滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2008年02月29日

うやむや?毒ギョーザ(見聞録)

 中国製冷凍ギョーザから毒物が検出された問題は、中国公安当局が28日の会見で国内での混入の可能性を完全否定したことから、うやむやになりそうな気配だ。
 生産、包装、輸送で何の異常も見つからず、従業員からの聞き取り調査でも問題がなかったとの主張だ。
 未開封の製品の内部から有毒物質のメタミドホスが検出されたことも、袋の外からでも浸透するという「独自調査結果」を持ち出した。そして、毒物混入が工場の外でも起こりうるとの理論で、その矛先を日本に向けてきた訳だ。
 しかし、不純物の混ざったメタミドホスは日本国内に流通しておらず、逆に中国国内ではメタミドホスを使用した殺人や傷害事件が発生している。中国国内での混入説を重視する日本の捜査当局の見解は正しいと思うのだが。
◇中国政府は目下、夏の北京オリンピックの成功を至上命題としている。今回の毒ギョーザ事件が人為的な突発事故と仮定しても、オリンピックを控えたこのタイミングで、中国側に問題があったとの結論を出す訳にはゆかず、日本に強気で応じるしかないというお国事情が透けて見える。
 公安当局は当初から、ダメージの少ない「落とし所」を考えて捜査していたのではないだろうか。
◇北京オリンピックについては、共産党独裁政権下での開催に批判の声があり、「ジェノサイド(大虐殺)オリンピック」とも揶揄(やゆ)されている。
 スポーツの世界に政治問題を持ち込まないのが五輪ルールだが、チベットをはじめとする少数民族の弾圧、ダルフール紛争への「加担」などが、ボイコットの声を招いている。
 ダルフールでは政府と反政府勢力が内戦を続け、これまでに20万人が殺され、250万人の難民が生まれた。欧米各国は同国の石油利権が内戦を長引かせているとして産油から撤退したが、中国は深く同国に喰い込み、石油を買いあさり、その代金が内戦の武器、弾薬となっている。
 映画監督スティーブン・スピルバーグ氏が、北京オリンピックの芸術顧問から退いたのも、ダルフール問題に対する中国の無策への抗議からだ。
◇国内に目を転じても、土地の強制収容、役人の汚職と企業との癒着、止まらない環境破壊など、この国の制度やシステムといった構造的欠陥が浮き上がる。今回の毒ギョーザ捜査の結果も、その構造の一部かも知れない。
 今後も、日本はこの隣国と経済的付き合いが深くなるが、こういった欠陥を認識しながら、例えば、食品の輸入先を第三国にも振り分けるなど、リスクの分散が望まれよう。
 ともかく今回の公安当局の発表に対して、親中派の福田康夫首相がどういう態度で臨むのか。うやむやにしないことを祈りたい。

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2008年02月28日

占いは祈り、人間の弱さ

 ちかごろテレビで人気のある番組は主婦層や若ものをねらう占いコーナーである。
 一口に占いといっても手相、人相、姓名判断、霊視霊感、占筮(せんぜい)、筆跡、写真などの手段は多岐にわたる。
 そのうちでも目下、話題性の高いのは、細木数子、江原啓之氏が双璧であろう。
 細木さんは筮竹(ぜいちく)を基本とする星占いだが、江原さんは霊視による霊界通信とも呼ぶべき領域である。
 このほか、神さま、仏さまにお祈りし、いわゆる神がかり状になって、霊界からの声を伝えるものやコックリさんといわれる民間信仰もある。
◇占いをする人を占い師と呼ぶ。
 占い師は、今に始まったものではなく、日本の古代史に登場する卑弥呼(ひみこ)も特殊な能力を持っていたと推察される。彼女は3世紀ごろの邪馬台(やまたい)国の女王で30余国を統治し、239年に魏の明帝に朝貢し、「親魏倭王」の称号と金印を受けたとされる。女性の卑弥呼が30余国を支配したという権力の主体は、神がかりからくる判断力と予知力の神秘性によるもの、とぼくは考える。
 つまり、農作物の豊凶や隣国との争いの勝敗、天気予報、人の運命などを予知する能力を持っており、その力が人徳となり、遂には邪馬台国の女王となって、日本の草創期に活躍する。従って出自は神に仕える巫女(みこ)ではないか、と思われる。
◇ぼくは、占いの最初は「祈り」である、と考える。例えば、わが子が病気になり、薬石効なく、だんだん容態が悪化する。母親は、自分の命に代えても子を助けたいと必死の思いで祈る。その祈りが「すがり」となって、「まじない」、「祈祷(きとう)」、「茶断ち」、「滝行(たきぎょう)」、さらには占い師の門を訪う。
 人間は、弱くて、非力。無常の波に翻弄(ほんろう)されるから、常に目に見えぬ不思議な力を畏敬し、その力に頼ろう、救われようと思う。そこに素朴な宗教的情操が生まれ、また占いに自分の運命を見出そうとする。
◇占いを信じる、信じないは人の自由であるし、否定する人もあれば肯定する人もある。
 もし、自分の人生が、あらかじめ設定されたものと思えば、これほど味気ないものはない。自分の主体性、主体的意志を放って、占いに傾注するとすれば結果が凶と出た場合の悲劇が怖い。
 所詮はわが人生であり、一切の責めは自らが負うべきであり、もし、占いなどに意味を求めようとするならば、よき人生のプラスになるよう参考の域に留めるべきであろう。
 細木さんや江原さんは、常に先祖を大切にしよう、先祖あっての自分である、ことを強調されているが、これは占いというよりも、人生の常識であり、教訓である。
 そういう教訓として、こうした番組に心をただすことができればその人は幸せである。さらに幸せなのは、なんの心配も恐れも悩みもなく、毎日を希望と充足に満ちて暮らす人である。

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2008年02月27日

人はなぜ化粧するのか

 人はなぜ化粧をするのであろうか。昔の人を知るよすがに埴輪(はにわ)を参考にすることがある。
 多くは古墳から発掘されたものだが、土で造った素焼きで、弥生時代を背景にしている。
 飾りものや遊具めいたものもあり、馬や犬の姿、人間を現したものもある。人間の場合、女性は胸を大きくしており、耳飾りをつけたものもある。女性の胸は今も昔も女性美の象徴だった。
 文芸春秋3月号に平成19年度下半期の芥川賞の受賞作品が載っているが、なかなか面白い。作者の川上未映子さんは、31歳という若さ。
 歌手のかたわら小説も書くという多彩な才能を持ち、なかなかの美人でもある。当選した小説の題名が「乳と卵」で、題名から想像するだけでも何か、女でなければ分からぬ闇か夢がありそうである。
◇この小説に登場する巻子は10年前、男と別れ、この男との間に生まれた娘・緑子と同居している。スーパーの事務や工場のパート、レジ打ちの梱包など、いろいろ仕事をするが、その程度では生活が厳しく、いつの間にかスナックに勤めるようになる。その巻子母子がある日、妹を頼って東京に出てくる。話というのは巻子の豊胸手術のことであり、彼女はあらゆる出版物や情報をたよりに豊胸手術にのめり込んでいるが、まだ現実に手術するに至らず、入念に名医を探索中というふれこみ。
 まあ、小説の筋書きや話の内容はたあいのない、ありふれた女の世界だが、スナック勤めの巻子の並々ならぬ豊胸の手術願望が、女盛りのかなしみと憂いを表白しているようで、ぼくはそこに女性の性の本質を垣間見る思いで、ふっと埴輪の女性像を取り上げる気になった。
◇それは一口でいえば女のおっぱいである。女のおっぱいを女性の象徴として大きく取り上げた古墳時代の先人の思いも当今の女性の気持ちも質的には同じであることがうかがえて、いまさらながら真理は一つと妙な結論に至り、あげくの果ては、女性の化粧へ関心が広がってゆく。
 化粧は必ずしも女性専科ではなく、これもまた古代にさかのぼるが、中国の紀元前の古書によると、むかし昔の日本人は顔にいれずみをしていたと書いている。おそらく南方から渡ってきた先人の格好から判断したのであろうが、日本人の原人は北京系のものもあればアイヌ系、モンゴル系もあり、どれもがいれずみをしていたわけではない。
 いれずみでいえば、これは一種の化粧であり、ことに男は強さを象徴させたのかもしれない。遠い話はともかく、平安朝以降、女性は身だしなみに厳しく、長い髪やふっくらとしたお多福顔にあこがれた。
◇女性にとっては髪と胸はいのちともいえよう。胸は見せるわけにはゆかぬが髪は特別に大切にした。
 イスラム教系の女性が布で顔をかくすのは家族以外の男性に顔をさらさないという民族の伝統だが、これは顔がその人のすべてという程のプライドと自負があるからで、別の言葉でいえば将来の夫のために身も心も新鮮であるという証(あかし)であろう。
◇化粧するのは美しくありたいとの念力の自然の姿であり、逆にいえば化粧によって人間は汚れやゆがみをただそうとするわけで、それは単に顔に化粧品を塗ったり、髪を洗うだけでなく、下着から上着、装飾品、香水など身につけるすべてに飾る意識が働いている。
 その自己愛の極みともいえる飾る意識が人間そのものの外形を変える手術にまでつき進んだのが現代の悲劇である。
 顔や体はメスで変えられても心はメスやクスリで変えることはできない。心が変わらねば他の一切の化粧は生かされぬ。化粧品屋や美容師、エステの先生はそれは言わない。【押谷盛利】

