滋賀夕刊新聞社は滋賀県長浜を中心に政治、経済、文化の情報をお届けする新聞です。



2007年01月31日

産婆と自衛力と健康

 自分自身を病気や危害から守ることを自衛という。
 昔、江戸時代のころは、お伊勢さんや善光寺参りが庶民の夢だった。今は海外旅行でも近場の温泉旅行くらいに、いとも軽々しく出かけるが、当時は万一の危険を考慮して、家族と水盃を交わして出発した。
 江戸期の旅の危険とは何か。今のように車に当てられることはないが、道中で追い剥ぎにあうかもしれない。乗り物の主役は、籠と馬車であったから、馬に蹴られる心配もなきにしもあらず。質(たち)の悪い籠かきは強盗に早変わりすることだってまれにはあった。
◇外部からの人的被害は免(まぬが)れても、豪雨、豪雪、暴風、地震、雷、火災などの災害は保障の限りではない。
 それに、一番の心配は病気と怪我(けが)である。毎日、毎日、草鞋(わらじ)掛けで早朝から日没まで歩くのであるから、足腰の疲労も溜まるし、生身のことだから、水が合わなかったり、食中(あた)りの心配もある。
 わが家で手当てしたり、療養することを思えば不安が尽きぬ。だから万一をおもんばかって、永遠の別れになるかもと水盃をした。
◇しかし、当時の人は、生きる力というか、生命力が強かった。
 文明が開けず、自然のまにまに生きていたそのころは、人々は長い歴史の中から生きるコツ、生き抜く知恵を磨き、それを後輩や後の世へ伝承した。
 今は、赤ちゃんは、病院で産むものと決めてかかっているが、半世紀以前は、産婆さんの介助で、それぞれの家で出産するのが普通だった。
 産婆術という哲学用語があるが、これは、ソクラテスの問答法のことで、この方法は、相手が自ら真理に到達するのを助けるだけであるとして、自分の母の職業である産婆の仕事にたとえて名づけた言葉。ソクラテスは、紀元前400年ごろの哲学者であり、そのころすでに職業としての産婆が存在した。日本での産婆の歴史はいつごろからか。仮りに産婆が存在してもそれを利用できたのは、ごく少数の貴族社会に限られたのではないか。武士はもちろん、百姓、町人などは、お産の経験者で、これに詳しい女性が出産時に介添えしたものと思われる。
 明治どころか、昭和の初期までは、妊婦の実母と姑(しゅうとめ)が産婆の役割をした。
◇今は、風邪を引く前から、予防にクスリを飲むし、食前、食後、たいていの初老、熟年、老齢層は、えたいの知れぬほど各種のクスリを愛用している。みんな、医者に奨められたりしての自衛行為である。
 あんまり、あれこれ飲んでいるから、どのクスリが効(き)いたのか、判断できぬくらいだが、なかにはクスリまけする人もあるし、逆効果を招くこともある、クスリの飲み過ぎで、自然治癒力を弱めたり、虚弱体質になる可能性も無視できぬ。
◇50年以前の日本では、大部分が越中などの置き薬で健康保持を図った。
 湖北地方では、風邪を引いたら日野の感応丸、おなかの調子が悪ければ鳥居本の神教丸、胃腸が悪ければ越中の熊の胆(い)、その他婦人用に中将湯などが重用された。
 病気は結核と中風くらいで、普段は医者にかかることがなく、入院するのは死の直前。それもお金持ちの家くらいで、どの病人も家で息を引きとった。
◇昔は貧しかったが、健康も生活も人に頼らず、自ら守った。地域は助けあい、連帯して、互いに守りあった。今は自分の努力や心がけを忘れて、あれも、これもと、役所や国におねだりすることが多く、一つ違えば、国の責任だ、市の責任だと、ひとのせいにするが、動物である人間が自衛力を失えば、地上から消えてゆかねばならぬ。いまは、その時期へ一歩近づいた感じがしないでもないが、案外、みな、のほほんとして気持ちが悪い。

