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長寿とご用済みの自覚

 人生の道程(みちのり)は遠く険しいが、だれもが出発も終点も確認することはできない。
 いつ終点を迎えるのか、それが分かればいいようだが、逆にそれが分かれば味気ない。いつ終末が来るのか分からないから、人は明日へ希望を託し、日々を懸命に生きることになる。
 ただ、比較的確かなことは、中年を過ぎ、老齢化するにしたがって、先が、そう遠くないことを肉体的諸現象で察知できることである。
 予感といってもいいが、そういう予感を淋しいと思い、恐怖を感じる向きは極力それを打ち消す心がまえで行動するしかない。しかし、それはあくまで精神的な強がりの域を出ず、肉体も心も日々に老化の度を深めてゆく。
◇終末へ近づくの予感は、急激なものではなく、ゆきつ、戻りつしながら、なだらかな曲線を画いて確実にその人の全身について回る。その予感はどんなふうに現れるのか。
 自分の体が若いころのように思うように動かないのがそれである。目や耳がうとくなるし、歯も悪くなる。重い物を持つことができなくなるし、長時間の労働や走行は困難になる。とっさの場合の反応が鈍くなるし、記憶力が落ちる。
 進んで目的に立ち向かう意欲、たくましさが欠けてくる。なにをするにも億劫(おっくう)になる。
◇これらはいわゆる老化現象だが、加齢とともにその度が深くなり、生きてはいても人さまの助けに依存する部分が多くなる。
 自らが自らの力で生きてゆくのが生命を持つ動植物の本来の姿である以上、老化によって、自分の力で生きることが困難となれば、それは終末期の近い一つの信号である。その終末期にも個人差があって、寝たきりで十年以上生きる人もあれば、感染症などで急におさらばする人もある。
 いずれにしても、老化現象が強まれば強まるほど、生命力が退化していくことは避けられない。
 生命力の退化が進めばおのずから抵抗に限りがあり、お迎えの車に乗らなくてはならぬ。いや、と打ち消しても確実にお迎えはある。
◇この終末期の予感は厳しく残酷であるが、考え方を変えれば「ご用済み」の免許状をもらって、ほとけの世界行きの準備をしなさいとのお知らせ、予告といえよう。
 大きな力による予告と承知すれば「ありがたや」と感謝して、準備に入ることができるが、とことん予感を拒み続けていると、準備することなく、わけの分からぬうちに泥沼へ引きずり込まれるように、幽明境を異にしなければならぬ。
◇「ご用済み」とは自負心のある人間にとっては屈辱的響きを持つが、それは正確な天地の法則である。生まれて、成長して、人間としての役割分担や、社会への貢献に励み、時の経過とともに生命力が衰えてゆくのは人間の宿命であり、神さまの設計図、天地の法則である。
◇問題は、終末を恐れず、御用済みの免許証をいかに大切に扱うかである。その心の置きどころが高齢化社会を生きる人に問われるのである。
 そういう積極的な心の持ち方を仏教用語で「安心(あんじん)」という。仏法の功徳によって迷いがなくなる安らぎの境地といえよう。
 安心立命(あんじん・りゅうみょう)という言葉もある。人力を尽くして、その身を天命に任せ、どんな場合にも動じないこと、と辞書は説明している。
 結局は心の世界である。ご用済みを自覚して、心の世界に安心を招来する生き方、それが高齢者の救いと幸せにつながるのではないか。【押谷盛利】

2008年01月19日 14:39 |


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