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2008年02月26日

移民100周年の節目に(見聞録)

 彦根警察署に25日、来日外国人を支援するチームが発足した。交通事故や犯罪にまき込まれないように、啓発教室を開いたり、各種の相談にのる。
 彦根署管内(彦根市と犬上郡)には外国人約2600人(全住民の1・9%)が居住し、ブラジルからの出稼ぎ、中国からの研修生が大半を占めている。
 長浜市の4170人(全住民の4・9%)に比べると少ないが、交通や法律、警察の役割など、日本の生活ルールを知らない外国人が少なくないうえ、言語、宗教、文化の違いから近隣住民とのトラブルも起こりえる。110番の方法さえ知らない外国人もいて、防犯上の課題ともなっている。
◇彦根署支援チームの顧問には彦根市役所で通訳などを担当している日系2世ブラジル人の奥村ルシア克子さん(46)が就任した。来日して18年目になる。
 チーム発足式の後、彼女から来日している日系ブラジル人の思いを聞いた。
 彼女によると、世界の国々の中でほんの一握りの先進国だけが裕福な生活を送り、その暮らしぶりがテレビやインターネットを通じてブラジルに伝わる。日系ブラジル人は少しでもチャンスがあれば、出稼ぎに行きたいと願うのが心情だという。
◇日本は1990年に出入国管理法を改正して日系外国人の受け入れを始めたところ、ブラジル人が大挙し、現在は国内に30万人がいる。
 彼らは工場などで「3K」の仕事に従事し、賃金や待遇も決して恵まれたものではない。奥村さんは日系ブラジル人が「単なる労働者」として扱われ、日本生活に馴染み、溶け込めるような政策が取られていない、と受け入れ体制の不備を指摘している。
 特に心配しているのは、子ども達の教育問題。親に連れられて日本に来たものの、言語も習慣も異なる日本の学校生活に馴染めず、授業にも付いてゆけず、不登校になったり、非行に走ったりするケースがある。
 親は職場に居場所を見つけるが、子ども達は勉強も就職もせず、居場所を失ってしまう。
◇そんな中、長浜市教委は昨年4月、市内に転入してきた外国人児童向けに日本の学校生活や簡単な日本語を指導する教室「和(なごみ)」を開設した。これまでに26人が卒業し、その成果について市教委は手ごたえを感じているようだ。
 以前は学校生活にストレスを感じている子どもが多かったが、指導教室の卒業生はうまく学校に溶け込めていると、現場の教師から好感触を得ているという。
 また、指導教室での活動には市民をはじめ、彦根の県立大、滋賀大の学生が無償で手伝い、そういう献身的なボランティアの輪も子ども達の心を開いているようだ。
◇今年はブラジルへの移民が始まってちょうど100年。両国の国民が手を取り合い、友好と交流の気運が盛り上がることに期待したい。

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2008年02月25日

首長選に見る特徴点

 24日、投開票された草津市長選は、現職の伊庭嘉兵衛氏(65)が敗れて、新人の前市職・橋川渉氏(59)が当選した。票差はわずか303票。両氏相譲らない激戦ぶりを実証したが、結局、勝敗のポイントは若さと改革にしぼられた。
 最近の県内各地の首長選ばかりでなく、全国的に見ても一つの顕著な選挙動向を知ることができる。
 これまでの首長選は、圧倒的に現職が有利だった。有利なるがゆえに、再選、三選、四選と回を重ねた。
 それが小泉改革の余波を受けて、現職必ずしも有利ならずの状況が生まれ、むしろ現職が改革の標的とされてきた。
◇地方首長選で最も劇的だったのは、一昨年の滋賀県知事選における嘉田知事とさきごろの大阪府知事選の橋下知事の出現だった。
 嘉田氏はオール与党化の現職の国松氏を退けたが、告示ぎりぎりの名乗りにもかかわらず、名もなきその他多勢の県民に支えられて当選した。背景には女性票や環境への関心もあったが、勝敗を決定づけたのは、若さと改革であり、しかも改革の二本柱を新幹線栗東新駅の凍結とダムの見直しに置いた。
 大阪府知事に当選した橋下氏の勝利は知名度もさることながら、圧倒的な若さと行動力、それに不退転の決意をにじませた府政の赤字克服への府債ストップと徹底した行政改革への旗振りだった。
◇この二つの知事選と全く似ているのが最近の大津市長選と京都市長選だった。
 大津市は目片氏が辛勝して再選されたが、敗者の黄瀬紀美子氏は告示直前の名乗りで知名度がなかった。もし、あと10日選挙戦が続けば結果は逆になっていたかも知れない。これまた若さと改革への市民の期待が高まったからである。
 京都市長選も同じことがいえる。共産党の推した候補者だったが、無党派層と一部の民主党及び社民党の支援で全く互角の勝負だった。やはり、ここでも若さと改革を求める有権者の心が底流していた。
◇湖北に目を転ずれば、坂田郡4町の合併による米原市長選は、米原町職員の平尾道雄氏の出馬で、市民の若さと改革への期待感が高まり、現職4町長の代表格・三山元暎氏は戦わずして後進に道を譲った。
 木之本町長選は古豪の藤田市治氏が6選を拒まれて新人の岩根博之氏の進出を許した。これまた若さと行政刷新を求める町民の声の反映だった。
◇草津市長選は、県南部における大津に次ぐ拠点都市であるから政争も激しいが、人口増の発展の過程における利権政治の闇の部分も根が深い。歴代市長が一期で交代したのも渦巻く膿(うみ)の結果であろうが、一つには政治を変える市民の意識が低かったともいえる。
 これは草津のみならず、県下全体における政治の後進性によるもので、この後進性に鋭くメスを入れたのが嘉田県政の誕生だった。
 栗東市長選は僅少差で改革派が敗れたが、近江八幡市長選は自民県議のなかで唯一、嘉田派に走った冨士谷英正氏が当選した。
 今後、彦根市長選、長浜市長選が続くわけだが、残念乍ら北へゆくにしたがって、住民の先頭に立って、地域のために献身しようとする若手の台頭が見られぬ。
 一つは、住民代表の議員の無自覚、無責任にもよる。これからの首長と議員に求められるのは、大阪府の橋下知事ではないが、聖域のない行政改革であり、無駄な事業や予算の全廃である。
 前例踏襲や既得権の継続、強いもの勝ちの発想などに勇気を振るって改革のメスを入れなければ地方に明かりは差さない。【押谷盛利】

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2008年02月22日

ゆとりと公共精神(見聞録)

 インターネットの掲示板で何かの話題を論じている時、的外れのコメントや、無知な文章を書き込むと、すかさず「ゆとり」と突っ込まれる場合がある。
 「ゆとり教育」による学力低下から転じ、無知なネットユーザーを軽蔑する言葉、ネット上では浸透した隠語だ。
◇先週、文部科学省は、現行のゆとり教育を見直す小中校の学習指導要領の改訂案をまとめた。
 授業時間は小学校で約5%、中学校で約4%増える。特に算数・数学は約18%、理科は約22%増となり、近年言われる「理科離れ」の解消を目指す文科省の方針がうかがえる。
 授業時間が増えたのは実に40年ぶりというから、1960年代から授業内容は削られっぱなしだったようだ。
◇ゆとり教育が完全導入されたのは9年前。当時は、暗記作業による知識詰め込みのテスト勉強ばかりで、論理的思考が欠如し、テスト後に勉強内容を忘れるという実態が指摘され、日教組を中心に「詰め込み教育」と批判が起こっていた。
 多様な能力を伸ばすためには、ゆとりのあるカリキュラムが必要ということで授業時間が削られ、家族と過ごす時間の確保を名目に学校は週休2日制。「総合的な学習」の導入で教科にとらわれない幅広い学習の機会が増えた。
 しかし、小学校の算数で「台形の面積」、中学校の数学で「2次方程式の解の公式」、「円周率3・14の簡略化」など、「ゆとり前」の世代には信じられない「甘やかし」となっている。
◇子ども達の基礎学力の低下が鮮明化しはじめたことから、安倍晋三内閣による「教育再生」で、方針転換を図ることになったことは喜ばしい。
 改訂で、ゆとり教育の象徴として削減されていた「台形の面積」「2次方程式の解の公式」などが復活し、円周率を「3」に簡略化する規定は削除された。
 社会規範の低下が問題化するなか、道徳教育の教科化の可否が注目されたが、成績の段階評価などの価値判断が難しいとの理由で見送られた。それでも各校に「道徳推進教師」を置くことを盛り込んだのは、前進だろう。
 注目したいのは教育基本法改正を受けて「公共の精神」の醸成を盛り込んだこと。家庭教育もままならない昨今、せめて学校現場で少しでも公共の精神が身に付けばと期待する。

