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古里の墓参こもごも

 今年のお盆はオリンピック呆けで、寝覚めが悪く、読書しながらすぐ居眠りしていた。
 それでもまとまった休みのお陰で暑いとは言いながらも仕事疲れを癒すことができた。
 嘆異抄のなかで、親鸞は、「親孝行のため念仏を申したことは一回もない」と、すごいことを述べているが、親孝行はともかくとして、年中行事のようにお墓参りするのがわが一族の習慣である。
 だれから教えられたものでもなく、もちろん強制でもないが、子供のころは親と一緒に墓参りするのが楽しみであった。父がお経を称えると、それに合わせてついてゆくのだが、たいていは日没のころ、やや、日が陰ってからだったせいか、藪蚊がうるさかった。
 ぼくは、うちわをばたばたさせながら蚊を追うのだが、そのころは、どのお墓にも多くの家族連れが、にぎにぎしくお経を上げていた。日が暮れかかるとあちこちにローソクの灯りがゆらめいて幽幻そのものと言った感じだが、参詣者の人群(だかり)と闇間に響くお経の声で、さびしいと思ったことはなかった。
◇お盆中は、毎晩、墓場の近くの露天で芝居の興行が行われた。ぼくら子供は、昼間、その興行の宣伝カーに同乗して、村の中を周るのが楽しみだった。
 芝居の出しものは、歌舞伎風のもので、プロの三味線と浄瑠璃が独特の雰囲気をかもしていた。子供には筋書は分からないが、「わるもんか」「よいもんか」の判断はつくし、狐にだまされてウンコを食った話や、吹いた息が網のように広がって、くもの巣のように敵をがんじがらめにするような場面を手に汗して眺めたものだ。
◇お墓参りの前後、芝居小屋から太鼓が鳴り響いた。あの音を聞くと、心は早くも芝居小屋に向かった。母は、その、ぼくの気持ちが分かるのか、「そら太鼓が鳴り出したぞ。アホから先(さき)こい、アホから先こい」。ほんとに、そんな風に聞こえるから家へ帰って支度するのがいらいらした。
 その芝居小屋の設けられた場所は、野瀬の小堀林弥さんの屋敷畑で、墓場を区切る道の真下にあり、道路の斜面は竹藪で、役者はそこで化粧や振付をしていた。
 林弥さんは興行主でもあり、同家は広い家の中を全部開放して役者を宿泊させていた。後の小堀住建(現エス・バイエル)社長・小堀林衛さんは、林弥さんの次男で、振り出しは竹中工務店の徒弟だった。戦後、現場監督や福井支店長を経て独立した実業家だが、林弥さんに似て、にこにこと笑顔で人に親しまれていた。
◇盆の墓参りは子供のころから欠かしたことはないが、日本の経済成長の証しを見せるように墓の姿も変わってゆく。昔は「さんまい」と呼ぶように、墓原の中央部に式台の花崗岩が敷設され、ここに棺を置いて葬儀が行われた。土葬の名残りであり、長らくそのままの状態だったが、いつの間にか除去されている。
 村は老人が多く、若いものは結婚しても住所を町へ移すので、いわゆる限界集落へ近づきつつあるが、それとは逆現象に、年々、墓域は拡大し、山の中腹や斜面までも開発されて新しい墓が建立されてゆく。昔は自然石が墓標であったが今は経済的なゆとりと見栄も反映して、いずれの墓もまぶしいほどの立派さである。
◇お墓参りとオリンピックだけでは、ご先祖に申しわけない、と家のお仏壇でお経を上げさせてもらうのだが、情けないことに、若いころ絶唱した大きな声が出ない。それでも帰命無量寿如来の「正信偈」のあと「如来大悲の恩徳は・・・」と和讃を称えるころは、しみじみと「ああ、われ、幸せもの」という感慨になるから不思議である。【押谷盛利】

2008年08月18日 16:19 |


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