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2007年01月30日

医学と医療の罪か

 女性は産む機械だ、と発言して物議をかもしたのは柳沢厚生労働大臣だが、あながち攻めることの出来ないほど今の世は科学万能で、人間の尊厳がかすんでしまった。
 具体的に言えば医学という学問と医療という技術が先走りして、人間の魂と生命の神秘な扉を破壊してしまった。
 もはや人間の体は、造化の神のつくりたもうた大自然の贈りものではなく、科学方程式で人工的に創り出される物質同然となった。
 物質であることから、簡単にメスを入れて、人から人へ肉体の部分を移したり、試験管を利用して受精したり、受精卵を他人の子宮に入れて産ませたりする。
 人間の体が「物体」になり下がった一例である。
◇物体であるから、それぞれの機能は機械の一部と見なされるわけである。機械であるから、部品を換えたり、除去したり、他人の機械の一部とつなぎ合わせたり、目をおおいたくなるような無茶をやらかす。すべてが医療の名で行われ、人の命を守り救済するという美名のための行為である。
 これを称して医療産業という。農業、漁業、工業と同列の金もうけの手段で、学校の先生が聖職から転落したように医師も先生から職人、技術者並みになった。
 金もうけ社会の奴隷に転落したわけだが、そういう方向が文化生活であり、進歩の社会である、と思われてきたのは近々50年のことである。
◇しかし、このような横着な人間の前途は必ず破綻するが、目下、借金で自転車操業する企業と同じで、国家社会もこのような動きをストップすることが不可能となった。
 医療費は現在、年間32兆円を超す大産業となったが、これは国民の病気を助長し、将来の破産につながる一里塚であるのに、政治家も学者も気づいていない。
 いや、気づいている人もあるのだろうが、だれも国家的規模、地方の行政的規模で止めることができない。止めようとすれば無知とバカな集団によって袋叩きにされるにちがいない。
◇科学の進歩とか、文化の繁栄を追って先進国は死に物狂いで争っているが、それは取りもなおさず、「生き残り競争」を演じているだけで、後、先はともかく、いずれは文明国と威張っている驕慢国家が崩れてゆく。
◇ちなみに、目下の医療界では産婦人科の医師不足が問題化している。地方の病院では産科の医師がいなくなり、病院で子を産むことが不可能となった。
 医師が不在だから子が産めぬとは、情けない話だが、文明国では、それが当たり前である。
 医者は金もうけになるし、社会的地位も高い、と、医学志望の学生は多いのに、もうかる筈の産婦人科を敬遠するとは何たることか、と思いがちだが、医療が産業化し、人間の体が物体となったから、故障の多い機械やわりの合わぬ分野などが嫌われる。
 お産は、一つ違えば胎児の生命に関わるし、出産期の妊婦を担当していれば、うっかり旅行にも出かけられない。
 それに少子化で、利用客が減れば、もうけが減る。出産の折のトラブルも面倒で、巨額の補償費を要求されかねない。それやこれやで、産科の医師が減っているのだが、すべては物体医療の責任である。
◇70歳を越えた今の老人で病院で産まれた人はほとんどないはずだ。みんな助産婦(当時は産婆)の介助で生まれてきた。
 今も、アフリカなどの低開発の国では自然分娩であり、医師の手にかかることはない。そういう世界では(日本もかつてはそうだったが)赤ちゃんの誕生は神さまのおぼし召し、と極めて神秘的に祝福した。日本における「宮参り」、「箸始め」、「七・五・三」などの風習は、物ではない神秘な人間の尊厳の証しであった。
◇今はそれが崩れた。他人の精子や卵子を体外で交ぜて、あたかも瓜や茄子の改良種のごとく生命をいじくって、それが生殖産業として成り立っているのだ。
 まこと、女性は産む機械にされてしまった。だから、女性の中には産むことを拒否するものもあり、恋愛はするが結婚はしないとか、セックスはするが、子はもうけないものが増え続けている。すなわち物への抵抗である。
 鶏を産む機械にしたのは「もうけ」本位の産業であり、女性を産む機械にしたのも、もうけの産業化した医学と医療の罪である。

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2007年01月29日

不二家と富士、藤の花

 洋菓子の大手メーカー・不二家の再建が危ぶまれている。賞味期限の過ぎた材料や規制値をはるかに超えた細菌の食品などが露見して世間の指弾を受けているのは身から出た錆で寸分の同情もない。
 食は主食であろうと、副食であろうと、あるいは「し好品」や「おやつ」の類であろうと、口にするものであるから、健康に有害と分かれば拒否反応が強くて当然であろう。
 逆に健康によい、との情報が伝われば、器具であれ、飲み物であれ、野菜・果物、なんでも飛びつくのが現代人の心理である。ことほどさように、今は健康の受難期である。長寿国を自慢しながら、病気におびえて、クスリ漬けの生活を強いられる。こっけいといえば、こっけいだが、そういう社会であればあるほど、国民の自衛心は強い。
◇大手メーカーの製品であろうと、あるいはうまくて安価であろうと、食品衛生法に反し、市場へ出してはならぬものを販売したとあれば、行政上の処分はもちろん、国民の総スカンを食うのは当たり前の話。
 一たん落とした信用は、ちょっとや、そっとでは回復しない。信用は宝である、といわれ、それを高め、保持することが商法の第一歩であることを思えば、今回の不二家の不祥事は決して他人(ひと)ごとではない。
◇不二家の創業者が、どんな理想を抱いて、この屋号を社名にしたか。恐らく二つとない日本一のメーカーを夢見たのであろう。その情熱と努力が報われて大手メーカーに成長したが、創業者の頭の中には、日本一のイメージの中に富士山があったと思われる。富士山は日本人の憧れの山であり品格と美の象徴でもある。たまたま発音が「ふじ」であるから、縁をかついで、不二の社名や商品名に登用するようになった。
 同じ洋菓子メーカーに「不二屋」がある。また、不二、富士のほかに音感を重んじて、藤(ふじ)を用いるのもある。
 藤は藤原氏の藤で、日本の貴族社会の老舗(しにせ)であるほか、藤の花の色彩や房、枝垂(しだ)れの風情などから、日本人好みのネーミングに多用されている。
 思いつくまま、姓を例示すれば、藤原、藤田、藤川、藤森、藤倉、藤堂、藤中、藤尾、藤崎、藤岡、藤谷、藤井(居)、まだまだあるかもしれない。これらの姓は藤氏とのつながりがあるか、それへのあやかりの願望か、どちらかであろうが、いずれにしても「ふじ」という語感が重視され、企業名などに用いられるのは、日本人の縁を大事にする心理といえよう。
◇ところで、不二の不は否定の不で英語のノー(NO)に似ている。今はあまり用いぬが、昔の人は手紙の終わりに「敬具」の代わりに「不一」と書くことがあった。十分に意を尽くせていないので「失礼しました」といった意味の謙遜の言葉である。
 不思議は、想像だに出来ぬ、考え及ばないという驚きの声に使用する。
 不用意は、思いつき、思慮を欠く発言などに登場する。
 「女性は子を産む機械」と言った大臣が反発をくらっているが、比喩(ひゆ)のつもりで、話を分かりやすく説明したつもりらしい。あとで取り消したところを見ると、不用意発言を認めたのであろう。
 「言葉狩り」といって、言葉づかいにスパイのような感覚を走らせる向きもあるが、自由にものの言えるのが自由国家の有り難さである。話を面白くするため、きわどいたとえ話やご法度といわれる言葉づかいもあり、いちいち、やり玉に上げれば、もの言えば、口びる寒しの独裁国家になりかねない。不当発言と不用意発言の違い、その判断がいわゆる良識である。

