2007年05月31日
陰陽と正しい食事法
「老子」は、万物はすべて陰陽の原理によって生じている、と説くが、人間の生命も同様、陰陽の法則を無視することは許されない。
ぼくが健康法と正しい生き方として傾注している思想に「マクロビオティック」なる理論がある。ギリシャ語に由来するもので、直訳すれば「健康・長寿法」といえよう。
指導者の久司道夫氏はアメリカに在住して、健康と平和の実践と哲理を世界に発信し続けている先覚者だが、その著「マクロビオティック食事法」にも陰陽の法則の重要性を訴えており、極めて説得力に富み、有用性にあふれているので一部を紹介する。
◇久司氏は、人間を健康にし、世の中を平和にするには食事から始めねばならぬ、と陰陽による食事の秩序を重視する。
食物とは進化を促すものであり、ひとつの種が別の種に変わるための手段である。「食べる」ということは、環境全体、つまり、日光、大地、水、大気をとり入れることである。食物の陰性、陽性を見分けることは、食事の調和をたもつために非常に大切なことである。ある食物が、どのような場所でどのように成長するか、また、どのような構造をもっているかによって、それがおおむね陰性であるか、陽性であるかを見ることができる、として陰陽のエネルギーがつくりだすものを次のように説明している。
◎陰のエネルギーがつくり出すもの
暑い気候の土地で生育する
速い成長
水分の多い食物
果物や葉菜
地面より上へ高く伸びる成長
酸っぱい、甘味の強い
辛い、匂いの強い食物
◎陽のエネルギーがつくりだすもの
寒い気候の土地で生育する
ゆっくりした成長
水分の少ない食物
茎、根、種子
地下へ伸びる成長
塩辛い、おとなしい甘味
苦い味の食物
◇陰陽は食物に限らず、あらゆるものに存在するが、分かりやすく、その例を少しあげておく。
○寒いは陰、暑いは陽○暗いは陰、明るいは陽○湿潤は陰、乾燥は陽○熱帯性気候は陰、寒冷な気候は陽○植物的なのは陰、動物的なのは陽○女性は陰、男性は陽○穏やか・消極的・防衛的は陰、活発・積極的・攻撃的は陽。
食物は陰と陽の両方の性質を合わせもっているので食物が陰か、陽かと知るにはどのような要素がまさっているかを見なければならぬ。
正確な見分け方の一つは食物となる植物の成長サイクルを観察することである。
寒冷な気候下(陰が強い)では植物のエネルギーは環境のエネルギーとともに下降し、根の部分に集まる。葉は枯れて死に、樹液が根へと下がり、植物の活力はより凝縮したものになる。このため晩秋から冬に成長する食用の植物は、水分の少ない身のしまったものになる。腐りにくく、保存できる期間も長い。ニンジン、カブ、キャベツなどがこの種の植物である。
これと同じことが食物の原産地についてもあてはまる。
植物が豊富に生い茂る熱帯地方を原産地とする食物は陰性。それよりも北の寒冷な気候の地方を原産地とする食物は陽性である。
食物の色も例外はあるが、紫、藍、緑、白の食品は陰性の場合が多く、黄、茶、赤の食品は陽性が多い。
日々の食生活において、われわれは、植物性食品、動物性食品双方の種類、質、量を正しく選択しなければならぬ。
植物は動物よりも陰性であるが、植物のなかでも種類によって比較的陰性なもの、比較的陽性なものがあり、また果物は野菜や穀類とくらべてより陰性である。
◇健康な食品生活を送るには陰陽のバランスが大事であるが、そのなかでもチェックする必要のあるのは、極陰性と極陽性の飲食物で、日常避けるべきもの、なるべく減らすものをあげているが、ここでは比較的バランスのとれた好ましい食品を次の通り示している。
完全穀物、豆類、豆を原料とした食品、根菜類、野菜、海藻、海水からとった塩、植物油、湧き水、井戸水、香りや刺激の強くない茶や飲料、種子や木の実、温帯産の果物、穀物を原料とした自然甘味料(日貿出版社刊・マクロビオティック食事法【上】参照)。
2007年05月30日
老子の生死と宇宙観
人間は健忘症だといわれる。あれほど騒がれていた松岡農水相だったが、その死を境に、そんな人がこの世にいたのか、と疑わしく思うほど、世の中は、川の流れのように何もかも流してゆく。
死というものは、それほどまでに厳粛なのか。死が厳粛であるというならば、死を支えてきた生はさらにその何倍もの厳粛さを持つ、といっていいのではないか。
◇古代・中国の哲人「老子」は「生を出でて死に入る」と、人の命を追求し、普通の人間の生き方として三つを挙げている。
その一つを「生の徒」といっている。どんな生き方かというと、生命本来の在り方に素直に生きて、肉体を粗末にあつかわず、自分自身を大事にして生きぬき、長寿を全うする生き方で、こういう人は10人のうち3人はあるという。
二つ目の生き方は「死の徒」という。生命本来の生き方にそぐわぬ生き方をして、肉体を弱め、若死するような人で、これも10人に3人はある、という。
三つ目は、動いて死地にゆく、という生き方で、しないでもよい乱暴な無茶なことをして、生命を粗末にあつかい、いたずらに死地におもむくというような、思慮分別のない衝動的生き方で、これも10人のうち3人はあるという。
◇これについて、「老子講義」の著者・五井昌久氏は、三つの生き方のうちでは、第一の生き方が一般人としては最も上等な生き方であり、善い人、立派な人といわれる分野の人であるが、老子の眼からみれば、そのくらいの生き方では、とても立派などとは誉められないといっている。
なぜかといえば、そうした生き方の人でも肉体にまつわるさまざまな想念があって、生命を自由自在に駆使できるわけでないし、死を超えて生きつづけ得るほどにはなっていないからだ、という。
人間は欲望や喜怒哀楽に想いを奪われるから、神のみ心のままに大自然と調和して生きることが出来ない。
◇老子の人間観は非常に高度なもので、少しぐらい善いことをしたとか、精神的にも肉体的にも他に秀れている、というような相対的な優越などはあまり問題にならず、その人が如何に宇宙神のみ心のままの生き方をしているか、大自然の摂理、法則に乗った生活をしているかが問題である、と説く。
◇老子は、聖人と凡人の違いを幼児の無邪気さにたとえている。
現実の世界の利害得失に追い回され、耳をそばだて、眼を皿のようにして時流に流されてゆくのは凡人。
幼児が無邪気に笑っているような、いささかの汚れもない、清澄な純朴な心でこの世に存在するのが聖人。
つまり聖人は現象の世界ではなく、宇宙神のみ心の中に生きる生き方。凡人は変滅常なき現象の世界。金が減った、もうかった、地位が上がった、下がった、病気をした、けがをした、生まれた、死んだ、などなど、その瞬間、時間の経過の中で変化し、消えてゆく、実態のないものごと、事柄に、その想念のすべてを把えられているのが凡人である。
◇老子は、万物はすべて陰陽の原理によって生じている、と説くが、人間の生命も同様、陰陽の法則を無視することは許されぬ。すべてのものは陰を負い、陽を抱いているわけで、分かり易くいえば、宇宙のまにまに、神のみ心のまにまに生きること。
このことを老子は「冲(ちゅう)気を以て和と為す」といっている。
冲は、和する、やわらぐ、虚しいという意味を持ち、自然の心のまま、自己を虚しくして自然の気と合致した心である。
つまり、陰陽の法則にのっとったそのままの在り方で交流しあい、融合しあい、離合集散しあうことが大自然との調和であり、その姿が冲気を以て和と為すことになる。
2007年05月29日
松岡大臣の自殺と政局
松岡利勝農水相(63)が28日自殺した。国会で政治資金疑惑が追及される一方、司直の手で農水省所管の緑資源機構の談合事件が捜査されている段階にあって、その死のもたらす影響は大きい。
