秋葉原での殺傷事件
安心、安全を願わぬ人は一人もいないが、いつ地震が起こるやら、集中豪雨に見舞われるやら、自然災害の危険と背中合わせの生活、それがはかない人間の宿命であろう。
しかし、最近は自然災害だけでなく、人間が人間を傷つけたり、殺すという事件が余りにも多く発生し、人災の危険からどうして身を守るか、いやはや大変な世の中となった。
◇日曜日の8日正午過ぎ、電気製品の総合市場として賑わう東京・秋葉原の繁華街で7人を刺し殺し10人を重軽傷させるという大事件が発生した。繁華街は日曜日で、車の通行を禁止し、歩行者天国の別天地だった。
おりから、別の道をトラックで乗り入れた若い男が無鉄砲に通行人の中へ突入して、3人を死傷させたほか、今度は歩行者天国へ引き返し、狂ったように次から次へと通行人を刺し、大恐慌の中、ようやく警察官に取りおさえられた。
25歳の若もので「だれでもいいから人を殺したかった」と、とんでもないことを口走り、日曜日の秋葉原を鮮血で染めた。被害者は20歳前後の若い人が多く、なかには中年の男性が家人に「今日はパソコンか何か買いに行くから」と家を出たが、「普段行ったことない町へ出かけて、地獄にあってしまった。再びこんなことがあってはならない」、と報道関係者に泣いて訴えていた。
◇良心というもののコントロールが働いて、人間は犯罪や非行から遠ざかる、といわれるが、このごろはその良心のコントロールがあやしくなってきた。人を殺すという大それたことは思うだにしなかったはずなのに、このごろのニュースは毎日のように悲しい殺人事件を追う。
◇それにつけても思い出すのは今から11年前、97年5月に起きた神戸市の中学生犯罪「酒鬼薔薇聖斗」事件である。
中学生のA少年(当時)が小学5年生のB君を殺し、その首を校門にさらした猟奇事件である。少年は殺したB君の血を飲み、わくわくする気分で首を正面から眺めたという。
少年はその2カ月前にも2人の女の子をナイフやハンマーで殺傷している。
神戸事件の翌年(98)3月、今度はアメリカの中学校で、2人の中学生がライフル銃を乱射して、女子生徒4人、教師1人を死亡させ、生徒9人と教師1人を負傷させた。
聖域ともいうべき学校を舞台にした殺人事件は現代社会への痛烈な警鐘であるが、なぜ、こうも人は地獄への道を急ぐのであろうか。
いまなお、われわれの目に焼きついて離れないのが、オウムの狂信者による東京の地下鉄サリン事件(95年3月)がある。
一瞬にして何千人の被害者を出したこの事件は化学薬品の恐怖の大量殺人の実験版だが、われわれは、このような危険な環境に追い込まれているという事実から逃げてはならない。
◇今回の秋葉原事件は、だれが考えたって、普通の人間の「しわざ」とは思えない。運転免許を持ち、車を運転し、刃物を店で買うという普通の人間のしわざであるが、そうかといって、普通の人間が人を殺したり傷つけたりすることはしない。そこが問題であり、現代の危機が問われるのである。
◇要するに、正常と思われる人が、ある日、あるとき、突然おかしくなり、常には考えもしない大犯罪の主演者になるのである。
ある日、あるときの「突然」の「魔」の差した事件を人は「きれる」ともいうが、分かり易くいえば、きくはずのブレーキがきかないのであり、ものごとの価値判断が狂うのである。だれでもよいから「殺したい」というのは、普通の人の、野に咲く美しい花を切りたい気持ちと似ている。常に狂っていれば病院に入れるなど処方の方法はあるが、常は普通で、突然狂うのは処方の方法がない。
そういう人が増え続けている現実を深刻に考えたい。【押谷盛利】
2008年06月09日 18:04 | パーマリンク
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