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2008年02月21日

人権擁護法案は毒薬

 いま、中央政界で、無気味な妖怪のような法案が活火山帯のマグマのようにうごめいている。このマグマ、いまのうちに冷却し、ただの火成岩にしなければ日本全土を焼きつくし、この世を真暗闇にしかねない。
 地下に潜むマグマのような奇怪な法案とは一体、なにを指すのか。法案を準備し、国会に提出する動きは早くから自民党有力議員の間で進められてきたが、なぜか、多少の良心のうずきを感じるとみえ、堂々と宣言し、中央突破の勢いがない。いわば法案の名前にかこつけて、側が、ガヤガヤ騒がないうちにいつの間にやら通っていた、という状況を目論んでいるようである。
◇さて、その妖怪法案なるもの、ここらで仮面を脱いでもらいたい。
 21日付、産経新聞の読者はすでにお気付きかもしれないが、「クスリに見せかけた毒薬」という物騒な見出しの意見広告が出ている。
 この意見広告は、言論の自由を守る事実委員会の代表数氏が提案しているもので、その委員の中には、ぼくが日ごろから傾倒している評論家、作家、学者の名がある。
 そのうちでも桜井よしこ氏を筆頭に花岡信昭、屋山太郎氏らの言論人は日本の失いつつあるものを危惧し、教育に、外交に、環境と福祉に、多方面な活躍を見せ、日本の政治に隠然たる影響を発揮している。
 憂国の至情をふるって、国民に訴えている21日付、産経の意見広告は次の通りその前文にすべてが集約されている。
 「私たちは、人権擁護法案に反対します」。
◇「人権」からわれわれは何を類推するか、これは徳川政権下にお上がしばしば悪用した葵(あおい)の御紋に似てはいないか。水戸黄門が助さん、格さんを連れて、悪代官を征伐するとき、さっと差し出す葵の御紋。あれと同じ効果を発揮してきたのが「人権」であり、問答無用で地方のすみずみにまで浸透してきた。
 必ずしも国民にいい響きをもたらしていない人権なる用語が、いま大手を振って、堂々と法律の名前にうたわれて登場するには、何かわけがありそうである。しかし、ここは、国民たるもの「人権」なる名前にひるんだり、ごまかされたりしてはならない。
 そこで、ぼくはいま問題の意見広告を広く国民に読んでほしいと思い、以下広告の要旨を再録する。カッコ内は本文の一部。
 「これは偽装薬品です。一見、『人権』を『擁護』する『法案』ですが、この法律は日本人の人権と言論・表現の自由を抑圧する法律です」。
 「定義が曖昧な『人権』をタテに三権分立から独立した『人権委員会』が人権侵害と判断する行為を処罰、勧誘するものです」。「そのために全国に張り巡らされた『人権擁護委員』2万人が人々の言動を監視し、訴えがあると、捜査令状なしに立ち入り、証拠を押収します」。
 「国民の自由な意見が発信されるインターネットも壊滅的な打撃を受ける可能性が大きいのです。あなたのパソコンが、ある日、突然押収されてしまうかもしれません」、「政治や社会問題や宗教への何気ない疑問も」、「外国人参政権への反対意見も」、「拉致問題への発言、言動も」、「外国人犯罪への意見も」、「防衛問題への意見も」、「コミックマーケットに出す同人誌も」、「入学式、卒業式の国旗掲揚と国歌斉唱も」、「人権侵害だと訴えられる可能性が大きく、日本人の自由な言動、表現が抑圧、弾圧されます」。
 「自民党は平成20年通常国会にこの法案を提出する予定です。また民主党も自民党案以上に、より抑圧的な法案を用意しています」。「3年前にこの法案は、ネットを中心とする反対運動や良心的な政治家の尽力で立ち消えになったが、マスコミはその事実をほとんど報道していない」。
◇この危険な法案、詳しく知りたい方はインターネットで「人権擁護法案」を検索すればよい。これに反対する国民は地元選出の国会議員、地方議員に反対意見を寄せることが望ましい。一説には、この人権法案は、さきの戦争中、多くの国民の人権を奪った治安維持法に似るといわれる。これについても論評してゆきたい。【押谷盛利】

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2008年02月20日

追う人生、追われる人生

 「兎追いし彼の山…」という童謡があった。
 追うというのは主体的で積極的で、ぼくの好きな言葉だが、ともすると逆に追われることが多い。われわれの先祖は自然とのたたかいの中で成長し、発展し続けた。自然の恵みに喜ぶこともあれば自然の嵐に泣き苦しんだ日もある。
 暦のない遠い未開の時代は日と月が唯一の暮らしの明かりであった。一日の始まりと終わり、昼と夜の象徴が日輪であり月であった。
 その時代の人々は日を追って暮らしのめどをつけた。今日が終われば明日(あした)、明日がくれば次の日を、と常に前へ前へと心をはずませた。
 前向きの心は日を追う心でもあった。
◇こうして、人類は長い年月の歴史を経て、ものを夢み、ものを計画し、その実現を追う暮らしを常態化してきた。
 兎を追うように、今、追わねば明日(あした)は分からない、という真剣さ、切実さが追う心の真実である。
 したがって必勝パターンというか、勝ち組にあやかろうとすれば、人はだれもが「追う」という積極性と馬力を維持し続けねばならぬ。
 追うというのは目標にねらいをさだめて、獲物を手にするように、準備と決意と行動力が伴わねばならぬ。追っているうちに息切れすることもあろうし、気分の変わることがあるかもしれない。
 そういう意味では根気のいることでもあり、常にエネルギーを燃焼していなくてはならぬ。
◇人間は遊びたいか、働きたいか、汗をかくか、昼寝をするか、と問われれば大方は遊びたい、楽(らく)したい、うまいものをたっぷり食べたい、と、いわゆるなまけ心に支配されやすい。
 そういうなまけ心が土台に潜んでいるから「追う人生」の過程において、つい知らず知らずのうちに追われる人生に歩み方が変わることが多い。
 「早く起きねば学校に遅れるよ」、「何日までに仕上げねば取り消しになるよ」、「早く返さないと利息どころか差し押さえを食うよ」などと身の周辺は時間といい、仕事といい、約束ごとといい、なぜこうも追われるのか、といらいらしながらアクセルを踏む。
◇追われる人生は風のまにまに、気の向くままにと呑気なことを言っている間はよいが、人生という競争ごっこに追われてばかりの敗者の道に転落すれば並み以下の生活に苦しむことになる。
 それも自ら一人の人生ならともかく、親もあれば子もあるという家庭人ならば家族の幸、不幸に関わることである。
 役所においても事業所や店においても、そこで働く人の心がけ次第で重く登用され、収入やポストが上がってゆく。その心がけとはすなわち「追う」か「追われるか」の心のスタンスである。
 自分で創意工夫し、今日より明日へと前進する追う姿勢で働くのと、上司から言われて、まだか、まだかと追われつつ働くのとでは先へゆくほど開きが大きくなる。
◇人はみんな幸せになりたいと願う。幸せは前方からこちらへ転がってくるものではない。こちらから青い鳥を追ってゆくのが幸せづくりのイロハである。
 学校での勉強、職場での実績、社会での信用、趣味の練達、われわれをとりまく環境の一切は生存と行動の主体であるわれわれ自身の前向きな追いの姿勢に関わっている。
 追われるよりも追ってゆけ。【押谷盛利】

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2008年02月19日

いのちの食べかた(見聞録)

 中国産の毒ギョーザ問題は、冷凍食品をはじめ多くの食品を輸入に頼っている日本の食の課題を改めて浮き彫りにした。
 検出された薬物が、日本国内では流通していないことから、中国国内で混入されたとみるのが妥当だが、多くの工場を抱える中国政府にとって、国内での毒物混入を断定することは、この国の食品輸出産業に大きな打撃となり、さらに、夏の北京オリンピックを控えているだけに、このまま、原因を特定せず、うやむやにする可能性もある。
 毒ギョーザに続いて18日には、中国製しめ鯖から、殺虫剤が検出されたが、いったい中国の食品生産現場で何が起こっているのだろうか?
◇食品の生産現場を淡々と映像で伝えるドキュメンタリー映画「いのちの食べかた」が全国のミニシアター系映画館でロングヒットとなっている。上映の長い映画館では4カ月目に突入し、小欄も先々週、大阪市内の「第七藝術劇場」で鑑賞したが、この手の映画館にしては多くの客で溢れていた。
 この映画は、オーストリアのニコラス・ゲイハルター監督が、ヨーロッパ内の養鶏場、農園、水産加工場など食品の現場を2年かけて撮影し、編集した。
 作品はナレーションやインタビュー、BGMもないまま、食材がどう生産され、どう加工されているのかを、ただ映像で紹介するのみ。
 ベルトコンベアで運ばれるヒヨコ、狭い小屋に押し込められた豚、全自動の機械でさばかれる魚、品種改良の積み重ねなのか実が綺麗に整った野菜がスクリーンに映しだされる。
 動物も野菜も、人間に食べられるために生まれ、ただ生かされ、殺される存在で、動物や植物が命ある「生き物」として扱われず、何の感謝の心もなく、機械化された工場内でひたすら商品化されていた。
 世界中の胃袋を満たすために、いかに多くの「いのち」を殺め、その尊厳を無視して、機械管理しなければならないのか。
◇今の日本は洋食化が進み、食材の6割を輸入に頼っているが、生産現場がどこか遠い国にあるという現実が、食に対する感謝の気持ちを希薄にし、簡単に残飯を捨てる人を生み出している気がしてならない。
 日本人の食品は日本国内で生産し、伝統料理を重んじることで、大切な「いのち」を頂いているということを見直せるのでないだろうか。
 今回の毒ギョーザ事件は輸入に頼る今の日本に対する警鐘と受け止めるべきであろうし、この事件をきっかけに、国産ニラを使った手作り餃子など、身近な食材を使った家庭料理がにわかに人気を呼んでいるのは、嬉しいニュースでもある。
◇なお、異例のロングヒットを続ける「いのちの食べかた」だが、いよいよ来週の26日から滋賀県内で上映がはじまる。会場は大津市の滋賀会館シネマホール(077・522・6232)。興味のある方はどうぞ。

