、旧かなに固執する歌壇や歌人、俳人が多い。
◇戦後教育を受けた団塊世代以降の人は口語文と新かなづかいに馴れているから、明治文学に接する場合、違和感というか、不可解なところがあり、わずか50年~80年の差であるが現代文に翻訳しなければ読めない人が多くなった。
 ぼくは古典の勉強も兼ね、先人の国語になじみたく、短歌や俳句では旧かな、文語調を用いるが、それでも自由な表現を学習するため口語、自由の新短歌の結社にも入っている。面倒ではあるが、表現者としての自己鍛錬と思っている。
◇さて、文語、旧かな体の「いちやつく」を通じ、少し日本語の面白さを味わいたい。
 いちやつくは、漢字にすれば「一夜撞く」、「一夜突く」、「一夜漬く」、「一夜搗く」、「一矢付く」、「一夜浸く」、「一屋浸く」など幾つかが挙げられる。
 一夜撞くは一晩中鐘を撞くことを意味するが、よく似た言葉の「一夜突く」は意味深長であり、何を突くのか、目的格の言葉がないから分からない。
 槍の稽古で一晩中、藁人形を突くことも想像されるが、新婚夫婦のベッドシーンに思いを寄せる人もあろう。
 鐘を撞(つ)くの「撞く」も鐘に仮託、ともとられる。吊り鐘は撞木(しゅもく)で撞くから、撞木を男性にたとえた情歌の世界である。
 「一夜漬く」は、一晩漬ける、の文語表現で、いわゆる一夜漬けのこと。
 「一矢付く」は、一本の矢が鎧(よろい)の一部に刺さって、それが抜けずに付着しているという意味にとることが出来よう。
 「一夜浸(つ)く」は豪雨の浸水を念頭に浮かべれば理解しやすい。一屋浸くは、一軒の家が水浸かりというわけ。
◇思いついたまま言葉遊びをしたが、手紙における候文(そうろうぶん)も勉強すれば面白く痛快である。
 「当方、無事に罷(まか)り在(あ)り候へば御安心被下(くだされ)度(たく)候」
 こちら無事に過ごしていますゆえ、ご安心下さいませ。
 動作や存在の敬語に「ござります」があるが、候文では「御座候」。【押谷盛利】

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2008年11月15日

医療と医師不足の問題

 夜中に救急病院をたらい回しにされた挙げく、8軒目の病院に着いたころは手遅れで死亡した、という妊婦の悲劇が東京で起きた。
 東京という大都市であるだけに国民のショックは大きい。
 東京の一局集中は、かねてから日本のいびつとして問題になっているが、石原慎太郎氏が知事になってから、政治家が恐れをなしたのか、首都移転論などが消えてしまった。首都移転は大きすぎるので国会及びその関連機構を移転しては、などの意見も出て、一事は東北地方、東海地方などに移転候補地を模索する動きもあったがいつの間にやら立ち消えてしまった。
◇東京は政府など行政が霞ヶ関に位置し、立法機関の国会が永田町。網の目の地下鉄やJR、私鉄など各地のターミナルを中心に大学、病院、商業地が立地し、その他、国単位の政治経済、文化、労働の連合組織や府県の出先、大会社の本社、各種団体が群がっており、加えて外国の公館もあってさながら日本国の縮図となっている。
 首都圏の膨張は止めようとしても止められぬ勢いであるが、その反面、社会不安の危機をはらんでいる。
◇医療問題もその一つであるが、人口が多いだけに医療の需要はますます上昇する。しかし医師の東京集中にも拘わらず、患者の対応が充分とは言えない。今回の事件が示すように東京でもお産が不安になった。
 日本は高齢化時代を迎え、老人介護施設の増設、新設が盛んであるが、医療現場においては医師の意識変革があって、例えば産科を回避する傾向や公立病院の医師不足が問題になっている。産科の医師が不足すれば総合病院でも産科を縮小閉鎖するところが出てくる。
 当然ながら開業医の産科も少なくなる。それに看過できぬのは、土、日、祝日などにおける当直医の不足である。
 つまりは、医療施設そのものは近代化し、整備されたが、それを利用して医療行為をする医師不足が問題なのである。
◇医師の意識変革の一つは「医は仁術」であるとの崇高な精神が消えて「医は算術」になり下がったこと。
 いま一つは医師の日常生活への欲求であろう。ことに産科や外科は急を要する患者が相手だけに、夜中に呼び出されたり、対応しなければならぬケースがある。
 家族と気晴らしに旅行することにも内心不安を抱えることもある。普通のサラリーマンのように9時出勤、5時退勤というようなリズミカルな勤務は困難で、常に担当の患者の病態を忘れることは出来ない。
 第三はこのごろ恒常化している医療トラブルの問題があある。医療ミスの追及が莫大な補償金沙汰になることもあり、そうした危険を伴う産科や外科から遠ざかる傾向が医師の卵に芽生えているのも事実である。
◇医師不足は地方には特に深刻である。本県においても彦根市民病院、長浜市民病院、湖北総合病院などいずれも医師不足に悲鳴をあげている。
 それぞれの自治体は住宅のほか、待遇改善その他で医師の確保に懸命だが、開業医の所得に比べて割安というネックがあって人気医師の定着を困難にしている。
 もちろん、このほかに子供の教育問題や文化的環境への不満等、地方の医師不足につながる材料は減ることがない。
◇国は早くからこれを見通して、各地に自治医大を設けて、地方医の養成と定着を図ったが、効果を発揮しているとは言えない。人口の都市集中は、経済の集中と一体化しており、当然それは教育、文化、医療の集中現象を生む。
 地方の医師不足は、ますます過熱するであろうし、同時に大都市の医療施設は増える患者に対応できなくなる公算が強い。
 うなぎ上りの医療費は患者が多くなったこと、国民がクスリ漬けになったことと無関係ではない。この際、抜本的医療制度の改革と国民の健康教育の見直しが望まれる。【押谷盛利】

