「これなに、あれなに」
幼児は親に「これ、なに」「あれ、なに」と、うるさいほど、ものをたずねる。
なにがなんだか知らないが…というセリフもあるが、人は合点がゆかぬと面白くない。
納得(なっとく)といってもいいかもしれない。政治は直接、間接、国民の暮らしや幸せにつながるから、国民の合点が支持、反支持のブレにつながる。
幼児が、親に質問をぶつけるのは、疑問を感じる場合と未知なるものへの興味、さらには目の前の事象に関する本能的知識欲による。
その疑問や問いに答えず、「うるさい」とさえぎったり、「子供は聞かんでよい」、などと、つっぱねると、子供は心に消化不良をおこす。
◇「なんで?」、「なんでやねん」と疑問を持つのは、合点のできない場合があるからで、実は人間の知は「なんで」の問いから始まる。よく笑い話にあるように「何を問うのか、問うことが分からない」という人がいる。
問うのは頭の働きであるが、合点する、しないも頭の働きである。
このごろ、人間の将来を考えて、やや心配になってきたのは、問うたり、合点する頭の働きを省略するのが流行の兆しを見せていることである。それは、頭の働きだけではなく、手足の動きについても似たことがいえるのではないか。
問うのが面倒くさい、考えるのが面倒くさい。手や足を使うのがうっとおしい・・・というのが今風(いまふう)の文化だと思っているのかも知れないが、これには悲しい落とし穴がひそんでいることを知らねばならぬ。
◇オリンピックの陸上競技、ことに100、200、5000、マラソンなどのレースには黒人選手の圧倒的強さが光る。かつて東京マラソンで、エチオピアのアベベが裸足(はだし)で優勝したときは世界の人々が感動した。
エジプトの子供は今も40度の猛暑を裸足で歩いている。エジプトに限らず、ソマリア、ケニアなど砂漠地帯に住む人は、水を確保することが1日の第一の仕事であり、子供は親の仕事を助ける意味で、何㌔も何十㌔もの道を歩いて水を求める。その幼少のころからの日常生活が驚異的な足腰の鍛錬につながっているといえよう。
◇考えることをしない。足腰を使うことをしない。それが新しい文化だ、とだれが教え、だれが、はやしたてたかは措(お)くとして、今の近代国家はその方向で産業構造が成り立っている。むろん、日本も例外ではない。産業構造が成り立っているというのは、そういった産業が全開し、日本の経済を支えている、ということになる。
結構なことではないか、快適で便利な暮らしが保障されているようなものではないか、と、いわれそうだが、その今風の文化が落とし穴を抱えている、と警告したいのである。
◇今は厖大な辞典類の代わりに電子辞書が登場した。パソコンという知的万能選手が、ケータイを配下にしてあらゆる情報はもとより、買いものから、支払い、なにから何まで指一本で目的をかなえてくれる。
歩くことより自転車の方がラクだ。自転車よりも車の方が早くて便利だ。海外へは船より飛行機が早い。しかし、そういう近代社会が人間の足腰を弱めたばかりでなく、排ガスによる汚染と地球の温暖化をすすめたし、何よりも地下のエネルギー源を乱開発することになった。
◇仕事と生活上の省力化は、頭と手足の働きを抑止すること、とりわけ脳細胞の活性化を妨げた。考える習慣が消えた代わりに、失敗や不満はストレスとなり、脳内に鬱積する。その結果、自殺、他殺がウンコするほどの力みもなく、まるでゲーム機の主人公のように没自我の境で敢行される。
「この時評は若いお母さんに読んで欲しい」。【押谷盛利】
2008年08月20日 16:13 | パーマリンク
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