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産婆と自衛力と健康

 自分自身を病気や危害から守ることを自衛という。
 昔、江戸時代のころは、お伊勢さんや善光寺参りが庶民の夢だった。今は海外旅行でも近場の温泉旅行くらいに、いとも軽々しく出かけるが、当時は万一の危険を考慮して、家族と水盃を交わして出発した。
 江戸期の旅の危険とは何か。今のように車に当てられることはないが、道中で追い剥ぎにあうかもしれない。乗り物の主役は、籠と馬車であったから、馬に蹴られる心配もなきにしもあらず。質(たち)の悪い籠かきは強盗に早変わりすることだってまれにはあった。
◇外部からの人的被害は免(まぬが)れても、豪雨、豪雪、暴風、地震、雷、火災などの災害は保障の限りではない。
 それに、一番の心配は病気と怪我(けが)である。毎日、毎日、草鞋(わらじ)掛けで早朝から日没まで歩くのであるから、足腰の疲労も溜まるし、生身のことだから、水が合わなかったり、食中(あた)りの心配もある。
 わが家で手当てしたり、療養することを思えば不安が尽きぬ。だから万一をおもんばかって、永遠の別れになるかもと水盃をした。
◇しかし、当時の人は、生きる力というか、生命力が強かった。
 文明が開けず、自然のまにまに生きていたそのころは、人々は長い歴史の中から生きるコツ、生き抜く知恵を磨き、それを後輩や後の世へ伝承した。
 今は、赤ちゃんは、病院で産むものと決めてかかっているが、半世紀以前は、産婆さんの介助で、それぞれの家で出産するのが普通だった。
 産婆術という哲学用語があるが、これは、ソクラテスの問答法のことで、この方法は、相手が自ら真理に到達するのを助けるだけであるとして、自分の母の職業である産婆の仕事にたとえて名づけた言葉。ソクラテスは、紀元前400年ごろの哲学者であり、そのころすでに職業としての産婆が存在した。日本での産婆の歴史はいつごろからか。仮りに産婆が存在してもそれを利用できたのは、ごく少数の貴族社会に限られたのではないか。武士はもちろん、百姓、町人などは、お産の経験者で、これに詳しい女性が出産時に介添えしたものと思われる。
 明治どころか、昭和の初期までは、妊婦の実母と姑(しゅうとめ)が産婆の役割をした。
◇今は、風邪を引く前から、予防にクスリを飲むし、食前、食後、たいていの初老、熟年、老齢層は、えたいの知れぬほど各種のクスリを愛用している。みんな、医者に奨められたりしての自衛行為である。
 あんまり、あれこれ飲んでいるから、どのクスリが効(き)いたのか、判断できぬくらいだが、なかにはクスリまけする人もあるし、逆効果を招くこともある、クスリの飲み過ぎで、自然治癒力を弱めたり、虚弱体質になる可能性も無視できぬ。
◇50年以前の日本では、大部分が越中などの置き薬で健康保持を図った。
 湖北地方では、風邪を引いたら日野の感応丸、おなかの調子が悪ければ鳥居本の神教丸、胃腸が悪ければ越中の熊の胆(い)、その他婦人用に中将湯などが重用された。
 病気は結核と中風くらいで、普段は医者にかかることがなく、入院するのは死の直前。それもお金持ちの家くらいで、どの病人も家で息を引きとった。
◇昔は貧しかったが、健康も生活も人に頼らず、自ら守った。地域は助けあい、連帯して、互いに守りあった。今は自分の努力や心がけを忘れて、あれも、これもと、役所や国におねだりすることが多く、一つ違えば、国の責任だ、市の責任だと、ひとのせいにするが、動物である人間が自衛力を失えば、地上から消えてゆかねばならぬ。いまは、その時期へ一歩近づいた感じがしないでもないが、案外、みな、のほほんとして気持ちが悪い。

2007年01月31日 17:43 |


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