7月の参議院の選挙を控え、このところ与野党の攻防が激しくなっており、その攻防の最中の出来ごとだけに、安倍首相にとっても自民党にとっても沈痛な打撃になりそうだ。
◇彼の死によって、安倍さんと自民党はほっとしているのでは、と、うがった見方をするものもある。死ぬことなく、これまで通り開きなおって、参議院選を迎えても前途は崖っぷち。かといって死んだからとてその政治的責任や疑惑が晴れるものでもない。退いても進んでも首相にとっては暗剣殺である。
したがって、次の参議院選は自民党にとって極めて不利であり、安倍人気を期待するものにとっては残念としか言いようのない事件である。
結果から見れば、すべては任命権者の安倍首相の責任に帰する。
◇死者に鞭打つなかれ、という日本人の美意識は尊いが、政治が国民の幸福と直結している以上、死をもって、松岡疑惑を帳消しにすることは許されない。
松岡氏については、昨年9月、安倍さんが自民党総裁に選ばれたとき、内閣情報調査室は極秘に調査し、同氏の閣僚としての適性に疑問符がつけられたという。多少やばいところがあっても仕事師ならよかろう、と甘く踏んだのかどうか。あるいは総裁選での論功行賞がらみの人事だったのか。
いずれにしても国会で傷つきつつも彼の首がもったのは総理の「かばい」によるもので、その温情が死となった因果の業はあの世でエン魔の裁きを待たねばなるまいが、さし当たり、当面の政局においては、国民は疑惑は疑惑、不信は不信として、その態度を参議院選に表白するであろう。
◇なににしても避けることの出来ない疑惑は、政治資金報告書の中で、自らの資金管理団体の事務所費の高額な計上であろう。
彼の事務所は家賃や光熱費のかからない衆院議員会館に置きながら、水道代やガス代など多額の出費が計上されていた。国会で、その点の疑問が追及されるや彼・松岡氏は「ナントカ還元水」代だった、などと答え、以来、それへの説明は口を閉ざしたまま「すべては法律にしたがって届け出ている」とつっぱって時間を稼いだ。
水道代がただなのだから、500万円を超える水代はだれが見たっておかしいし、納得できるものではない。彼が正当と主張するのであれば、「ナントカ還元水」を説明しなければ、国民の疑惑は解けまい。
種明かしができないから、死をもって一件落着を果たそうとしたのかもしれぬが、親分への義理を果たせたとしても国民への義理はどうなるのか。せっかく小泉さんが派バツの解消や政治改革の一歩を示したのに、その後継者が再び、逆走して、もとのもくあみになったのでは、国民の信どころか、怒りを買うのは必定である。
2007年05月28日
五右衛門風呂と短歌
先日、短歌の会で、仲間の藤居睦美さんの次の歌が話題になった。
「五右衛門風呂にひとくべもらうふる里の夢の中なる春の雨音」
年配者は分かるかもしれないが、今ふうのしゃれた風呂しか知らない人に五右衛門風呂のイメージが浮かぶはずがない。
五右衛門風呂は、盗賊・石川五右衛門が刑に処せられるとき、釜の湯に入れられて下から燃やされて、苦絶したという俗説に由来するもので、桶の底の鉄板から熱が伝わる原始的なもの。鉄板に直(じか)に座るとやけどするから、押しぶたを置く。湯の表面に浮くから、入浴の時は、足で押さえて沈める。桶の上に上げ下げするふたがついており、桶の上部に窓のような出入口がある。入浴のときは、桶の上も出入口も閉めるので、いまどきのサウナのような効能で裾湯ほどの浅い湯でも、体の芯まで温まる。
◇五右衛門風呂そのものも懐かしいが、「ひとくべもらう」という言葉が、なんとまあ、穏やかで、つましく、貧しさを象徴していることだろうか。
この言葉をかみしめていると、人々の心のやさしさが、じーんと胸にくるほどの感動を覚えるのは、ぼくが時代離れの古風人間からだろうか。
歌会で問題になったのは、「ひとくべもらう」という表現の俗っぽさや一般に分かりにくい方言性であった。
念のため、ぼくは「ひとくべ」を辞書で追求したが、見当たらぬ。ひとくべの「ひと」は、一つ、二つの数字をあらわすもので、ひとくべ、ふたくべ、という。よく似た例は、ひと山、ふた山。ひと苦労、ひと芝居などがある。
そこで、ぼくは「くべ」をさがしたが、見つからぬから、今度は「くべる」という動詞があるはず、と調べた結果、「焼(く)べる」とあった。「燃やすために火の中へ入れる。薪をくべる」と説明していた。
つまり、「くべ」は、くべるという動詞が名詞に転用したわけで、ひとつかみの薪や、わらを、ぽいっと差し入れて、パッと勢いよく燃やす、そのひとつかみの燃料による火勢が「ひとくべ」であり、同じ動作を二回、繰り返すと、厳密な意味で「ふたくべ」になる。
次に「もらう」であるが、これは受身の表現で、「やる」、「あげる」の反対語と思えばよい。菓子をあげる、菓子をもらうの例で分かる通り、日常よく用いる。
◇さて、歌会では、賛否の議論が出たが、ぼくは、この歌は、地方の言葉の歴史や方言を後世に伝えるためにも貴重な作品である、と評価した。歌そのものの文学的評価と共に、ぼくは一首の表現の中に流れる民俗史的な意味を重視した。それは「ひとくべ」「もらう」というつつましいものいい、と、その社会的背景を考えるからである。
この歌は、50年以上も前の戦前、もしくは戦後も昭和30年までの貧しい時代の農村風景なのである。都市には風呂屋はあるが、一般家庭には入浴設備はなかった。農村や山村には自家用の風呂はあったが、水道設備はなく、燃料も不自由だった。
だから「ひとくべ」の燃料は、焼(た)いてもらう者にとっては、気がひける思いで、出来ることなら、少々ぬるくても辛抱したいところである。しかし、冬は遠慮して、ぬるい風呂で我慢していると風邪を引くかもしれない。そこで「すみませんが、ひとくべもらえませんでしょうか」と、なる。「もらう」には、ありがたい、もうしわけない、の感謝と謙虚な気持ちがこめられている。
農村では、たいてい、わらで「ひとくべ」したし、山村では、杉葉、松葉だった。蛇口をひねれば水の出る水道ではなく、井戸から汲み上げたり、川から汲まねばならなかった。それがこの歌の時代背景である。
2007年05月25日
旅は一期一会(見聞録)
先日、知人から「海外旅行の魅力は何ですか?」と問われた。古い建築物や壮大な自然の風景を眺めることなのか、その土地の伝統芸能に触れ、その土地の料理を楽しむことなのか、その土地に居住する人々との出会いなのか、その場では考えがまとまらず、うまく説明できなかった。
旅に出かける動機は何なのか。雑誌やテレビ、絵はがきで見た光景に憧れるのか、伝統料理に興味を抱くのか、日常生活からひとときの逃避を楽しみたいのか。
小欄が旅の魅力を挙げるなら、「人との出会い」だろう。各国からの旅行者との交流や、その国の住民との出会い。日本国内での日常生活では接点を持つことがない人々と話し、寝食を共にし、そこから得られる新しい発見が、自身の好奇心を満たしてくれる。
そのような出会いには、ツアーによる団体旅行よりも、一人旅のほうが都合がいい。ツアーは、ホテル、レストラン、バス、観光施設などすべてを手配してくれ、安心、安全、快適に旅行できるが、団体行動ゆえの不自由さから、偶然の出会いの機会も減る。
一人旅は、言葉や身の回りの安全性などの不安はつきまとうが、出会いの機会が多い。世界各地の安宿街には、必ず気の合う仲間がいて、旅行者は行く町々で「道連れ」をつくる。一人だと誰とでも話しやすいし、声もかけられやすいもの。一緒にご飯を食べ、相部屋に泊まったりすることで、国籍を問わず妙な連帯感も生まれる不思議なところがある。
