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日本語に真向う姿勢

 英語教育の重要さをいう声は聞くが、肝心の日本語について、国語力の強化を主張する声が少ない。
 笑い話に「イギリスでは小学生でも英語がばりばりだ」とあるように、日本人は子供のころから日本語がうまい。当たり前の話で、これを母国語と呼ぶ。母親のおなかの中から聞き、生まれてこのかた耳に入る言葉がすべて日本語だから上手下手はともかく、日本語なしでは生きてゆけぬ。
 しかし、日常使う生活用語だけの知識では、難しい文献や新聞、雑誌を読むのに不自由するし、手紙や文章などを書いたり、人前で話をするのに自信を欠くことがある。
 したがって、最低必要な漢字や送りがなの知識、簡単な文法力は身につけておかなくてはならぬ。義務教育の小、中学校の国語課程は、そうした日本人の必要な国語力を修得することにしているが、それがどの程度理解されているかが問題なのである。
◇日本語で面倒なのは、敬語表現であるが、これがなおざりになると、表記上ばかりでなく、日常の生活用語の中で混乱や失敗をおかすことになる。
 例えば、人を接待して、食事を差し上げることがある。こんなときの招待状は「粗飯を差し上げたい」となるが、招かれた人は、当日の挨拶に「このたびは粗飯のお招きにあずかり」とは言わぬ。
 あるいは宴会の始めの挨拶は「粗酒粗肴ですが…」という。決して粗末な酒や料理を用意しているわけではないが、自分のことを謙遜していう「へりくだり」語である。
◇昔の武士は、自分のことを拙者といった。つまらぬ男、という意味である。今は手紙などで「小生」とか「小子」と書くが、つまらぬ人間です、というへりくだりの言葉である。
 時評子は、自分のことを当初は「わたし」と書いたが、時期は忘れたけれど大分前から「ぼく」に統一している。最初は読者からいろいろ言われたが、遂にこれで押し切った。
 「ぼく」は漢字で僕と書く。三省堂の漢和辞典によると、ボク①召使、使用人、男の召使、罪人の子で召使にされたもの②御者、車馬を取り扱う人③自己の謙遜④日本語では、同等ならびに同等以下の人に対する自称(元来、男が言うことば)⑤かくす。と説明している。
 日本の小説や論文で登場している「僕」は④の意味であり、同等ならびに同等以下の人に対する自称と思って頂いていい。ただし、同等以下という思いはなく、すべての読者を同等視しての一人称である。
 なにも「僕」にこだわることなく「私」でもよいではないか。むしろ、その方が当たりがいいのでは、と思う人も多いのではないか。しかし、なぜか男言葉の魅力というのか、多少荒っぽい感じはするが、正直な心、親しみの心、上にへつらわず、かといって、読者におもねることをもしない、という言論人、執筆者のプライドのようなものをそこにこめている、と思って頂ければ幸いである。
◇さて、手紙だが明治、大正のころは「拝啓、陳者(のむれば)」と書く一つの手法があった。拝啓の続きに時候のことなどを書き、いよいよ本題(用件)に入るときの冒頭に「陳者」と書く。「さて」「つきましては」「申し上げることは」、の意味である。
 ぼくは親父の手紙を見て、陳者が読めないから「ちんしゃ」と一人合点していた、意味は「さて」と承知していた。陳は①ならべる②つらなる③のべる、申し立てるの意味があり、陳者は「のむれば」と読む。とてもいい言葉で、使用したいのだが、大辞泉には載っていない。消えた日本語の一例である。
◇このごろは、ケータイやパソコン文化の影響で、辞書を引くことが面倒になり、文字を書く習慣がなくなった。そこで、もの忘れというか、漢字が書けなくなった。頭の体操から言えば決していい傾向だとは思われぬ。あたらめて、日本語に真向う姿勢を強調したい。【押谷盛利】

2008年03月03日 13:48 |


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