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2007年10月31日

防衛省の伏魔殿を洗え

 29日に行われた衆院の特別委員会での守屋喚問。
 予想通り便宜供与など肝心な点は否定したが、その否定は地獄行きを避けようとする話術のたくらみに思えた。
 全国民がテレビやラジオでその証人喚問の状況に耳を澄ましたが、あきれと怒りの交錯する防衛省伏魔殿への不信感を浮き彫りさせた。
◇守屋武昌前防衛省次官は防衛省との取引関係にある山田洋行専務(現・日本ミライズ社長)宮崎元伸氏(69)と11年間癒着し続けていたことを証言した。
 宮崎氏とのゴルフは200回以上に及び、北海道や九州にまで送り迎えされ、旅費、プレー料、食事代のほか賭けマージャン、韓国クラブなど含めると巨額のもてなしを受けたことになる。
 またその多くに夫人を同伴させており、高級なゴルフセットを夫婦が2回もプレゼントされており、宮崎氏からは海外旅行のたびにネクタイ、バッグなど受けとっている。だけど、証言では相手方への便宜供与は否定している。
 このせち辛い世の中に、時間と金を空費して、かくも華麗に底知れぬ無償の好意を寄せる奇特な人間は一人もいない。
 もし会社が、目的もなしにこんなデタラメな遊びを続けていれば、その金の出所は税金の対象になるだろうし、個人のプライベートな金とするならば所得との整合性なども問われよう。また、理由なく会社役員が金を乱費すれば株主から背任罪として責任が問われよう。
 それよりも何よりも守屋前次官はプレーするに当たり、夫人ともども偽名を使っていることである。法律や倫理規程に反する行為であることを知っているからである。
◇彼は山田洋行のみならず、富士通の防衛省担当の元営業本部長で、子会社の富士特機システムの元社長(64)からもしばしばゴルフ接待されており、プレー代、飲食費などすべて負担してもらっている。富士通は防衛省から06年度に通信機器441億円、特機システムも10億円を受注している。
◇証人喚問で、資金難の「日本ミライズ」を助けるため大手企業系列会社の会長に口利きしたことを問われた守屋氏は、「宮崎氏から誘いを受け、お会いしたが、融資の話は一切ない」と否定した。
 ところが、宮崎氏は8月の朝日新聞の取材に対し、大手企業の会長と守屋氏の3人によるすし店での会合を認め、宮崎さんを助けてあげてくださいと守屋さんが会長に言ってくれた、と語っている。
 この口利きは10月20日付朝日の朝刊に出たが、それを機に宮崎氏は一転して口利きの事実を否定する発言を週刊誌などにしている。
◇守屋前次官の証言の裏側を見ると、とてつもない大きな力を持っていて、さすがに防衛省のドンと思わせるものがあるが、その力は正義によるものにあらずして、汚れに脚色された虚像であることがうかがえる。その虚像の背景が防衛省を中心とする政治とカネではないか、と疑われる。
 その疑問を解明するキーの一つに複数の政治家との宴席があり、そのなかには元防衛庁長官がいたと証言しているが、巨大な防衛利権に政治家が関与している臭いがふんぷんとしている。
 いずれにしても疑惑は募るばかりで、国会は今度こそ伏魔殿の魔性を洗わなければ国民の怒りはおさまらないし、国民のための政治に明日がない。【押谷盛利】

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2007年10月30日

同性愛は死刑 イランの交際(見聞録)

 ムスリム(イスラム教徒)には5つの宗教的義務が課せられている。前回、紹介した1カ月の断食、1日5回の礼拝のほか、▽信仰を守る▽聖地メッカへの巡礼▽喜捨(年収の一定割合の寄付)である。最近はここに「ジハード(聖戦)」を含める考えもある。
 このほか、品行を保ち、堕落を防ぐために、男女の接触を制限する教えもある。イランでは小学生から男女別教育が始まり、普段の生活でも、例えば路線バスは男性が前のドアから、女性は後から乗り、座席も前後で区別されている。玄関が男女別の住宅もあるほどだから、モスクの入り口、礼拝場所も男女別。空港のセキュリティゲートも別々。
 独身男女のデートはもちろんタブーで、婚前交渉などはもってのほか。2人きりでいる男女は夫婦と見るのが妥当だろう。
◇なら、どこで出会い、どう付き合うのか?
 古都イスファハーンで出会った20代の男性は「バスの中や、街中で気に入った娘がいれば、声を掛ければよい」と話してくれた。ただ、「付き合う」という行為は結婚前提であり、声を掛ける場合は、その覚悟が必要だという。
◇男女別社会であるイランだが、どこまで厳密に区別するのかは不明だった。なぜなら乗合タクシーには男女が一緒に乗るし、女性が小欄に握手のあいさつを求めることもあった。安宿に泊まった時は男女混合の相部屋だった。「満室だから」と宿の亭主は説明するのだが、まさかイスラム教国で、である。
 また、男女の接触が制限されているからなのか、男性同士が手を繋いで散歩したり、体を寄り添うようにして公園で昼寝する光景に何度も遭遇した。日本なら同性愛者と誤解されかねない行為だが、実は仲良しの証で、ムスリムにとってはごく自然らしい。
◇イランを訪れるにあたってアラブ首長国連邦のドバイを経由したのだが、そこで50代のイギリス人男性に出会った。東南アジアのタイに行く途中、ドバイに寄ったとのことで、実はゲイ(同性愛者)だった。
 面と向かってゲイと話したのは初めての経験で、面白い話を聞かされた。それはムスリム男性は女性と接触できない禁欲生活の中で、同性愛に目覚めることが多いということだ。にわかには信じがたい話だが、「昨夜はインターネットカフェで良い出会いがあった」と満足顔で報告してくれた。
 イギリスはミュージシャン、エルトン・ジョンのように同性愛者の結婚が認められているが、逆に複数のイスラム教国では同性愛は死刑の対象となる。イランでも同性愛者の処刑がたびたび執行されている。亡命者も少なくなく、数年前には日本への亡命者もいた。
 彼には絶対、イランを訪れないよう忠告しておいた。

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2007年10月29日

守屋前次官の証人喚問

 防衛省の天皇といわれ、自らもそれを勲章のように喜んでいた男・前防衛省の守屋武昌次官(63)が29日、衆院のテロ防止特別委員会で証人喚問された。
 軍事・防衛関係の何兆円もの調達予算を左右し、発注の利権に群がる業界に君臨し、内部においては、部下の面倒見や天下りあっせんによる影響力、外部では情報と献金パイプを通じる政治家との癒着。これらのすべてにおいて、次官4年を超える守屋氏の権勢、栄光と驕りは、この証人喚問によって、国民の前に明らかにさらされる。
◇しかし、この喚問、必ずしも国民の疑惑を晴らしきることにはなるまい。
 それは、以前にも本欄で指摘したことだが、深まる疑惑が報道され、捜査の手まで隠密のうちに進められながら、しかも公務員法や防衛省の職務規律に反した疑いが濃厚にも拘わらず、身柄を拘束することなく、およがしている、という寛大なる、お上の方針が腑に落ちぬからである。
◇守屋前次官については、洗えば洗うほど防衛省の伏魔殿の実態と諸悪の真相が解明されるに違いない。
 それを恐れるのは、省内の官僚であり、防衛省との取引において巨利を得ていた納入関係業者であろう。さらには防衛省の顔ききで利権をほしいままにしていた防衛族の政治家や、防衛省に深く食い込んでいる自民党の派閥であろう。
◇防衛省は、安倍内閣になって、これまでの防衛庁を昇格したが、昭和29年の防衛庁発足以来、歴代の大臣の平均任期は8カ月である。任務の大きさと、事業予算の厖大さを考えると最高の権力者である大臣の任期が8カ月である、というのはいかにも不自然であり、逆に言えば、任務としての大臣の価値は評価せず、派閥の短期出向者、判子つき要員、あるいは派閥のメッセンジャーボーイ的役割に過ぎないかもしれぬ。
 これまで防衛族として幅をきかし、防衛省に支配的力を保持してきたのは田中角栄を頂点とする旧田中派―竹下派―橋本派―現津島派であり、途中、中曽根派が割りこんだ時期もある。かつて滋賀県から出た山下元利元防衛庁長官も田中派だったし、現石破大臣もその流れの津島派である。
◇今度の守屋喚問。自民党及び津島派は初めから及び腰だった。出来るだけ遅らせ、やむを得なければ喚問ではなく、参考人としての陳述でケリをつけたいのが本音だった。
 喚問が決定しても日を延ばそうとし、29日に決定した後は、テレビの放映を禁止する案を持ち出した。国民の前に、質問や答弁の真実が明るみに出ることは望ましいことなのに、なぜ封印しようとしたのか、お上ぐるみで寛大な扱いを考えてのことなのか。
◇それにしても、今年、7月、安倍改造内閣が小池百合子氏を防衛大臣にしたのはクリーンヒットであった。その小池氏が4年を超す守屋次官の退任を画したのは正解であり、歴代大臣の腑抜けぶりを象徴する歴史的ホームランであった。
 しかし、その小池大臣に抵抗し、自ら官邸にどなりこんだ守屋なるこの男、さすがに、天皇といわれる程の力を発揮し、自らも沈んだが、小池大臣をも沈めてしまった。その背景には派閥があり、防衛族議員があった。
 ぼくにいわせれば、がんじがらめの絆(きずな)があってのことで、この絆の大元は防衛専門商社「山田洋行」とその元専務(69)であった。元専務は、昨年、山田洋行を出て、別会社を設立したが、実績もないその新会社にCXのエンジン調達で、部下に随契(入札でなく、随意契約)を促した。このエンジンは1000億円の発注が見込まれている。CXについては、昨年度までに5基39億円が発注され、すべて当時の元専務が介在した山田洋行が受注した。すべてを随意契約で(以下続く)。【押谷盛利】