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2008年11月14日

自治体のドル箱は今…(見聞録)

 群馬県は11日、主催する競輪事業から今年度限りで撤退する方針を明らかにした。収益が減り続け、今後も累積赤字が膨れ続けると分析したためだ。同県は4年前にも地方競馬を廃止しており、今度の県営競輪からの撤退ですべての公営ギャンブル事業から手を引くこととなる。
 競輪や競艇、地方競馬などの公営ギャンブルは、その利益の一部を自治体の一般会計に繰り出しており、「自治体のドル箱」と呼ばれた。
 しかし、近年はファンの高齢化、レジャーの多様化、パチンコなどの別ギャンブルへの移行により減収続き。利益を出せず、赤字に陥れば、その穴埋めは一般会計で補てんすることとなる。
 ギャンブルという「後ろめたい」事業は、自治体の財源や地元雇用への貢献があるからこそ大義名分が立ったが、赤字を税金で尻拭いする事態となれば、納税者への言い訳も立たない。撤退しかない訳だ。
◇びわこ競艇を運営する滋賀県も、その収益の一部を一般会計に繰り入れ、福祉、教育分野で活用してきた。ピーク時の平成2年には47億円を繰り入れ、県の財源を潤したが、売上減少により、昨年度は2000万円にまで減った。
 効果的な対策を打てず、このままジリ貧が続けば赤字転落の危機もありえ、存廃の選択を迫られることだろう。
◇先週の日曜、所用で静岡県に出かけた帰り、浜松オートレース場をのぞいた。
 オートレースはバイク競技で、公営ギャンブルのひとつ。一般的には8選手が1周500㍍のコースを左回りに走行する。平均時速は105㌔。バイクは特殊な構造で、ハンドルの左側が異様に高くなっている。最大38度も左傾して走るため、路面にハンドルが接触しない措置だ。ブレーキも付いていない。
 この競技の最もユニークなのは、選手の技量によって10㍍単位のハンデが設けられていること。最大で110㍍後方からスタートすることもあり、速い選手が勝つとは限らず、予想にはコツが必要。
 川口、船橋、伊勢崎(※市営)、浜松、飯塚、山陽の6カ所でしか開催されておらず、関西ではあまり馴染みのないスポーツだ。
 最近、若者の間でも人気を集めている、と聞いていたが、レース場にいた客の9割は年配の男性。女性の姿は数えるほどだった。観覧席もガラガラで、響きわたる「爆音」が、どこか淋し気だった。
◇かつては地方自治体の財源を支えた公営ギャンブルは、お荷物となりつつある。
 ただ、それはファンの高齢化やレジャーの多様化という外部要因だけではあるまい。「公営」ゆえもあるだろう。自治体にカネ儲けができないのは、3セク事業の破たんに見て取れる。
 民営化こそが、これら地方の公営ギャンブルの生き残る道だろうが、現在の法律は、パチンコ業界に配慮して、それを許さない。カジノ合法化が遅々として進まないことで理解できよう。
 カジノが許されない日本において、独特の文化を築いてきた競馬や競輪、競艇、オートレース。次々と消え行くのも、やはり時代の流れなのか。