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2007年01月28日

オコナイとミニスカート(浅井よもやま)

 湖北の各地では今、年頭行事「オコナイ」が盛んに行われている。集落の安全や五穀豊穣を祈願する祭事で、近畿や北陸など西日本を中心に行われており、特に湖北地方は盛んだ。
 オコナイのルーツは平安時代、京都で疫病が大流行し多くの死者が発生。鬼門から吹く冷たい風がもたらすものだとされ、疫病が消えるようにと鬼門にあたる湖北で行われるようになった、と言われる。
 オコナイは地域によってさまざまな形態があり、同じ集落でも「小組」などにより、スタイルが若干異なる。お鏡さん(餅)を小組や親戚でつく所もあれば、餅屋に依頼する所もある。
 また、祭事に参加する人の服装もさまざまで、しきたりを重んじ「和装」で統一する地域もあれば、「和・洋問わず」「スーツでも構わない」と改善が進んでいる地域もある。
 参列の服装については字(あざ)の総会などで話し合うが、出席している若者の本心は「簡素化」「簡略化」。だが「言い出しっぺ」は年長者から苦言を呈されるため、発言を控える。
 オコナイは湖北になくてならない祭事だが、近年の社会情勢に沿った方法で簡略化していくのも、伝統を継承してゆく上で大切。勤め人は祭事のため、数日間、会社を休むのは困難である。オコナイで有名な川道は平日の人出確保が困難なため、本日(ほんび)を2月最後の土日に変更した。これはサラリーマンにとってありがたいことだ。
 しきたりの伝承、改革もいいが、忘れてほしくないのは「神事」本来のあり方。「服装はこれ」「なおらいは酒?升」「料理は???円」とか、定めるのも良いが、氏子の無事を祈り、滞り無く祭事を執り行うことが肝心。
◇服装といえば、最近、高校生の服装が乱れている。ある新聞によると滋賀県の女子高生のスカートの短さは全国でも数本の指に入り、盗撮マニアが琵琶湖環状線に殺到。昨年、検挙者は過去最高に上った、という。
 氷雨が降る朝、自転車で登校する女子高生の足をみると、真っ赤に腫れあがり、冷たさを通り越し「痛そう」だ。スカートの下にジャージや見えパン(見えても良い厚目のパンツ)を履いている子もいるが、そこまで我慢して短いスカートを履きたいのだろうか?
 このほか、女子高生だけでなく男子高校生や小中学生にも見受けられるが、長靴を履かない子が目立つ。どんなに雪が積もっていてもスニーカーで学校に行くから、靴下はドボドボ。凍傷や水虫にもなりかねない。傘もそう。雨ガッパは「蒸れる」「格好悪いから」と傘さし運転で登校するが、強風にあおられ、傘はクシャクシャ。風邪を引きかねない。
 親や先生がいくら注意してもダメ。寒けりゃ1枚多めにし、暑ければ脱げば良いだけのこと。オコナイと短スカートを同じ見方で捉えるのは不謹慎かもしれないが、見栄えをとるか、中身をとるかは当人次第。
◇プロ野球、読売ジャイアンツは今年、厳しい「ドレスコード(服装指定)」を設けた。オリックスに移籍した清原の影響を受け、選手がピアスやサンダル、破れたジーンズなど最新ファッションをするようになったためだ。球団訓は「巨人は常に紳士たれ」。服装の乱れを直して5年ぶりのV奪回を目指すそうだが、それより先に選手が大リーガーを真似て着用している、だらしない「ロンパン(裾が長いパンタロン状のユニフォーム)」を元に戻すことが先決だと、思う。

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2007年01月26日

32兆円に思う(見聞録)

 32兆円。病気やケガの治療のために医療機関に支払われる国内医療費の総額だ。ますますの高齢化社会に伴って、加速度的に増えることが確実視されているが、その費用、税金だけでは賄えず、病気を誘発しない健康的な日常生活を心掛けることが望まれている。
◇今、長浜市内では認知症予防のために、お年寄りが子ども達に絵本を読み聞かせるボランティア活動に取り組んでいる。頭と体の老化予防、そして生きがいを求める活動。今年で3年目を迎え、43人の会員が参加している。地域ごとのグループで、計画の立案、物語の暗記、発声練習などに取り組み、月に1~4回ほど、小学校に出向いている。
 この取り組みは長浜市が呼びかけたものだが、東京都老人総合研究所も一枚噛んでいる。子どもへの読み聞かせ活動が、お年寄りの健康にどのような影響を与えるのか、身体や心理状態を分析。東京都中央区、川崎市多摩区での取り組みと合わせ、その効果を調べている。
 先日、同研究所の医学博士・藤原佳典氏が、その効果を解説してくれた。同氏は高齢者の健康や介護といった分野の第一人者で、この事業の成果を論文で発表している。結論は、ボランティア参加者の日常生活の中で、子ども、友人、知人との社会的交流が増え、自身の健康にも自信がついたというもの。認知症予防、いわゆる「ボケ防止」への効果を導くには、長期観察が必要なため結論を保留したが、参加者からは「喜びと責任による緊張感がある。日々の生活の中に大きな希望ができた」(72歳男性)、「ボケずに一生を過ごせるかも」(68歳女性)、「年齢に関係なく『わくわくする気分』になれることは、老化防止につながる」(69歳女性)など、明るい声が出ている。
 お年寄り自らが、生きがいを見つけ、心身の健康に心掛ける―。団塊世代の一斉退職と、高齢化の加速の中、求められていることではないだろうか。
◇日本の娯楽、パチンコ産業も32兆円にのぼる。2006年版「レジャー白書」によると、05年のパチンコ・パチスロ店の売上は28兆7490万円。遊戯機、関連機器メーカーの売上を含めると、ゆうに30兆円を超える。都会、地方を問わず、どこにでもパチンコ店が乱立し、夜になればネオンの嵐。地方都市の駅で降りれば、パチンコ店と消費者金融の看板だけ、というのはよく聞く話。娯楽として嗜(たしな)む程度なら可愛いが、パチンコ依存症や、ネグレクト(育児の怠慢、放棄)、借金地獄は深刻だ。そんな社会問題など「どこ吹く風」なのか、長浜市内でもパチンコ店と、消費者金融の無人店舗が増え続け、ギャンブル―キャッシングの悪循環が増している感がする。
◇地方(都道府県+市町村)の税収も32兆円という。そして地方公務員の人件費は31兆円。埼玉県志木市の前市長・穂坂郁夫氏は著書「市町村崩壊」の中で「企業だったら完全に倒産状態にある」と話す。国も含めて財政健全化には、サービスの縮小、経費削減が不可欠で、それをしなければ大増税も避けられそうにない。
 医療、福祉費が増大し、少子化で税収が伸び悩むなら、増税もやむを得ないが、カネのあるところから税金を取ってくれ、とも思う。4月に行われる県議選では、ある立候補予定者が公約に「法定外目的税」としてパチンコ税の導入を掲げている。目的税化し、障害者・老人福祉に活用しようとのユニークな発案。もし、国民の時間とカネを浪費するパチンコ業界が、税金を通して福祉に貢献するならば、32兆円産業であり続けてもいい?