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2007年10月26日

イランつれづれ(見聞録)

 欧米文化にどっぷり浸かっている日本人は、ヨーロッパを訪れても、さほど生活習慣や風習にギャップを感じないかもしれないが、保守的イスラム教国のイランでは新鮮に感じることが多かった。
 イランの面積は日本の4・5倍で人口約7000万人。夏は中東ならではの酷暑となるが、冬はスキーができるほど雪が降り、短い春と秋を含め四季がある。
 物価は日本の5分の1程度で、古都イスファハーンで泊まった相部屋は1泊500円。飛行機は国内線を2度乗って7000円。タクシーは乗り合いで12円程度から。産油国だけにガソリンはリッター10円前後と格安。
 スポーツはサッカーが大人気でイラン人との会話に必須のエッセンス。日本のチームはアジア・チャンピオンズリーグでイランと戦った「カワザキ(川崎)」、選手はナカタ、ナカムラ、スズキといったところが有名。重量挙げも盛んで、街中で筋肉質の体格の良い男性を見かける。
◇食事は「ケバブ」と呼ばれる羊、牛、鶏などに香辛料をまぶして串焼きにした肉料理が主流だが、そこに必ず付いてきたのが生タマネギ。注文しなくても、半分に切ったのを皿にドンと載せて出す。生のままかじって食べる食文化なのか、国内ではプーンとタマネギの香りを漂わすイラン人に出会える。
 そして、海外旅行者を悩ますのはトイレ。イランはイスラム式で、和式に似ているが、紙はなく、代わりに水道のホースが付いているので、蛇口をひねってその部分を水洗いし、あとは自然乾燥、というわけ。
◇ムスリムには5つの宗教的義務が課せられ、その一つに1日5回の聖地メッカへ向けての礼拝がある。飛行機でイランを訪れれば、機内のモニターに随時メッカの方向が表示されていることで、イスラム教国が近づいていることを実感できる。街の至るところにモスク(礼拝堂)があり、時間になればどこででも、礼拝できるように配慮されている。
 ムスリムは不浄とする豚を食さないことで有名だが、実は犬も不浄な動物とされ、イラン国内で見かけることはなかった。ごく一部に飼う人はいるそうだが、犬が舐めたものまで不浄とされるため、他国なら市場付近に多い野良犬もまったく目にしなかった。
◇一番驚いたのは断食月(ラマダン)を守らないイラン人が多いこと。これも宗教的義務の一つで9月中旬から10月中旬にかけての約1カ月、ムスリムは日の出から日没までの一切の飲食を禁じる。唾液も飲み込まずにはき出すという真面目なムスリムもいるほどだ。
 過去、欧米文化の流入著しいエジプトを断食月に訪れた際、異教徒である小欄でさえ、日中の飲食に苦労したことから、厳格なイスラム教国であるイランでは相当の覚悟をしていた。
 しかし、現地では真昼間からレストランやファーストフード店がオープンし、菓子や飲み物の売店も開いているではないか。店内も賑わっていて、イラン国内で飲食に苦労することはなかった。少し後ろめたいのか、レストランは窓に新聞を貼ったり、スダレを付けて、周囲の目を気にしているようだが。
 また、この時期、イランを抜け出して海外旅行者となるお金持ちも多い、というのは現地で出会ったイラン人男性の話。女性に厳しい服装規定を設けるぐらいなら、ラマダンくらい守らせるべきではないのか、と不思議に感じたほどである。

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2007年10月25日

これをたださぬ限り

 小泉元首相の構造改革路線をバックアップし、推進してきた竹中平蔵元総務相は、消費税より歳出削減を優先するべきだ、と自民党内の増税論者を牽制している。
 ぼくは早くから、消費税よりも前に「小さい政府」、「金のかからぬ効率よい行政」の必要を主張してきたが、その見解は今も変わらぬから小泉改革の継続を願ってきた。
 しかし、小泉路線を踏襲してきた安倍政権は派閥政治に足元をすくわれ、よってたかってひきずり下ろされた。
 今の福田政権とこれを支える派閥連合軍は国民のためにならないのではないか、とぼくは案じる。
◇先日、テレビで、伊吹幹事長が景気や経済成長に関連して「残念ながら物価が上がらない」と物騒なことを言った。
 これを聞いて、ぼくはこの人、かつての池田勇人を回顧しているのか、と疑った。物価が上がらず安定しているからいいのだ。今の日本は何もかも成長し、充実している。そういう状況のなかでの一番大切な政治は物価を安定させることだ。
 ところが、自民党の福田政権とこれを支える派閥の領袖たちは「物価は上れ」の拡大経済とインフレ政策を信条としているようだ。
 例えば、小泉さんは「道路特定財源」は一般財源にして、少しでも一般会計の収入に当て、できるだけ経費を切りつめて借金を減らすことを考えたが、今の内閣になってから、その方針をやめて、道路の特定財源は道路にだけ使ってしまえ、というやり方だから、これは明らかに膨張政策といえる。
 税金の使い道についても、小泉、安倍さんの時代は、地方への補助金行政をやめて、これに代わる一括税源賦与によって、都道府県に自主的、創造的予算の執行方法を政策化した。
 しかし、これもストップの状況となった。まず各省庁の官僚が自分たちの権限削減と行政改革につながる意味から反対した。派バツのボスたちは、補助金行政のお陰で族議員の存在性をアピールできる、として税源の地方移譲には消極的である。
◇世間や評論家は、膨張政策は予算の拡大につながり、いきおい増税論に結びつくから、と警戒するが、これまた政府や派閥首脳政治は「どんどん事業を進めろ」、「財源がなければ公債(借金)で手当てをすれば」という考え方である。
 これが、いわゆる膨張型政策の増税論であり、インフレ政策なのだ。借金をしてもインフレで金の値打ちが低下すれば返すとき、かるがると返せるという論であろう。
◇このようなインフレ期待論は、国の将来、国民生活に責任を負わぬ、いわばその日暮らしの危険な政策といえる。警戒すべきこのインフレ政策は、片手で増税論をひっさげる。
 さしあたり、一番楽して吸い上げられるのは消費税である。まんべんなく、だれからも商行為や日常生活の買いもののなかで税金を徴収できるからである。
◇膨張型のインフレ政策のねらいは行革潰しであり、官僚の権限強化であり、そして、族議員と派閥の利権政治につながってゆく。
 この体質のご本尊はほかならぬ官僚である。そして、忘れてはならぬことは、この官僚政治が日本を毒し、今日の防衛省疑惑や、年金事件を生んだのであり、過去の厚労省や農水省の汚職につながってゆく。
 とにかく大臣よりも官僚のえらいのが戦後の日本の政治であり、これをたださぬ限り日本の政治はよくならないし、国民は年中腹を立てていなければならなくなる。【押谷盛利】

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2007年10月24日

守屋前次官と捜査当局

 防衛省のドンといわれた守屋武昌・前防衛次官がマスコミと野党の袋叩きにあっている。
 これまでの報道で知る限り、国益を損ない、国民を愚弄する横暴と驕りは法が見逃せば神が代わって断罪してくれるのでは、と国民は不審と怒りの眼で事態の推移を見守っている。野党はいっせいに真相を糾明すべく守屋前次官らの証人喚問を要求した。
 与党の自民、公明は、なぜか腰が重く、できることなら参考人でと考えていたが、守屋擁護と思われてはまずいと、ようやく証人喚問に応じた。しかし、細部の調整に時間をかけているのが腑に落ちない。守屋前次官の弁明や証拠隠しに時間を貸しているのでは、と疑われても仕方がない。
◇ぼくが一番腑に落ちないのは、なにをぐずぐず泳がせているのか、という点である。
 防衛省の次官として4年間君臨し、何百億円もの軍事予算による航空機関係の発注に関わり、受注業者と200回以上の接待ゴルフや饗応を受け、妻子までもが業者から接待を受けたり、便宜を図ってもらっている。これから何が出てくるか、巨悪の本体が明るみに出るか、途中でウヤムヤになるか、政治家の腹と司法の正義に注目しよう。
◇ぼくが腑に落ちないというのは、司法の動きが鈍いことである。これまでの報道で明らかなことは、公務員法や倫理規定に反する疑いが濃いことである。
 そのことは彼自身が知っているはずで、ゴルフの接待には偽名を使っている。明確に法を犯している疑いがあれば、なぜ検察当局は捜査しないのか。マスコミが報道すればその裏をかく証拠隠しや言い逃れの口実に隙を与えることも考えられる。
 捜査が鈍く、手心を加えているのでは、とぼくが心配するのは、守屋という男が防衛省のドンとして省内はもちろん官邸から政府、政治家にまで幅をきかしていたのではないか、と疑うからである。おそらく彼は業者との癒着で莫大な利益を稼いだものと思われる。
 その威力のネタがどんな形か今後の展開で知ることができるかもしれないが、おそらく政党や政治家への献金、鼻ぐすりもあっただろう。彼の鼻息をうかがう防衛産業はゴルフばかりか、彼の求めに応じて部下たちの天下りをあっせんしていたかもしれないし、直接、間接に業者から有形無形の利益を蒙っていたかもしれない。
◇果たせるかな、彼との親密な不適正な関係が問題視されている航空・防衛分野の専門商社「山田洋行」の米国現地法人が不正経理の疑いで東京地検と米司法当局の捜査を受けていることが判明した。
 特捜部は同社幹部や元専務が独立して設立した別の防衛専門商社らの幹部から事情聴取しており、舞台はアメリカから煙り始めた。
◇ぼくは、今年8月、安倍改造内閣の末期、新しく登場した小池百合子防衛大臣を向こうに回して、当時の守屋次官が大立ち回りを演じたとき、この男、ただものではない、と国家、国益のため大きな不信感を抱いた。
 そのことは当時、ぼくの時評が小池大臣を支持激励する方向だったことで明らかであるが、なぜぼくが国家、国民のために不信感を抱いたかというと、彼が上司である小池大臣に食ってかかって、大臣の人事に反対行為を展開したことである。
 彼は横着にも官邸をのし歩き、総理に小池人事案の撤回を要求した。当時のマスコミは守屋次官を大物と強調した。
 総裁や与党の幹部まで動かして、結局ケンカ両成敗になった。守屋氏のクビと引き替えに大臣もクビになった。
◇防衛省の守屋次官はとてつもない権力を持っているのか、与党の幹部や政治評論家までが守屋氏の肩を持つ発言をしていたし、マスコミもまた守屋氏の驕りを追及することはなかった。
 防衛省は国家の機密保持や防衛上の鉄の規律が至上命令であるにも拘わらず、次官が大臣の命令を蹴飛ばしたのである。これ自体が問題であるが、関係者や報道陣、与党はもちろん野党までもが沈黙するか、暗に守屋氏を擁護していた。
 それだけの「徳」を彼が持っていたのか、1年か2年交代の次官を実に4年以上も続けたのは神さまのような実力のたまものか。その実力の正体は何なのか、いうところの伏魔殿のそれが知りたい。【押谷盛利】