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2008年11月13日

あな恐ろしきかなかね

 株は本来は会社の経営に間接的に参加する投資であるが、今のように市場で売買される相場主体の取引は完全なるマネーゲームである。
 ゲームである以上、これは博打(ばくち)である。博打は法でおとがめになるのではないか、と反問する向きもあるが、法の抜け穴で、公序良俗を乱すものでなければ許される。
 少し面倒な言い方をしたが、例えば競馬、競輪、競艇を考えてみよう。
 これは、馬券などクジ引きのような券を買って、競争の馬や自転車、ボートの勝者にかけるシステムで、当たった券が売り上げから経費などを引いて賞金として支払われるのである。
 競馬の場合は、先頭の馬にかけたり、1等2等の続きにかけるやり方もあるが、いずれにしても丁とかけて、丁が出れば勝ちという単純なものだから、明確な博打である。
 しかし、ほとんどが公営で行われていて、その胴元が府県や市など自治体であり、胴元の利益金は福祉に使うとか、公益という名目があるから法律違反をまぬがれる。公序良俗に反しないというわけ。
 公序良俗は、おおやけの秩序と善良な風俗のことをいい、博打でなくともこれに反する場合は法律違反でおとがめを受ける。
 そこで、それでも競馬は博打ではないか、という人のために「公営博打」という。冷やかし言葉であるが、真実をうがっている。
◇話を元に戻せば、株も上がったり、下がったりで、笑う人、泣く人、さまざまだが、博打であって博打に非ずというのであるから、これも一種の公営博打といえよう。競馬は良株の馬を育てるという農水省のおすみつき。株は経済界に広く投資をという。これまた財務省、金融庁のおすみつき。
 おすみつきだからといって、ケガをしたら手当てをしてくれたり、なにがしかの補償をしてくれるわけではない。
 自業自得である。この点は本ものの博打と同じである。
◇ぼくは本ものの博打には仕掛けがあるのではないかと思っている。
 博打はバクチ打ちと呼ばれる人のする「かけごと」だが、それで飯を食うのは親分であり、そういう世界の渡世人を「やくざ」という。インチキを悟らせないで、インチキをするのが腕ききのヤクザであるが、素人は1回か2回、甘い汁を吸わされてひどいめにあうことがある。おおやけに利するところがないから公序良俗に反するとして、取り締まりの対象となる。
◇博打は運の善し悪しが伴うから宝クジではないが、全く当たらぬことはない。宝クジも一種の博打であるが、お遊び程度に楽しむのがよい。一攫(いっかく)千金でも、先日の事件のように2億円を当てた女性が金と色ゆえに、交際の男に殺されるという悲劇もときには生じる。あな恐ろしきなカネ。【押谷盛利】