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2008年02月18日

雪の多賀大社で結婚式

 人生は何のへちまと思えどもぶらりとしては暮らされもせず。
 昨17日、わが社の記者Y君が結婚したので、他の同僚らと晴れの祝宴に出席した。
 雪の降りつもる多賀大社の宮は粛々として清浄の気があふれていた。
 披露宴の上席雛壇は雛祭りの前奏曲よろしく、まさに美男美女の好カップルだった。
 多賀の宮は、日本の産土神の元祖といえる。伊勢の天照大神の親さまであるいざなぎ、いざなみの両大神を御祀りしているのだから、言葉を変えれば日本人の古里のみやしろである。
◇新郎新婦の入場は、荘重な雅楽を先頭に、さながら昔むかしの宮殿におけるやんごとなき皇子皇女の、あるいは平安期における大宮人の華麗な華燭の典を思わせて、参会者一同感激と興奮のるつぼに酔った。
 セレモニーが順調に進むうち、このごろのしきたりである夫婦の最初の仕事とされるケーキ割を迎えた。
 多賀の宮はこれまた一般の三層高層の高々とそびえる巨大なケーキに代わり、ずんぐりと大きな扁平の丸々とした真白い餅に見立てた饅頭であった。新夫婦がナイフをおろすと中から小さな饅頭が出てくる。たくさんの饅頭がしつらえてあり、これは意義深い夫婦の契りの愛の結晶を象徴したものであろうか。
 餅は夫婦2人が心を込めて愛し愛された結婚後の最初の仕事を思わせるし、中の小さい饅頭は二人の愛が見事に子を宿したと理解することができよう。
◇祝宴に先立ち両家の来賓からそれぞれ挨拶があり、ぼくは新郎の上司として冒頭に指名されるという光栄に浴した。
 ぼくはこの日の朝の大雪に触れ、「めでたい」と称えた。雪は天の神さまの祭りごとのお下がりであり、神さまの頂きもの。しかも清浄として真白くすべてのけがれを祓(はら)い清めてくれる。
 雪国に雪の降らざるは好ましからず。雪降るなかに晴れの結婚の儀が行われたというこの事実こそ、二人の将来の幸せを約束づける神さまの御意志であろうと祝福した。
 そして、ぼくは新聞記者生活なる仕事の特異性にふれ、朝、昼、夜、心の休まる刻がないが、家庭こそ心のオアシスであり、家庭の女房の心をこめた手料理に心を引かれるのが働く男の家庭人の側面である、といい、「働け、働け、働くのが男」、「お帰りといつもにこやかにやさしく迎える愛の巣が妻の命」と激励した。
◇Y君は、まじめで、がんばり屋だから将来が楽しみだが、当世の若い者の中には、楽(らく)してお金をもうけたいという、なまくら根性、あるいは、世の中って、なんとかなるさ・・・という甘い考えのものもある。その点、神社で行う本当の神前式は夫婦の門出に魂を入れるのに最高ではないか、と思った次第。【押谷盛利】

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2008年02月16日

「山の神」は妻の美称か

 伊吹山は湖北の人たちが何千年、何万年と連綿して仰いできた産土(うぶすな)山である。
 神さまが坐(いま)して周辺の生きものを見守ってくれている。もちろん人間も守られている。そんな感じの一種の信仰の対象とされている霊山といっていい。
 伊吹山は北の伊香郡、正面からの長浜、南からの米原方面、遠く彦根、能登川方面からのたたずまい。それぞれに言い知れぬ風格を持ち、土地の人は自分たちの村から見る伊吹が最高だと自慢する。
◇霊山というのは神霊の宿る山をいうが、日本はもともと山国だから、山の恩恵を受けることが多く、山を無視しての生活は考えられなかった。
 生命をはぐくむ水の源流は山であり、山から流れる川の水が船やいかだを運び、その水によって田や畑の農作物が育った。もちろん、水中生物、なかんずく魚類が繁殖し、人間の食用に供された。
 だから、日本人は山を尊び、山を大切にし、地域それぞれに山神を祀った。
 春になって初めて山へ入るにも入山の祭りを行うほか、村人たちは山を共同で維持管理するため、さまざまな「決め」やボランティア活動を課した。
 山は修行の聖地であり、遊びの対象などではあり得なかった。
 今日、夏山、冬山で遭難死事件が珍しくないが、考え方によれば神の怒りの信号ともいえる。
◇妻のことを「山の神」というが、なぜそう呼ぶのか。一家の主婦はその家の神さまである、という尊称なのか、ふざけ言葉なのか、味わってみることも夫婦円満の秘訣かもしれない。
 普通、山に祀られている神さまは女神とされている。農民、きこり、山林業、鉱山関係者らが祀る。
 人間の生活は家が本拠である。家は夫婦が要(かなめ)であり、先祖から現在へ長い歴史と伝統によって発展してきた。その歴史と伝統によって固められてきたのが現在の「わが家」である、と自覚すれば家は一種の風格を持ち、犯し難い尊厳性が存在すると考えよう。
 そこで、山が自然の象徴として尊崇され、神霊化され、女神さまが宿ると仰がれてきたように、風格のある歴史的「家」にもまた神さまが宿っているはずだ。一家の台所をあずかる主婦は言わば生きている神さまではないか。この神さまが子を生み、子を育て、さらなる家の繁栄の根源ではないか。まこと女房こそは神さまである、と考えたとて否定すべくもない。
 山の神も女神、家の神も女神。しかも人間界の山の神は結婚後、年月を経て発言権が大きくなり、たくましさが出てきた女性をいうにふさわしい。
◇当節は、山の神の威厳が強すぎて、男どもの坐り心地が悪くなったが、何はともあれ子孫繁栄だけは忘れてほしくない。国からのお手当によって、子をもうける、もうけない、なんてそんな次元の低いものではない。【押谷盛利】

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2008年02月15日

今週末は長浜音楽祭!(見聞録)

 今週末の16、17日、長浜市民会館で長浜音楽祭が開かれる。16日は器楽を中心に9団体、17日は合唱を中心に12団体が出演し、日ごろの活動の成果を発表する。
 湖北地域の住民に音楽に触れ、親しんでもらい、音楽文化の裾野を広げようと毎年開催されている。
 今年は、湖北地域のアマチュア音楽家や愛好家で結成する湖北オーケストラと同合唱団が共演するのが話題となっている。
 オーケストラは長浜音楽協会の呼びかけで一昨年、結成された。約50人が参加しているが、湖北地域の音楽家だけでは奏者が足りないパートもあり、彦根などから助っ人を呼んでいる。今度が2回目のステージとなり、今後、単独での演奏会も企画している。
 一方、合唱団はオーケストラに続けと、昨年発足したばかり。湖北地域のアマチュア声楽家85人が参加し、初ステージに向け、練習を重ねてきた。
 両団体は17日に出演。オーケストラがモーツァルトの歌劇「後宮からの逃走」序曲、フルート協奏曲ニ長調第1楽章を演奏した後、佐藤眞の「大地讃頌」、エルガーの「威風堂々」を合唱団と共演する。フルート協奏曲では長浜市出身で相愛大学音楽学部在学中の服部沙由梨さんがソリストを務める。
 アマチュア音楽家によるオーケストラ、合唱団の結成・共演、地元出身のフルート奏者によるソロと、クラシック音楽文化の土壌が湖北で盛り上がりつつあることに期待が膨らむ。
◇彦根市では平成9年の市文化プラザの完成に合わせて、地元の音楽愛好家がオーケストラと合唱団を立ち上げた。毎年12月にベートーベン交響曲第9番を披露し、昨年は記念すべき10回目を無事成功させた。
 コンサートには毎回、多くの市民が訪れており、文化プラザという県東北部で随一の音楽拠点を存分に活用し、彦根市民の文化度が確実に熟成されていることがうかがえる。
◇長浜病院では音楽療法を取り入れ、度々、院内でクラシック・コンサートを開いている。旧市街地の「川崎や」は地元の若手ミュージシャンに開放し、ライブの舞台となっている。大宮町のジャズバーは、日本を代表するバンドや本場ニューヨークで活躍するミュージシャンを招いている。そのほか、公共施設でも地元の音楽愛好家によるコンサートが開かれ、最近は音楽に触れる機会が増えているように感じる。
◇今週の月曜、ドイツのメタルバンドが大阪でライブを開いたので、聴きに行ったが、音楽が聴衆に与えるパワーや感動を改めて体感した。音楽は人の心を癒したり、気分を高揚させるだけでなく、その場の心を一つにする効果を持つ。
 今週末に初共演を迎える湖北オーケストラと合唱団のように、地元で音楽文化が一層深まり、いつでも生演奏に触れられる環境になればと、音楽愛好家の活躍に期待していたい。