◇ゴールデンウイーク、ホーチミンでメコン川への日帰りツアーに参加し、何人かの日本人旅行者と知り合えた。神奈川県の中年男性は学生時代に中国を2カ月かけて旅したのをきっかけに一人旅に魅了され、会社役員となった今でも連休を利用してはアジアを中心に旅行している。軍事政権で知られるミャンマーでの体験談や中国内陸部のシルクロード都市の魅力を聞くことができた。
女性の一人旅もよく見かけ、熊本県の20代の女性は、スウェーデンに留学して以来、外国文化に魅了され、ヨーロッパやアジアを旅している。両親からは「早く落ち着いて」と口うるさく言われているそうだが、当の本人は連休や有給休暇を利用しては、世界巡りに余念がない。
台北市の安宿では、福岡県出身の30代の男性に出会った。市内で日本語の講師をしながらデザインの勉強をしているが芽が出ずに、ずるずると3年半も宿に住み続けているという。「日本に職があれば、帰りたい」と故郷を懐かしんでいた。
◇歴史的建築物、美しい風景、古代遺跡―いずれも新鮮な感動を伝えてくれるが、旅の中で最も印象に残ったのは、旅行者達と屋台で飲んだことや、バスの中でお隣さんとおしゃべりしたことなど、ちょっとした人との触れ合いだったりする。
ドイツの詩人カロッサの言葉に「人生とは出会いであり、その招待は二度と繰り返されることはない」とある。旅を人生の縮図に例えることがあるが、それは一期一会の大切さ、一生に一度限りの出会いを大切にするように説いている、といえよう。
2007年05月24日
ミレー、ロダン、パスカル
20世紀初頭のフランスの彫刻家ロダンの「考える人」は有名だが、作品の素晴らしさもさることながら、その彫刻に与えたネーミングがよい。
同じくフランスの画家ミレーも有名だが、ことに光っているのは「晩鐘」である。これも題につけた名が人の心を打つ。
ミレーの晩鐘といわれるほど、彼と晩鐘は不離一体に密着している。そして、それは夕日のおだやかなひかりの中で、麦の収穫に励む女性が、一日の終わりに感謝している姿が画かれている。その敬虔な気持ちは教会から聞こえてくる入りあいの鐘に触発されたものであり、田園に抱(いだ)かれた農婦と大自然の織りなす刻(とき)が渾然と調和して一幅の絵となり、見るものの心に迫る厚いものが不思議な感動を呼ぶ。
まさに働くものの誇りと喜びと感謝の象徴である。
◇ロダンの「考える人」は絵ではなく彫刻だが、これはまた人間の本質に迫る哲学的な響きをもって後世の人の魂をゆすってやまない。
座像で、膝の上についた手に首をかたむけ、無心に考えごとをしている姿だが、実はその姿こそ人間の人間たる特質を示すものであり、ロダンは人間の内的生命に迫ろうとして、この作品を「考える人」と名づけた。
◇「考える」。なんとまあ、いい言葉だろう。このごろの不祥事、不愉快な事件を知る限り、まるで考えることを忘れた衝動的行為の多いことに驚く。
行為の前に、ほんの一瞬、考える時間を持てば、人をあやめる恐ろしいことにはならぬかもしれぬし、恥ずかしい挙措で警察の御用になることもなかろう。
こうなって、ああなって、と行為のすみずみまでを考えるというのではなく、こんなことをしたら相手がどんなになるか、そのことが自分の人生をメチャクチャにするのでは、と考えれば、行為の一歩手前で、ストップがかけられるはず。
これは「考える」という人間本来の感覚が麻痺してしまったとしか言いようがないが、なぜ麻痺するのか。言葉を換えれば「善」「悪」の判断をするコントロールがきかなくなったともいえる。
どんな精密な機械でも錆びることもあろうし、金属疲労することもある。手入れをしなければ目に見えぬホコリがたまるかもしれない。あるいは人の呼吸や周辺環境の空気が影響することもあるだろう。だからこそ「管理」の必要や「点検」「整備」が機械類には欠かせない。
◇「考える人」については、ミレーやロダンよりも200年も前のパスカルが先輩である。
パスカルもまたフランス人であり、17世紀の数学、物理学者で、哲学者でもあった。そのパスカルの次の言葉は余りにも有名である。
「人間は考える葦である」。
正確には次のように言っている。パスカルの遺稿集「パンセ」の中の言葉で、「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。自然の存在としては弱い人間だが、考える存在であるからこそ偉大なのである」と説いた。だから考えない人間は動物並みと思ってよい。
2007年05月23日
売りものに花かざれ
駄菓子からペンを進めて食べ物一般に言及し、梅干しに甘みを加えたり、緑茶に色や香りをつける現代流食物異変をそれとなく告発したつもりだが、最後に「化粧は顔だけでよろしい」と書いた。
誤解があってはいけないから申しそえるが、ぼくのいう食物の化粧は食品自体の本質をゆがめるような化学的加工やそれに準ずる調味などの反自然について、それを食品の化粧とやゆしたのである。
◇日本人は世界でも珍しいくらいに礼儀作法の行き届いた国民性を持っている。それは単に顔の表情とか、丁寧な挨拶だけを言っているのではなく、内容とともに形が実に風流化していることを言いたいのである。
卑近な話になるけれど、昔の人は「売りものに花飾れ」といった。
これは女性の解放されていない時代の話だが、結婚はたいてい仲に立つ人の努力や、おせっかいで進められた。間違っても女性側から名乗りをあげることをしなかった。つまり、「もらってもらえまいか」というふうな売り込みはしなかった。
「かわいい娘がいる」、「ようきばる娘さんだ」、「親を助けて一家を切り回している孝行娘がいる」、といった情報を耳にして、男性側が人を立てて、お宅の娘さん、もらえませんかと話の糸口をつける。これが明治、大正、昭和20年ごろまでの一般的結婚のパターンだった。
もちろん、好いて、好かれて、手鍋提げても、の恋愛結婚もあったが決して主流ではなかった。だから、こんな時代の娘さんは、一歩家を出れば人目にさらされ、うわさの種になった。
「ええ子やな」、「まだ嫁入りの話ないんやろか」などと余計なおせっかいをやくのが庶民の下劣さであり、よさでもあった。
だから親は、わが子の身だしなみ、髪型、服装、化粧に至るまで結構気を配る。
働きものの娘が、格好なんかかまっていられますかいな、と鍬や鎌を手に畑仕事に出かけることがある。
母親は嬉しさ半分だが、かといって娘の婚期が遅れては困る。そこで娘に「よう働いてくれるはありがたいが、しかし、カッコも大事や、売り物に花飾れ、というさかいな」と言わんでもいいことをいう。
◇別に、この言葉、娘のことを念頭にしているわけではない。
店が商品を売るときホコリを払ったり、見栄えのするように少し飾りを工夫するとか、要するに客の立場に立って、買った人が気持ちよく、喜んでくれるように包装したり、引き立つように手直ししたりすることを指す。
◇話は違うが、日本人は祝儀を持参するときは扇の上に乗せて、末広がりの縁起を象徴したり、袱紗(ふくさ)に包んで、それを器に乗せて手渡す。その極端にれいれいしいのが仲人の持参する結納である。
結納料、酒肴料、帯地料などと区分けして、一つずつ立派な熨斗(のし)袋に入れる。現金は直(じか)に熨斗袋に入れることなく、あらかじめ紙袋に入れて、それを熨斗袋におさめる。
熨斗袋には水引がかけられ、それを三方(さんぼう)の上に置いて先方に差し出す。そのときの挨拶には必ず扇を手元に置いて一礼する。
◇このごろは、なにもかも略式とばかり、人さまにお礼をするにも裸銭(はだかぜに)で渡したり、祝儀や香典なども現金入りの袋を直に差し出す人が多い。随分失礼なやり方で、エチケットとしてはふくさに入れて差し出すのがごく普通である。