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2008年11月12日

株の売買と儲けの話

 株の暴落はいち早く電波に乗るが、この場合の株は証券取引所で売買されている株式の相場である。株式会社は石を投げれば当たるくらい全国至るところにある。
 しかし株式相場がなり立つのは証券取引所に上場されている株式だけで、どんな株でも市場で売買されるわけではない。
◇このごろは株式といわずに略して「株」というが、あまりにも株式市場が大衆化したため、一般の人は、株は売り買いするお金ゲームのように錯覚するが、そうではなく、投資なのである。
 投資とは資金を出して経営に参加することである。経営に参加するといっても重役になるとか、その企業のポストにつくことを意味するのではなく、お金を出して、配当を受けとることが本来のシステムなのである。
 したがって、株を持っているから株主だと威張っていてもその会社が赤字の場合は配当どころではない。逆に経営危機を克服するため増資を促されるかもしれない。
◇素人は株は儲かる、と株屋に乗せられたり、口コミに踊らされて株をやるが、通常は証券会社か株屋(上場株式の売買をあっせんする業者)の店頭で取引する。
 買った株が上がった場合は儲かることになるが、しかし、それは売って始めて儲けが確認できることで、売らずに持っていて買値より下がることだってある。この場合は損になるが、これも売らなかったら損も得もしない。
 ただし、多額の株式を売買しようとすれば、手持ちの資金では足りないから銀行で借りるか、証券会社で借りねばならぬ。
 一般的には証券会社と契約して信用取引するケースが多い。信用取引とは金を直接払わずに、証券会社が立て替えて注文の株を買ってくれるシステムであり、証券会社はその買い入れた株式を担保として、言わば金を融通するのである。信用取引の場合は期限が限られているから早く売買して決済しなければならぬが、暴落で、買値の3分の1、2分の1になったりすれば大変である。担保の株式はそのときの相場で引き渡さねばならず、不足分は借金として、痛手を覚悟しなくてはならぬ。
 株のため家を売ったり、田を売ったりの話も聞くが、これらは大きな株式投資による信用取引の結果による。
◇堅実な株式投資は手持ちの資金をこれに当てることだが、これでは大きな金を動かせず、儲けが薄いということになる。だから信用取引で自己資本の10倍、50倍、100倍の大金を動かして一挙に株式長者になる幸運者もいるが、これには買った株を株価が上がったときに売ったという好条件が背景にある。
 どちらにしても取引によって、手数料を稼ぐ証券会社や株屋はケガの率が低いが、一般投資家はほくほく顔の好調時よりも泣きの時が多いかもしれない。【押谷盛利】

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2008年11月11日

国民は冷静だ(見聞録)

 与党が経済対策として打ち出した総額2兆円の定額給付金について、報道機関が世論調査を行った。
 共同通信社の調査では「評価する」との回答者が37%にとどまり、58%が「評価しない」だった。
 朝日新聞社の調査でも「必要な政策だと思う」が26%、「そうは思わない」が63%という結果で、否定的な見解が圧倒的だった。
◇所得制限を設けるや否やで、与党内ですったもんだしたあげくに、高所得者には自己申告による辞退を求めるという首相方針が打ち出されたが、そもそも、今回の給付金は消費を喚起する経済対策が目的のはず。
 ならば、無駄遣いしそうな国民をターゲットにするべきではないのか。高所得者や気ままな独身者にカネをばら撒くのが効果的だろうし、そうすれば、ぜいたく品を購入したり、外食したり、旅行したりするもんだ。
 逆に、子供のいる家庭や高齢者世帯は無駄遣いを拒み、給付金を生活費や貯蓄に回す。その日の暮らしに苦労する低所得者や無職者であればなおさらだ。
◇高所得者に辞退を呼びかけるという方針では、給付金のターゲットがよく見えない。
 無駄遣い推奨の消費喚起なのか、低所得者への生活支援なのか。だから野党に選挙対策のばら撒きと批判されるのだ。
 この愚策、どうやら実現する見通しだが、世論調査の結果を見る限り、国民は与党が期待するほど喜んではいない。2兆円の財源は税金で、そのツケはすべて国民に返ってくるのだから。