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2007年01月25日

おこないの神事考察

 湖北地方の1月、2月は氏神さんの「おこない」月である。おこないは神事と書くこともあるが、大辞泉は「近畿地方を中心に年頭または春先に行われる祈祷行事。主に寺堂などで行われるが、元来は農事祈願の神事」と説明している。
◇おこないの歴史はさだかでないが、各集落で行われる伝統神事で、その形式も多種多様である。ただ各集落を通じ共通しているのは、おこないを執行する当番、組が年間を通じて氏神の管理や祭事に奉仕することである。
 おこないは、1年間の奉仕の総決算で、これが無事終われば、おこない番は次の当番(組)に引き継がれる。
◇おこないは神事とはいうものの、いわゆる神社庁などが取り仕切っている春秋の祭り、その他の恒例の祭事とは全く別で、極めて民俗的、土俗的、原始的色彩が濃く、その点では農耕民族にふさわしい初春のイベントと言えるのではないか。
◇祭にあらずして神事(おこない)とはこれいかに、と疑問を持つ向きもあろうが、農耕民族である日本人全体が関わっているのではなく、近畿を中心とする限られた地域のみの伝統行事である点がこれの歴史を解明する鍵かもしれない。一説には、京都御所の平安と国家の鎮護を祈るための鬼門除(よ)けともいわれる。
 おこないが近畿を中心として、色濃く伝わっていることは奈良朝から平安朝にかけての皇室の繁栄を祈る庶民の志が氏神信仰と結びついた可能性は否定できない。
◇それでは、おこないの中身は何か。集落あげての初春の神事といっても、何をするのか、一般の人には分かりにくい。一般にはその年の稲作、養蚕の豊作を祈る神事とされているが、いわゆる祭礼ではないから神官が采配を振ることはない。
 あくまでも、当番組が奉仕する神事で、各地共通するのは大きな鏡餅を氏神に供え、組のものたちは家族みんなが参加して、海の幸、野の幸、山の幸で豪華な宴(うたげ)を設け、歌ったり、踊ったりの余興で平素の疲れを癒し、明日へのファイトをかき立てる。
◇おこないは、その地域に伝わる独特の伝統行事であるから、期間も3日、5日、1週間といったふうにばらばらであり、内容も、やり方も千差万別である。
 鏡餅を供えるにも闇夜に松明(たいまつ)をかざして、多くのひとがお練りしながら氏神へ詣でることもある。
 また前日か2日前ぐらいに餅つきの行事があり、女人ご法度(はっと)で、若い衆が担当することが平均的である。このほか、期間中、当番組の責任者の家に「繭飾り(繭玉)」と称して、木の枝に小さく固めた餅を花のようにたくさん結びつけて床に飾っておき、本日の餅供(す)え式に、これを氏神に供える。繭玉は「餅花」ともいう。
 また、ところによっては、期間中、深夜に組のものが、鐘、太鼓、笛を鳴らして氏神詣でを続け、その都度、海、山、野の幸を供える。
◇いずれにしても祈願祭と村人の交歓、レクレーション、そして村人の氏神を中心とする仲良し、結束、平和、無事を祈る手作りのまつりといえよう。
 餅花が登場するのは、往時の養蚕の重要性をうかがわせて興味がつきない。