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2007年10月23日

ムスリムのファッション(見聞録)

 イランは、その正式名称を「イラン・イスラム共和国」と言うように、79年のホメイニ師による革命以降、イスラム教に基づいた社会体制が築かれている。
 入国してすぐに、そこがイスラム教の国だと知らせてくれるのが女性の服装。
 イスラム教徒のことをムスリムと呼ぶが、ムスリム女性には服装の規定があり、国によって違いはあるものの、肌や髪を隠すことは、ムスリムとしての敬虔さ、女性としての嗜み、貞潔の象徴となっている。
◇現在、イラン政府がムスリム女性のあるべき姿として推奨する服装は、真っ黒な半円形の布「チャードル」で体を覆い、頭から足首までをすっぽり隠すスタイル。
 ただ、それでは動きにくいので、街中では「マーントー」と呼ばれるロングコート姿にスカーフで髪を隠すファッションもよく見られる。
 真夏の40度を越えるような酷暑の中でもこの服装は義務化されており、これに違反した場合、例えば、体のラインを見せたり、肌を露出したりすれば、宗教警察に注意される。
◇ラマダン(断食月)明けの祝日の10月13日。観光施設や商店が軒並み休みのため、テヘラン市街北部に広がるトーチャール山にハイキングに出掛けたのだが、そこでもチャードルやマーントー、スカーフ姿で山を登る女性が見られた。ハイキングとあって普段より明るめの色使いなのだが、山登りすれば蒸し暑いだろうに、半袖姿の男性を脇になんとも気の毒に思えた。
◇「郷に入ってば、郷に従え」と、この規定は外国人にも適用され、女性は慣れない姿での旅行を強いられるが、それもまた、旅の魅力の一つだろう。
 なお、男性は長袖、長ズボン姿が基本だが、半袖姿も多い。ネクタイは反イスラム的とみなされ、どんなにフォーマルな場でも着用しないのが礼儀。
◇すべての女性がこの服装規定を守っているのかは微妙で、都市部の若い女性の間では、やや細めのジーンズをはいたり、マーントーの丈を短かくし、体にフィットするスリムなスタイルに。スカーフも明るい色を選び、少し後にずらして前髪を見せるように着用したりと、政府推奨の規定からやや脱線し始めている。
 イラン政府は女性の肌や頭髪を露出した写真、映像を国内に持ち込むことを禁じているが、実際は衛星放送やインターネットで、どんどん異文化ファッション情報が流入してくる。他国のようにオシャレしたいとの願望は当然だろう。
 そういう「派手」な服装の女性は反イスラム的だとして、政府もチャードル・ファッションショーを開くなど啓発に取り組んでいるが、若者への浸透はイマイチ。
◇国内線の飛行機の中で、隣に座った20代のムスリム女性は「服装はイスラム革命以前は自由だった。それが今ではチャードルが必要。嫌な国になった」と話していた。
 彼女は外資系企業に勤めており、他のムスリムに比べ人一倍そう思うのかもしれないが、多くの若い女性が政府によるチャードル強要を嫌っていると教えてくれた。
 現地のテレビで、世界中の女の子に人気のバービー人形がイスラム圏用にスカーフやチャードルをまとって発売されたことが報じられていた。女性のオシャレ心に宗教や国境は無いのだな、と感じた。

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2007年10月22日

なぜ村を出てゆくのか

 伊香郡の最果て、美濃と近江の県境にあった八草村から、彦根市の鳥居本の男鬼(おおり)へかけての典型的な廃村の歴史を追ったが、その取材の過程で知ったことは、昔の人の強じんな体力と生活意欲であった。
 もう一つ驚いたのは、測量技術も空からの航空写真もない時代に、何千、何万㌶の山から山への地籍や県境、郡境をどうして決めたのか。また、その名前の由来など、考えれば考えるほど謎めいて、まるで深い山の迷路に行きついたような思いである。
◇村人にとって、村を離れることは、村を捨てることにひとしい。祖先以来、地域が一体となって助けあい、励ましあってきた血族集団がその伝統と歴史に別れを告げて、散り散りに下山することの悲哀は断腸の思いだったと思われる。
 しかし、よく調べると、不思議な思いにゆき当たる。それは、電気のない、荷車も通れない不便で不文明な時代は山の中で発展的、意欲的な生活をして、さながら小王国のような集落形成を維持してきながら、明治の代になって、道が開き、電灯がつき、町との行き来が便利になってから人々は村を離れるようになった。
 これは米原市の榑ケ畑、その他の戸数や人口の推移資料を見るまでもなく、現在のように通信、交通、情報の発達した時代でさえも流行のように村を離れる、いわゆる限界集落が出現し始めた。
◇いままでは、背板(せた)に炭や割木を負って、10㌔から20㌔の険しい山路を下りて、里へ物々交換をしなければならなかったのに、荷車で大量の荷を運べるようになり、さらには自動車で短時間に多量の物資を運び、行き来も連絡もスピード化したことを思えば山に極楽の風が吹いたようなものである。
 村の共存共栄がますます盛んになって当然と思われるのに、事実は逆の現象となった。
 明治に入って、道がよくなり、村の近くまで交通機関の恩恵が受けられるようになってから人々は村を離れ始めたのである。
◇この都会指向の、田舎離れは、文明の進化と産業構造の変化によるところが大きい。その一つは余呉町の奧川並や米原市の榑ケ畑村に見られるように燃料革命による木炭、薪などの林産品の不振があげられる。
 今一つは、交通の至便による都会との交流により、就職活動が容易になったことである。
 これは明治期以降の産業革命のもたらす影響といっていい。つまり大工場が出現し、その影響による周辺企業の定着、活性化が労働力の需要をまねき、必然的に村から町への流動を促した。
◇エネルギー革命、産業革命、交通・通信の近代化は、同時に医療、教育の充実発展につながり、今日の大都市への人口集中現象に拍車をかけた。
 このような人為的文化のもたらす人口移動に輪をかけたのが雪害という自然の脅威からの逃げだった。
 さらに言えることは、集落内の若ものの職業分化が多岐、複雑になり、村人の生活空間の一体化にひびが入ったことである。それは青年会、婦人会などの低調さや解散にみられ、伝統的村意識の崩れを意味する。
◇住みなれた村を離れるのは容易なことではないが、生活に行き詰まり、借金が積もり、他に打開の道がなければ、都会や新天地に再興の夢をかき立てるのはあり得る話で、江戸期のような往来の制限された抑圧からの解放感も手伝った。
 このほか、新しい村離れの原因の一つは、都市的文化生活への憧れ、子供の教育、古い村のしきたりからの逃げ、なども上げられるし、老人比率の上昇からくる若ものへの村の経営管理への比重の重みも離村の間接的影響となっている。【押谷盛利】

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2007年10月20日

霊仙七カ別院と男鬼

 彦根市の最北部、鳥居本地域は昭和27年同市に合併するまでは坂田郡鳥居本村だった。
 この村には男鬼(おおり)、武奈(ぶな)、明幸(みょうこう)の3集落があったが、いまはいずれも無住である。
 大正期以前は醒井の榑ケ畑から武奈、明幸、男鬼―仏生寺を経て彦根へ通じる道があり、これを彦根道といった。したがって上丹生(醒井)を含め、これらの地域は生活を通じての往来が親近感を深め、縁組などもあって、彦根の経済、文化圏にあった。そういう背景が戦後のいち早い時期に彦根との合併を促進したといえる。
 これらの集落は鈴鹿山系の最北端、霊仙山の西側に位置し、標高400から600㍍の高地にあったが、3区とも昭和49年ごろには無住となった。
◇鈴鹿山系は岐阜、三重、滋賀の県境に連なり、南から御在所山、藤原岳、御池岳、鈴ケ岳と続き、その最北端が標高1083㍍の霊仙山である。
 男鬼、明幸、武奈の3集落はその谷あい5700㌶の広い地域を占めるがほとんどが山地であり、いつごろから人が住んだのか、証拠立てる遺跡や出土品、古文書がないので、その起源は明らかでないが、役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたという言い伝えがあり、もしそうだとしたら仏教の伝来した6世紀のころか、それ以後であろう。
 元、彦根市旭地区公民館長・吉川善太郎氏は昭和39年、武奈分校で開いた僻地教育研究会で、その起源について次のように報告している。
 「興福寺官務牒疏」という古書に、坂田郡丹生郷に霊仙寺、また七箇別院が存在したと書かれている。
 七箇別院とは、観音寺(犬上郡落合=今の多賀町霊仙)、安養寺(犬上郡河内村=今の多賀町河内)、大杉寺(今の多賀町大杉)、仏性寺、荘厳寺(しょうごんじ)、男鬼寺(だんきじ=いずれも旧鳥居本村、現彦根市)、松尾寺(丹生西の谷、今の米原市醒井)。これら七カ寺を霊仙七カ寺と呼ぶが、当時の寺は松尾寺を除き、現存していないが、仏生寺町、荘厳寺町など地名が残っており、古くから開発されていたことが想像される。
◇男鬼(おおり)は無住になった後、昭和48年に彦根市少年山の家が誕生した。旧家を利用し、夏休みなどの野外活動の拠点としたが、だんだん利用が減り、最近閉鎖した。
 明治時代は50戸くらいがあり、三カ寺あったが、後に誓玄寺のみとなった。仏生寺区を経て彦根へ通じたが、急斜面の狭い道で人がやっと歩けるくらいで、荷物はすべて背に負って運んだ。昭和10年に村道ができるまでは閉ざされた山家(やまが)だった。
 人々は次々と山から下り、アメリカ・カナダへ移住するものもあり、昭和20年ごろには神社、寺院のほか民家が15戸に減り、林業と畑作で生計を支えてきたが、昭和46年に無住となった。
 男鬼から600㍍右手の山を登った所に山神・比婆神社がある。
 戦前、旧彦根高商(現滋賀大)の橋本犀之助教授が近江高天原(たかまがはら)説を唱え、高天原は近江・伊吹山麓の弥高。国土統一のイザナギ、イザナミの神のお隠れになったのが多賀であり、女神のイザナミを祀ったのが比婆神社であると説いた。
 男鬼は無住となったが、この神社は信者が多く、参拝者が絶えることなく、昭和57年には信者によって自動車の通れる道が造られた。【押谷盛利】