ぼくの言いたいのは踏むべき作法、礼儀は祖先以来の伝統を守り、日本人らしい文化の花を咲かせてほしいのであり、食べ物でいえば、料理の器に季節の花を添えたり、心に響く器を吟味したり、膳やテーブルをピカピカに光らせてほしいのである。そういう広い意味での化粧を否定するのではない、と念を押しておく。
2007年05月22日
化粧は顔だけでよい
21日付の時評で「駄菓子」に触れたのは、駄菓子をさげすむ意味ではなく、むしろ、駄菓子に郷愁を覚え、古き、よき時代の象徴として駄菓子を考えてみたかったからである。
単刀直入にいえば、ぼくは駄菓子大好きであり、ぼくのイメージにある駄菓子屋のなくなったのが淋しい。
いまは菓子メーカーが頭をしぼり、腕を競って、客受けのする商品を開発しており、店頭に並ぶ菓子類の品数の豊富さと華麗さは夢の世界かとまごうばかりである。
よく言えば芸術品かもしれないが、悪くいえば天然資材と化学物質をこね合わせた工場生産的加工食である。
◇現代人は、高度な加工技術に幻惑されて、食べ物の本来の持ち味を忘れてしまったから、まるで泥沼のぬかるみに足を踏み入れて、ずるずると深みにはまり込んでゆくようで、この先の商品開発がどんな趣向で競い合うのか、興味半分、恐怖半分というのが正直なところ、ぼくの感想である。
これは、ぼくの直感であるが、菓子の安全性とうまみは今の高級品よりも、かつての駄菓子の方が上ではないかと思う。今どき寝とぼけたことを言いでない、と笑う向きもあるだろうが、なんぼ声を大にしても駄菓子屋は復活しないであろうし、駄菓子は登場しないだろう。
それは虫の食った菜っ葉や色の悪い漬物を買わないのと同様、客が駄菓子に振り向きもしないからである。
◇ぼくは漬物に着色しているのをおぞましく思っているのだが、その化粧は実に巧妙である。食品店などで売っているのは、うまみのほか、形、色彩、匂いなど全体の雰囲気を買い気をそそる一点にしぼって開発した半加工品だから、ぼくは半ばやぶにらみしながら心の隅で愚痴っているにすぎない。
しかし、聞き捨てならぬこと、見過ごしならぬのは、それぞれの家庭が漬ける沢庵にすら着色剤を用いることの愚である。
店で買う弁当や折詰に飯と沢庵が入っていて、沢庵の黄な色が飯についていることがある。あれを見ると、とたんにぼくは食欲をなくしてしまう。
◇食べるものは健康優先などと説教するつもりはない。当たり前のことだから。だのに、あたかも顔に化粧するように、色彩や香りや味つけの化学的加工をするのである。
駄菓子がかえりみられず、駄菓子屋が消えてしまったように、まともな食べ物が姿を消して、加工という美名の化学加工的食品が店頭を占め、消費者である客は完成した加工品のみならず、素材(野菜、魚類)を買っても、家で調理するとき、ややこしい添加物や調味料を使ってうまみや見た目の美しさなどに引かれてゆく。
◇やっぱり、うまくて、安全なのは、駄菓子屋の駄菓子に限る、とうそぶくぼくの気持ちは、いまの食品売り場やレストラン、ホテルの美食オンパレードに対するいやみ、あるいは抵抗の声と聞いてもらえばうれしいのである。
困ったことに、日本人の生活に定着している梅干しに甘みを加えたり、緑茶に色や香り剤が用いられて、平然と流通しているのである。
化粧は顔だけでよろしい。
2007年05月21日
駄菓子、銘菓、ブランド
ありがたい世の中になって、食べるものに不自由することなく、おいしいものがふんだんに食べられる。
3歳児のころから歯医者のご厄介になるご時勢だから、おしなべて虫歯にかかる率が高い。子供の虫歯を診察した歯科医は「甘いものをとりすぎですネ」と、ひそかに警告するが、幼いころからの生活習慣は恐ろしいもので、菓子はもちろんのこと、毎日の総菜(そうざい)類でも甘みがなければ食べなくなる。
医師は、生活習慣病に対して、塩気の摂りすぎをやかましくいう。そのせいか、最近はレストランなどの味付が薄味になっている。塩分に対しては警戒気味なのに、糖分に対しては随分寛大である。
子供ばかりでなく、大人たちも、ひまがあれば甘いものを口にする。食後のデザートなどとホテルの一流のメニューを家庭にまで持ちこんで、コーヒー、菓子、果実類を食べないと、食事らしい気分にならぬらしい。
と、いうことで、歯科医も忙しいが、内科の医師も忙しい。何しろ、ご馳走づくめであるから、脂肪分はたっぷり、そこへせっせと糖分を運ぶのであるから、太ってはいけない、というのが無理。「太って、太って、転ばぬように」と黄信号を発せずにはおられないのが40歳、50歳、60歳の中堅どころ。
血圧、糖、心臓、これらに付随するもろもろの器官にガタが来るのは避けられぬ現代人の宿命だが、国の医療費や社会福祉費はともかく、御身御大切のはずの「あなた方ご自身」が不健康とそれによる不幸を背負って生きることになる。
◇駄菓子屋といっても今の子は知らないが、ひらたく言えば安ものの菓子屋である。村に一軒か二軒あって、あめ玉や、せんべー、ウイロー、田舎まんじゅうなどを売っていた。ヨーカン、カステラなんて高級なものは売れなかったし、買う力もなかった。
駄菓子の「駄」は、今ふうに言えば差別語といえるかもしれない。もとは馬や牛などに負わせる荷物を駄といった。牛や馬を連想するから、人間以下という見下げたイメージが加わって、「粗末な」とか「ぼんくら」を意味する熟語がつくられていった。
その一例が駄菓子である。粗末な菓子、安ものの菓子をこういう。
いやしくも一軒構えている菓子屋を、構えが大きいか、小さいか、扱っている商品が安ものか、どうかを一目瞭然の如く「駄菓子屋」呼ばわりするのはいかがなものか、などと、昔の人は四角四面なもの言いはしなかった。
それは、散髪と理髪の違いと同じである。「散髪屋」といわれて怒る業者はいない。理容師と正式にはいうが、一般には「散髪してきた」とか「散髪屋へ行ってこい」とかいう。
◇駄菓子の駄が、お粗末、安ものの意を表すように、自分のことを謙遜して、「駄作」、「駄弁」、「駄句」という。本当は自慢するほどの出来栄えと思うが、それではあつかましいので「駄作ですがご覧下さい」とか、「駄句ですがご批評下さい」などという。演説などを終えるとき、長しゃべりしながら「はなはだ簡単ですが・・・」と締切るのはこっけいだが、こういうときこそ「はなはだ駄弁を弄(ろう)しまして・・・」とするのが光る。
◇このごろは、商品に格付けするのが一種の商法となっており、人間のプライドをくすぐるようにレッテルのブランド化に腐心する。
銘菓、銘酒といえば、いい商品のように思うが、さらにメーカーの屋号などを売り出したり、代表的商品を強くイメージさせる販売法もある。看板に偽りあり、は、いつの時代にも消費者への自戒のメッセージだが、売り手が賢くなる以上、買い手もまた賢くならねば「あなた駄目ネ」と文句のタネになる。
2007年05月19日
赤彦の旅行記と文体
師範学校の学生だった歌人・島木赤彦の明治28年の修学旅行記を紹介したところ、興味はあるが文章がよみ難く、分からぬ言葉があって間違いか、と思ったところもある、と読者から感想を聞いた。
紹介した赤彦の文章はごく一部だが、学生とは言え、当時すでに中央のいくつかの雑誌などに短歌やエッセイ等を発表しているのであるから、その文学的才能はプロ級といえよう。
ぼくが、あえて原文のまま紹介したのは、明治28年ごろの文章の主流が文語体であり、今でいう歴史的かなづかいとなっているからである。
読みにくいし、分かりにくいというのは、現代人が現代の文章に馴れきって、古文はいうに及ばず、明治の文語体についてすら読解力を欠いてしまったからである。
しかし、赤彦の文章はそう分かりにくいものではなく、教養として、この程度の文章は読んでほしいと思ったからである。