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2008年02月14日

終の棲み家か雪五尺

 「おりおりに伊吹を眺め冬籠り」。これは有名な芭蕉の句である。
 江戸期は、今よりももっと雪が多かったようだ。
 次は有名な一茶の句である。「これがまあ終(つい)の棲み家か雪五尺」。一茶が財産相続の一件が落着して懐かしい長野の古里へ帰ってきた当時の深雪を思わせる。江戸では、5尺もの雪を見ることはなかったから、さながら別天地のような古里である。しかし、お粗末でもわが家はわが家。それに子供のころから遊び呆けた山や川がある。やれやれとの深い感嘆と喜びの溢れた庶民的俳句といえよう。「終の棲み家」という表現はいかにも世捨て人らしい文人の境地をあらわしたもので、人間、生まれ故郷の見えない何かに守られている、といった原初的な宗教的情操をすら感じさせて切ない。
◇雪国の人は、雪は降るべくして降る、という先入主観が母親のお腹(なか)の中から宿っている。その諦念の如き雪への受け容れ情緒は雪を賛美することはあれ、のろったり、忌み嫌うことはしなかった。
 それどころか、天からの授かりものとして、これを「お降(さが)り」と言い、今も俳句の新年の季語に残っている。
 情緒的に雪を迎えるだけでなく、生活の中の覚悟や明日への準備、さらには現実の雪対策まで、先祖代々言い伝えている。
 さきの芭蕉の句に出てくる「冬籠り」は「雪籠り」ともいうが、積雪や雪空の中では動きようがなかった。防寒具といえば蓑(みの)くらいのもので、履きものも藁(わら)靴しかなかった。乗りものは自転車すらなく、どこまでゆくにも徒歩である。無理して出掛けても雪で道を迷ったり、寒波と雪に埋もれたりすれば一命にかかわる。
 隣村や寺参りでも命がけである。屋根の雪のなだれや、道と思っていたところが川であったりして、大騒ぎすることがある。
 とにかく、雪深い冬は外へ出ずに家へ籠るより仕方がない。それが最高の冬の暮らし方であった。
◇家に籠って、何をするのか。その年に使用する山や畑用に使う縄ない、草履(ぞうり)やわらじ作り。あるいは炭を入れたり、米を入れる俵編みなどが男の仕事である。
 女性は家族の衣類の繕いや手入れ、その他平常は仕事のため放っておいた家事万端、さらには冬の保存食の管理など、用事はいくらでもあった。
 雪といっても一茶が観念したように5尺も6尺も降った。6尺といえば2㍍近いから、今のわれわれは想像のしようもない。一茶は江戸から帰った最初の冬で1㍍50㌢程の雪の洗礼を受け、うらむどころか、すがすがしい気持ちでこれを寛受した。
◇冬といえば、当世はスキーだの、スノーボードなど、果ては冬山登山とか、まるでお遊びの対象のようだが、江戸時代は、そうした遊びの対象は考えも及ばなかった。
 冬山に心を騒がせたのは猟師たちであった。猟犬を連れて、かんじきを履いて、雪深い山へ入ってゆく。ねらいは熊であり、猪、鹿であった。兎や山鳥の類も獲物には違いないが、やはり値打ちのあるのは熊がぴかいちである。熊の胃といって、肝の部分だけでも大層な価値がつく上に、その肉の希少価値が喜ばれた。
 猟師たちが大猟で引き揚げると、村はちょっとしたお祭り気分である。肉の裾分けもさることながら、その大猟のお陰で村へ金が入ってくる。
◇雪の中では、特別な金もうけはないから、1年の休息とばかり、遊びやばくちの花も咲く。俳句、冠句、情歌など文学の道、じょうるりを聞いたり、にわか(芝居)をして楽しむ風流もあった。
 近代文明に浸かっている今のものも、今朝の雪を見て、昔の人はどうしていたのか、と思うのも無意味ではない。【押谷盛利】

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2008年02月13日

生活保護で飛行機通院

 生活保護を受けている夫婦が、タクシー通院を偽造し、2億円余をだましとっていた、として警察に逮捕された。
 北海道滝川市での事件で、逮捕されたのは元暴力団員・片倉勝彦容疑者(42)と、妻(37)のほか、介護タクシー会社・役員(57)と社員(40)の計4人。
 生活保護を受けている夫婦は06年から昨年11月までに、実際は介護タクシーを利用していないのに、札幌市内へ通院したように装い、タクシー費約2億円をだまし取っていた疑い。
 通院タクシー費は市が介護タクシー会社の口座に振り込み、片倉容疑者はうち7500万円を受け取っていた(10日付赤旗参照)。
◇今度は西へ飛んで大阪府岸和田市での飛行機通院の問題。生活保護受給中の同市の無職男性が、10カ月間、通院交通費約438万円を市から受給していたことが分かった。
 この男、飛行機や新幹線で福岡や東京などの病院に通い、市に対しては、よい医師を探して全国を行脚した、と説明。厚労省は通院に飛行機利用を認めたのは極めて異例とあきれ、全国の自治体の交通費支給の実態調査を始めた。
 男性は40歳で、10数年前から精神疾患のため大阪府内の病院に通院、06年から生活保護を受け始めた。同年8月東京都内の病院を受診したが「医師と合わない」として同10月からは福岡市内の病院に7回通院、妻が付き添い、大阪空港や関空までタクシー、福岡までは飛行機での往復。
 これ以外にも愛知県や神戸の病院に新幹線やタクシーを使って通院、生活保護受給を終える07年3月までの10カ月間に5都道府県の病院で200回以上の診察を受け、総額438万円の交通費を受けていた(10日付、読売参照)。
◇空いた口が、ふさがらぬが、こんな手合いが日本国中に、うようよしているのだから国も地方もどこかで巨額の金が消えてゆく。家を潰す白蟻は現実の対策として殺虫剤の効果もあるが、国や地方の役所に巣喰う白蟻は時には暴力団や変な政治力ともつながって始末におえぬ。
◇日本人の「武士は喰わねど高揚子」のプライドは、いつから、どうなってしまったのか。詐欺やドロボウまがいまでが大手を振って歩く世になった。
 「ごまかしてもよい。なんでもよい、おカネになったらえんや」という拝金思想が国中を渦巻いている。
 「あほらして働けるかい。生活保護をもらってパチンコへ通っているこの楽しさよ」と、ふざけた笑いが聞こえてくる。
 「君さん、頭は生きているうちに使いなはれ。タクシー乗り回して、新幹線使って全国無銭旅行が出来るんやで」と、ほざいている生活保護の偽装病人もいることが分かった。
◇日本全土で、どれくらいの国民が生活保護を受けているか知らないが、本当に気の毒な人なら同情もするが、怠けもので仕事ぎらいな人や、金欲しさにもらえる条件づくに頭や体をつかっている人もあるだろうし、そういう人を食いものにする暴力団もいるだろう。
 えてして、役所の中には「形が整っていたら」、「書類が法律や規則にかなっていたら」と、たやすく無理を承知でパスさせる悪弊がある。
 一つは役人のことなかれ主義。自らの腹が痛むわけでなし。「かっこさえついていれば目をつむっていよう」の気持ち。このほかに、怖い格好して仲に入る団体の役員や議員らに身のかわいさから彼らの顔を立てる優柔不断。結局、不正腐敗のつけは国民、市民の税金。「蜜をこぼしたら蟻は寄ってくる」。
 改革は中央ばかりの話ではない。【押谷盛利】

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2008年02月12日

台所は火の車(見聞録)

 全力で大阪を変えたい―。大阪府の橋下徹知事は6日の就任会見で「職員と一緒に死ぬ気になって汗をかきたい。その意気込みのない方には、府庁を去っていただきたい」と語った。
 5兆円に迫る府債を抱え、財政再建団体に転落しかねない府財政を建て直そうとの力強い決意と言えよう。
 橋下知事は職員の給与カットをはじめ、聖域を設けずにあらゆる事業をゼロベースで見直すと表明し、今後、府民生活にも相応の影響が出ることが予想されるが、これまでの府行政の放漫経営、そして監視役の府議会を野放しにしてきた有権者の責任でもあろう。
◇橋下知事が徹底改革を打ち出すことで、府の補助金に頼ってきた団体、企業から様々な圧力がかかるだろうし、議員や市職員も抵抗するだろう。そういう逆境で橋下府政がどこまで改革を達成できるのか、その行方に注目していたい。
◇橋下知事と同じく衝撃的に誕生した嘉田由紀子県政は2度目の予算案である08年度予算案を発表した。一般会計の総額は17年前の水準にまで減り、5000億円を切った。歳入不足で予算規模が縮小しているためだ。
 一般家庭では収入が減れば、支出を減らそうと、あれこれと、やりくりするが、従来の県は、借金(起債)をすることで不足分を賄ってきた。この安易な解決法は、支出超過問題の先送りにとどまらず、将来への大きな負担を残すことになるが、今に来て、その借金返済が財政を圧迫している。
◇県の予算書を読んで感じるのは、毎年、「財政構造改革プログラム」なるものに取り組み、無駄な経費の削減、効果の低い事業の廃止などに踏み切っても、その効果が見えないほどの歳入不足と、公債費・扶助費の増加があること。そして、結局、借金を繰り返し、問題を先送りにしている。
 今回の予算編成でも、どうやりくりしても420億円の財源不足が生じ、すでにカットしている職員の給与をさらにカットし、89事業で予算額を削減した。
 嘉田知事は断腸の思いで、福祉や教育といった聖域にも手をつけ、幅広い分野で事業費削減に取り組んだ。市町や議会からは猛反発を喰らったが、それほど、県財政が追い詰められているとの裏返しだろう。
◇財源不足を補うには結局、借金しか他に手段がなく、新たに719億円の県債を発行した。一方で公債費(県債償還)に744億円を計上したが、元金分は586億円にとどまり、県債残高は増えた。
 残高は2008年度末に9240億円に上る見込みで、県民1人あたりの借金に換算すると66万円、4人家族なら260万円もの借金を抱えている計算になる。
◇県民にとって、教育、福祉、環境、企業支援などで行政サービスが手厚くなることは歓迎だが、そのサービスは県職員の人件費を含めて、すべて県民の税金で賄われていることを自問すべきではないか。9000億円を超すこの借金、いずれ県民の税金で負担することになっていることを肝に銘じることだろう。
 大阪府の橋下知事の叫びは決して他人事ではない。

