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日照雨とキツネの話

 日が照っているのに、急に雨がぱらつくことがある。昔の人はこれを「狐の嫁入り」といった。狐の嫁入りは、このほか、夜、山中や野を気味が悪い火がともったり、消えたりすることをいう場合があるが、これは狐火(きつねび)ともいう。
 日が照っているときの雨は、文字どおり「日照雨」だが、これを古くから「そばえ」と呼んでいる。そばえは、漢字で「戯え」と書く。戯は、たわむれる、ふざける、おどける、しばいする、の意味があり、芝居の脚本のことを戯曲、戯文といい、江戸時代後期の小説類を戯作と称した。
 だから戯作を作る人や小説家は戯作者であり、漫画は戯画であり、冗談(じょうだん)は戯談。
◇戯(たわむれ)について、筆を進めているのは、世の中、四角四面では面白くなかろうという、先祖の知恵が働いていると思われるので、ふと、それに言及したくなったからである。
 われわれは、話の中でよく「ウソ!」「それホンマ?」とか、「冗談だよ、それ」などと驚いたり、話をそぐらすことがある。
 冗談の冗は、ムダ、無用、よぶん、利益にならない、まじる、わずらわしい、くだくだしい、などの意味があり、「ふざけた話」に相当する。
 戯もふざけなら、冗もふざけであるが、なぜ、日本語の中で、先祖がこれらの文字を生かして、今に至ったかと考えると、日本人の思考や生活態度の探索の旅を楽しむことができるかもしれない。
◇狐と狸の化かしあい、といわれるように、人間のずるさを狐や狸にたとえるのは、狐や狸にとっては「ぬれ衣(ぎぬ)」であり、迷惑な話であろうが、どういうわけか、日本人は、狐や狸が人を化かす、と考えてきた。
 義経千本桜の芝居に狐忠信(きつねのただのぶ)なる人物が登場する。彼は子狐の化身で、鼓の皮になった親を慕い、佐藤信忠の姿に化けて現れ、その鼓を持つ静御前を守る。
 狐は人も化かすが、狸も化かす、と信じられてきた。狐は目つきも鋭く、動きも敏捷で、尖った口が気味悪い。その点、狸は、どことなく、ユーモラスな感じで、鈍感なところが親しまれる。化かすのは下手なのか、すぐばれる。徳川家康のことを狸じじいというが、信長と対象的に見て、どこか、人を油断させるしたたかさに人なつかしさを感じるのかもしれない。
◇話を戻すが、狐の嫁入り、日照雨を「そばえ」と呼ぶのは、「お天道(とう)さん、ご冗談でしょう、お天気なのに雨など降らして」という素朴な民の声が聞こえるから愉快である。
 つまり、たわむれの雨というのが「戯(そば)え」なのだ。「そばえる」には、たわむれるの意味があるから、ぼくの子供のころは、親からよく「そばえたらアカン」と注意されたものだ。兄弟や近所の子どもたちが、キャーキャーいいながら遊び呆けていると、「いつまでもそばえてたらアカン」といわれたが、このごろは死語化している感じで、それを思い出させるのが「そばえ」である。
◇人間の暮らしの中には、ゆとり、笑い、が必要であることは、精神の緊張が体を損なうからである。だから歌舞音曲の世界が人の心をなごませる。落語も芝居も小説も同様である。緊張しきっていれば糸は必ず切れる。適当に加減して、ゆるめてやることの必要性が「たわむれ」の思想である。
 ただし、たわむれの戯(ぎ)は同じ「ぎ」でも偽装の偽ではない。
 冗談をいう人は楽しくて人気があるが、偽善、インチキ、ごまかしは軽蔑される。「ウソは泥棒の始まり」と昔の人は教えた。【押谷盛利】

2008年08月27日 15:25 |


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