◇この程度の文章が読解できれば、ずっとさかのぼって、日本の古典随筆の代表とされる鎌倉時代の吉田兼行の「徒然草(つれづれぐさ)」や鴨長明の「方丈記」などにも挑戦できるので、とくに大学志望の高校生には国語の実力強化のためにも読んでほしいと願っている。
◇さて、赤彦の旅行記は10日のうち、まだ1日も終わっていないが、面白いのは、桃山の個所である。現代人ならそこに「伏見桃山陵」を見落とすことはない。
だが、赤彦の旅行記には記していない。当然のことで、桃山御陵は明治天皇の御陵であり、明治天皇在世中にあるはずがない。
この旅行記、初日の後段は万福寺から宇治橋を渡って、平等院へ。道中の名所、仏閣など詳しく説明しながら、宇治久世から長池に着いて、一泊。
【二日】
「長池をたちて奈良におもむく。けふもまた山々のくも晴れゆかず、いと心ゆかぬ空合なり。
峯のくも晴れむともせずけふもまた雨になりゆくしるしなるらむ
道すがら茶畑いと多し。実に品質も産額も我全国に秀でたる茶は此の辺りの産出にかかれるなり」。
「小さき坂を上れば山城大和の界にして淀川と大和川との河領の分水嶺あり」。
◇「さてここより直ちに奈良町なり。古のことども思ひ出でて、あはれも一入なり。
入口の左に般若寺あり。此の寺は第三十五代舒明帝の勅をうけて高麗の慧潅法師の始めて般若台といふものをたてたりしが、のち聖武帝の御時伽藍となりて―法性山般若寺と号したるなり。今は荒れ果てて只さびしき堂二三立てるのみ。元弘の乱に笠置の城にたてこもり、大力もて名をあらはししもこの寺の僧なり。皇子護良親王が難をさけて隠れまししもこの寺なり。其の折の大般若経櫃も今にのこれりといへばこひて見つ。
―蓋なども破れそこねていと古めきたり。あはれ此のいぶせき寺の内にかくれさせ、此の小さき櫃の底に御息をこらさせたまひしをおもへば、今尚袖もしぐるるばかりなり。此の他み子が御いたづきのほど挙げんも言の葉足るまじくなん。あるは御身をあさましき山伏のすがたにかへて熊野に落ちのびさせたまひ、あるは高野の朝風に御涙を払はせ、十津川の瀬音に御心を砕き、吉野の山下露に御夢をさまさせたまひしなど、ひたすら大君の為めに尽しまつろひし御心のまめに、めでたきはいふもさらなるべし。あはれ北条の木枯、其の初め星月夜鎌倉山に吹きそめてより、露たゆむまなく、遂にはかしこき大内にまでもあれまはり。あまつさへ竹の園生に冬枯のあはれを見するにいたれるは、かなしくもにくき限りならずや」。
◇「東大寺、興福寺、春日神社、師範学校などの前をすぎて猿沢池のほとりなる金波楼といふ宿につく」。
2007年05月18日
ベトナムあれこれ(見聞録)
ゴールデンウイークに訪れたカンボジアではポルポト政権下での虐殺、アメリカ、ベトナム軍による侵攻で、国土がズタズタにされ、今なお、経済発展から取り残されていることを学んだ。
次なる目的地のベトナムのホーチミン(旧サイゴン)までは、バスで移動したが、カンボジア国内は悪路が多くノロノロ運転。アンコール遺跡観光の拠点シェムリアップを朝の7時に出発し、メコン川をフェリーで渡って国境の町に着く頃には夕暮れで、入国審査の列を待つ間にすっかり暗くなった。ベトナム国内は主要道路が舗装されており、バスは猛スピードでホーチミンを目指し、夜の9時ごろに到着した。約500㌔の移動に14時間ほどかかった。
一夜明けて、ホーチミン市内を散策すると、カンボジアとは比べられないほど都市化していることに驚いた。オフィスビルやホテルが立ち並び、観光客向けのオシャレなレストランやバー、服飾店が並んでいる。ビルや橋があちこちで建設され、経済発展の勢いを目の当たりにできた。
◇バイクの多さで知られるが、特に朝夕の通勤・帰宅ラッシュには何車線もある道路がバイクで埋め尽くされる。カンボジア国内でバイクに乗れば体が砂ぼこりで赤く汚れたが、ホーチミンでは排気ガスで真っ黒に。喉や目を痛めやすく、ドライバーはマスクやタオルを顔にあててバイクに乗っている。
「ホンダ」「ヤマハ」「スズキ」など日本メーカーが人気。バイクの性能はベトナム人のステータスのひとつで、「ビッグバイク、ビッグガール」という言葉があるという。「いいバイクに乗れば、いい女性と付き合える」との意味で、日本製を買いたくても手の届かない男性は、とりあえず中国製の偽物で我慢している。
◇今月20日、ベトナムでは総選挙が行われる。ちょうどゴールデンウイーク中は選挙戦の真っ只中だったが、候補者のポスターもなければ、街頭演説も聞こえず、選挙の気配をまったく感じなかった。ベトナムは共産党の一党独裁国家だけに野党不在で、どうやら選挙は形だけ。候補者は表立った選挙活動をする必要がないようだ。
被選挙権は21歳以上だが、立候補するには党の審査に合格しなくてはならず、事実上、党が立候補者を管理している。このため、現在の国会議員500人のうち9割が党員で、残りの1割も党の意のまま。
経済発展に比べ、政治改革は遅れている。
◇ベトナムは東西冷戦下の代理戦争の舞台として大きな被害を受けたが、その戦争の歴史を、武器や写真で紹介した「戦争証跡博物館」がホーチミン市内にある。ベトナム国民が、いかに米軍によって傷つけられたかを、写真や人形を使って解説し、ベトナム語に加え、英語、日本語などで説明している。殺されたベトコンの前で記念写真を撮る米軍兵士や、枯葉剤の後遺症で苦しむ子どもの写真、ホルマリン漬けの奇形胎児など、目を背けたくなるような展示物の数々が並んでいた。校外学習の場ともなっているようで、館内ではノートに解説文を書き込む子ども達の姿も見られた。
カンボジアを何度も蹂躪しながら、「戦争被害国」の立場を主張するこの展示に、南京大虐殺などをプロパガンダに用いながら、チベットをはじめ数多くの弾圧を行っている中国の共産党独裁政権と重なる部分の多いことを感じた。
ただ、ベトナム国民自身は、暗い過去よりも明るい未来を志向する国民性で、近年は国交を回復した米国からの企業進出や旅行客を歓迎する国民が多い、と、これはガイドの説明だった。
2007年05月17日
明治28年の修学旅行
子供時代から学生生活を通じて思い出の多いのは修学旅行だが、このごろは、ぜいたくになって高校生で海外へ出るところもある。
国内の名所、旧蹟、商工、産業等で見学すべきところが山程あるのに、なにも学生時代に海外旅行でもあるまいにと思うのだが、よりによって、その海外も中国を選び、「抗日記念館」などで、反日思想の洗礼を受けさせる、なんていうのは端(はな)から問題にならない。
このごろの修学旅行は、一般観光客なみに、物見遊山が先行しているが、これではつまらぬ。趣向を変えて、徒歩旅行も日程に入れ、道中での写生や旅行記、詩句づくり、あるいは歴史学習など組み込めば健康と教育効果に益するところが大きいのではないか。
◇ぼくは、今、明治28年(1895)8月の長野県の師範学校の就学旅行記を読んでいるが、腰が抜ける程の驚きと、その取り組の真摯さに脱帽する思いである。
この旅行記は、当時、同校2年生だった島木赤彦(明治大正の歌人)の文章で、岩波書店の「赤彦全集6巻」に出ている。
まず、驚くのは、この旅行、休暇中の8月を選んでいるだけでなく、京都、奈良、伊勢を巡る10日間の長期行程で、しかも、道中はすべて徒歩なのだ。文章も見事だが、内容が実にきめ細かい。全文を挙げればそのまま生きた教科書になるが、煩を避けて要点を説明し、雰囲気を知るため一部原文を紹介する。
8月1日(明28年)
「あしたより雨そぼふる。けふは京都をたちて奈良の方へ行かんとす。七条通をいでて、田舎の道をゆくほど稲葉の末に東寺の塔はるかに見えわたる。すこしゆきて伏見街道の橋を渡り、左に折れて八町ばかり泉涌寺なり」。ここで同寺のいわれや歴史、皇室との関わりなどを書く。