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2008年02月10日

無罪か、実刑か(よもやま)

 「身」がつく言葉は無数にある。広辞苑によると「身から出た錆」は自分のした悪行のために、自分が苦しむこと。「身につまされる」は他人の身の上のつらさを自分の境遇にひき比べ、同情すること。「身もフタもない」は露骨すぎて含蓄にないたとえ。「身を尽くす」は一身をなげうつ。「身勝手」は他人のことを考えず、自分の思うままにふるまうこと。「身の潔白を証明する」は正直に話すこと。「身内をかばう」は家族を思う気持ち。
◇長浜で起きた老婦による自転車ひき逃げ事件の公判は3月7日に判決を迎えるが、いままで裁判を傍聴していて、これらの言葉が脳裏をかすめた。
 私はこの事件を1年3カ月間にわたり取材し、幾度も記事にした。この事件を追い続けたのは、これから増え続けるであろう高齢者(認知症)ドライバー問題を読者に提起したかったからである。
 当初は単なる衝突事故ですぐに結審すると思われていたが、事態は思わぬ方向に展開。75歳の被告は物忘れが多く証言が二転三転し、時には争点が本筋からずれてしまうこともあった。
 検察側はひき逃げ犯は被告と断定。一方、弁護側は自転車との衝突は認めるものの、放置して逃げたことを否定。調書内容は取調官のでっち上げだとして、全面対決となった。
 両者の言い分が異なるのは車の速度や衝突後の被告の行動など。検察は被告が時速15㌔程度で被害者をはねあげ、ボンネットに乗せたまま、10㍍ほど走行。路上に落ちた際、頭を強打し、これが致命傷になったとしているが、弁護側は自転車の損傷が少ないことなどを理由に、車の速度は時速5㌔程度と推測。被告は降車して声をかけたが、被害者から「元気やから、行っておくれやす」と言われ、握手してその場を去っており、被害者は無事だったと言い、調書内容は死亡に至った経緯が不明瞭で、時間にズレがあり、衝突と死亡の因果関係は認められず「他に犯人がいる」と主張している。
 しかし、第一発見者の中学生が現場にかけつけたのは衝突音のわずか20~30秒後。倒れていた被害者は口から出血し、声をかけても意識はなく、病院に搬送された被害者のベッドは真っ赤に染まっていた。
◇1日の公判では被害者の長男らが悲痛な思いを被告や裁判官にぶつけた。
 母の命が奪われたのは事実。寝る間を惜しんで私たち兄妹を育ててくれた母。これから恩返しをと思った矢先のできごと。苦しくて苦しくてたまりません。
 帰宅すると「お帰り」「寒かったやろう」と声をかけてくれた母がいなくなり、ぽっかり穴が開いたようです。事故は理不尽で不幸のどん底に突き落とされたようです。
 被告は事実を曲げず、真摯に受け止めてほしい。一度の謝罪もない。証言は二転三転するし、自分を擁護するばかり。1年2カ月間、耐えてきた気持ちがわかりますか。
 証言台に立った遺族たちはあふれる涙を拭いながら、こう叫んだ。
◇車を運転するのは年寄りも若者も関係ない。逃げ得は許さない。他人事ではない。明日はわが身。誰でも起こりうること。高齢者事故は反射神経の鈍さが輪をかけ、考えられない事件につながる。
 じっと、遺族の話に聞き入っていた被告は、最後に裁判官に陳述を許されると検察官を鋭い眼光で睨みつけ、こう話した。
 「当たりましたが、ほっといて逃げていない」。
 検察側の有罪論告に対して無罪を主張する弁護側。双者の言い分はまったく異なり、どのような判決が下されるか、注目される。

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2008年02月08日

59兆円の算出根拠は?(見聞録)

 ガソリン税の暫定税率を巡る国会論戦を注目している。
 3月末の租税特措法の期限切れで暫定税率が廃止されれば、ガソリンの値段が約25円安くなることから、消費者は大歓迎なのだが、与党議員や地方自治体の首長らは「道路が造れなくなる」と、暫定税率の維持を訴えている。
◇野党は暫定税率の廃止にとどまらず、道路だけに特化している現在の道路特定財源の一般財源化を訴えている。福祉や教育予算が不足しても道路予算だけは温存されている現在の制度を変えようとの提案。
 暫定税率の廃止でトラックなどの運送コストが値下がりし、食品などの生活必需品にも値下げ効果が生まれるとも主張している。
 一方、与党は暫定税率を廃止すれば、国民生活に不可欠な道路を整備できなくなり、地方自治体も財源不足で混乱が生じると主張している。また、地方は公共工事で地元景気が左右されることもあり、特に工事の恩恵に浴してきた地方の建設業界にとっては、死活問題だ。
◇暫定税率の行方はガソリン代に直結するだけに国民の関心は高いが、今国会の焦点は、日本の道路計画だろう。
 政府は、昨年、今後10年間で59兆円の税金を道路だけに使う「道路整備の中期計画」を立てたが、そもそも59兆円という巨額の算出根拠や中身が示されていない。5日からの国会論戦の報道を見ても、与党から具体的な算出根拠は示されず、「どんぶり勘定」で設定していることがうかがえる。
◇野党の訴える道路特定財源の一般財源化は、過去に小泉政権が目標に掲げていた。予算不足の中、道路財源だけ温存するのは国民の理解が得られないとして、当時の小泉首相は自民党の道路族を「抵抗勢力」と位置づけ、道路特定財源の一般財源化を掲げた。しかし、安倍政権で「必要な道路は造る」と後退し、今の福田政権下で59兆円の計画が策定された。
 小泉内閣で存在感を失いかけた道路族が完全に息を吹き返した感を受けるのは、小欄だけではあるまい。民主党の岡田克也元代表も7日の衆院予算委で「道路の帝国主義だ」と批判していた。
◇8日付け朝刊の折込み広告に、暫定税率の廃止に反対するチラシが入っていた。自民党と滋賀県議会の自民系会派が配布したもので、渋滞や危険な通学路の解消、老朽化する橋の改修など「真に必要な道路の整備」を訴え、「十分ですか?滋賀の道路」と問いかけている。
 年金、教育、福祉など市民生活に直結した課題は山ほどあるのに、なぜ、チラシを配布するほど道路整備にこだわるのだろうか。
 市民から福祉や教育、子育て政策の充実を求める声が聞こえても、道路整備を求める声は聞こえないのに。ひょっとして道路じゃなくて工事が欲しいのか、とも勘ぐりたくなる。そういえば、過去にも、びわこ空港や新幹線栗東新駅が必要だと訴えていた。
◇59兆円の算出根拠は何なのか。野党が今国会で徹底的に道路計画を検証することに期待したい。

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2008年02月07日

少子化と外で遊ばぬ子

 老人の介護や福祉施設が増える一方で子供が減ってゆくという困った現象が目立つ。
 山間部の小、中学校では生徒の数が1けたというところも出ており、複式授業をしたり、なかには学校の統廃合が話題になっている。いわば全国的な傾向といっていい。
 山村のひなびた地で、校友も少なく、十分な文化の恩恵を受けられない子供のことを思うと頭が痛い。
 いま問題の限界集落は大きな音を立てて早足でやってくる。中央から離れた地方は大人も子供もおいてけぼりにされるのか。
 そうであってはならない。地方には日本の過去を支えた農業があり、うるわしい歴史や伝統がある。目に見えぬ誇るべき共同の財産と自負がある。都会人が富と文化を満喫していると自惚れているかもしれないが、彼らの二代、三代前はみんな日本の地方から出てきた人ばかりだ。
 日本の原風景、それを今日の地方に探訪したいと思うが、あまりにも荒廃し、人々の心にまで陰がさし始めたのはやむを得ないと引き下がるわけにはゆかない。
◇問題をあすを担う子供の教育にしぼっても心が萎む。
 このごろ、子供が家に閉じこもって外で遊ばない、ということが問題になっている。これは子供のせいではなく、一つは偏差値教育で、塾全盛時代を迎えたからであり、子供から戸外で遊ぶ時間を奪った。
 いま一つの原因は情報化社会の犠牲となって、テレビ、パソコン、ケータイ、ゲーム機にはまってしまったからである。
◇確かに子供は外で遊ばなくなった。同年齢層だけでなく異年齢の子と群れて遊ぶのは社会的時間の成長過程における大切な要素ではある。
 戸外の遊びで家や学校で学ぶ以外の多くを体験することは子供の将来にとって大切な財産であるが、それが今はなくなった。
 学校やPTAが戸外での遊びを奨めても、あるいは遊び方を教えても、家庭が子供のしつけにお手上げの現状では実効は期し得ない。
◇ぼくは毎朝、学校近くを散歩するが、授業前も休憩中も、放課後もグランドで子供の遊ぶ姿を見たことがない。
 「子供は風の子」というが、この言葉、もはや通用しないのではないか。
 ぼくは今の子が向学心や研究心に燃えて、自己の啓発向上に一途であれば、たとえ家に籠もっても憂いはしない。
 しかし、大方の子はゲーム機に夢中になったり、ケータイのメールにうつつを抜かしていることを思うと悲しくなる。親が毅然として放課後の子供の生活指導に当たらねば、子はますます好き放題、したい放題になり、結果としては基礎教育がおろそかになり、読書の習慣や、ものを作ったり、描いたりする能力にマイナス影響を与える。
◇過日の滋賀夕刊紙上で、虎姫町教委が学校へ持ち込みのケータイを取り上げる方針を打ち出したとあったが、その積極性を評価したい。
 それぞれの学校が生徒の校外活動を具体的にとらえているか、これはすこぶるあやしい。学校の中で事故を起こさず無事平穏に一日が終わればよい、などと考えているとは思わないが、教育という人間づくりの大役を背負っているのであるから、放課後までは月給をもらっていない、などと水臭いことをいわずに身を挺して、明日の子供の将来に力をかしてほしい。
◇さしあたり、小中学校時代の大切なことは、よく運動し、よく遊び、健康で明朗な生活習慣をつけること。
 第2は、読書の習慣を身につけること。
 第3は自らの趣味を発見し、それに喜びを感じる生き方である。
 家庭においても無責任は許されぬ。自分の子が放課後どうして過ごしているのか、ある程度は把握して適切な助言や、ときには厳しく指導をしなくてはならぬ。【押谷盛利】

