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「瞼の母」と長谷川伸

 過日、この欄で「ゆらりぶらり番場へ」を書いたところ、後段の番場忠太郎の地蔵尊について、蓮華寺の執事・中川信幸さんから有り難い資料を頂いた。
 その資料の一つ「瞼の母」蓮華寺本は、忠太郎を世に出した作家・長谷川伸について興味ある史実を浮き彫りさせている。
 この本は、東大教養部、放送大学各講師、横浜西林寺住職などを経て、本山・蓮華寺に入山した大橋俊雄著(故人)で、平成11年発行された。著作には長浜城歴博の太田浩司氏、静岡大・小和田哲男教授ら3人の大学教授も協力していて、真実性の高い読みものとして納得できるので一部を紹介しておく。
◇忠太郎地蔵尊は昭和33年8月3日、地元の協力で造立されたもので、石工は岡崎の成瀬大吉氏だった。
 この地蔵は忠太郎を主人公にした「瞼の母」の作者・長谷川伸の「南無帰命頂礼 親をたづねる子には親を、子をたづねる親には子をめぐりあわせ給え」の悲願によって建てられた。
 その悲願は、「広い世の中には親に早く別れて、父恋しい、母恋しいの1年に孤独の淋しさをかこち嘆く哀れな児、その反対に子を探し求めて悲哀に泣く母があまりにも多いのです。自分もその一人で、幼にして母に別離し、淋しい孤児の悲境を味わい、探し求めていた生みの母に、40余年ぶりで再会することができた。そのときの喜びは筆舌にもあらわしがたいものがありました。今、その喜びをこれら母子別離の悲境に泣く哀れな人たちに一刻も早く与えたいのです。それには先ず、掌(たなごころ)をあわす素直な心持にならなければならないのです」という長谷川伸の言葉に明らかである。
◇彼(伸)の母コウは妻妾同居の生活にピリオドをうち、日出太郎と伸二郎(のちの伸)を残し、婚家の材木商・長谷川家を出た。生家の神奈川県の和泉村(現横浜)へ帰ったのは明治20年12月5日。このとき、伸二郎は3歳で母と生別した。
 伸二郎8歳のとき、一家は離散し、祖母も義母も住み込みで働きに出、伸二郎は小学校を2年で中退し、横浜で土方の下回りをしたり、出前の小僧、土方の石工など苦労し、20歳のころから文筆を業とするようになった。
 母コウは、実家に帰った翌21年、京都出身の製糸問屋と再婚。離れ離れの母子は互いに会いたく思っても消息を知ることはなく、年月が過ぎた。
 ところが、偶然の機会から伸二郎は昭和8年2月12日、49歳のとき、46年ぶりに母の所在を知った。伸二郎は46年ぶりに瞼の母に会ったが、母は71歳だった。
◇伸二郎こと長谷川伸が「瞼の母」を書いたのは昭和5年2月だったから、当時の彼はまだ母に会っていない。
 「会いたい」「会いたい」の一念で書いた瞼の母だったが、不思議にも書いてから丸3年経って、生母のコウに会うことができた。
 小説の主人公・番場の忠太郎は実在の人物ではないが、忠太郎が26年ぶりに母に出会ったように、彼は実の母を忠太郎の母に重ねた。
◇瞼の母は新国劇や映画で上演され、人びとの涙を誘った。母おはまは番場宿の旅籠(はたご)おきながや中兵衛の嫁となり、男子を出産した。その子が忠太郎。そして忠太郎5歳のとき、夫の身持ちの悪さから家を出る。父も12歳のとき世を去ったので、忠太郎は孤児となる。
 その後、やくざ稼業をしながら母を求めて江戸へ出る。土産がわりにと100両を貯めて、やっと母に出会ったものの、母は、忠太郎を名乗って財産に眼をつけた男と思い違いして、無慈悲に追い払う。
 筋書きの大綱は以上だが、長谷川伸には後日談がある。不思議にもそれがぼくにも関係する。

2007年02月27日 16:54 |


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