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鮨を握って日本一の話

 「若いときの苦労は買ってでもするがよい」。これは子供のころ聞かされてきた親や大人たちの言葉である。
 若いときは、2日や3日、徹夜しても体にこたえることがなく、物を持つにしろ、重労働をするにしろ、疲れを知らぬ馬力があった。
 だから、体力、気力の溢れている若いころに苦労を重ね、心身を鍛えておけばそれが世盛りの40、50歳に生きて、老後の大成と幸せにつながってゆく、と教えたのであるが、今もこの言葉は立派に通用すると思っている。
 しかし、現実には、過去の言葉として退けられ、「苦労はせんでもよい」、「辛いことや苦しいことは相談に乗って上げよう」と世の中は子供や若いものにやさしい。言わば今の子は昔の大金持ちの子のように「おんば・ひがさ(乳母・日傘)」で大事に育てられる。
◇最近、読売紙上に連載の鮨(すし)を握って日本一といわれた小野二郎さんの話はしみじみと金剛石のような輝きを見せていた。
 5月から6月5日にかけて21回にわたり連載されたが、本人は80歳をとっくに過ぎているが今も現役で、多くの店員を使いながら仕入れと握りに異彩を放っている。
 舞台は東京で、店の名は「すきやばし次郎」。この店を創めて43年。その間、一人前の鮨職人を目指してやってきた人は150人というが、ものになったのはたったの9人。そのうちの2人は二郎さんの息子だから、実質の卒業生は7人。実に5%という成功率。
 この世界、下働きから少しずつ仕込みのイロハを学び、最後に玉子焼きを覚えるまで10年はかかるという。
 小野さんは、最近はこらえ性のない人が多いとあきれている。
 どうしても鮨職人になりたいと、半年空きを待って来たのがいた。さぞ張り切るかと思ったら、3日間、店の中で立っているだけ。翌日から姿を見せないので電話したら「足がむくんでやめます」。
◇小野さんは7歳で浜松市の割烹旅館「福田屋」に入った。ここで戦争を挟んで20歳まで働いた。
 小学校に入るころ、父が病気で入院生活。母は住み込みで生糸工場に。やむなく叔父に引きとられたが、そのうち福田屋に丁稚(でっち)奉公。店は50人くらいの泊まり客、100人、200人の宴会もあり、板前や運びの女性ら20人ほどが働いていたが、下働きの子供は二郎さんだけ。朝のぞうきん掛け、出前、片付け、使い走りと日付が変わるまでの働き通じで、寂しいとか、悲しいとか思っている暇がない。唯一の楽しみは授業中の居眠りであった。
◇こうして、3年生になったころ包丁を持たされ6年生のときにひと通り使えるようになり、婚礼や法事などの宴会が立て込むと子供ながらに出張料理を任された。
 このころの田舎の婚礼は実家に人を招いて夜通しの宴会となるので、いろいろな料理を店で仕込み、自転車で運ぶ。料理を何段にも小分けした木箱をリヤカーに乗せ、それを自転車で先方へ届けるわけだが、途中、ひと山も、ふた山も越え、到着すれば味つけ、仕上げ、後片付けまで寝ずの仕事だから大変な重労働だったが、その報酬はといえば着替えと小遣いが1日1銭。
 出前先でもらう駄賃やご祝儀、正月のお年玉だけがありがたく、そっくり貯金し、16歳で徴用されるとき6円になっていたので、それで腕時計を買ったという。
◇小野さんは健康に恵まれ、5年前、六本木ヒルズの超高層ビルに次男の隆士さんを独立させ、六本木店を開業させた、本店は長男の禎一さんに任せ、目下は親子トリオでこの道一筋の人気もの。
 いまの新卒生は、せっかく就職しても1年も経つか経たぬうちに退職するものがあり、その言い分は申し合わせたように「仕事が合わない」。日本国中、いくら探しても最初から合う仕事なんか見つかるはずがない。
 「いったん就職したら、ある程度はしがみつかないと仕事の面白さなんてわかりゃあしませんよ」とは氏の述懐。
◇仕事に限らず、今の世は「自立」を軽視し、国からの援助、社会からの援助に頼り勝ちで、うまくゆけば自分のお手柄、ゆかなかったら、世の中が悪い、政治が悪い。
 この甘えん坊体質をどうして退治するか。【押谷盛利】

2008年06月07日 16:54 |


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