山から見た家と汁団子
過ぎたひと昔前を振り返ると、子供の心には天使が宿っている、と、つくづく思う。
大人のような、うらみつらみ、偽善偽装、威張り、遠慮、かけひき、損得計算など全くない世界を生きていたように思う。論語に「思無邪(思いよこしま無し)」というぼくの好きな言葉があるが、子供はまこと、邪心無しである。
子供のころ、知り合いのお婆さんが、大人たちの会話の中で、「子供は罪がない」と、しばしば言っていたが、それが「思無邪」の論語の心だろうと、このごろ考えるようになった。
◇金持ちと貧乏人の違いが際立って、それを格差社会、と、このごろ言うようだが、昔は格差がなかったか。冗談じゃない。昔の格差は今のような生ぬるいものではない。しかし、昔の人は、格差けしからぬ、などと言わなかった。貧乏は家が背負っているものであり、今の代の責任ではない。口惜しかったら反発して、金を儲ければよいではないか、と諦めの反面、それを反面教師にお金持ちの仲間になろうと歯を食いしばった。
人の2倍、3倍働いて、着るものも食べるものも始末して、一途に金を貯め、田を1枚、2枚増やすものもあれば、農繁期を終えれば都会へ出て12時間もそれ以上も働いて仕送りする若者もいた。
◇同級生や先輩には金持ちの子も貧乏人の子もいたが、だれ一人、金持ち顔、貧乏顔をするものはなかった。けんかすれば腕力の強い者が弱いものを泣かすことはあったが、今のように教室で暴れるものや、ワル仲間が集団で先生を困らせるようなこともなかった。
成績では優れたもの、そうでないもの、わざわざ通信簿で比べなくとも、だれがよく出来るのか、自分はクラスのどのくらいなのか、得意、不得意は、など、みんな自覚していた。
◇ぼくの家の前が小高い堂山だった。何人かの友達とその山へ遊びにゆくのが日課のような春の日のこと、ぼくらは山の頂上から、山の麓の自分の村を一望して、どこがぼくの家、かしこが甲の家、その3軒南が乙の家、といった調子に200軒近い家々を眺めながら、家の大きさや棟数の多い少ないで、金持ちの品定めをした記憶が鮮明である。
信用金庫(組合)のAさんの家は大きくて、蔵があり、他に書院や作業小屋があり、屋敷に花園もある。村会議員のBさんの家は瓦葺き2階の本屋と蔵のほか、納屋、隠居がある。
ぼくの家は萱葺きの平屋以外は何の建物もない。甲の家は萱葺きだが、ぼくの家より小さい。Cの家も萱葺きだが、蔵があるなどと話しながら、家々の様子を眺めるのが何ともいえぬ楽しみで、早く卒業して社会人になったら、大きな家を建てなアカン。それには、しっかり勉強して、都会へ出て、お金儲けせにゃいかん、と自分の心に言い聞かせるのだ。
◇ある、冬の日、友達の家で、家族が、うまそうに汁団子を食う様子に出くわした。友達の家では、しょっちゅう汁団子をするらしく、ぼくはそれを見て、母に「ぼくんとこも汁団子して」とねだったことである。
何日か経って、母の手料理の汁団子を食ったときの印象は今も笑いが止まらない。それは決してうまいといったたぐいのものではない。要するに、米飯の代用食で、汁の中へ小麦粉(メリケン粉)のこねたのを団子状に入れて、里芋や大根などをあしらっての雑煮のようなものだった。米の飯、麦の飯が高いので、メリケン粉に格下げして食ったにすぎず、言わば貧しさの象徴食である。友の家は収入の割に子供が多かったので、米飯が贅沢だったに違いない。汁団子のことは以来、だれにも話さず、ぼくの家ではそれきりで、ぼくも2度とそれを食べたいと思うことはなかった。【押谷盛利】
2008年10月06日 15:51 | パーマリンク
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