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2007年10月19日

目指すは中東の覇者か(見聞録)

 イランは今、アフマディネジャド大統領を先頭に、核開発にひた走っている。中東の覇者ならん、との姿勢も見え隠れするが、その背景は?
 旅行中、多くのイラン人に出会う中で感じたことは、彼らがイスラム教徒というアイデンティティ(自己認識)よりも、イラン人というアイデンティティを強く抱いていること。
 古都イスファハーンで、小欄を地元の小さなモスクに案内してくれた男性は「イスラム教徒としてイラン人とアラビア人を一緒にしないでくれ。我々には何千年もの歴史があり、美しい建造物、美術、そして食べ物がある」と自国の誇りを訴えた。そこには、アラビア半島やイラクでのテロにより、イランの国際イメージまで悪くなっているという、被害者感情も含まれている。
 ユーラシアの東の果てに住む小欄にとっては、イスラム教徒は同じ思考で連帯感を抱いていると思っていたが、彼らはシリアやヨルダンなどアラブ諸国と一緒にされるのを嫌がり、イラン人であることを強調する。
◇紀元前3000年にはメソポタミア文明、同2000年には古バビロニア王国が興ったようにこの地域の歴史は古く、特にアケメネス朝時代はダレイオス1世が壮麗なペルセポリスを築き栄華を極め、ギリシャにまで遠征したことは、今、人気の洋画「300(スリー・ハンドレッド)」で描かれている。
 しかし、その後はアレクサンダー大王、アラブ、モンゴル勢力に征服され、近代はイギリス、ロシアの帝国主義に踏みにじられた。
 また、1953年には帝国主義勢力の排除を目指したモサッデク政権が米・英諜報機関の計画したクーデターで倒れ、親米王政が誕生した。これを機に反米ナショナリズムが高まったとされるが、この王政、結局、宗教指導者ホメイニ師による革命によって倒され、今の反米強硬イスラム国家が誕生する引き金となった。
◇さらに、もう一つは、周辺国がイスラム教のスンニー派を主流とするのに対し、同国ではシーア派が主流。派といってもまったく別の宗教と言えるほど考えが違うらしく、イランはシーア派の牙城。
◇総括すれば、大帝国を築いた過去を振り返りシーア派の盟主たらんとするイラン人のアイデンティティ、長く踏みにじられ続けた歴史、そして反米・反イスラエルのための国力強化―。
 そういう流れを背景に「強いイラン」の実現へ、核開発に走っている。
◇では、その核開発を国民はどう受け止めているのか。
 彼らの考えは真っ二つで、「アメリカ、イギリス、イスラエルなどの敵対国家をはじめ、大国のロシア、中国、隣のパキスタンも核を所有している。当然、イランにも必要」。
 他方で「核よりも経済対策を。大学を卒業しても働く場がない」と、こちらは南部の街シーラーズの大学生らの声。一部で「ヒロシマ、ナガサキで十分。核はいらない」と、これは日本人に配慮した答えだろう。
 国民は「強いイラン」を望みながらも、経済制裁を顧みない核開発で失業率上昇を招いている現政権に、やや愛想を尽かしている、というところか。

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2007年10月18日

凶作による飢餓の悲鳴

 榑ケ畑は伊香郡の県境ほどではないが、霊仙山の中腹で、標高220㍍の高地に位置するから冬季4カ月は雪に埋れ冬籠もりするのは宿命である。しかも荒地ばかりで田のない集落だから生活条件は最低以下と思われるのに、一体どれくらいの戸数があって、人間がどれくらい住んでいたかは、集落構成の歴史を知る上で興味ある課題である。
 県に残っている資料によると、元禄8年(1695)は72戸(推定)人口369人、183年後の明治11年(1878)には戸数51、人口259人。
 183年間で毎年少しずつ減り、戸数も人口も約30%減っている。さらに明治以降も人口減少は続き、昭和の中ごろは遂に無住の廃村となってゆく。
◇江戸時代は宗門人別改帳で、住民の動向を把握しているが、榑ケ畑の場合、宗門御家並下帳に嘉永5年(1852)から明治2年(1869)間の建物の記録が残っている。これに本家とあるのは、各戸の住宅をいう。元禄8年の72戸が嘉永5年(1852)に55戸に減り、以後明治2年まではほぼ同じ水準だが、同11年には51戸に減っている。
 住宅のほか、村の半数が土蔵、4分の1が小屋を持っている。寺は光顕寺と緑苔寺の2カ寺があり、共に浄土真宗である。台風の被害や凶作で餓死者が出るほどの厳しい暮らしにも関わらず、アミダ仏の信仰を大切にして寺を護ってきた村人の心が切ない。
◇災害や凶作、豪雪などで村が極度に貧窮し、飢えに苦しむ結果、領主(彦根藩)に御助けや救済米を嘆願している資料があるが、気の毒で涙なしには読めない。
 以下一部を県の資料から抄出する。原文は分かり難いので解説的に意訳する。
 宝永5年3月
   坂田郡久礼ケ畑村
   庄屋刑部五郎
 当村は畑の質が最低で常から困っておりますのに、去年の大風により、畑物は多大の被害を受けた者21人。そのうちの10人は全滅の被害。残る11人は飢えております。
 何卒お慈悲をもってお助け下さい。
 村は彼らを助けるため、種麦などを借り作付させるべく村の者と21人へ稗(ひえ)ぬか少々配るよう御指導を受けましたので醒井村伝助方にて麦10俵代銀50もんめ、稗32俵代銀192もんめ借用し、あてがいましたが、目下は村中総潰れで困っております。なにとぞ御救い米30俵お下げ下さいますようお願い申し上げます。
◇ ◇ ◇
 享保17年正月
  久礼ケ畑 庄屋孫左エ門
 去年の秋の大風に畑は被害を受け畑作は収穫なく、生活に困っています。その節お願い申し上げたところ、大麦10俵お貸し下され、村中分配し喜んでおります。その上、お救い米3俵下され、ありがたき幸せです。それなのに、なおまた恐れ多いお願いですが、このたびの大雪で別紙に書きし者たち飢餓の状態です。で、お慈悲でもって、稗粉糠(ひえのこぬか)でもお貸し下さいますようお願い申し上げます。
◇このほか慶應2年9月の庄屋吟蔵の請願には「長々の日照りで、大豆、小豆、芋、稗、大根等は収穫ゼロとなり、ごぼうも半作、麦作の時期ですがとても作付不可能で困っています。何とぞ何でもよろしいからお救い下さい」と訴えている。売るどころか、自分たちの食べるものがない、という悲鳴である。
 異色なのは、猪(いのしし)、鹿、猿の被害で収穫がなく、お救い米をたまわりたいと懇願しているのもある。
 また、税金を納めるのに金がないので銀550もんめを利息1割で借りるという庄屋、横目、組頭連署の一色村猪左エ門宛ての証文もある。
 悲劇的なのは宝永5年12月の代官宛ての文書で、「当村は76軒ありますが、大雪で里(さと)にも江(ごう)にも出入りができず、食べるものがなくて飢えている家が25戸、うち8戸は家が潰れて餓死者が7人出ました。なにとぞ飢えを救うため、ひえこぬかでも結構ですから25俵お下げ下さいませ」と村役人が代官の山中彦左エ門に訴えている。【押谷盛利】