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2008年02月06日

政治は国民のためか

 政治は国民のためのものである、といえば、そんなことは分かっているとだれもがいうが、実はそうなっていないのである。
 政治は政治家のためのものである、というのが正解である。その証拠に二世議員、三世議員がごろごろしている。
 東京の石原知事は二人の息子が衆議院議員である。衆院議長の河野洋平さんには太郎という長男がいて衆議院議員である。河野さんの父親は中曽根さん(元首相)の親分で一郎といった。
 いまの福田首相もその前の安倍さんも、そしてもう一つ前の小泉さんも父か祖父が政治家だった。
◇政治家を世襲するのは卑近な言葉でいえば割りがよいからである。株に投資するのはその会社の配当が目的であるが、このごろは「お金」本位に相場を張って、その売り買いでもうけようとするのが普通になったが、どの株がもうかるかを考えるのは、社会へ出た息子をどの方面へ進ませればもうかるのか、割りが合うのかを考えるのと似ている。
◇世襲議員が多いということは他の仕事よりも分がよいことを意味するが、そうともなれば、政治家たるもの、口では国民のため、世のため、人のためとはいうが本心はわが身のためである。
◇わが身がかわいいからものごとの本質について、深く鋭く研究し、切り込むことをしない。おおかたは官僚の使い古した資料や、もっともらしい学者の説を借りてその場、その場でお茶を濁しているだけである。日本の将来を見据えて命がけで政策に取り組むというような殊勝な心がけの政治家は微々たる数である。
◇総論はこれくらいにして各論の一部を問題にしよう。
 いま、日本中に吹き荒れている中国輸入の冷凍ギョーザ事件。
 「即時輸入禁止すべきだ」と明快に言ったのは麻生前幹事長だけである。岐阜の郵政造反の野田聖子議員は得たりとばかり「消費者省を」と行政の複雑化を称えている。
 国民の消費に関する行政を消費者庁にしようと、消費者省にしようと、そんなことで危険な食品やインチキ食品がなくなるわけではなく、政治の根本が国民生活と天地自然の法則にたち返らねばならぬ。
◇早い話、政府や政治家、評論家は「日本は食糧の自給率が39%」だとほざいている。それほど食糧がないのなら、なぜ減反政策を続けてコメの生産を抑えているのか。
 自給率が低いといいながら、なぜ畑の中で大根や白菜を潰させているのか。良田を潰してろくでもない建物を建設して、あげくの果ては赤字で二束三文で売却するという下等な政策を推進してきたのか。みんな「金のため」、票のためで、国民の明日のことなど何一つ考えやしない。
◇中国へ、中国へと草木もなびく政治家の姿はそこに何が隠されているのか。あちらからものが安く買える。こちらの物も買ってくれる。
 国家のために命を捧げた靖国のことなど考えるのはバカの骨頂とばかり、先方の顔色をうかがって中国詣りをする日本の政治家のバカさ加減に腹が立つが、彼らは日本の将来や国民の幸福なんかに関心はない。あるのは「金」と「選挙」だけである。
 そういうフヌケを持つから今回のようなギョーザ事件が発生しても毅然たる政府の発信が生まれないのである。
 先方からマスコミが悪いとか、毒物は日本へ上陸してからではないか、と手前勝手な話を聞いてもそれに反発しないのである。
 そんなことよりも、国民の台所に関する猛反省を促し、目下、日本中にはびこりまくっている偽食料品の征伐から始めるのがよい。
◇お茶を飲んでも本ものにはお目にかかれず、お菓子を始め一切の加工食品は工業製品としては流通できようが国民の健康推進や安全上には首をかしげたくなるものが山とある。
 とりあえずは、日本の田畑、海、河川、山から獲れた農作物、水産物を愛用し、これに化学薬品を使わないこと。
 外国からの食品輸入は厳格な検査と原料、品質の実態を正しく消費者に知らせること。
 そして、日本で作れる食料品の増産と消費に力を入れること。【押谷盛利】

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2008年02月05日

アメリカ下層教育現場(見聞録)

 「学級崩壊」という言葉が登場して久しい。その原因については教師の指導力の低下、子どもの人間関係や発達障害などが指摘されているが、とりわけ、家庭や地域でのしつけが問題視されている。
 保護者の過保護、過干渉、育児放棄、近所付き合いの希薄化などで▽学ぶ▽目上を敬う▽和を尊ぶ―など、家庭や地域で醸成されるべき常識が身に付かず、特に学級崩壊が小学校低学年で発生していることを考えても、原因は教育現場にあるというより、家庭や地域にあるのではないだろうか。
◇教育現場の崩壊が、日本以上に進行しているアメリカの現状を、フリーライターの林壮一氏がその著書「アメリカ下層教育現場」(光文社新書)でレポートしている。
 同氏は1969年生まれ。プロボクサーを目指したがケガで挫折し、週刊誌記者などを経て、フリーライーターに。1996年に渡米し大学に通いながら、スポーツジャーナリストとして活動。大学卒業後、恩師の誘いで高校の講師になった。
◇勤務地は、ネバダ州のギャンブルの街リマにある「チャーター・スクール」。
 同スクールは地域の実情に応じて設立された公立学校で、林氏によると、中学時代に成績が悪かったり、高校の授業についていけない低学力の生徒が集まっているという。
 林氏の前任者は生徒のあまりの学力レベルの低さ、道徳心の無さに愕然とし、1カ月も経たないうちに逃げ出していた。
 そして林氏が目の当たりにしたのは、貧困、崩壊家庭といった絶望的環境の中で希望を見出せず、毎日を無気力に過ごす生徒の姿だった。生徒の学習意欲の欠如は著しく、授業中にゲームや音楽、遊びに興じ、注意されれば教室から出て行く。
 日本文化の授業を受け持った林氏は、アニメや漫画、相撲などをテーマに生徒の関心を引き出して授業を進めるが、生徒の集中力は長くても50分しか持たず、2コマの授業のうち、1コマは公園で一緒に遊ぶという具合になった。
◇この街はメキシコ人が多く、それに伴う人種差別のほか、シングル・ペアレント(1人親)、育児放棄、貧困など、アメリカの抱える課題を凝縮している。
 林氏が受け持った生徒19人のうち、実の両親と暮らしているのはたった1人。18人は、シングル・ペアレント、再婚、里親家庭だった。
 特に貧困層のシングル・ペアレントは日々の生活に追われ、子育てに手がまわらず、子ども達はついつい怠け癖がついてしまう。林氏が受け持った生徒も小中学校時代に学校をサボりがちになり、チャーター・スクールに拾われたものの、怠惰な生活から抜け出せなかった。
 林氏は、これらの子ども達を、無責任な大人による被害者だと訴え、子ども達が大人になり、結婚し、自分の子を持てば、その子も同じ運命を辿りかねないと指摘している。
◇結局、林氏が受け持った生徒のうち、予定通り卒業できたのはたった1人。残りの18人は中退、転校、留年となった。
 同氏は日本についても▽少子化による過保護▽しつけの出来ない親の増加▽週5日制のゆとり教育による学力低下▽自己中心的な保護者による学校現場への口出し―などを指摘し、今の教育を憂えている。
 アメリカの影の部分を実体験に基づいてレポートしたこの著書は、日本教育の行く末を案じているようでもあった。

