大老・井伊直弼と篤姫
NHKテレビで話題の「篤姫」について書いたが、幕末の動乱期に歴史の裏側で権力に翻弄された哀れな女性といえよう。
彼女は20歳で13代将軍家定の正室となったが、結婚生活はわずか1年9カ月。家定は34歳で急死している。
そのころ、歴史の表舞台は彦根藩主・井伊直弼を登場させた。
13代将軍・徳川家定の没したのは1858年8月14日だが、その2カ月前の6月4日、直弼は大老に就任している。
しかも彼は、就任2カ月足らずの7月29日に、かの歴史的な「日米修好通商条約」を締結した。
これまでの日本の鎖国政策に風穴を開けて、日本が世界に目を向ける言わば開国元年ともいえる偉業を残した近世最大の政治家だったが、その2年後の1860年、桜田門外で水戸藩浪士のテロに襲撃され殺害された。45歳だった。このとき、御台所だった篤姫はすでに寡婦となり、天璋院となるが、卑俗に言えば花の盛りの24歳だった。
この両者、歴史の必然というべきか、権力の争いの悽愴(せいそう)さというべきか、いずれにしても時代の犠牲者には違いない。
◇歴史に「もし」はないが、もし、家定が急死せず、後に世継ぎも生まれない場合、後継問題が浮上すれば、篤姫の意向が強く反映して、島津斉彬や水戸斉昭ら一橋派の推す一橋慶喜が14代将軍になっていたはず。そうなっていれば家定急死後、紀州藩主から迎えられた家茂将軍は存在しなかったかもしれぬし、家茂を迎えた井伊の手腕が水戸浪士のうらみを買うこともなかった。
◇ところで、井伊直弼が勅許をまたず、アメリカと通商条約を締結して、今年は150年目に当たる。
井伊藩の地元である彦根市がこの6月から2年間、平成22年3月まで「井伊直弼と開国150年祭」を開催するが、時を得た好企画としてその成功を祈りたい。
彦根は戦後、歴史的評価の変遷で脚光を浴びるようになった。さきに、舟橋聖一の「花の生涯」で、井伊直弼の人間評価が親しみをもって国民に迎えられた。
これまでの彦根は、歴史的には家康譜代の大名として、その赤兜と彦根城が売りであったが、政治的大事件である「日米条約」と開国には触れず、体制反対派を粛正した「安政の大獄」を強調した感が深かった。いわば朝敵というイメージを押しつける傾向があり、それが戦前の日本の歴史の主流であった。
◇歴史は政治的、社会的現象を問わず、それを記録し、価値づけるのは人間を介してであり、事実は一つといっても、その見方、評価は必ずしも一定不変ではない。
例えば、去る5月27日は、かつては海軍記念日だった。明治38年、日本海海戦で、東郷元師の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破った海戦で、日露戦争の勝因でもあった。
しかし、太平洋戦争の敗戦で、評価は変わり、記念日もなくなり、東郷元師も知らぬ人が増えてきた。
◇井伊直弼はこの逆で、戦前は皇国史観が強く、右翼や軍国主義の影響もあって、歴史の表面で高い評価を受けなかったが、戦後、日米同盟など、安全保障上ばかりでなく、外交、交易で親密度を増すアメリカ外交を考えるとき、150年前の直弼の条約締結の英断がいかに重いものであったかを痛感させられる。
この「日米修好通商条約」は1858年に締結されたが、公使の交換、江戸、大阪の開市、自由貿易。下田、箱根のほか横浜、長崎、新潟、神戸の開港、外国人居留地の設定など画期的なものだった。攘夷派や勤王派が京都の公家を動かし、極めて困難な政治情勢だった。もし開国しなかったら、外国の武力による屈辱的事態を招いたかもしれぬ。彦根藩のみならず、県民は誇りをもって井伊大老の手腕と功績を評価すべきであろう。【押谷盛利】
2008年05月29日 16:27 | パーマリンク
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