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2007年10月17日

榑ケ畑の推移と彦根道

 霊仙山の麓の榑ケ畑は、明治32年に現在のJR東海道線醒ヶ井駅ができるまでは物資の交流や旅路は彦根へ出るのが主であった。
 大正以前は榑ケ畑―男鬼(おおり)―仏生寺―鳥居本を経て彦根へ通じる道が開け、彦根道と呼ばれていた。山道を伝っての最短距離で約12㌔。したがって、この道路の周辺部落である落合、武奈、明幸、男鬼(いずれも旧鳥居本村、現彦根)とはつながりが深く、縁組もあり、祭などにも客のよびあいをした。
◇榑ケ畑は高い山岳地帯にあるから大正以前は荷車も通れない山道を通らねばならなかった。
 醒ヶ井駅が出来た当時は、ビン坂という坂越えに上丹生の神明神社のあたりに出て醒井へ歩いた。ビン坂はどう書くのか。土地の人は貧乏坂の「ビン」だと自嘲する。
 大正に入って上丹生に養鱒場が建設されたのを機に大八車の入る道を榑ケ畑まで延長することになり、ビン坂に代わる新道(くるま道)が開通した。この結果、これまでの彦根道は利用しなくなった。彦根道には、芹川谷の最奧の村旧霊仙村があった。現在の多賀町大字霊仙で、落合、今畑、入谷の3集落からなる。
 道路は川原道と呼ぶせまい荒れた道で、人々は山の尾根を通って集落間の連絡をしていた。交易は彦根が主体であったが、榑ケ畑を通って上丹生方面へも交流した。
 その後、芹川沿いに山女原を経て多賀に出る道が開発されて、これを契機にこれまで関係の深かった谷筋の村々や榑ケ畑とのつきあいも薄らいでいった。
◇今、JR醒ヶ井駅前に「醒井水の宿駅」が出来て活況を見せているが、往時の醒井宿の全盛時を思わせて興味がつきない。
 日本の主要街道の一つ、中仙道は旧米原町域を通って北国街道と分かれており、往時は米原、番場、醒ヶ井の3宿場があった。これらの宿(しゅく)の駅伝(駅の施設)は、明治4年に陸運会社の経営に代わり、同5年に運輸を始めたが、醒井駅には社員105人、肝煎(きもいり)=駅長1人。番場駅は社員59人、肝煎2人。米原駅は社員46人、肝煎2人が置かれた。
 いずれも鉄道設置以前の話でもちろん車もなかった。東海道線長浜―関ヶ原間の開通が明治16年。大津―米原―長浜の湖東線が開通したのは同22年。醒ヶ井駅が出来て関ヶ原から米原へ東海道線がつながったのが同32年だった。
 鉄道や道路が集落の興廃と産業にいかに大きく関わったかは、村の過疎化や廃村にもつながる大きな歴史的テーマであることが知られる。
◇榑ケ畑や上丹生はよく知られているが、醒井峡谷の奥地、松尾寺山の中腹に存在していた小村落を知る人は少ない。
 急峻な山路で今は集落跡の影も見られぬ。東は上丹生、西は山を隔てて西坂村。北は下丹生に接し、南は山伝いに武奈村(彦根)に連なる。
 山獄仏教のメッカの如く、寺が25もあったと伝えられるが、明治以降廃寺となり、最後に5ヶ寺、僧侶4人の小集落となった。
 田地は3反、雑地が3反、山地約104町(㌶)でほとんどが山という集落で、残っている松尾寺は無住で僧侶や家族は大字醒井に移転し、集落跡は観光地化されている。
◇榑ケ畑には慶長7年の検地帳が残っている。江州坂田郡榑ケ畑御検地帳。畑屋敷方林伝右エ門とある。関ヶ原合戦に勝利した徳川家康が太閤検地にならって諸国の検地をした時のものと思われる。
 これによると、榑ケ畑には全然田地がなく、屋敷地と畑で占めていることが分かる。
 その内訳を見ると、よい畑が少なくて、収穫の悪い畑や荒れ畑の多いのが特徴である。
 屋敷は今でいう宅地だがこれが総反別の2・1%の3反2畝(3200平方㍍)、残りは畑地で、上畑2町(㌶)6反(1反は1000平方㍍)、中畑は3町7反、下畑14町2反、下々畑9町、上荒畑2反、中荒畑1・5反、下荒畑3町8反、下々荒畑7町6反。
 全体の39%が下(げ)畑であり、荒畑というのは事実上畑作の不可能な荒廃地といえよう。【押谷盛利】

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2007年10月16日

イランを訪ねて(見聞録)

 イランで日本人学生が誘拐された。麻薬密輸の武装組織による犯行で、仲間の釈放を要求するための人質としているようだが、無事に解放されることを祈りたい。
 中東諸国はテロや誘拐で何かと危険なイメージがつきまとうが、古代遺跡が数多く残り、イスラム色の溢れる建築物と文化、民族性など魅力的な観光資源にあふれ、おまけに物価も安いとあって、旅行者にとってはあこがれ地域だ。
 今回の事件は、麻薬密輸の武装組織が活動する地域に外国人が単身で出かけたことによる。過去にも外国人が誘拐されているイラン南東部への一人旅は避けるべきではあるが、好奇心、冒険心を抑えきれないのが、旅人の心情だろう。
◇小欄は昨夜、1週間のイラン旅行から帰国したばかり。リュックサックを背負っての気ままな一人旅で、イランの国民性とその文化に親しんできた。
 イランはイラク、パキスタン、アフガニスタンなど武装組織やテロ行為が活発な国々に囲まれ、危険地帯とのイメージが強い。おまけにアフマディネジャド大統領はアメリカを「大悪魔」、イスラエルを「地図から抹殺する」とぶち上げ、核兵器の開発を進めている。また、イラクやレバノンのテロ組織を支援しているとも報道されている。
 国際的な立場や姿勢はさておき、国内情勢はというと、概ね安定し、安全に旅をできるというのが旅行関係者の話。実は今回の旅、当初はシリアやイエメンへの渡航を計画していたのだが、旅行社の勧めでイランにした。
 また、アメリカやイスラエルがイランへの武力攻撃も辞さないと発言していることから、同国が「イラク化」される前に、訪ねておきたいという思いもあった。
◇たった1週間だったが、その中で感じたのはイラン人は友好的で温かな性格の持ち主で、ことに外国人に対してはとても親切だった。道で迷えば声を掛けるだけでなく、わざわざ目的地まで連れて行ってくれるし、観光地についてもアレコレとアドバイスをくれ、何かと世話を焼いてくれる。こんな感じだから、危険な目に遭うことはなく、安全に旅を満喫できた。
 古都イスファハーンで出会ったTV局勤務のイラン人男性は「大統領の発言やアメリカ、イスラエルの報道で、国際的に孤立しているが、イランは安全で興味深い国。もっと、大勢の観光客に来て欲しい」と話していた。
 ただ、邦人誘拐事件のようにイラクやアフガニスタンの国境付近には麻薬や武器を密輸する武装組織が存在し、政府の治安部隊と対立しているのは事実。
◇アケメネス朝ペルシャ誕生以来2500年の歴史を持ち、東西の交流の要に位置する地理的条件から複雑に融合した文化が今に受け継がれているイラン。小欄ではその魅力を数回に渡って伝えたい。

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2007年10月12日

ニキータVS腐女子(見聞録)

 「主婦と生活」社が発行する30代女性向け高級ファッション誌「ニキータ」。そこで紹介する服、メイク(化粧)、その攻撃的な文言が、飾ることに敏感な女性読者を魅了している。3年前の創刊号にはインパクトのある見出しが躍っていたのを覚えている。「艶女(アデージョ)」が「コムスメ」には真似できないような高級ブランド品を身に付け、「艶男(アデオス)」を射止めるという内容だった。ちなみに10月号の表紙には「オトナのオンナの高揚感はこうして作ります!」「モテる秋冬は『艶(アデ)クラシコ』」とある。
◇対(つい)となるのが男性ファッション誌「レオン」。ブランド品が紙面を飾り、「ちょいワルおやじ」なる言葉を生んだことでも知られる。最新号のテーマは「モテるちょい不良(ワル)オヤジの作り方」だ。
 この2誌に限らず、ファッション誌がポイントに置くのは「モテ」であり、異性の関心をいかに引くかであり、最近はファッションに限らず、生き方や仕事のスタイルをも提案し、独自性のある文化を発信している。
 そして読者は、ファッション誌の提案する服装や髪型、化粧、ライフスタイルに良く言えば共感、悪く言えば踊らされているわけだ。
◇先日、「腐女子(ふじょし)」なる言葉を耳にした。男性同士の恋愛物語を嗜好する女性を指し、自虐的に自らをそう名乗るのだそうだ。漫画やアニメが主体で、広義では女性版「オタク」とも位置づけられる。
 本屋には、彼女らが好む同性愛を扱ったコーナーがあり、都市部にはそういう女性をターゲットにした「執事カフェ」なる喫茶店も登場し、代々木アニメーション学院の試算によると、その手の漫画やゲーム、音楽などの市場規模は120億円(05年)になるという。
◇何が彼女らを、オタク道に走らせるのか。オタク研究家の杉浦由美子さんはその著書「腐女子化する世界」の中で「逃避」と説いている。
 現代の20代、30代の女性は様々な分野で競争や比較を強いられ、例えば先述のファッションだったり、キャリアウーマンとしての仕事っぷりだったり、結婚や出産だったり。3年前の流行本「負け犬の遠吠え」が、結婚して子どものいる女性を「勝ち組」、どれだけ仕事ができても未婚・子無しを「負け組」と位置づけたように、この年代の女性は常に何らかの競争に迫られている。
 杉浦さんは、そういう競争を誘っているのがファッション誌であり、そのモノサシに囚われず、現実逃避しているのが「腐女子」であると、分析している。
 ただ、男性オタクと違うのは、逃避しながらも、恋愛や結婚をし、ファッションにいくらか気を遣うところで、そのあたりが女性ならではの冷静で、地に足を付けたライフスタイルなのだろう。