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2008年11月10日

アメリカと日本の株価

 このところ、株の世界的暴落が金融危機の様相を深くしている。アメリカを中心に世界の金融恐慌が薄気味悪くしのびよる気配である。
 日本経済は堅実で崩れる心配はないという予測はありがたいが、それが引き金になって円高に響いている。
 日本は工業国を売りに、海外への輸出産業が経済を支えているだけに、円高による輸出不振と利潤の低下が深刻である。それは当然ながら企業の収益性に関わるから赤字決算や企業の存立の危機にまで及ぶ。
 そうした悪条件は株価の見通しを悲観させるから、株式市場の暴落は避けられない。暴落は先の見通しの悲観的材料が強ければ強いほど回復が遅れる。今回の暴落は一時的なゆり戻しに対する投げ売り心理が影響している。
 銀行、保険、証券などの機関投資家の売りだけでなく一般投資家の売り急ぎが相乗効果を伴って、不安が不安を呼び、先月27日のような26年ぶりという株安相場が立つのである。
◇ちまたには、持たざるものはのんきだね、とテレビや新聞の株式市場を無視しているものも多いが、のんきだね、と本当はいっておられぬ。
 株が安いということは、端的にいえば景気の冷えを象徴しているのだ。
 景気の冷えは社会的、経済的にどんな反応を招くのか。それを考えると、株を持たないからのんきだね、とすましてはいられぬ。
 輸出企業の不振は下請け企業や孫請け企業の受注減を招くであろうし、その延長線上の取り引き関係で支払いの延期や経営破綻の嵐にあうこともある。
 支払いの延期や破綻にならなくとも受注価格のダウンや受注額の減少などが末端企業に至るまで経営を圧迫する。輸出関連企業の経営不振は、企業の経営規模の圧縮や人員整理、あるいは給料の下げ、ボーナスゼロにもなりかねない。
◇このような直接的な経営圧迫のほか、経済社会全体に与える連鎖反応が怖い。
 一つは風評に対する警戒と消極的な経営方策が設備投資などの鈍化を誘発するし、銀行など金融機関の貸し渋り現象が起きる。
 またサラリーマン一般の収入の冷え込みやその予測が普遍化すると、消費熱に水をぶっかけることになり、大小に関わらず小売り企業の売り上げ減につながり、そのことは運輸、保管、包装、宣伝、保険業界、その他にも深刻な影響を与えることになる。
◇昔から景気を判断するなら「飲み屋街へゆけ」という。
 景気が冷えれば冷えるほど飲み屋街は閑散となる。毎日の食事は欠かせないが、飲み屋街の遊びは始末しようとすれば出来る。
 新聞記者は麻生首相の一流ホテルのバー通いを批判するが、あれは景気に水を差す意味で頂けない。麻生さんのような大富豪はじゃんじゃんと金をつかって、その金を経済界に循環させるがよい。
 しかし、設備資金や流通資金を金融機関に仰いでいる企業や個人は財布の紐を締めなければ身の破綻を招く恐れもあり、不況時は残念ながら緊縮政策でゆかねばなるまい。
 ついでにいうなればアメリカの景気がよくならなければ日本の株価は上がらない。【押谷盛利】

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2008年11月07日

賢い消費者でありたい(見聞録)

 かつて食品添加物会社のトップセールスマンとして活躍し、「添加物の神様」と呼ばれた安部司さんの著書「食品の裏側」(東洋経済新聞社)は、加工食品がいかに添加物にまみれているかを指摘し、大きな反響を呼んだ。
 コーヒーフレッシュはミルクなどを使わず、水とサラダ油を乳化剤で混ぜ合わせ香料で味付けすればできるし、色の悪い明太子は添加物の液に一晩付ければつやつやに。30種類の添加物を調合するだけで、とんこつ味のラーメンスープができる。コンビニに並ぶサラダは殺菌剤のプールで何度も消毒されている―。
 このような、添加物の実態を赤裸々に記している。
◇小欄も昨年、「食品の裏側」を手に入れ、興味の持つ知人に貸したりもしているが、そこに記されている衝撃の内容から、すぐに相手方の家族内での回し読みとなり、なかなか帰って来ない。
 昨日、2カ月ぶりに戻って来たが、聞くところによると、いつも利用していた「醤油」が添加物入りだったことが判明し、慌てて醤油を変えたという。
 昔ながらの「丸大豆醤油」なら原材料は大豆、小麦、食塩だけで製造には1年以上かかる。一方、「新式醸造醤油」などはブドウ糖果糖液糖、アミノ酸、カラメル色素など何種類もの添加物が入り、1カ月ほどで製造できる。値段も安い。
 添加物食品を遠ざけるには、なるべく家庭での手作り料理が推奨されるが、家庭で使う調味料が添加物まみれでは、かなわない。
 スーパーのお買い得品コーナーで安く手に入れた調味料ならば、それは「醤油風」「みりん風」といった具合のニセモノかもしれない。
◇安部さんは、添加物を「有害だ」「悪だ」と批判することはしない。添加物のおかげで、食品が日持ちしたり、美味しかったり、鮮やかだったり、安かったりするからだ。
 だが、添加物まみれの食事を続ければ「本物の味」を見失うし、複数の添加物を組み合わせた場合の安全性が完全に保障されている訳ではないと指摘している。
 見た目や値段だけにとらわれず、加工食品がいったいどのような成分で作られているのか。そういう情報に敏感な賢い消費者でありたいものだ。