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2007年01月24日

インターネットと新聞

 ぼくの知っている青年A君は、今流行の情報化時代の先端をゆく生き方をしているが、その一つの現れは新聞を購読していないことである。
 新聞を読まなくては不便であろう、というのは少し古い人間で、もっと便利なものを毎日見ているという。「見ている」ところが、われわれの「読む」世界とは違うわけだが、ありていに言えば、新聞に代わるものをインターネットで見ているわけだ。
 新聞なら、たいてい一紙だが、彼はどの新聞にも目を通そうと思えば可能である。
 インターネットで、朝、毎、読、産経、中日、京都、どんな新聞でも見ることが可能だという。
◇いや、便利だから、毎日、それらを各種読むのか、と尋ねると、とても、とてもという。ていねいに読んでいたら1日、24時間ぶっ通しで読んでも読み切れるものでないし、第一、読むなんてことは頭から考えず、見出しを見るだけという。
 それも好きな記事というか、興味ある記事で、常に全国的レベルの話題にのみ関心を向ける。例えば、最近の選挙では、そのまんま東氏の当選は知っていても余呉町長選の結果などは眼中にない。
 一口に新聞といってもその編集されている記事の量は莫大であり、政治、経済、文化、スポーツ、国際、芸能、健康、教育、福祉、事件、文学、芸術、その他、気象、競馬、見たいものを検索すれば、たちどころに記事が出てくるが、目に入ったものをパッと見るだけである。
 大事な記事だから切り抜きしようとか、ボーダーラインを引くといった従来型の読書方法ではなく、いつでも見たいとき、即座に眼前に登場する。
◇便利なもんやね、と腰を抜かすのは、旧人類で、丁度、昭和の初め、始めてラジオが聞けるようになった時代を思えばよい。そのころの人は青竹一本で、ニュースが聞けるなんて、どないなっているんやろと、目を白黒させた。青竹というのは、テレビのアンテナのようなもので、電波を受ける仕掛けであるが、鈍な人間はラジオの機器のことを思わず、青竹が言葉を発しているように感じたわけである。
◇ところで、学ぶというか、勉強となると、頭を使わねばならないし、考えることもしなければならぬが、人々がテレビにかぶりついているように、若い子がケータイに首ったけになるのと同じで、パソコンのネットも興味本位に目に合わせる。
 つまりは遊びの世界の延長である。遊びだがら楽しくなければならぬ。今のテレビがアホ番組や興味本位の番組になっているように、パソコン党の遊びの対象は、ろくでもないものに傾きがちになる。どんな情報や絵が登場してくるか、ぼくは旧人類の野蛮派だから皆目見当がつかないが、随分おっかないものもあれば、子供にはとても見せられないものもあるだろうし、難しい言葉でいえば公序良俗に反する類のものもあるだろう。
 それらを見きわめることなく、一方的に提供される映像を見つめるわけだからテレビの一億総白痴化の上をゆくことになるかもしれない。
◇白痴化であろうと、何であろうと、見て楽しむのだから、天下太平じゃないか、という人もあるだろうが、なかなか、どうして、天下太平にはなってられない。
 そこが規制の難しさと良識の働かない空しさというべきか、その影響がろくでもない方向に出るからである。
 例えば、殴り方を会得したり、自殺の方法、人殺しのテクニックを身につけるようなことになれば、たちまち犯罪予備軍に編入されるからだ。
 またインターネットを通じ、まやかしの商法が通ったり、詐欺などが横行する恐れも皆無ではない。
◇とにかく、便利なもので、どんな情報でも手にすることは可能だが、しかし、そういった情報の洪水の中で、溺れることはありがちで、結局、人間のおもちゃとして、あるいは、嗜好品の酒や煙草同様に中毒することもあり得るから、いい加減にするがよい、とブレーキをかけることにもなる。
◇さて、さて、これから、IT時代がどんな世相を招くやら、時代の先導者としてどんなバラ色の幸せをもたらすのか。ちょいと見ものではある。

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2007年01月23日

余呉町民の心は複雑

 余呉町長選は、緊迫の対決で、二矢秀雄氏が僅差で当選した。
 投票前日、すでに二矢優勢の声が出ていたが、厳しい情勢の中、敗れた久保田順一氏は予想外の善戦だった。
 選挙のいろはから冷めた眼で眺めるならば、二矢氏の圧勝を呼ぶ条件下の選挙だった。それが圧勝ならぬ僅差の勝利に帰したことは、余呉町民の複雑な心の反映であり、極端に言えばどっちにも勝たして、足して2で割る政治を願ったのが町民の腹の中かもしれない。
◇圧倒的勝利になるはずの二矢氏と言ったが、それは天の運とも呼ぶべき時の大きな流れに乗ったからである。その流れとは何か。前町長の畑野氏及び、その与党の町議の多数が推進した放射性核廃棄物の処分場の反対運動の奏効と、その運動に対するエネルギーの過熱した雰囲気がそのまま町長選になだれ込んだからである。
◇核アレルギーは日本人の心の底にまでインプットされており、男野郎の物質上の思惑などに目もくれず、核におびえ反対するのが日本のやまとなでしこの姿である。
 これはわが子を戦場へ送って泣いた母の心であり、広島・長崎の原爆で犠牲になった何十万人の魂の悲しみと怒りの心でもある。
 にも拘わらず、畑野町長らは、処分場誘致に前向きだった。
 一にも二にも町財政の行き詰まりの打解が念頭にあった。それを可能の如く、甘美な背景が誘惑した事実を正視する必要がある。
 それは、敦賀を中心とする若狭沿岸の原発銀座を考えればよく分かる。敦賀市を筆頭に原発を抱える関係市町は、国や原発から交付される莫大な金でうらやましいほどうるおっている。教育、福祉、社会環境、その他あらゆる面で充実した行政が展開されており、他府県の市町村に比べ大きな格差をもって優遇されている。
 つまり、国や原発関係電力会社からの補助、助成が地元市町を財政的に豊かにさせていることの証明である。これは一種の迷惑料、公害補償料に該当する性質のもので、地元は金と物の魅力に口を封ぜられている感じがしなくもない。
◇そればかりでなく、施設の建設や原発関係の付帯的諸事業のもたらす経済効果で、地元の経済や産業の活性化に役立ったことも見逃し得ない。
 そして、原発補償や迷惑料は地元市町のみならず、半径50㌔以内の他の市町にも及び、現に本県においても余呉、西浅井はその恵みを享受しているのは衆知の事実である。
 そのうらやましい程の敦賀市その他の財政事情を敏感に知っているがゆえに、余呉町長が産廃物処理場に食指を動かしたのは分からぬ話ではない。
 しかし、それを受け入れる環境でないことは余呉の地勢的位置を考えれば納得できる話で、ダムの補償金や施設に伴う建設投資などとは、わけが違う。その反対運動を甘く見たのが誤りの出発で、そういう誘惑に耳を傾けたこと自体、貧すれば鈍する教えの通りである。
◇町長が辞任に追い込まれ、反対署名の声が町にどよめき、一大騒動の終わった直後の町長選だから、反対運動の余熱は炎(ほのお)の如く燃え盛った。
 そこへ、嘉田知事の後援組織がタイミングよくエールを送った。そのエールは感情論的なものではなく、政策協定としての生き証文を町民に披露した。昨年、県政の180度転換を誓って県民の圧倒的支持を受けた嘉田県政への期待感はまだ湯気を立てて県土をおおっている。言わば、余呉町長選は4月の統一地方選の瀬踏みの如き重みを抱えて行われた。
◇しかも、県議会の古参県議の地元でもあり、久保田氏の経歴、人格、識見を通り超しての大きなうねりが津波の如き勢いで二矢氏を利した。
 しかし、二矢氏が僅差でしか勝てなかったのは、町民の意識の中に市町合併を願う強い心が根ざしていたからである。もし、新町長が合併を葬るような事態がくれば、そのときは、また別の大きな波が二矢町政に立ちはだかるだろう。