「これより山の間をすぎて東福寺にいたる。細き渓川ここかしこに流れ、さやけき滝の音木の間をもれてきこゆ」。
「伏見稲荷神社はこの南のかた八町ばかりにて道の東にあり。世の人は稲荷といへば狐をまつるものなりとおもふもあんめれど大なるひが事にて、倉稲魂神(うがのみたま)、素盞鳴尊、大市比売神を祭れり。倉稲魂神は農作五穀食物の神なり。されば国びとの皆があがめまつる神なれど、わけて農家のゐやまひたふとぶ神なりけり・・・」。
「境内広やかにて杉松しげくむらだち、朱ぬりの社宇木の間がくれに見えておごそかなり。社のうしろに数多の攝社末社おびただしく、こを順拝するを御山廻りととなへ、詣づる人常に絶えず、白狐の社とて狐をまつれる社この末社の中にあるなり」。
「これをいでてゆくに深草里あり」。
「此の里に藤森(ふじのもり)神社あり。つたえて神功皇后三韓征討ののち其旗及兵器をここに埋めたまひし跡なりといえど覚束なし。―この森古は藤の花に名高くして藤森の名もありし程なれど、今はわずかにあとをとどむるにすぎず」。
◇「ここよりわづかにして桃山にいづ。桃山は伏見町の東の方にあり。名高き伏見城の一部に属し、豊臣氏殿舎の旧墟にして桃梅の花多し。わけて梅渓は見ゆるかぎり梅ならぬはなきに、春のけしきや如何ならんとぞ思いやらるる」。
「伏見の町は桃山の直の下にあり、古は只伏見野といひてさびしきあたりなりしを、豊臣氏ここにきづきてよりいと賑はしく人も集ひけり。城あとは東の方伏見山にあり、今は名残もとどめで只城山の名のみ空しく残れり」。
「桃山をくだり巨椋の池をすぐ。此の池は大池ともいひてめぐり四里あまりあり。古は淀川の水これにそそぎしかば入江と称せしが、秀吉の時東辺を切断して中央に堤を築き、新に大和街道を通じて交通に便せり。池にははちすなど生ひろがりたり。ここを過ぎて尚ゆけば六地蔵といへる小さき村にいづ」。
「黄檗(わうばく)に行けば名高き黄檗山萬福寺あり。禅宗黄檗派の総本山にして、明の福州の人隠元和尚の開く所なり。―城南第一の巨刹なりとききしは実にとこそ覚えたれ。―此の寺の様凡て唐風にて、是れ迄見つる諸々の寺とはまたくその様を異にせり。黄檗は火薬庫のいかめしきがあり、全国軍用の火薬は皆此に蔵せり」。
2007年05月16日
医師不足と東京中心
全国の医科系大学から毎年、医者の卵が続々生まれ、そして卵は国家試験を受けて孵化する。
医者はもうかるというのか、社会的地位が高いからか、あるいは人の命を助けるという聖職の魅力からか、全国の数ある大学のうち、医科系大学が人気の尖端をゆく。
優秀な高校生の多くの第一志望は医科系だが、頭が飛び切りきれなくては国公立や有名私大は難しい。あるいは医師の子弟で顔がきくとか、学校への寄付がたんまり応じられるお金持ちの子とか、それにしてもそこそこの頭がなければ入れてもらえない。
医者もピンからキリまでだが、毎年、大学卒のさらピンの医者が送り出されるのに、世間では医者不足で悲鳴をあげている。
◇それほど医者が不足なのか。医者を不足にさせるほど病人が激増しているのか。
まあ、医療費のうなぎ上りの高騰を見る限り、そして高齢化がますます高まっている状況を垣間見れば医者の需要の増えているのはまぎれもない事実である。
しかし、医者不足はそれだけの理由ではない。都市の人口集中現象と同じく、医者の都市集中傾向が、地方の医者の不足を招いていることが見逃せない。
◇なぜ、都市に人口が集中するのか。とくに問題なのは東京への一極集中現象である。
若いもののあこがれの都が東京で、全国から学校出がわれ先にと東京を指向し、その若ものを抱えるべく大企業はすべて東京に本社を置く。
東京は政治の中心だから国会を筆頭に、政府諸官庁、それに関連、付随する各種、各級団体がひしめいて立地する。
それらの官優先の人事配置を向うに回して日本の経済の動脈がこれまた東京に集中し、日銀を中心にすべての銀行、金融、保険、共済関連の資本のほか、あらゆる産業の本社機構が東京に位置するから、当然のこと、教育、医療、文化芸術、運輸、通信、情報などの機能も東京に集中する。
◇こういう一極集中現象は、都市間格差を生じ、所得格差から生活の質の格差にまで問題をはらむようになった。
いわば、生活の質の価値観というよりも生活の寄るべとしての東京が国民とのつながりを切れなくしてしまった。
高齢者にとってはしんどい東京が、若ものにとっては魅力の都市であり、現代を象徴し、現代を満喫できる彼らの理想の生活空間が東京である。
こうして、東京に富と人口と人気が集中する限り、若き医者が東京に憧れるのは必然である。
◇彦根市は県下初の試みで、産婦人科の開業に大盤振る舞いの補助金政策を打ち出したが、こういう手厚い誘致施策は、そのうち、産婦人科だけでなく、外科その他の診療所などにも拡散される可能性なしとしない。
総合病院においてすら一部では医者不足に困っているのが現状である。しかし、こういう状況を地方の悲鳴として出血対応に委しておいてよいものか。それでなくとも地方の財政貧困は深刻なのであり、そういういびつな施策が地方全体に広がれば、住民の税負担にかかわるし、地方の事業需要の圧縮にはね返り、帰するところ地方の住民福祉の足を引っぱることになる。
東京の一極集中は国政の上で大胆にブレーキをかける必要があり、それを無視してなりゆき任せにすれば東京と地方の格差は一揆の騒動を呼ぶほどに深刻な社会問題になるだろう。
2007年05月15日
今日をいかに生きるか
「なにごともなくて4月は終わりけり」。
これは、ある会合で、ぼくが詠んだ即興の俳句である。
4月は年度の始まりで、役所の事業や会計は一年の振り出しが4月である。
したがって、さあ、これからだ、と、いろいろ計画を立て、理想も高く、意気ごむが、そうこうしているうちに、あっけなく一カ月が過ぎてしまう。
4月は選挙があった。桜が咲いた。春祭りだった。田の耕作が始まった。新入学も4月なれば、就職して初めての職場入りも4月である。
人それぞれに、4月はあった。しかし、今、かえりみれば、すべては過去の出来ごとである。過去は、日々に薄れ、遠ざかってゆき、いずれの日にか雲散霧消する。ただ、歴史の網にかかった事象だけ、後の世の史家が何らかの形で、その影を留めるにすぎない。
◇われわれに、あるのは「今日(きょう)現在」である。そして、不確実ではあるが、可能性として、明日が存在する。
大切なのは、きょう現在である。今日の自分をどう生きるか。自分の使命感を意識し、それの完成への一歩前進をするのが今日である。
使命感というような難しいことを考えなくてもよい。この五体は、まぎれもなく生きているのだ。言葉を換えれば生かされているのだ。ならば、この身、この生を傷つけることなく、病むことなく元気に、つつがなく、生きてゆかなくてはならぬ。その決意と実践が今日である。そして、その実践が明日につながってゆく。
◇かえりみれば、人生は波瀾万丈である。しかし、今を正視すれば、すべては消えている。まこと、川の水のように、流れ流れて、とどまることがない。時は一瞬といえども待ってくれない。われわれは、うかつにも、立ち止まり、かえりみ、郷愁にかられるが、その瞬間といえども時は流れ、どうかすると、われわれは置き去りにされる。
「人間釋迦」の著者で人間の道を説く、高橋信次氏の弟子・朽木丈人氏の正法の説の中でそのことを次のように語り、われわれに教えている。
「時はすべてを待たず、人は時の来るのを待ち、過ぎ去りし時に心を残し、今を忘れて時の終わりを迎える」。
