滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



格差と平等を考える

 このごろ、広く用いられる言葉に「格差」がある。多くは悪い意味に使用されている。日本人は付和雷同性が強いから、だれかが音頭をとると、すぐそれになびき易い。格差もそうである。格差をなくそう、といえば、いかにももっともらしい響きを持つので、だれかれなしに「格差反対」「格差是正」などと叫ぶ。
◇ものごとを、しっかり眺め、真実を把握するがよい。格差が槍玉に上がるほど悪いものなのか。ひるがえって、わが身、わが環境、さらには日本国土へ目を向けて考えてみるがよい。この世は格差だらけであり、格差のない個人、団体、国家はあり得るはずがない。
 いとも簡単に格差打破を念仏のように称える人がいるが、格差の反対は平等である。公平は政治上も社会生活上も大切な規範であるが、平等はそれ自体ナンセンスである。社会主義の目標は「平等」であるが、理屈で平等を説くことはできても、実践で平等が具現されるはずがない。例えば、崩壊前のソ連は、世界の共産党国家の総本山であり、マルクス・レーニン主義の元祖国家として、共産主義の教科書を国家建設に当ててきたが、その中の重要項目である格差廃止、平等の理想は実現したか。事実は逆で、共産党独裁の政治の中で、共産党官僚が特権的地位を握り、学者であれ、農民であれ、能力のあるものが抜てきされ、優遇されてきた。なるほど賃金などは一律平等の部分もあったが、この平等は、悪平等のそしりをまぬがれず、能力のあるものが力を出し切らず、もしくは出し惜しみして生産性や品質向上の妨げになった。
 その弊を除去する目的で、生産、科学、スポーツその他の面で顕著に活躍したものに勲章その他の栄誉制度を設けた。
◇中国は共産大国であり、日本における親中派のものは、さも悪しきものの如く「格差社会」と日本をきめつけるが、その中国に格差はないのか。貧しい農民や労働者が不平たらたら生活していても、それを訴えるデモや反政府闘争は許されない。人民は党の役人の命ずるままに屈しなければならぬ。それでも、この国には億万長者がわんさと生まれ、自国産の米を食わずに、日本の「こしひかり」など高級米を食べており、何千万円ものデラックス外車を乗り回している階層がある。日本では想像もできぬ格差社会である。
◇人間は同じ親の子として生まれても、兄弟姉妹決して平等ではない。体つき、知能、心のありよう、いわゆる後天的なものを除いても、すべてそれぞれの持ち味があり、決して平等、均一ではない。
 学校へゆけばクラス全員成績が違う。いい成績のものが、人格が上で、人間が上位というわけではなく、成績は決められた規格の中での学力の一つのめやすである。高校、大学へ進んで、さらに知徳を磨くが、それぞれの段階で、知的テスト、試験のあるのは、競争社会の必然である。その進学の課程で、能力に応じた研鑽や就職のコースをとるのは本人の自由で「できるもの」と「できないもの」の格差が生じるのは人間界である以上避けては通れない。
 お金にしたってそうである。金持ちの息子が必ずしも金持ちになるとは限らないし、貧乏人の子が生涯貧乏で送るとも限らない。貧しくて、小学校へもろくに行けなかった松下幸之助さんは世界の松下の社長になった。
 人間社会は、米に一等、三等と等級をつけるように、人間に等級をつけることはしないが、本人の努力によって、優位な人生を送るか日影の道を歩むか、千差万別である。さらに言えば金や物質、地位に恵まれることが幸福の条件とは限らない。方丈記の著者・鴨長明のように一丈四方の庵で、山の中に暮らしても幸せを見出す生活ができるのであり、心が卑しく、貧しければ、いかに外見を飾っても幸せとはいえない。【押谷盛利】

2008年09月25日 15:07 |


このエントリーのトラックバックURL:
http://www.shigayukan.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/2441

過去の時評


長浜市
長浜市議会
長浜観光協会