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2007年01月22日

そのまんま氏の当選

 21日、投開票された宮崎県知事選、ひょうたんから駒ではないが、日本国中が唖然とする面白い結果が出た。
 ぼくは皮肉にも面白い結果と表現したが、それはまさに面白さを売りものにしてきたタレントにふさわしい勝利であった。
◇「そのまんま東氏」強し、の評判は選挙の中盤戦以降、ささやかれ始めた。そのまんま氏は「改革」を叫んだが、これまたふざけた話とも思えるくらいの「そのまんま」が当選するのだが、あらためて選挙民の意識の変革を冷静に読みとる必要がある。
 そのまんま氏は、名は「そのまま」だが、政策や政見は、そのままではなく、改革であった。そのままの名を大胆に打ち出したから逆に、改革の心が強くアピールできたのかもしれない。
◇この選挙、泡食ったのは、政権党の自、公両党と、優秀な元官僚をかついだ民主党だった。
 政策的には、すぐ使いものになる元官僚や前官僚を避けて知名度のあるタレントを選んだ宮崎県民は、平成7年、大阪府民の選択したノック知事以来の選挙旋風をまき起こした。
 あのときは西にノック知事、東に青島東京都知事が生まれて、地方にお笑い政治を持ち込んだが、結果はどうだったか、有権者の期待ほど改革の効果があったかは疑問である、任期後半の青島知事は都の役人のいうままだったし、ノック知事は女性へのセクハラがたたって泣く泣く椅子を投げ出した。
◇ただ、青島やノックの勝利には東京、大阪といった大都市の若ものたちや女性たちの時代を先取りする意識の新鮮さが大いに寄与した。したがって、タレントの選挙は都市型であるかのように思われていたが、それを見事にくつがえしたのは、田舎も田舎、九州は南部の宮崎県だった。
 それを踏まえて、選挙と候補について、一考察するのも無駄ではないだろう。
◇「そのまんま」というような人を食った感じの名でも、堂々と当選できるのは、これまでの常識である地盤、看板、鞄(かばん)が平成の世には必ずしも通じないことを証明した。
 別の見方をすれば、改革という強烈な政見に対しては、それにふさわしい型破りの名前や選挙戦術がぴったりなのかもしれない。
 今一つ、考えねばならぬのは、選挙そのものに対する選挙民の意識の変化である。
 いわゆる「かみしも」をつけて、ぎょうぎょうしく儀式ばったものではなく、ジーパン姿のラフな格好での選挙や政治を求める風潮がこれかもしれない。
 言葉を換えれば、選良政治から、大衆政治。エリート政治から庶民政治への流れといってもいい。
◇名は体を現すで、お笑いタレントなどが国政に参画したり、地方の首長になって、政治を明るく分かりやすくするのは大いに期待したいが、テレビや舞台で観衆にアピールするような感性だけで政治は動くものではないから、ややもすると役人に振り回される恐れがある。
 立候補した初志の「改革」「刷新」をどう実現するか、それを選挙民は厳しく眺める必要がある。