◇桜が咲けば、人は花を仰ぎ、その下で花見の宴をする。花が散り、葉桜となれば、すでに脳裡から花の幻影は消えてゆく。春祭りにきれいな装束をして、山海の珍味に舌つづみを打っても終わればさびしさのみが残る。
人間は、そのとき、その瞬間を真剣に生き、充実した一ページとすることが宿命づけられており、いかにして、豊かな、幸せな人生を明日につないでゆくかが問題であり、そのことが子孫繁栄にかかわってゆく。
◇多くの仲間とかかわってゆくわが人生。多くの先輩、仲間に助けられつつ生きてきた今のこのわれ。借りばかりの人生では、何とも心もとない。不確実なあしたを待つのはおろかでもあり、なまけ心でもある。今日、たった今から、少しでも借金返しの人生を、と心がけるのが前向きの姿勢であり、価値ある生き方であろう。道のゴミを拾うことも大事だが、道へゴミを捨てぬことが肝心である。病人を介護したり、病める人の援助も大事だが、われわれ自身が病むことのないよう努めることがより大切ではないか。
法律や規約、あるいはお巡りさんの働きでわれわれの暮らしの安全安心をはかっているが、互いの家族、身うち、仲間、地域社会のみんなが励ましあい、助けあい、心に灯りの生き方をするのが根本的な借金返しの「きょう」のつとめではないか。今日をいかに生きるか。
2007年05月14日
農繁休暇と「あなぐら」
現代の豊かな物質文明の裏返しが教育の破綻を招き、病人や犯罪の増加につながっている、と、ぼくは確信する。
これからしばらくは農家の忙しい季節だが、今は機械化が進んだから片手間農業、日曜農業といわれるくらいである。
手作業の時代は、猫の手も欲しいほどの忙しさだったから、小学校は一週間くらいの農繁休暇を設け、子供たちは田畑の作業や養蚕を手伝った。その作業を通じて土に親しみ、親の仕事を理解し、ものの生産のしくみや、ものづくりの楽しさを身につけた。
子供たちは親の手伝いで勉強はお留守かと思い勝ちだが、今のようにテレビやゲーム、ケータイなどにぼけることがないから、ミカン箱を机代わりに暗い電灯のもとで予習復習をした。
◇今の学校は戸締まりから掃除、すべての管理は公費で役所任せだが、昔の学校は生徒たちが毎日雑巾(ぞうきん)がけで美しく磨いたし、花園や庭園の除草などもした。
道路愛護週間というのがあって、村の大通りのゴミ拾いなど清掃奉仕をした。肉体に汗する奉仕活動を通じて、地域に生きる連帯感を養った。そのことは、道路や河川に物を捨てない心得、環境美化への心を理屈でなく体得した。
学校での子供たちは、授業と授業の合間は雨さえ降らねばみんな校庭へ出て遊び呆けた。
◇農繁期の大人たちは、助け合いの手間の貸し借りをした。田植えの時期や養蚕の収穫期のずれを利用して、それぞれが忙しいときをかばいあって、結果的にみんなが調子を合わせて秋の収穫を祝うことになる。
信州には「あなぐら」という妙な生活習慣があった。八ヶ岳山脈の裾野一体の生活の知恵で、冬の寒さをしのぐ共同作業所といえる。
明治のころの話で、諏訪湖が30㌢以上も氷結する寒い地方のこと。冬は屋外での作業は不可能だし、室内でも炬燵(こたつ)に入らねば何もできない時代である。
秋の収穫の終わったころ、10平方㍍くらいの長方形の穴を人間の身長ほども掘って、そこに藁やむしろを敷いて、若ものたちが共同作業場や遊び場にする。一年間に使う草履(ぞうり)や縄などを作るのだが、土中の穴だから外気を断って、地熱を保つことができて温かさがこもる。
簡単な炉をつくって、物の煮炊きや酒を温めることもできる。5、6人の若者が共同作業をしながら、村のしきたりや人間としての処世を身につけてゆく。夜はめいめいの家へ帰るが、これを「あなぐら」と呼ぶ。
◇今は信じられないが、戦前は、琵琶湖の水はそのまま飲料水に供した。
山家は谷川の水を飲み、平地は井戸を掘ってそれを飲用にした。山や川や土が汚されることがなく、農薬などは無縁の時代であり、産業廃棄物を捨てることなど考えも及ばなかった。食べものは土地で収穫される新鮮なものや湖、川での魚類。
調味料は、みそ、しょうゆ、酢など、いずれも発酵食品。飲みものは自家製の茶。みそは手作り。食べものの保存には漬けたり、干したり、いろいろと地域独特の手法を持つが、みんな隣り近所、親類、友人らの共存共栄の助けあいが、暮らしの中の一切に生きている。
◇学校へ行く子供は、どんなに遠くても、雨が降っても雪が降っても必ず歩く。旧制中学(農学校、商業学校を含む)は、10㌔くらい歩くのは普通だった。
小学校では、毎年8月に伊吹登山をしたが、学校から山まで、行き帰り、すべて徒歩である。
◇今は、高校全入時代、ほとんどは大学か短大、専門学校へ行くから、さぞかし賢いと思われるが、指先で機器をプッシュしたり、金のやりとりや、自分本位の得手勝手だけは器用でも人間としての世渡りは驚くほどうとい。栄養がありすぎて太りはするが、日陰の葉っぱのように力がなく、弱い。困難にはすぐ萎えるし、わがままで遊び好き。クスリがなくては生きられん体質になってしまった。
2007年05月13日
丹生ダムと署名の重み(よもやま)
今、高時川や姉川の流域住民を対象に「丹生ダム建設促進を求める陳情書」の署名運動が展開されているが、サインする前にもう一度、ダムについて考えてほしい。
これは「陳情書にサインするべからず」という意味ではなく、ダム機能について十分理解していない人が多いため、問いかけているだけ。
高月町で開かれた女性と嘉田知事の対話集会でも一部の人は「貯水型(水張り・水面)」と「常時放流型(穴あき)」の分別やダムのメリット、高時川の特性や治水状況について勉強不足のまま、参加していた。
意見交換で女性たちは「ダムが私たちの命を守る」とし、ほぼ全員が建設促進派だった。ダムさえあれば台風や大雨の際、川の水量調節ができ、堤防の決壊や大水が発生しないと嘉田知事に訴えた。
嘉田知事は以前から水害対策は「ダム+河川改修+流域治水」を強調し「ダム建設=水害はゼロ」でないと強調した。私の住んでいる姉川流域は上流にダムがあるにも拘わらず、毎年、川の氾濫に泣かされている。これは長雨や台風では下流域のみならず、山間部のダムも当然、満杯になり、絶えきれず放流するため。ダムはある程度、河川の一定水量を保つには、メリットがあるが渇水時や長雨には弱いことが指摘され、岐阜県や愛知県では過去、「人災」とも言える「放流水害」が幾度となく発生している。
◇水面ダムを建設した場合の費用は新幹線新駅建設費(117億円)の3、4倍かかると見られる。発電ダムの場合、固定資産税の還元という歳入も発生するが、取り付け道路建設などにこれまで約500億円を費やしている。
県には約1兆円の借金があり、その上、ダム建設で我々がどこまで経済負担しなければならないのか、現在のところ、その額はわからないがダムへの投資は我が家の防災対策や火災共済と同じで、身の丈に応じた金が必要となる。
高時川は湖北でも特殊な河川で瀬切れが頻繁に起こる反面、大雨の場合、一気に増水する。特に近年は流量増減のスピードが増している。また、流域には養蚕用の桑畑の名残で、私有地が多く、現在も畑を作っている農家が多く、河川敷の民地は1700筆を超える。
流域治水は河川の砂やゴミの除去、浚渫、立木の伐採だが、整備するにも所有者の承諾を用し相続のできていない土地は、整備するのはかなりの時間を要する。
◇琵琶湖の水質に詳しい嘉田知事は貯水型ダムについて▽土砂が下流に流れない▽ダム湖で水質が悪化する▽雪解け水が流れず、琵琶湖の溶存酸素濃度が下がるなど環境への悪影響を指摘している。湖底近くでは近年、湖水の酸素(溶存酸素)の減少が懸念されている。冬に湖面近くで冷えた水や雪解け水が湖底近くに沈みこんで湖水が混合。春以降は水深20㍍程度に出来る「水温躍層」を境に表水層と深水層に分かれ、深水層では酸素の消費が進む。貯水型ダムは酸素を多く含んだ山の水を貯水池に堆積させるため、「新鮮な水」が琵琶湖に注がれない。少雪の影響で今冬、深層部の酸素が欠乏した、というデータも出ており、このせいか近年、シジミが激減、小型化している。