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2007年10月11日

霊仙山の廃村・榑ケ畑

 山また山の雪深い辺境の集落が時勢の変遷で廃村してゆく不幸は、現代の限界集落の生きた教科書でもある。
 これまでに述べた伊香郡最果ての八草村や、奧川並、針川、尾羽梨とやや様相を異にする米原市の旧醒井村榑ケ畑(くれがはた)について触れておく。
 旧坂田郡の東寄りの最南端に位置し、鈴鹿山系の霊仙山の麓の集落で東南は多賀町落合、西は彦根市(旧鳥居本村)の武奈(ぶな)、男鬼(おおり)、北は米原町旧醒井の上丹生に接している。
 県立醒井養鱒場から宗谷川の渓谷に沿って約4㌔上流に集落跡がある。交通の便が悪く、冬季4カ月は雪に埋もれ、耕地面積の狭小などの生活苦から昭和6年(1931)に最初の移住者が出、同15年ごろから移住が村の課題になってきた。
 多くは醒井に仮屋を建て、次第にそれが永住居宅となって、つぎつぎと村を出てゆき、最後は緑苔寺が昭和29年、光顕寺が32年に移築されて遂に無人集落となった。他の集団離村などとは違い、醒井へ移住してもそこに名目上の榑ケ畑を存続し、区長宅を事務所として行政体系を引き継いでいる。
◇榑ケ畑には木地師伝説があり、今から約1150年前、文徳天皇の第一皇子惟喬親王が皇位継承争いで破れ、父帝の異母弟惟仁親王(のちの清和天皇)に皇位を譲られた。
 これによる惟喬親王側の謀反にそなえ、鈴鹿山系の榑ケ畑と大君ケ畑(元多賀町)の土地を与え、この地に幽閉した。そのおりの都からの従者たちが村を開いた。
 親王はこの地で亡くなり、遺体を榑(くれ)の木で造った柩に納めたことから榑ケ畑の地名が生まれたという。
 坂田郡志によれば、古くは「桧ケ畑」といい、占観年間(859~76)に改めたとされている。
 伝説が先か、実体が先か、集落跡には本屋敷、御台所屋敷、的場、馬かけ場、一の門、二の門、などの地名があり、家の姓の宝(たから)、井戸、円花などは惟喬親王にちなんだものと伝える。
 面白いのは死者は火葬にするが墓は建てない。これに似た例は旧坂田郡伊吹町(元米原市)の県境の辺地、甲津原にみられる。ここは落武者の里といわれ、寺はあるが墓は建てない。
 今一つ他の山村と異なるのは集落内の姓(苗字)が多いことである。昭和40年(1965)の調べでは46戸のうち、同じ姓が3戸、ほとんどは異なる苗字で、全部で23もの姓に分かれている。
◇榑ケ畑は地震、台風などの自然災害の記録はないが、大きな火災に二度あっている。文政7年(1824)の大火は一戸残らず村が全焼した。そのおり、村の氏神様にお伺いを立てた結果、以後、村ではニワトリを飼わないことになった。
 しかし、その後、明治39年6月8日に全部落の30%に当たる23戸を焼失した。今度は毎年6月9日を「焼けまつり」と呼ぶ氏神祭を行っている。
 村では昭和16年にも3戸を焼失した。火元は戸主と主親類が縄帯と素足で各戸を詫びに回るのが不文律となった。
◇このほか榑ケ畑の由来については、平家の落武者説、検地と税を免れるために住みついた隠し田集落説もあり、惟喬親王伝説の木地師については、隣接の上丹生(醒井)に仏壇職、彫刻師の繁栄がみられて興味を引く。【押谷盛利】

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2007年10月10日

雪と燃料革命で離村

 地図の上に集落の地籍は現存しても、その地に人が住まず、事実上の山林、荒廃地になっている集落跡がある。かつての山家衆の生活の基盤である集落が消えた背景の最大のものは雪と産業構造の変化であろう。
 その典型的な一例は伊香郡木之本町金居原と岐阜県坂内村の県境にあって、大正8年(1919)に集団離村した八草(はっそう)村であろう。
 八草村の住民は八草衆、その住居区を八草屋敷と呼ばれた。八草衆の生活圏は近江側にあり、美濃(岐阜)の川上、広瀬方面へ出ることを「美濃へ行く」といった。
 地形を見れば分かる通り、耕作するような田はなく、ごくわずかな畑地があって、古くは焼畑農業だった。
 生活は木地師特有の椀類、杓子など木製品のほか木挽(こび)き、後年は炭焼が比重を占めた。米や日常生活必需物資は木之本町の金居原、杉野で買い、支払いは背に負って山から運んだ炭代による。
◇伊香郡杉野村(木之本町)合併後の木之本町元助役の藤田甚七(故人)は若いころ、今の農協に勤めていた関係上、八草衆とは毎日接していた。彼が後年、「八草衆が村を出てしまったのは豪雪と米価の高騰に追われたからだ」と語っている(松岡浩一著・濃江国境・坂内の八草村)。
 当時(大正)の記録によると大正6年は炭6貫(約23㌔)で1円、米1俵(60㌔)は坂内米で9円50銭。揖斐米で11円40銭。
 大正7年は雪一丈(3・3㍍)以上。秋になり漬物用の食塩が不足。米は一升につき50銭(60㌔20円)以上で、炭は1円につき極上で18㌔。
 大正8年、物価は高騰し、米1俵(60㌔)25円。最大の収入源は木炭だが、厳しい労働と搬出の苦労にも拘わらず、米代は上がる、石油その他の生活物資は上がる。冬の4カ月は3㍍、4㍍の雪の中で埋もれる。
 そうした生活から村衆は借金がかさみ、その返済が暮らしを一層圧迫する。愛着しながら村を捨てねばならぬ村人の気持ちは地獄の心境といえよう。
◇大正8年に離村した八草村によく似た環境の3村が滋賀県の最北部にあり、いずれも昭和44年(1969)、45年、46年に集団もしくは自由選択で個々に離村した。
 3村は余呉町の奧川並(おくこうなみ)、針川、尾羽梨(おばなし)区で、町役場の所在地・中之郷より20㌔前後の交通不便の山の中に位置している。
 奧川並は岐阜県の横山村、広瀬村から山越えで移住したと伝えられる。氏神の八幡神社の祭神の中にある横山大明神、広瀬大明神の名がそれを物語っている。
 針川や尾羽梨は山の幸を求めて高時川をさかのぼった人達が住みついたのではと想像される。
 平地の厳しい年貢の取り立てを逃れて山の幸や焼畑、炭焼きで雪に苦しみながらも村にしがみついていたのであろうか。
 3地区は東に1000㍍、西に800㍍の山並がひかえ、その谷間の高時川にひらけた寒村で、耕地は一戸平均2・3㌃。日照時間が少なく、雪解けの冷水で稲作の収入は反当4俵以下だった。暮らしを支えていた薪炭が、戦後の経済成長と石油、プロパンガスの燃料の変革で大打撃を受けた。結局生活の行き詰まりが村の集団離村につながった。【押谷盛利】

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2007年10月09日

いつ完成するの?(見聞録)

 初めて長浜市に住み、駅前から真っ直ぐ東に伸びる通りに街灯や看板が林立する風景を見て、雑多なイメージを受けたのは9年前のこと。多くの観光客を前に、駅前通りは何ともゴチャゴチャして見苦しい、との印象を持ったのを今でも覚えている。
 その駅前通りで目下、電線類の地中化工事が行われている。電線や電話線、通信線などをすべて地中に埋めて、地上を「すっきり」させようというもの。
 県道なので湖北地域振興局が窓口になって取り組んでいる。当初は、改修工事による売上低迷を危惧する一部商店の反対があったが、沿線住民の理解によって、平成17年度から、ようやく工事がスタートした。
 とりあえず着手したのは市役所前から高田町交差点までの区間。すでに地下に電線類を埋める空間を設け、車道と歩道の段差を解消するバリアフリー工事も終了。あとは電線類を地下に移設し邪魔な電柱を払えば、障害物のない解放感のある空間が誕生する。
◇ところが、遅々として進まないのが駅から高田町交差点までの区間。工事をしているのか、していないのか。滋賀夕刊新聞社にも「工事が始まって3年目を迎えるのに完成の兆しが見えない。モタモタした工事だ。いったい、いつまで続くのか」と、問い合わせがある。
 たった1㌔前後の道路工事にいったい何年費やすつもりのか。工事に無知な小欄は「何か不手際でもあったのか」と、県の計画性を疑いたくもなるのだが。
◇湖北地域振興局道路計画課は「特別に遅い訳ではない」と反論する。「電線類地中化工事は、ただの道路整備と違って複雑。地面に何が埋まっているのか掘ってみなければ分からない。時間はかかる」という。「これだから役所は仕事が遅い、と思われるが、努力している」と話している。
 なら、いつ完成するのか。同課は「21年度末の完成を目標にしている」と話しているが、今のペースを思うと、遅れるのは必至だろう。
 たかだが1㌔の工事に5年以上の歳月。皆さん、どう思います?
◇また、読者から「工事に伴って街灯が抜かれ、駅前通りが暗くなった。これでは犯罪を誘発する」と電話を頂いた。先月、深夜に女性が現金17万円入りのバッグをひったくられる事件があったばかり。
 「街灯、何とかならないのか?」とも尋ねたが、同課は「明るさについて、人の意見はいろいろ」「仮設街灯を設置しました。工事が完了すれば、街灯施設を整備します」ということだった。