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2008年02月04日

水の浄化と自然愛護

 地球の温暖化に警鐘が発せられて久しいが温暖化ばかりでなく、水も空気も汚染され、地上から地中、地下までも壊し続けており、このまま放置すれば、地球の破壊と人類の死滅に行きつくのではないか。そういう心配をまじめに議論し、対策を講じるのが現代人の良識ではないだろうか。
◇ぼくは、水問題を何回か訴えてきた。水がなければ人間は生きてゆけない。水は生活に直結するから大事であることはだれもが承知するが、その水を汚すことについては案外無関心である。
 水と言えば連想するのが海(湖)と川である。たとえば琵琶湖に赤潮が発生し、湖岸一帯に水藻が生い茂っているのは湖水の富栄養化と汚れの象徴だが、その湖へ注ぐ河川を見ればゴミの捨て場となっているのではないか、と思われる程、プラスチック類その他のゴミが流されていたり、川岸に山積されている。
 河川や湖にゴミを捨てるのは禁じられているはずだが、物捨ての不心得ものがあとを絶たない。
◇水に関係するのは保水力を持つ山だが、その山もまた近年は荒らされ、ゴミ類の不法投棄がしばしば問題になる。登山熱が山を観光化して、これまたゴミの放置と糞尿汚染を拡大してゆく。
 雨水や雪が山の地下に浸透し、伏流水となって飲料になるのだが、清冽な地下水が飲料にあやうくなっているのが現実である。
 河川はもともとはその地域住民が大切に管理していたが、戦後は自治意識の希薄化や、地域住民の職業と生活上の変化から管理が困難になり、行政もまた洪水被害など災害のない限り手をこまねいてきた。
 そうした多年の管理上のルーズさが、河川のたたずまいを悪くし、ゴミ捨ての不心得ものの自制心をなくさせてしまった。
◇ぼくは、湖岸に立ち、あるいは河川の堤防を歩きながら、その汚れと荒れように怒りと悲しみを覚えるのだが、同時にそこに住む魚たちの生環境の悪さに一しおの哀れを感じるのである。
 現代人は生活に直結することには強く関心を持ち、行政もまたそれに手当てを丁寧にするが、山や川や湖など、自然の荒廃などには直接苦情が上がらないことをいいことに見て見ぬふりをする。そういう環境浄化などへの費用を出し惜しみするのである。
◇それにつけても思うのは、われわれの出すゴミ類や各種の産業廃棄物の行く末である。ゴミの分別収集と処理は行政の大きな課題であるが、なかず埋め立てゴミの将来を思うと暗たんとなる。目下の埋め立て地が満杯になればどうなるのか。新しい場所に投棄を開始しても、いつかは満杯となる。それを繰り返しているうちに、次第に追い詰められて、そのうち捨て場がなくなる心配はないのか。
 あるいは、過去に埋め立てた処分場から、化学物質、その他、人間生活に有害な廃液などを地下へ拡散しないのであろうか。雨水などのほか、地震その他の影響で埋め立て物質に影響が生じないとは断定できない。そうした場合、地下水の汚染が飲料や魚類の棲息の妨害になることも予想される。
 家庭から出る生ゴミや業者の出す生ゴミ類の処理も心配の種である。焼却場へ回せば燃料費や廃ガスに悪影響を与えるであろうし、産廃にすれば処分後の経過が心配の種である。生ゴミの肥料、飼料化や産廃物の他目的の工業資材化などの道もあるだろうが、加工費などの経済効果の上で難点もあるにちがいない。それらを多角的に検討して広域処理する方途を考えない限り、最終的に河川や湖、大地を汚し、破壊することになるのではないか。【押谷盛利】

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2008年02月02日

ギョーザ事件は神の啓示

 中国産のギョーザが日本人の胃袋をでんぐり返している。
 あらためて中国製食品の日本の食品界におけるすさまじい進出ぶりに驚くわけだが、お人好しの日本人もどうやら今度は腹の底から中国製輸入食品の不信に取りつかれたようだ。
 これまでにも日本のみならず海外においても中国産食品の毒性被害が報じられ、ダイエット食品、ドッグフード、練り歯磨きに至るまで一騒動を起こしてきた。
 しかし、問題になったケースは氷山の一角で、いちいち丁寧な調査や輸入時の厳しい上陸検疫を実施していれば恐ろしくてとても手が出ないのではないか。
◇中国の農産物に対する農薬のずさんさは早くから伝えられ、日本人の食生活にしばしば警戒心をかき立ててきたが、なぜか、歴代政府は輸入に寛大であり、取り締まりにも甘さがあった。
 一つは日中の経済交流にヒビが入るのを避けるためでもあり、一つは食品業界を保護する利権がからみ合っているといえよう。
 それは外国からの食品輸入に限らず、日本国内の肉類、菓子類の食品衛生上の監督、指導においても言い得ることで、牛乳、チョコレート、饅頭、コロッケ、その他、インチキのオンパレードで、国民は「また頭を下げている」と、あきれ返っているのが実態である。
◇ぼくは、今度の中国製ギョーザ事件は、日本国民に対する神の啓示だと思っている。「反省し、改めなさい」と神さまが分かりやすく国民に説いて下さっている、と考える。なにを反省し、なにを改めるのか。それが目下の課題である。
 第一番目に反省すべきことは、国民の贅沢、国民のなまけぐせ、食品に対する感謝の心のなさである。
 いま、国民の多くは冷蔵庫に食料品をいっぱい詰めて、自宅においても外食においても罰当たりと思えるほど残飯を捨てて恥じることがない。そして、食品の原材を自らの手で洗い、自ら包丁を使い、自ら調理する労を取ろうとしない。
 スーパーや大型店、生協、その他から完全に調理した原材や加工食品を購入して、自宅で台所の手間をかけることを避ける。いわば台所仕事がいやなのである。
 そして、食品は天地自然の恩恵、神さまの贈り物であることを忘れて、感謝の心が全くない。感謝の心がないから捨てることに痛みや、もったいなさを感じない。
◇昔の人は雨はお下がりといい、天の祭壇からのおさがりものと感謝した。雨と太陽のひかりを受けて地上に種子や植物が育つからである。
 農村地帯では春、田の耕作を始める前に神酒(みき)を供える風習のところもあり、一年の豊作を祈る祈年祭が行われるのも大地への感謝と祈り心からである。
 また、高い山の峰々に雪が溶けて、残雪と岩肌が桧模様を描くことがある。これを「雪形(ゆきがた)」というが、昔の人はこれを見て、山の雪の溶け具合を判断し、田植えや種蒔きの時期の目安にした。
 そういう自然への畏敬の心で栽培し、収穫した農産物ゆえに、秋には収穫祭を行って感謝するのである。
◇それを今の日本人は忘れて、農作物、とくに野菜類をバカにして、昨年も問題になったが畑の中に収穫しないまま大根や白菜、キャベツなどが捨てられ、重機で踏み潰されたりする。
 これは日本の農業を破滅させる輸入食品の影響によるが、企業が農業を支配し、食品工業化した裏返しである。
 加工食品は化学物質を多彩に使い、色、味、匂いまでをつくり、全くの偽物をあたかも本物のように見せかけるが、それを「安い」「調理の手間が助かる」「うまい」の宣伝に乗せられて、食品の本来の質に見向きもしなくなった。
 大企業のコマーシャルに生活の主体性を放棄し、国も地方も個人もすべて「金」と「ずぼら」に走ってしまった。
◇ここで、食物は手で、台所で調理するものとの初心に返り、調味料にしても日本の伝統である味噌、しょうゆ、酢の発酵食品に軸足を切りかえるべきである。
 そして、国民と農業者が固く結びついて健康な、安全な食品を「大切に」戴くことを実行しなくてはならぬ。
 中国その他の農産物をやめて、国内産に切りかえれば日本の農家は蘇り、日本人の健康推進と精神衛生に役立つことを強調しておく。【押谷盛利】

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2008年02月01日

中国食品を考える(見聞録)

 中国産のギョーザによる中毒事件は、被害の訴えが相次ぎ、全国で500人に迫る勢いを見せている。現段階では中毒の原因とみられる有機リン系殺虫剤が検出されたのは3件のみだが、どの段階で殺虫剤が混入したのか、日本、中国両捜査当局の解明が待たれる。
◇中国産に関する最近の事件を振り返ると▽ホウレンソウから基準値を超える農薬を検出(2002年)▽ダイエット用健康食品を服用した女性が亡くなる(2004年)▽ウナギから基準を超える抗生物質(2005年)▽偽造薬を成分とするせき止め薬で100人以上の幼児が死亡(2006年、パナマ)▽ペットフードを食べたペットが中毒死(2007、カナダ)▽練り歯磨きから有害物質(2007年、アメリカ)―など、記憶に残っているだけでも、いくつも出てくる。
 このように中国産の毒性被害は世界各地で発生しているが、今度のギョーザ中毒問題は、北京オリンピックを間近に控えた中国にとって大きな打撃。中国政府は、対中感情に配慮しているようで、すぐさま立ち入り調査に入り、談話を発表し、日本に捜査官の派遣を表明するなど迅速な対応をとっている。
◇しかし、過去の事例などを見る限り、今回の事件は一工場だけの問題にとどまらず、中国という国家の構造的問題が根底にあるのではないだろうか。
 共産党の一党独裁政権下での市場経済の導入が、官僚の利己主義、拝金主義を生み出し、公衆道徳や法令遵守の精神を失わせ、それが社会にも浸透している。今、オリンピックに向けて北京で実施されているマナー向上運動も、長年蓄積された利己主義の裏返しではないか。
◇福田首相は31日の衆院予算委員会で、「昨年の中国温家宝首相との会談で食品の安全は両国共通の課題との観点から、残留農薬の検査技術に関する研修を実施したいと表明した。1月中旬にフォローする調査団を出すなど前向きに取り組んでいる。今回の中毒事件もそういう枠組みで話し合いを進める」と答弁しているが、果たしてそんな悠長なことで良いのだろうか。
 ファミリーレストランなどの外食産業、スーパーの食材をはじめ、日本には中国製品があふれかえり、日本人の食生活に不可欠な存在となっている。安全性が疑問視されながらも、安さ故に消費者に歓迎されてきた側面もある。
 親中派とされる福田首相がこの問題を一工場の問題として片付けるのか、中国の構造的問題として強気の態度で食の安全確保を訴えるのか、気がかりだ。
 ちなみに、米国産牛肉のBSE問題に直面した当時の小泉首相は、米国産の牛肉輸入を禁止した。

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