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2007年01月20日

尻の戯れ歌、人の覚悟

 「頭隠して尻隠さず」という。洋菓子の大手メーカー・不二家の不正発覚もこれに似ている。
 大丈夫だろうと表面をごまかしたが、尻まで隠すことができなかった。
 保険金ねらいの殺人や放火などの事件。犯人たちは、跡を残さぬよううまく隠したつもりでも尻を隠すことができず、結局はご用となる。
◇悪事露見せずと、うまく表面をとりつくろっても、時の経つにつれて必ずボロが出る。そういう仕組(しくみ)が神のお裁きであり、これを老子は「天網恢々(てんもうかいかい)疎(そ)にして漏(も)らさず」と言った。
 天の張る網は、広くて目が粗(あら)いようであるが、決して悪人を網の目から漏らすことはない。「悪事を行えば必ず捕らえられて天罰をこうむる」という意味の教訓。
◇人生は長くて100年、短くて50年。いつかは死ぬ。
 貧乏・金持ち回り持ち。金は弥陀(みだ)ほど光るとは、昔の人のたわ言よ。山ほど金のあったとて、持ってあの世に行けはせず、下手に残して子供らの、喧嘩の沙汰ぞおぞましき。
◇さて、人間、遅かれ、早かれ、いつかは死ぬが、いよいよ最期のどたん場で、帳尻合うやら合わぬやら。
 審判官はエン魔さん。銀行ならぬエン王の、三途の河の大福帳。「世のため人のため何を、しておいでたか」。さりながら、「盗み、暴力、詐欺、殺し」。その場はうまくごまかせど、神のまなこに狂いなく、鏡の如く透きて見ゆ。帳尻合わねば、さ、さ、さ、身も世もあらぬ地獄ゆき。
 恐(こわ)か、こわかと子に言えば、子はまた孫に「こわか」という。
◇尻は「しり」でも「しくじり」は人間だれでも避けられぬ。
 しくじり素直に省みて、謝(あやま)るべきは謝って、正すべきことただすのが人の信用得る一歩。
◇情ないかな、この世には己れのしくじり棚に上げ、尻をまくって牙をむく変なやからの後絶たず。なかには組の若ものや刺青(いれずみ)男の出る事も。
◇いかなる富も権力も、地位、肩書きも一陣の、逆風吹けば、栄光は、たちまち悲しや尻すぼみ。
 オリックスの中村紀洋、かつては2冠王の大ベテラン、今は自由契約に。買い手求めてさむざむと、渡る球界ほとけなし。
◇げに、人間は驕らざれ、尻もち搗(つ)いて、またついて、あげくの果ては、淋しげに、一線去る日の空しさよ。
◇人生たかだか80年。なかでも脂(あぶら)の乗る時期は、30年か40年間。若き日の苦は、身のクスリ。辛抱はカネと、歯を食いしばり、人に負けずに働いて、人の喜ぶ佳き人に、ならんと励めば自(おの)ずから、天の恵みの輝きて、人の命運尻上がり。尻は尻でもこの尻は人を明るく幸せに。夜空の星に似て清(すが)し。
◇尻は尻でもこのごろは、尻に敷かれる男どち。尻を叩かれ、へのへのもへじ。尻に火が付き、尻に帆かける。
 国や役所よ「尻を拭(ぬぐ)うな」、「しりもつもれば山となる」。

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2007年01月19日

若返り作戦と納豆(見聞録)

 先日、アメリカのあるドキュメント番組を見た。「ファーストフードを食べ続けると、体はどうなるのか」と、自らが被験者となった映画「スーパーサイズ・ミー」で一躍脚光を浴びた監督モーガン・スパーロック氏の作品「30デイズ」。中年肥りと体力の減退に悩む34歳の男性が高校生の頃のような筋肉質でスリムな肉体への若返りを、30日間で目指す内容だ。医師の処方箋をもとに毎日22錠もの栄養剤と週に1度のホルモン注射などの薬物投与、専属トレーナーをつけたエクササイズといった徹底したメニューで、日に日に彼の肉体は引き締まり、体が軽やかになった。
 しかし、結果は、肝臓の異常と、精液中の精子がすべて死亡しているというショッキングな健康診断結果により、30日を経たずに若返り作戦を断念することとなった。使用した薬品や錠剤に違法なものはなく、医師の計画に従っていたのに、彼の体は薬物の「負」の効果に侵されてしまった。
 今、ドラッグストアやコンビニ、スポーツショップには、現代人の健康ニーズやダイエット願望を満たすため、多種多様な栄養剤が並んでいる。すべて、基準をクリアしたものだが、まだまだ不透明な要素があり、乱用すれば、体にどのような変調を起こすか分からない。被験者はそう警鐘を鳴らしている。
◇ところで、スーパーでの納豆の売れ行きが好調だ。1月7日放送のテレビ番組「発掘あるある大事典」で納豆のダイエット効果が紹介され、視聴者が買いあさったからだ。平和堂本部(彦根市)によると、翌8日以降の売れ行きが例年の300%で推移しているという。テレビで紹介されることを事前に察知していたことから「相当数を確保していた」そうだが、メーカーでの生産が追いつかず、平和堂のほか、フタバヤ、ジャスコ、西友でも品薄状態が続いている。
 過去にも様々な食品がテレビ番組で「健康に良い」「ダイエットに効果的」などと紹介されて、瞬く間にスーパーから姿を消したことがあり、消費者の健康、ダイエット熱の高さを目の当たりにした。
 ちなみに、抗酸化機能を持つポリフェノールが注目された時はココアやチョコレート、赤ワインなどが標的となったが、ココアやチョコの食べすぎで、油脂、糖分の過剰摂取による健康被害も指摘された。赤ワインは飲酒の大義名分となる弊害も出た。昨年は、ダイエット効果のある白インゲンが注目され、誤った調理法により、下痢や嘔吐に苦しむ視聴者が出た。
 では、納豆の食べすぎは大丈夫なのだろうか―。茨城県にある「納豆博物館」に問い合わせたところ、1日2パック程度が適量とのこと。大豆などに含まれるイソフラボンの過剰摂取が一部で問題視されているが、納豆については食べ過ぎても特に害はないという。ただ、付属のタレに塩分が多く含まれていることに気を付けて欲しいと、注意してくれた。
 結局『バランスの取れた食生活が大切』ということ。