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2007年10月06日

彦根以北で廃村が13区

 65歳以上の高齢者が住民の半数を超える「限界集落」は、日本の山村の局面する最大の政治課題といっていい。
 これに手を付ければ莫大な予算を伴うからか、あるいは無知、無関心なのか、政府や政治家からその危機感を訴える話を聞いた記憶がない。
 ぼくは、限界集落と廃村の悲劇を追い、その典型ともいうべき八草村の大正8年(1919)の解散、無住について書いているが、たまたま5日の朝日が限界集落を取り上げ、「全国で近い将来2643集落が消滅する恐れ」と極めてショッキングな報道をした。
 国土交通、経済両省の集落状況調査によるもので、昨年4月時点で3256集落が限界集落だった。前回調査(1999年)から7年間で、すでに191集落が消え、さらに2643集落が消滅する恐れがあり、うち423集落は10年以内に消える可能性がある、とキャンペーンしている。
 もうすでに、本県においても集落消滅の悲劇は続いており、人の住まなくなった山間僻地は、山や田畑は荒廃し、里山の生態系すら崩れつつある。
◇歴史に残る八草村は地籍は岐阜県川上村(坂内村)だが、岐阜、滋賀、福井の県境にある山また山の中の辺境で、そこに住んでいた村人(八草衆と呼ばれた)は江戸期、近江から住みついた木地師であるというのが定説である。
◇八草村は大正8年に解散し、無住となったが、村跡には昭和59年(1984)出身者による出自の記念碑と祖霊の供養塔が建設された。
 県文学協会事務局長の中村憲雄氏(元伊吹山中校長)は八草村の歴史に詳しく、廃村の運命に深い悲しみを寄せる一人だが、ぼくは数年前、同氏と共に坂内村の役場を訪ね、その案内で八草村跡を訪ねた記憶がある。山と山との谷間の八草川流域の猫の額(ひたい)程の地でどんな生活をして生きてきたのか、冬季4カ月3~4㍍の積雪の中に埋もったであろうことなどを考え、胸にじーんと耐えがたい思いがせまり、立ち尽くしたことだった。
 家は一軒も面影を残していないが、石垣や住居跡らしいわずかな平垣地は雑木が生い繁っていた。中央の広場らしいところは明治のころの小学校の分校跡だったのだろうか、そこに記念碑や供養塔があり、村役場の関係者が管理しているのか、整然としていた。
◇なぜ、村人が八草を捨てて出ていったのか。その理由などについては後に触れるが、そのことは山岳に住む木地師(きじし)、杣人(そまびと)、またぎ(猟師)の社会的存在の変化と経済文化の発展と強く関わっている。
◇ここで、はっきり言えることは、八草の悲劇は大正8年(1919)という今から88年前ものことだが、電灯がつき、林道が整備され、車社会が出現した昭和の終わりになって、にわかに過疎化と無住の山村が増え始めたという社会的矛盾と価値感の変化のすさまじさである。
 詳しくは次項に委ねるが、彦根、犬上、米原、木之本、余呉地域で昭和50年までに13の村が消えていった。いずれも山の奧の人里離れた豪雪地帯である。
 消えていった村への鎮魂の思いをこめて、今少し掘り下げて詳述したい。【押谷盛利】

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2007年10月05日

政務調査費の改革(見聞録)

 長浜市議会が政務調査費の透明化のため改革案をまとめ、監査委員に諮問したのは、9月25日付け滋賀夕刊で報じた通り。
 政務調査費は議員の調査活動のため、報酬とは別に自治体が支給し、長浜の場合、市議1人当たり2万円。近年、全国で政務調査費の不適切使用が相次いで発覚していることから、市民への透明性を確保しようと議会運営委員会が中心になって改革に取り組んでいる。
◇元々、収支報告書にはすべての領収書の添付を義務付けており、他の自治体に比べ透明性は高いのだが、内容を知るためには情報公開を請求しなければ、市民の目に触れることがない。
 昨年、複数の会派の市議が連れ立って九州を視察したが、この時も市民から「そんなに大勢でゾロゾロと行く必要があるのか。政務調査費が充てられているのか」との声が本紙に寄せられた。政務調査費の使い道について、市民の目が厳しい証拠だろう。
 その点、今度の改革で収支報告書、視察報告書をホームページで公開することに。これとは別に本会議の様子を生中継したり、議事録を公開したりと、長浜市議会はインターネットをフル活用して情報公開に積極的だ。
 隣の米原市は議員1人あたり月額1万円を支給。こちらも収支報告書に領収書の添付を義務付けている。ただ、内容を知るには情報公開請求が必要。
◇滋賀県は県議に月額20万円、会派には1人当たり月額10万円を支給している。05年度までは領収書の添付を義務付けなかったというから、果たして何に使っていたのやら。
 昨年から1万円以上に領収書を義務付けたが、なぜか領収書原本ではなく、コピー。さらに、なぜ1万円以上なのか。民間企業の会社員ならば、1円たりとも領収書の漏れは許されないのに。
 ちなみに、お隣の京都府議会は領収書の添付、公開について、原則的にすべての支出を対象とする改革に乗り出している。
◇そして、全国で最もお粗末なのが大阪市議会。ここは行政組織がいい加減なら、それを監視する市議もいい加減。
 市民グループ「見張り番」が06年度と今年4月に支出された政務調査費を調べ、ほぼ全額にあたる6億6000万円余りを「違法不当な支出」と断言した。情報公開請求の末、公開された領収書のほとんどが黒塗りで、誰が誰に支出したのかわからないという。事務所費の受け取りが市議本人だったり、任期後の賃料の領収書を添付していたり、お粗末なものだった。
 大阪市議の政務調査費は全国最高レベルの1人720万円(年額)。これだけ多額を市から支給されれば、職員のカラ残業や過剰手当、ヤミ年金・退職金に甘くなるのも当然か。

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2007年10月04日

近江人の八草村の廃村

 3日付の時評で「限界集落」と廃村の悲劇に言及し、後段で岐阜県坂内村と滋賀県木之本町側の県境付近にあった八草村の廃村について触れたが、いまのわれわれの知る八草は国道303号線の旧道頂上の八草峠だけである。
 この峠路の遥かな下を流れる八草川に沿うてそれこそ山と山の狭間の谷川ぞいのわずかな荒廃地が今は昔の八草村である。
 八草村の成り立ちや廃村の歴史について、坂内村の元教育長・松岡浩一氏が、「東海考現」という冊子の第2号に書いている。その内容は岐阜県側からの古史資料が中心なので、滋賀県側から住みついた木地師の由来やその悲惨な生業の実態は想像の域を超えない。
◇ただ、松岡氏の記録によって知り得ることは、当時と今の山林地の価値観の大差であろう。
 今は人里離れた奥深い山の中でなく、立派な広い道路が出来て、戸数のまとまった集落が老人ばかりとなって限界集落などと社会問題を提起しているが、八草村当時の江戸期は、これ以上の辺地はないとさえ思われる山の中の谷あいの集落でさえ、生きることに夢中で、寸土を耕し、山の木の伐採、搬出、木製品づくり、薪炭づくりに明け暮れして土地にしがみついた。
 炭山は地主や、お上が所有しているから高い入山料を払って、炭焼きの許可を得なければならぬ。そうした村の困難な暮らしを念頭に松岡氏の貴重な記録「濃江国境―坂内の八草村」「その立村から離散まで」を部分的に一部を紹介する。
 濃江の濃は美濃の濃で、今の岐阜県。江は江州の江、近江の江で滋賀県。美濃の最西端は池田郡川上村(揖斐郡坂内村川上)。この、岐阜、滋賀、福井の3県の県境の山の中に元禄6年(1693)八草村が分立した。大垣藩領20石足らずの極小村である。明治5年(1872)旧に復し川上村に吸収合併。同30年(1897)川上・広瀬・坂内の3村統合によって坂内村八草区となる。やがて全戸そろって離村する協議が成り、大正8年(1919)村落は解散し、無住となった。
 近江の国から移ってきた山働(かせ)ぎ人が美濃の川上村地内に居を構えたのは寛文の初頭(1661)だったという。以来、およそ260年が八草村の存続した期間である。
◇八草については、平成4年に岐阜と滋賀県の新聞紙上に関西電力の揚水式発電所の建設計画が載り、人目を引いた。
 坂内村川上の揖斐川水系坂内川支流の八草川源流部に揚水発電所の上部調整池をつくり、この水を木之本町金居原に設ける発電所に落下させ水力発電を起こす計画で、滋賀県側は補償工事のトンネルや道路建設が着々と進んだが、経済の変動で、関電が計画をストップしたので、この話は立ち消えた。
◇八草村は大正8年に解散して廃村となったから当時を知るものはほとんどいない。
 明治5年正月付の「明細村鑑帳」が「美濃国池田郡八草村」の名を表記する最後の公文書で、前年末に岐阜県が設置され、その当時の経過が坂内村の記録「川上年代記」に出ている。
 明治4年=当年、美濃国一カ国岐阜県に相替わり、大垣様(藩)も御たやしに御座候
 明治5年、当年、大垣県、岐阜県へ引き渡に相成り、6月大庄屋・村名主・組頭廃止、大庄屋は年番戸長。村名主、組頭は戸長、副長に。当年改め、これまで川上村、八草村2カ村のところが一村になった。八草からは元通りにしてほしいとの申し出があったが、お上(かみ)から絵図面を改め、日のうらより金糞までが、伊吹山北辺の濃江国境地帯八草川流域で、かつて川上村から分割し、八草村とした地区の大部分に当たるとした。
◇明治14年の各村略誌に川上村の上げた山が二つある。一つは金糞山で、本村の南方位にあり、近江国の浅井郡高山村と伊香郡金居原村につながる。いま一つは日裏山で、本村の西方位にあり、近江の金居原村に続く。
 八草村の石高は19石9斗5升7合。内畑高18石2升5合。屋敷高1石9斗3升2合。
 戸数13軒、人数83人
 永500文 白木運上
 永666文4分 木炭運上
 神社1カ所(藤井大神宮)
 道場1軒、一向宗東派・広瀬西村・友徳寺末。百姓代熊谷磯次、組頭・牧野孫助、名主・熊谷清三郎。
 一応、村の形はなしているが、戸数は早くに村高がつけられてた時の20戸を大きく割っている。明和1年(1764)31戸、138人、文政7年(1824)27戸、124人(揖斐郡志)。
 この記述のなかに「白木運上」「木炭運上」とあるのは税金のことで、白木と木炭が村の生業といえよう。
 白木は伐採した建築用の木を材木にしたり、木を利用して物を作ったりしたのであろう。【押谷盛利】

