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戦後の衆院選の歴史

 戦後の衆議院議員の選挙制度は大選挙区連記制から中選挙区単記制、そして現在の小選挙区比例代表並立制へと変遷しているが、その歴史を振り返って分析するとき、政治情勢や国民の政治意識の変化など教えられるところが多い。
 戦後の第1回の総選挙は昭和21年(1946)に実施されたが、記録的な候補の乱立が今に至るまで語り草となっている。
 定数6人の大選挙区制で投票は2名を連記する珍しいシステムだった。
 候補者は定数の6倍近い35名で、当選は自由党3、社会党2、無所属1、計6名。
 湖北からは森幸太郎(自・びわ)、花月純誠(自・米原)の当選組に続き、次点に草野一郎平(無・長浜)、これに次々点の長野重右衛門(進歩党・米原)など上位陣の活躍が目立ち、中位から下位に堀江源一郎(諸・余呉)真川亀太郎(社・長浜)が位置した。
◇この一年後の選挙から、中選挙区単記制に変わり、占領軍による公職追放令などの影響もあって立候補は前回の半分以下の15名になった。
 定数5のうち、湖北からは森、長野、花月の3人が当選し、寺村銓太郎(社・長浜)が次点になるなど注目を浴びた。前回(戦後の第1回選挙)、次点で繰り上げ当選のはずだった草野は公職追放令で涙を呑み、昭和27年の選挙まで立候補が許されなかった。
◇昭和22年の戦後2回目の選挙以来、立候補者は漸減し、同24年14名、27年12名、28年以降は9人から8人を前後し、少ないときは6人(昭58)のときもあった。
◇いわゆる55年体制の始まりとなった昭和30年(1955)の選挙は10人が立って、自民3、社会2の当選で、湖北からは草野がただ一人、前々回の30年に続いて返り咲いた。
 55年体制は1993(平成5)の非自民勢力の勝利で終止符を打つが、それまでの日本の政治は自民、社会のなれ合いの感じが強く政治の停滞と腐敗の因と指弾されていた。
 その自・社の政治体制を象徴するように、滋賀県の場合はいつの場合も自民3、社2、もしくは自2、社1、民社1、共産1の配分が続いた。
◇県下の選挙史を通じてさらに明快になったのは、日本の経済興隆と並行して滋賀県南部の発展と人口の爆発的増加である。
 この結果、中選挙区制のもと、昭和40年代以降は湖北からの当選者は少なくなり、昭和51年以降は遂に空白区となった。この間、桐畑好春(余呉)、黒田春海(米原)、昭和の末期から平成へかけて川島信也(長浜)が2回、伊藤正明(長浜)が1回挑戦したが厳しいハードルは越えられなかった。
 湖北の政治勢力の地盤沈下は取りも直さず、湖北の有権者の少なさから生じたもので、これは全県1区の中選挙区制のもたらす必然性で人口の圧倒的に多い大津、湖南地区が有利となり、当選者の多いのは、市、町議会議員の地盤の強弱と同じである。
 もし、従前と同じように中選挙区制へ復活すれば、湖北は永遠に代議士空白区となるだろう。【押谷盛利】

2008年03月26日 14:14 |


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