水の浄化と自然愛護
地球の温暖化に警鐘が発せられて久しいが温暖化ばかりでなく、水も空気も汚染され、地上から地中、地下までも壊し続けており、このまま放置すれば、地球の破壊と人類の死滅に行きつくのではないか。そういう心配をまじめに議論し、対策を講じるのが現代人の良識ではないだろうか。
◇ぼくは、水問題を何回か訴えてきた。水がなければ人間は生きてゆけない。水は生活に直結するから大事であることはだれもが承知するが、その水を汚すことについては案外無関心である。
水と言えば連想するのが海(湖)と川である。たとえば琵琶湖に赤潮が発生し、湖岸一帯に水藻が生い茂っているのは湖水の富栄養化と汚れの象徴だが、その湖へ注ぐ河川を見ればゴミの捨て場となっているのではないか、と思われる程、プラスチック類その他のゴミが流されていたり、川岸に山積されている。
河川や湖にゴミを捨てるのは禁じられているはずだが、物捨ての不心得ものがあとを絶たない。
◇水に関係するのは保水力を持つ山だが、その山もまた近年は荒らされ、ゴミ類の不法投棄がしばしば問題になる。登山熱が山を観光化して、これまたゴミの放置と糞尿汚染を拡大してゆく。
雨水や雪が山の地下に浸透し、伏流水となって飲料になるのだが、清冽な地下水が飲料にあやうくなっているのが現実である。
河川はもともとはその地域住民が大切に管理していたが、戦後は自治意識の希薄化や、地域住民の職業と生活上の変化から管理が困難になり、行政もまた洪水被害など災害のない限り手をこまねいてきた。
そうした多年の管理上のルーズさが、河川のたたずまいを悪くし、ゴミ捨ての不心得ものの自制心をなくさせてしまった。
◇ぼくは、湖岸に立ち、あるいは河川の堤防を歩きながら、その汚れと荒れように怒りと悲しみを覚えるのだが、同時にそこに住む魚たちの生環境の悪さに一しおの哀れを感じるのである。
現代人は生活に直結することには強く関心を持ち、行政もまたそれに手当てを丁寧にするが、山や川や湖など、自然の荒廃などには直接苦情が上がらないことをいいことに見て見ぬふりをする。そういう環境浄化などへの費用を出し惜しみするのである。
◇それにつけても思うのは、われわれの出すゴミ類や各種の産業廃棄物の行く末である。ゴミの分別収集と処理は行政の大きな課題であるが、なかず埋め立てゴミの将来を思うと暗たんとなる。目下の埋め立て地が満杯になればどうなるのか。新しい場所に投棄を開始しても、いつかは満杯となる。それを繰り返しているうちに、次第に追い詰められて、そのうち捨て場がなくなる心配はないのか。
あるいは、過去に埋め立てた処分場から、化学物質、その他、人間生活に有害な廃液などを地下へ拡散しないのであろうか。雨水などのほか、地震その他の影響で埋め立て物質に影響が生じないとは断定できない。そうした場合、地下水の汚染が飲料や魚類の棲息の妨害になることも予想される。
家庭から出る生ゴミや業者の出す生ゴミ類の処理も心配の種である。焼却場へ回せば燃料費や廃ガスに悪影響を与えるであろうし、産廃にすれば処分後の経過が心配の種である。生ゴミの肥料、飼料化や産廃物の他目的の工業資材化などの道もあるだろうが、加工費などの経済効果の上で難点もあるにちがいない。それらを多角的に検討して広域処理する方途を考えない限り、最終的に河川や湖、大地を汚し、破壊することになるのではないか。【押谷盛利】
2008年02月04日 13:20 | パーマリンク
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