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2007年10月03日

限界集落と、廃村の悲劇

 9月29日付の滋賀夕刊に「限界集落」という聞き馴れぬ活字が登場した。
 集落の過疎化がひどく、高齢者ばかりで社会的な共同生活が困難になった集落をいう。
 「限界集落」。聞いただけでも悲しいイメージとおぞましさにやりきれない思いがする。
 しかし、いま、にわかに脚光を浴びているという問題ではなく、湖東、湖北、湖西地方の山間地では、昭和40年ころから高度経済成長期の波と共に過疎化と離村、廃村の言わば社会的変動が進んでいた。
◇限界集落の基準はその集落の高齢化率によるもので、厚生労働省の統計にいう人口に占める65歳以上の老人比率が50%を超える場合をいう。
 なぜ、老人比率が50%を超えると限界集落といわれるのか。
 老人比率が50%を超える集落は当然ながら若ものや子供が住んでいない。したがって、50歳、60歳代の老人予備群の多いことが想像される。集落は神社の祭礼や維持管理、仏閣その他、村の歴史的建造物や史蹟の保存管理に共同の責任を負う。さらに林道、農道の整備、除草、河川の改修、清掃、共有林の管理など公共的奉仕活動の場が多い。
◇そういう環境的な村の維持活動のほか、個々の家庭の農業林業の助け合い、冠婚葬祭など共存共栄の一体的なつながりが美風として伝統的に継承されてきた。
 ところが、高齢者ばかりが目立って、若ものが少なくなると、村の役や奉仕活動は若ものに負担がしわよせされて、その結果、若ものは村を敬遠し、町へ住所を変えてゆく。
 これが悪循環となって、ますます老人比率が高くなり、結局、村の中は荒れてゆき、老人たちは病む人も多くなるし、日常生活に不安を感じるようになる。
 都会に出た息子や娘は、老いた親を迎えようとするし、年寄りは古里で生涯を送ろうとするが、それでも多くの場合、施設に収容されることになる。
◇現在、湖北地方で高齢化が50%を超えて限界集落となっているのは余呉町が突出しており、中河内75・9%、椿坂60・1%、摺墨59・3%。これに続くのが伊香郡では木之本町で大見56・7%、音羽52%。米原市では伊吹山の奥地姉川水系の吉槻52・1%、甲津原51・3%。これらに近い集落は木之本町金居原、米原市曲谷の各45%。湖北地方では山間部でこれらを追う高齢化集落が年々増加傾向にある。
◇限界集落が極限に来ると、集落を集団離村することになり、事実上廃村の運命に至る。
 すでに昭和30年代後半からその徴候はあり、彦根市鳥居本学区では「男鬼(おおり)」「君が畑」、米原市では旧醒井村の霊仙山麓、榑(くれ)ケ畑はとっくに廃村となり、村人は町へ転居した。
 伊香郡では丹生ダムの補償が起爆剤となって、早くに小原、田戸、鷲見が余呉町中之郷などへ集団離村している。
◇廃村の最も悲劇的なのはすでに伝説的とさえなっている木之本町金居原と岐阜県坂内村の県境付近の八草村である。
 この村は地勢的には坂内村に属しているが、人里離れた山間僻地で、遠く江戸時代から流れついた滋賀県側の木地師の集落で、明治以降は林業で生計を立てていた。村は無籍地のように、地租その他の諸税も免れていた。もちろん子供たちは学校へ行くこともなかった。落人のような苦しい貧しい杣(そま)の生活だった。岐阜からの告発で、正式に坂内村に編入されたが、社会の変貌と僻地の貧困から生活に窮し、村を捨てるようになった。
 村は坂内村八草でも子孫は滋賀県木之本町を自負している。今は谷底の集落跡が夏草の中に息づいている。【押谷盛利】

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2007年10月02日

離婚専用ローン誕生(見聞録)

 大垣共立銀行が10月から、離婚関連資金を専用に扱う無担保ローン「ライフプランRe」を導入した。離婚費用に特化したローンは全国初という。
 離婚時発生する慰謝料、財産分与資金のほか、裁判などの弁護士費用などを目的に、500万円、7年を限度に借りることができる。対象は20歳以上66歳未満の個人で、前年の年収が200万円以上が条件。
 離婚の形によって、銀行側に提出する書類も様々で、協議の場合は公正証書、調停の場合は調停調書、そして、裁判の場合は判決書や和解調書などが必要。
◇年々、離婚件数が増えているとはいえ、専用ローンができる時代になるとは。貯蓄が無くても十分な慰謝料を請求したり、されたり、財産分与も必要以上に高くなるのではないか。
 家庭を顧みず仕事や遊びにふけっていると、家に帰ったら、妻が子どもを連れて実家に帰り、机の上には離婚届けと大垣共立銀行のパンフレットがぽつん…なんてことも。
 結婚ならともかく、離婚資金のニーズがそんなにあるものなのか。大垣共立銀行に問い合わせたところ、広報担当者は「お客様の多様なニーズに対応するためのサービスのひとつです」と語り、離婚関連の相談が急増している訳ではないと説明してくれた。あくまでコンセプトは「離婚を経て、人生の再出発を目指される人々の人生設計の支援」という。
 なお、気になる金利は9月25日現在のレートで換算すると5・825%。同行カードローン11~18%に比べると相当割安。ブライダルローン4・75%よりは、やや高い。
◇厚生労働省の人口統計によれば、平成元年の離婚件数は約20万件、平成18年は25万件で増加傾向にある。人口比率では1000人あたり、2・08人。平成に入ってから離婚件数は急増しているが、実は明治時代の方が離婚率は高かったようだ。例えば明治16年の1000人あたりの人数は3・38人。
 当時は女性を労働力として見る向きが強かったことから、働けない妻を追い出したり、逆に妻が仕事の大変さから逃げ出すことが多かったという。また、子ども、特に男児を産まないという理由で、夫やその家族が一方的に妻と離縁するケースも少なくなかった。社会的環境も、離婚について寛容であるというか、日常的だったのだろうか。
 現代も離婚へのタブー感が薄れ、「性格の不一致」を理由に結婚時の契りを簡単に葬り去る風潮になりつつあるが、離婚専用ローン、果たしてそのニーズはどれほどあるのだろうか。

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2007年10月01日

調整型の福田流政治

 新聞の世論調査による福田内閣に対する国民の支持率は50%から58%と、かなりいい線の評価を受けている。安倍内閣の終盤は30%台に落ちていたから、50%を超す福田内閣の支持率は、国民の期待感と発足早々の御祝儀感の表れであろう。
 これから、政策の展開を通じ、実績の評価の上に立って、さらに人気を高めてゆくか、逆に下降線をたどるか。そのことの危機感をだれよりも知っているのが当の福田さんである。あえてこの内閣を自ら「背水の陣」と呼んだのがそれである。
 背水の陣とは、後がないということである。崖っぷちに立たされているのと同じである。
 前へ進むしかない。2年後には好むと好まざるに拘わらず衆議院議員の任期は終わる。常識的には任期満了までの一番都合のいい時期を見て解散することになるが、じり貧状態で解散すれば、野党に負ける恐れがあり、その場合は政権交代である。自民党内での権力のたらい回しが不可能になるからである。だから、福田さんは「背水の陣」の緊張感をもって組閣した。
◇世間やマスコミは福田さんを調整型という。角を立てず、話しあいを重視し、ものごとをまるく納めるタイプなのだろう。景気が右肩上がりで、政策決定に時間的余裕のある時代、いわば太平の世では調整型政治家は無難であり、ほどよい成果を上げることが出来る。
 しかし、困難な時代や改革の時代は、蛮勇を振るって、信念に徹し、果断実行型でなくては成果を期することはできない。
◇福田さんが組閣に当たり、新入閣を2人にしぼり、他は留任もしくは横すべりで、いわば安倍内閣の延長に留めた。この人事を眺めただけで、福田さんの調整型の流儀が見え見えである。
 本来ならば、自前の内閣をつくりたいところだが、それをすると勝者の傲慢が目立つし、派閥のボスの暗躍が明るみに出る。安倍内閣のお仕着せでは、党内の順番待ちの人に陽が当たらない。それでは不満が爆発しかねない。
 その安全弁のため、福田さんは、派閥の親分を党四役と主要閣僚に迎えた。そうして、ごく近き将来の改造内閣で、順番待ちの手当てをする、と言い含めた。この結果、党内は波静か、反主流派であるべき麻生一派も沈黙した。
 これが福田流の調整人事であるが、問題はこれからの新年度予算や、テロ対策特措法の期限切れ、前内閣からの積み残しの諸改革、特に行政改革の中核である独立行政法人の廃止、統合である。
◇福田内閣の正面の敵は民主党であるが、これまでの野党と違い、犬の遠吠えでないところが手強(ごわ)い。それは、国政調査権をフルに活用し、また独自の法案を参院で通して、衆院に提出することが可能となったからである。
 このため、福田内閣は、早くも平身低頭して民主党の機嫌を取っている。
 民主党は具体的に政策を法案化して、政治を国民注視のまな板に乗せる戦略を採るが、もし、自民党と福田政権が時流の方向や、国民の声に鈍感であれば、人気の下降は避けられず、じり貧状態のまま解散の機を失い、野垂れ死にする可能性さえなしとしない。ここに調整型政治家の限界が危惧され、背水の陣が最悪の結果を招くかもしれない。
◇さらに、調整型の福田さんにとって頭が痛いのは、今日的課題である行政改革について、族議員や派バツの強い抵抗があることだ。今回の総裁選は、全党的な一つの雰囲気の出たことが最大の特徴である。それは集約すれば「反小泉路線」の連合体の結成といってもいい。その中身は、大臣の短期化と、族議員政治の復活、改革潰し、補助金行政の推進と予算のばら播きである。国民は眉に唾をつけて、しっかり眺めねばなるまい。【押谷盛利】

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