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2008年11月06日

複式学級は不可、統合へ

 長浜市の上草野小学校(宮川憲一校長)が生徒数の激減で揺れている。現在全校生徒は76人で、いまの1年生は8人、2年生は7人、法律では、連続する2学年で16人以下となると複式学級制にしなくてはならぬ。
 複式学級というのは一つの教室に2年生と3年生が入り、1人の教師によって、同じ時間内に別々の授業を受けるシステムで、2年生が国語、3年生が数学の授業を受けるというやり方で、教える方も大変だが、生徒の方も気が散って授業に集中できないこともあって、子供の教育環境上、宜しくない。
 こんな状態を法律のせいにして丸呑みすれば、心ある親は住所を他へ移し、わが子を生徒数の多い学校へ転校させることにもなる。それでなくとも少子高齢化が農山村の未来を暗くしているのに、それに輪をかけるように子供(児童)の追い出しを図るようなやり方は大ペケである。
◇上草野小学校は、ぼくの母校であるから、とりわけ悲しい気持ちでその成り行きを見守っているのだが、これからの先行きを考えれば生徒数の減少傾向は止まらないように思う。
 それならば、このさい、みんなが頭を切り換えて学校の統合を実施すればよいではないか。
 すでに余呉町では、丹生小、片岡小、余呉小の3校が統合し、遠くからの児童は通学バスを利用している。
 上草野は山に囲まれた山村で、東は吉槻、曲谷、甲津原に接し、旧伊吹町に連なり、北は高山から鳥越峠越えに岐阜県、また金糞山を通じて福井県に続く県境である。
 中央に姉川支流の草野川が流れて、両岸に接する山麓に9か字が点在している。
 小学校は村の中心地・野瀬にあるが、ぼくの小学校時代を思い出すと時の流れの大きな変化に腰を抜かすほどである。
 ぼくが小学校へ入ったときはぼくの在所・野瀬から男が10人、女が11人が新1年生になった。
 そのころは尋常科6年、高等科2年で、全校600人くらいだった。高等科は義務制でないから半分くらいは6年卒で就職した。したがって6年生までの生徒は500人くらいだったと推測される。
 それなのに、現在の児童数は男女全部で76人になってしまった。
◇そのころ、上草野の東に位置する東草野小学校は集落間の距離が長いので、中心地の吉槻へ通うのが低学年にとっては苦痛だった。このため甲津原や板並、曲谷などに分校が設けられた。
 分校では今、問題の複式学級で指導した。ぼくらは子供心に、複式授業を受けている東草野小の子供たちを不びんに思い同情した。
 当時は東草野は東浅井郡に含まれ、郡の体育大会や音楽会など、東草野村の子供は吉槻から七曲り峠を越えて上草野村の鍛冶屋へ出て、湯田村や虎姫へ出かけた。もちろん、みんな徒歩である。
◇それやこれやを思うといまの上草野小学校は当時の東草野小を思わせる生徒数で、しっかりと基礎教育を身につけさせたい親心を思うと心が痛む。
 最近、上草野地区から若い人が結婚と共に平野部や長浜市の市街地方面へ住所を移転する傾向が強いが、これは老人集落の悲劇とも言うべきで、村の役や集落の面倒見を避けたい気持ちと共に、子供の教育を考えての親心であろうと思う。
 これ以上、村がさびれてしまってはならないから、複式授業などボイコットして、学校統合に踏み切るのが市教委や市長の責任であろう。
 2校統合でも3校でもよいではないか。現に中学校は後発ながら旧東中が浅井中に統合したではないか。遠くから通う生徒のために通学バス制度も定着しているので、これに便乗して小学校も通学バスを考えればよい。
 とにもかくにも子供の教育環境をよくするのが教育行政であり、保護者の責任でもある。【押谷盛利】

