判コと振り込めサギ
「ほんまにほんま?そのうそほんま」。笑い話ではないが、人の世は真実を求めながら、どこまでが真実で、どこからウソか皆目(かいもく)見当がつかない。
昔は今より世の中がおおらかだったのか、粗悪品のことを安ものときめていた。インチキでなしに安売り専門に品質を落としたり、加工の技術を三流にした。
その結果、売る方も買う方も「安かろう、悪かろう」とアウンの呼吸で取引した。
今は、悪い商品を良い商品並みに売って荒稼ぎする不徳漢が増えてきた。それが「偽」の商(あきない)の当世流で、商業道徳などはカビが生えて倉庫で眠ったままである。
◇ウソつきは地獄で、エンマさんから釘抜きで舌を抜かれる、と子供のころ聞いていたし、地獄絵図で、その恐ろしい姿を見たことがある。
ウソやおまへん、と真実を主張しても世間では「そうか」と素直に聞いてもらえんから面倒でも法律が顔を出さねばならぬ。
早い話が「判コ」である。判コ好きの日本人は、よっぽど人が信じられぬのか日常生活でも経済行為でもやたらと印鑑を使いたがる。
首より大事な判コと、ぼくの祖母はよく言っていたが、その大事な判コに「軽印」と「実印」のあるのも変な話である。実印がほんまの判コなら軽印は偽ものか、そんなことなら判コの意味がなくなるではないか。
どこが違うのか。実の方は役場に届け出がしていて、「これは本ものです」という印鑑証明が発行される。
銀行から金を借りる場合、借用証を出すが、それに押す判コが実印で、「ほんまもん」であるとの印鑑証明を添付しなければならぬ。
ならば、軽印はどうでもいいのか。街頭の安売りの判コにはいろんなのがあるから、もし失ってもそこで代わりを買えばいい。
そんな程度の判コを、だれもがどこでも気楽に使うが、それを一切、「ほんもの」と思う社会習慣は、考えれば変てこな話である。そんないい加減な判コなら、いっそのことやめて、西洋風にサインした方がましではないか。
そう考えるもの分かりのよい人が増えつつあるのか、このごろは宅急便や書留便の受け取りもサインでOKというようになった。
◇人が人を信じられなくなったから、役所や警察などは本人と間違いないか、を確かめるため、運転免許証とか健康保険証の提示を要求することがある。これだって他人のものを盗んで使う手もあるし、現に国際的犯罪では盗んだパスポートを巧妙に利用する。
「もし、もし」の電話による振り込めサギなどは、証明だの、印鑑だの、面倒なものは一切無しで、口先三寸の見えない演技で何百万円ものカネを振り込ませている。
◇「ようやる」ではなく、「ようやられる」と、被害者にあきれるのだが、これはあきれてはいけない。被害者のこころは日本人全体に通じる「責任感」、「わが子への愛情」、「世間さま」を思うお人好し、まじめ人間の集約化された一例と見るべきである。
近代化の進む核家族化現象が老後の生活や高齢者の医療介護などに悪影を投じているにも拘わらず、日本には厳然として「恥を知る」美学や、「わが子の不幸は一家の不幸」とする連帯感や「子のためなら私の命でも」とする母の愛など、とっくに消えているかと思う美徳が今なお生きていると尊さを思うべきである。
インチキの電話にはまっての「やられ損」は悲しいし、悪い奴は憎いが、判コがなくとも人の話を真実と受け取る人のよさ、人を信じるおおらかさがまだ残っていることを嬉しく思う。【押谷盛利】
2008年06月25日 16:42 | パーマリンク
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