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少年の記憶は今も虹色

 ぼくが小学校へ通ったころは昭和の一けた時代だが、いま思い出すと夢のようでもあり、虹色に輝いていたようでもあった。
 子供のころの思い出を「灰色」だったという人があればその人はきっと不幸だったのかもしれない。
 ぼくは虹色だったと回想する子供のころについて、小学生の同級生たちと語ることがあるが、同級生たちもぼくと同様、楽しい思い出は共有していても灰色のような感じはだれも持っていなかった。
◇いま振り返ると昭和一けた時代の日本は国際的にどんな水準にあったのか。ぼくらが育った東浅井郡の山間部の山家(やまが)の暮らしはどんなんだったか。歴史的に、客観的に見れば、文化的に開けていない、貧しい暮らしが庶民一般だった。
 お金持ちの家でも、生活に困ることのない人たちでも、いまのように贅沢することはなかった。爪に火を灯して暮らす、というきりつめた生活だった。
 ぼくの家は、金持ちではないが、借金で首が回らぬとか、小学校6年卒で就職せねばならぬほどの貧乏でもなかった。
 まあ、中くらいか中より少し下の暮らしだったのではないか。そのころは、今、よく言われるような格差はあったのか、なかったのか。
 農家は自作農(自分の所有する田畑を経営する農家)よりも小作農(地主から土地を借りて耕作する農家)の方が多かった。地主は年貢(地代)が入るので直接農業をしなくとも生活に不自由はしなかった。格差がないといえばウソになる。地主や金持ちは特に大きな顔をするわけではないが、中間層や貧しい人は何かにつけて立てる。立てるとは意味深長だが、尊敬する気分も少しはあるが、遠慮気味で交際する。村の役は、頭さえあれば貧しくとも出来るはずだが、金持ちがきり回す。役は無報酬で、今日でいう本当のボランティアであるから、貧しい者に役が回ったら生活が破綻する。
 だから、「区長さん」と敬称して、道で出会ってもこちらから声をかけて挨拶する。
◇けれど、いま、新聞などで目にする格差社会といった感じはだれも持っていないし、みんな平等、同権で、山の入会権にも差別はない。
 もちろん、子供の世界には貧乏、金持ちはない。ぼくが1年生に入ったとき、男組と女組に分かれ、洋服を着ていたのは男も女も組に2人か3人だった。あとはみんな着物だった。
 遠足は春の楽しみだが、持参した弁当は大方は「きつねずし」だった。巻き寿司はクラスに2人くらいはあったかもしれぬが、巻き寿司そのものを食ったことがないから、あっちが上でこっちが下、などと思ったことは一度もない。なかには握り飯の中に梅干の子がいたかもしれぬが、別に何とも感じなかった。
 そのころは水筒がなかったから、川か池のきれいな水を飲んだのかもしれないが、記憶にない。
 あるのは珍しいところへ来て、桜の花を眺めたり、友だち同士が騒いだり、遊んだりの楽しかった思い出だけだった。
◇5年生の春、村の駐在所に「井上」という巡査が転任してきた。
 たまたま、その次男の登がぼくらと同級生だったので、ぼくら数人は彼の家へ遊びに出かけ、ものの2日も経たぬうちに仲よしになり、クラスでもたちまちみんなに溶けこんでしまった。
 そのころのぼくらの感覚の中には貧乏、金持ちといった格差的なものは何一つなかった。
 祭りや盆踊り、野芝居、おこない、放生会(ほうじょうえ)、ねはんなどの行事のほか川開き(鮎解禁)や魚釣り、川遊び、山菜採り、ベース(野球)、ケンパなどで遊び呆けていた。【押谷盛利】

2008年10月04日 17:32 |


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