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2008年11月05日

国から金がもらえる話

 分からないことの多いのが政治である。
 変な話である。国民に分かる政治が本当の民主政治と思うのに、実態は必ずしもそうでなく、目下、もたもた迷走している国会解散、総選挙も、麻生総理が打ち出した新総合経済対策もフタを開ければなんのことはない、一にも二にも選挙に勝つことを前提にした戦略である。
 自民党の中には、一部に敗戦覚悟論がある。これまでの安倍内閣以降の政権のもたつきと目下の世界的経済危機を考えると、いつ選挙をやっても負ける公算が強い。どうせ負けるのなら任期いっぱい来年の9月まで解散をしなければよい。そうすれば麻生内閣も短命に終わることなく、ほぼ一年間政局を担当できるのだ、とする考えである。
◇これに対し、民主党に政権を渡すことはできない。それが国民に対する自民党の責任である。
 ならば、選挙民に支持される政策を現実に打ち出し、反応の一番いい時期を選んで解散し、有利な選挙に持ち込めばよい、という積極派の意見が有力である。積極派はそこで、国民受けのする現実的政策を考えた。これが麻生首相の発表した新総合経済対策である。
 この新政策、分かり易くいえば釣り師がよくやる撒き餌である。釣り場一帯に広く餌を撒くと魚類が集中する。それを狙って目的の魚を釣るやり方がこれである。撒き餌であるから評価され、みんなが飛びついてくる内容を盛らねばならぬ。
 そして、何よりも分かり易く、手っ取り早い方がよい。
 だから一律に全世帯に定額給付するとか、高速自動車の使用料を1000円に減額するとか、住宅減税などを約束するのである。
 世間ではこれをバラマキという。バラマキでなければ撒き餌の効果はないのだから小難しい理屈は言いっこなしが、目下の自民党の政策本部の本心である。
◇ぼくが分からないことの多いのが政治であるといったのはこれを指す。国は歳出は増える一方だのに収入である税収は伸びず、台所は火の車。福祉を減らしたり、埋蔵金を崩したり、ことによっては赤字国債も発行しなくてはならぬ。
 そんな財政困難を百も承知しながら気前よく国民にお金をくれてやるというのだ。
 間もなくクリスマス、そしてお正月だからそのプレゼントやお年玉なのかもしれない。総理の演説を聞くと全世帯を対象に、4人家族で6万円ぐらいのバラマキだ。
 だれだって無条件で国からお金がもらえて悪い気はしない。人間はもともと欲の皮の厚いもので、頂けるものなら日暮れの葬礼でもいといはしない、というくらいだから結構な話ではないか。
◇ところで、この話、最初は定額減税に出発した。減税である以上、納税者を対象に税を減らすか、一部を戻すかのどちらかである。しかし、納税者を対象にすれば、税を納めていない貧乏人をおいてけぼりにすることになる。それでは一律におかみのご威光が届かないではないか。
 もともとこの発想は選挙に勝つための仕掛けであるから、国民みんなに喜ばれる方法にせねばならぬ。
 だから減税と言わず、定額給付と呼ぶようにした。要するに、もれなく配るのである。この、もれなくというのがミソである。
 そうは言ものの自民党の中で異論がないわけではない。
 与謝野経済財政相は2千万も3千万もの収入のあるものにも渡すというのはおかしい、と主張している。
 これに対し中川財務・金融相は市町が交付手続きをするので、高所得者を除くのは手続きが複雑化して難しく、年度内支給が困難になる、といって一律バラマキを首相に進言した。
 もれなく一律というのは「満遍(まんべん)」にということ。まんべんなく配るということで、それは有り難いが、国にはお金があるのか、ないのか、もしあるのなら、もっと知恵を出して、と思うのだがやっぱり政治は分かりにくい。【押谷盛利】

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2008年11月04日

身なりとあいさつ(見聞録)

 神奈川県の高校の入学試験で服装や態度に問題がある受験生を、不合格にしたことで、校長が更迭処分を受けたが、教育委員会や高校には校長の判断を支持する多数の電話やメールが寄せられている。生徒の間でも更迭撤回の署名を集める動きが出ているという。
 テストの点数に加え服装や態度をチェックするのは今後の学校生活の中で、その生徒を指導できるかどうかを判断する材料にもなるし、校長の判断は妥当だろう。強いて言えば、試験会場で監督の教師が受験生を注意しても良かったのではないだろうか。その場で改善できなかった場合、不合格を判断するということで。
 受験生も受験生で、入試の際には身なりや態度に気を遣うべきだった。テストの点数さえ基準を超せば、何でもまかり通るという考えだったのか。
 受験生が不合格になったのは家庭や中学校の責任も少なくない。
◇「人を外見で判断するな」と言うが、それは人が反射的に対象者を外見で判断してしまうからだ。
 外見というのは真っ先に相手の目に入るから、清潔で小奇麗な身だしなみは相手に安心感を与える。安心感は信頼に直結する。
 最近の若者のファッションには崩した着こなしや、「ビンテージ」と呼ばれる中古加工の服装が、オシャレな場合もあるが、それはあくまでカジュアルな場でのこと。
 日ごろから清潔感のある身だしなみを心掛けるのは、学生はともかく、社会人には不可欠。
◇身だしなみと同じように相手の第一印象を左右するものにあいさつがある。
 小欄は、配達員宅に新聞を届けるため、連日、刷りあがった新聞を車に載せて、三田―相撲庭―佐野―北池―浅井高原―南郷―北ノ郷―東野―郷野―野瀬―高畑―八島―内保を巡る。
 ちょうど小学校の下校時間にあたり、道中、多くの小学生に出会い、いつも元気なあいさつをもらう。家庭や学校、地域での教育がゆき届いているのだろう。
 こちらも嬉しくなり、思わず大きな声であいさつを返す。
 あいさつは、その場の雰囲気を一瞬にして、明るく、安心できるものに変えてくれる不思議がある。初対面の第一印象には欠かせず、身だしなみと同等の効果を持つのではないか。
 日ごろの身だしなみ、あいさつを改めて考えたい。