◇かつて上流域に住んでいた人たちは先祖から受け継いできた故郷を捨て、他の地域に移り住んだ。これまで県は「水面ダムありき」と住民を説得し建設を進めていたが、知事の交代で方向性を180度方向変換した。故郷を捨てた住民の感情は新幹線新駅問題で揺れる栗東市の地権者と同じ気持ちである。
また、人々が言う「人の命は金で買えない」「自然は待ってくれない」というのも十分わかる。また、アユの産卵量は姉川流域だけで県全体の30~50%を占め漁業者にとって産卵場所が無い(瀬切れ)のは死活問題なのも理解できる。
嘉田知事が就任して間もないが、建設の決断は国の予算編成から逆算し、今月か6月までと言われるが、結論を出すには時間がなさ過ぎる。国もこのような状況を踏まえ、時間的な猶予を地元に与えるべきだ。
新幹線新駅は、県民が「凍結」「中止」を認めたとおり、だれが見ても不用である。ダムは本当に流域住民にとってメリットがあるのか、近畿の水瓶、琵琶湖にとって影響は出ないのか。これまでの賛成、反対側の偏った立場の人たちだけの話し合いではなく、中立的な有識者からの意見を仰ぎ、建設問題はもう少し議論を交わした上、結論を出した方が良いと思う。後世のためにも。
2007年05月11日
カンボジアを訪ねて(見聞録)
ゴールデンウイークを利用して、カンボジア、ベトナム、台湾を訪れた。帰りの航空チケットをリュックに、カンボジアの首都プノンペンからアンコールワット遺跡観光の拠点シェムリアップ、そしてベトナムのホーチミン(旧サイゴン)までバスで移動。帰りの飛行機で台北に寄った。短期間の駆け足旅行だったが、それぞれの土地の文化や歴史に触れることができた。
訪れたこの3カ国はいずれも先進国の植民地として蹂躙された被害国。特にカンボジアとベトナムは、米国、ソ連、中国の大国間の駆け引きで凄惨な戦争の舞台となり、今でもその傷は癒えていない。無差別爆撃、枯葉剤による環境汚染、未だに地中に眠る地雷など、両国が受けた傷は計り知れない。
最初に訪れたカンボジアは、フランス植民地化、アメリカ軍による無差別爆撃、ベトナム軍侵攻など、20世紀は他国に蹂躙されっぱなしだったが、近年はアンコールワット遺跡を目指す観光客で賑わい始めている。
インフラ整備は遅れ、道路の舗装もごく一部。少し都市から離れれば、電気や水道、下水などはなく、赤土の道で牛が荷車を引く光景など、経済発展の遅れが目立つ。日本が最大の経済援助国であることから、国民は親日的で、ちょっと住民に話しかければ「あれは日本友好橋」「そっちは日本人が造った道路」「これは日本の学校」などと説明してくれる。
同国はポルポト政権下での大量虐殺で知られ、300万人もの人々が粛清、処刑、病死などで命を落とした。
プノンペンからバイクタクシーで30分ほどの「キリング・フィールド」には、直径2~4㍍のくぼみがいくつもあった。ポルポト政権下、犠牲となった人々が埋められた穴だ。ここではいったい何人、亡くなったのかとドライバーに尋ねると「9000人くらい」と返ってきた。こういった場所が国内あちこちにあるそうだ。
シェムリアップ近くにある同国最大の湖トンレサップ。海を思わせるその広大な湖にボートで繰り出せば、水上家屋での生活を見ることができる。周辺を案内してくれた船頭の男性と少し打ち解けたので、「アメリカ、ベトナム、ポルポト、どれが一番憎い?」とぶしつけに聞いたら、「ポルポト」と静かに答えた。彼の両親の兄弟姉妹は全員、ポルポト政権の時代に殺されたり、行方不明になったと打ち明けてくれた。
ポルポトは、都市居住者を地方の集団農場へ強制移住させ、私財を没収。家族制度や通貨を否定するなど過激な平等主義で共産化を断行し、政治的反対者を弾圧した。何千人もの政治家、官僚、インテリを殺戮し、医者や教師なども見つかると殺されたという。
なぜ、このような極端な共産思想を持つポルポトが政権を獲れたのか?それは米軍のカンボジア侵攻が引き金と言われる。泥沼化のベトナム戦争に悩む米国はカンボジアに潜むベトコンを一掃するため、ジャングルに覆われた国土を無差別に爆撃した。親米政権がこれを容認したことから、ポルポトら共産系「クメール・ルージュ」が武装蜂起し、多くの国民の支持を得て、プノンペンを親米政権から「解放」したのだった。米軍のカンボジア侵攻がなければ、ポルポトが武装蜂起し、政権を獲ることもなかった訳だ。
その当時、カンボジアで取材活動を続けていた日本人ジャーナリスト馬渕直城氏はその著書「わたしが見たポル・ポト」の中で、大虐殺は、アメリカやベトナムが戦争を正当化するため、死者数を大げさに伝えたプロパンガンダと指摘している。ポルポト政権下での死者は10~300万人と諸説あるが、その虐殺の影に隠れ、国土を無差別爆撃した米軍や、タイ国境付近にまで攻め込んだベトナム軍はいったいどれほどのカンボジア人を殺し、難民を生んだのか。アメリカ軍がカンボジアに落とした爆弾の数は、第2次世界大戦で日本に落とした爆弾の3・5倍。馬渕氏は100万人の国民が殺害されたと指摘している。
カンボジアはこの10年、政治的安定を維持しているが、家族や友人を失った国民には精神的外傷が残り、国土には地雷が眠り続けている。
カンボジアを訪れる機会があれば、アンコールワットなどの遺跡だけでなく、大国の都合や政治的思想に踏みにじられた歴史にも触れてはどうだろうか。
2007年05月10日
増える病人増える犯罪
小学生が「一つ」を読めぬとか「八つ」が書けぬとか、国語力の貧困が話題となっているが、なにも小学生に限らない。高校生だって、大学生だって、どれ程、漢字の読解力があるか、書く能力があるか、大いに疑問である。
これは、日本の戦後の国語教育の間違いと貧困によるものだが、これでは先祖の残した古典などはもちろんのこと、明治以降の論文や小説、随筆なども読めないにちがいない。
文化の誇りに泥を塗るわけだが、今日の時勢はそれに輪をかけて、おしなべて、本を読まなくなった。本を読まないというのは、いわゆる活字文化に疎遠になることを意味するが、それでも世界の流れに伍し、日本の経済の隆昌が続いているのは、情報科学の発達によるもので、コンピューターのお陰である。
◇国語力が貧困でも話は出来るし、スポーツするにも映画を見るにも不自由しない。新聞を読まなくともテレビで内外のニュースは分かるし、ケータイやパソコンで電話やメール、情報の検索なども出来る。カード社会の出現で、お金を持たなくとも旅行や、買物が出来、勉強熱心な向きには電子辞書がなんでも答えてくれるし、家庭においても家事労働が何から何まで解放される。
「えいこっちゃ」と歓迎し、便利社会にどぼづかりしているものの、その声のかわく間もなく、今度は「えらいこっちゃ」と騒がねばならなくなる。
◇物質文明に漬かりきっているお陰で、人間の体もたましいもふにゃふにゃに壊れ始めた。どのへんが壊れ始めたのか。
教育現場は学級崩壊が言われて久しいが、社会というみんなの広場は日々の報道が知らせているように、学もあり、相当な職の人が官と言わず、民と言わず、あさましくも恥ずかしい事件で職を追われたり、警察のご用になっている。のぞき、さわり、下着どろ、その他、明治・大正人間の想像も出来ぬような「つかいこみ」「内輪ドロ」、組織ぐるみの犯罪。
◇軽犯罪なら「あほなやつ」と笑われておしまいだが、聞き捨てならぬのは、あちこちで日常茶飯事