高齢化と延命術中止
人間の高齢化現象はめでたいこと、と素直に喜びたいが、それには前提があって、健康で高齢化を生きることだ。
平均寿命が80を超したとか、それに近づいたとか、そんなことは人の幸せに一般論としていうべきことではない。
統計という数字は実も蓋もない冷たいもので、長寿の統計は健康人も病人も含まれている。意識不明で人工呼吸をしている高齢者も、事実上、死を宣告されても不思議でない植物人間でも統計上は一人の人間としてカウントされる。重病で明日が分からぬ老人はもとより、恐らく退院の難しい老人もたくさんあるに違いないが、この人たちの生命がある限り、統計上の老人比率は高くなるし、平均寿命の年齢を高めるに役立つ。
◇いま、高齢者の最大の関心は余生をいかに幸せに送れるか、そして、そのための体力と健康づくりである。
また、高齢者を抱える家族の最大の関心は長寿を支えながらいつまで健康を持続させ得られるか。病人の場合はXデーを迎えるまでの過程や介護のことであろう。
◇したがって、長く生きているからといって、100%それを幸せと思うわけにはゆかない。現に、世の中には家族の中に長寿者のいることを表にしたがらない人もいる。
以前は敬老の日に長寿番組を発表したが、今はそれを拒否する空気さえあり、とりわけ施設や老健病院に入っている老人の家庭では、それを世間に知られることを喜ばない。
このことは、高齢者を抱えている家庭内の家族の心が非常に複雑であることを証明している。
だから、一にも二にも健康で長く生きてほしいに尽きるわけだが、悲しいかな、いつかは、その限界にぶつかることになる。
◇長寿社会は国家の医療費にも関係するが、それぞれの家庭においても、一たん病気になり、それが回復困難となれば、医療費の負担はもとより、介護その他の心身の疲労もあり、一家の経営を暗くさせる。
◇さて、現実に目を向ければ、病院で死を迎えるよりも、わが家へ帰って家族の介抱の中で最期を送りたいと望む者が多い。老人にとって、病気はもとより、死は避け難い順序ではあるが、常に念頭にあるのは、苦しまずにあの世に旅立ちたいとの願いである。
90歳以上の長寿者の中には、一日か二日のわずらいで、苦しむこともなく、周辺が驚くほど、あっけなく逝く人もあるが、多くは長い年月、医療の助けを借りねばならぬし、家族介護のかなわぬ人は福祉施設などの世話になることになる。
◇悲しいのは、体中に床ずれが生じて、思うように動けない人や、耳、目、口が機能しなくて、自分の意思が伝えられず、さらには自分自身の意識がおかしくなったりすることである。
現代の医療は、患者がリビング・ウィル(生前の意思表示)を形の上で示さない限り、死が100%間近にあっても最後まで終末治療を続ける。ぼくはこれを延命施術といっているが、これは悲劇であり、患者と家族の不幸でもある。
この意味では、遅きに失するきらいはあるが、日本救急医学会の今回の「延命中止」に関する学界指針案は大いに評価し、画期的な前進として、一日も早く実施化されることを期待する。
2007年02月22日 16:03 | パーマリンク
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