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2008年11月01日

天皇陛下の報道と各紙

 31日の大新聞で非常に気になることを発見したので、読者に喚起を求めるため以下これに触れる。
 一つは天皇、皇后両陛下の正倉院展ご鑑賞。いま一つは北朝鮮が中国側に通告した日本人拉致問題の調査打ち切り問題。
 北朝鮮問題については、すでに明らかなようにブッシュ米大統領がテロ指定国家を解除したが、日本はこれに反対し、拉致問題の調査が進まない以上、経済制裁など解除はしない方針を打ち出した。
 不信だらけの北朝鮮の核戦略停止話に乗ったり、乗せられたり、右往左往しながら結局、アメリカは大統領選を前に北の言い分に屈した。それをいいことに北は6カ国会議から日本が孤立しているとうそぶき、最早や日本を相手にしてもメリットはない、として約束の拉致問題の調査を打ち切る手段に出た。
 これは実に重大なるニュースで、日本の安全と日本人の人権に関わる問題だが、この記事は産経が1面トップ記事に報道した以外は、他社は載せていない。1社にスクープされた場合、重大なニュースは、その日(31日)の夕刊に後追いするのが常識だが、その様子も見られない。
 あえていえば他社の拉致問題への関心のレベルを疑わせる問題だが、これは後日、尾を引きそう。
◇さて、天皇、皇后両陛下の正倉院ご鑑賞の報道だが、読売は1面左に4段のトップ記事(写真3段)のほか、社会面にもトップ記事扱いで、写真は3段で紙面の幅2分の1以上を占めており、それのみか、号外を発行して奈良市内、大阪市内の主要駅周辺で配布している。
◇産経は社会面のトップ記事で、これまた大きく写真入りで報道した。
 これに対して、朝日、毎日は社会面で一段のベタ記事で、見出しも申し合わせたように一行、写真が付いていなかったから見落とすほどのお粗末な扱いであった。
 どういうわけか、中日には載っていなかった。
 赤旗にも載っていなかったが、これは共産党の機関紙であり、この党の性格が天皇嫌いであるから、始めから報道するつもりはないのだろう。
◇ぼくは、記事の大きさの扱い以外に、重大なことを読者に報告する。
 それは、陛下の報道に関する敬語の有無である。
 朝日は「両陛下は正倉院展を見学した」。「宝物を1時間ほどかけて鑑賞した」。「31日に春日大社に参拝した後、京都市へ」。「1日には源氏物語千年記念式典に出席し帰京する予定」。
 これを見て分かるように一切敬語を使っていない。
 毎日は最初の部分に1箇所「説明を受けられた」と敬語表現しているが、他はすべて「鑑賞した」。「熱心に視察していた」とあり、記事の長さはわずかに19行。
◇読売は「視察された」。「見て回られた」。「質問され」。「感嘆されていた」。「ご覧になった」。「2日に帰京される」など。すべて敬語表記されている。
 産経は「奈良県入りされて、沿道では多くの人が両陛下のご来訪を歓迎していた」。「正倉院事務所をご訪問」。「宝物をご覧になった」。「31日、京都を訪問される」などとすべて敬語を使用している。
◇天皇は憲法で明記しているように日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。
 国民が「日の丸」を大切にし、「君が代」を斉唱するのは国旗や国歌への愛着であり、愛国心による。
 国と国民統合の象徴である天皇に敬意を表するのは当たり前の話で、われわれ国民と同列に「した」「行った」「見た」では国語教育上も問題である。日本語から敬語を外したら、秩序やモラルまでがおかしくなるではないか。【押谷盛利】

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