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2007年01月18日

心の砂漠と改革の鍵

 良心が麻痺するということは、神さまが人間として生きるために授けて下さった必要最小限度の知恵が働かなくなったことを意味する。
 雨が降れば傘、スピードが出すぎればブレーキ。人を殴ればけが、うちどこが悪ければ死ぬ。人の不幸を見れば悲しみの心、人への迷惑行為には咎め心が湧く。
 これらが生きるために授けられてきた知恵の一例である。
◇生きるための知恵が働かなくなったことは、ブレーキの効かない車を運転しているようなものであり、人の悲しみや不幸に鈍感になっている姿であり、総括すれば心の砂漠化現象である。
 砂漠を緑地化するには雨が必要で、適当な湿りと太陽の恵みを受けねばならぬ。
 末期的現象の危機を感じさせる現代の心の砂漠化を防ぐ処方箋はあるのか。
 ぼくは、人間の原点に立ち返り、文明への反省と母性の裸の愛、農耕社会の祈りを強調し、以下私見を述べる。
◇人間が人間の原点に立ち返るというのは、太古以来の人間の発達史を学べば分かることで、要するに人間は万能ではなく、神の神秘でこの世に生まれ、天地自然の恩恵によって生かされていることを感謝しなければならぬ。
 文明に対しては、これを過信することなく、驕ることなく、自然の生きものとしての人間に整合する謙虚さを失ってはならない。
◇母性の裸の愛は、残念ながら今の文明社会は失いつつあり、古代社会の遺物としてかえりみることをしない。
 日本国の誕生は古事記の神話に明らかなように、男女の神の裸の愛の結晶によるもので、連綿と今に続くのは、いつの代も変わることなき偉大なる母の愛によって育まれてきたからである。今日の母子像に欠けているのは裸の愛であり、悲しむべきは取引の愛に堕落した。鍵を渡して子を見離し、物と金を与えて愛情をキープできる、と慢心した。
 自分の見栄と自分の将来を担保するため、教育ママに陥ったところに現代の悲劇が内包された。
◇農耕社会の祈りは物質万能、科学万能への警告と理解してもらいたい。
 われわれの先祖は一粒の米も粗末にしなかった。「落穂拾い」を死語化させた現代人の驕りや思うべし。
 農耕社会は地域共同社会であり、人々の幸せや不幸をみんなが連帯した。自然発生的に結(ゆい)という制度も行われた。多忙な農繁期に各戸相互に労力を貸しあう知恵だった。
 人々は初詣、祈念祭、春祭、秋祭、など豊作を祈り、収穫を感謝した。富山県八尾町の風の盆は、二百十日の風よけ、青森県のねぶた祭は、秋の収穫前に仕事の妨げとならぬよう「ねぶた(睡魔)」を防ぐ祭、といった具合に、日本国中、四季おりおりに各種の祭が地域で行われ、それが農民の共存共栄を仲立ちした。
 その他、日本人は冠婚葬祭を通じて、家ぐるみの親類総寄りが慣行化され、子供も親や年寄りに連れられ、神仏に合掌する民俗的風土に組みこまれていた。
 このほか、各地で行われる放生会も人々の情操を厚くした。池に魚を放って冥福を祈ったり、殺した虫の供養をしたり。
 祭りやイベントには地域みんなが参加し、持ち寄りのご馳走で会食したり、自前の腕で芸を披露した。そういった暮らしの中には貧しさを超越しての親睦と喜び、そして希望が溢れていた。
 文明の恵みには疎く、物質も豊かではなかったが、神とともにある生活が、神の知恵にもとることなく、心に水とみどりを絶やさなかった。
 今は実質的な「おば捨て」の時代であり、ホームレスの老人を川へ落とす弱い者いじめの世となった。改革は一人一人の心から。

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2007年01月17日

心の砂漠化に慈雨を

 妹殺しや夫殺し、あげくの果ては、遺体を切断するばらばら事件。一夜明ければ何が起きているか。毎日毎日、次から次へと凶悪な事件が発生している。
 ぼくは、この憂うべき姿を末期的現象に限りなく近づいてきたと警告を発し続けているが、殺人事件ばかりでなく、人間の生命に関わる食品犯罪が半ば公然と大手メーカーの手によってなされていたことを知り、その根の深さに驚愕した。
◇菓子の大手メーカー・不二家の事件は製造過程における幹部、従業員の良心の麻痺といってよい。
 良心の麻痺は道徳や法を守る心の麻痺だから、こういう会社幹部や従業員の手によって食品が製造されているのであれば、今後もこういう不安な事件は不二家に限らず、どこの企業で発生するか、心配の可能性は高い。
 ただそれが巧妙にごまかされているか、事実が隠蔽されて発覚しないかの違いであり、不二家の事件は氷山の一角と考えられぬこともない。
◇なぜ、そういう事件が起きるのか。
 これは食品業界だけではない。過去にも自動車業界の欠陥車騒動、あるいは瞬間湯沸かし器の事故、さらにはアスベスト(石綿)被害など、忘れたころにつぎつぎと国民の生命がおびやかされてきた。
 メーカー側はその都度、頭を下げ、幹部が処分されたり、被害補償に応じたりしてきたが、そのよってくる原因はひたすらなる、あくなき利潤追及であった。
 「えらいこっちゃ」と内部で分かったとき、素直に反省し、商品を回収し、誠意を見せるのがこれまでの商業道徳だったが、それが麻痺した。
 つまり儲けのため、欠陥や傷、危険性については口をつぐみ、知らぬ顔の半兵衛を通してきた。欲得一筋で、国民の生命は眼中になかった。
 商品管理に対する規則や法律があって安全性が保障されているはずにも拘わらず、内部で、その発覚や疑いを封じることは金もうけ本位、自社の利益本位そのもので、このような良心の麻痺は、急速な経済成長がもたらした副産物で、公害と表裏関係にある時代的病根といえよう。
◇子が親を、親が子を殺す事件を筆頭に跡を絶たぬ殺人、放火、強盗など凶悪事件もまた良心の麻痺による。
 大企業の利潤追及の結果の欠陥商品や不法商品なども同じく良心の麻痺であるが、なぜ、このような人間の本来の美徳である良心がおかしくなってしまったのか。
 心の砂漠化にいかにして慈雨を降らせるか。なごやかな緑をよび込むか。そのことが今の世と次世紀を救う緊急事であるが、その処方箋はあるのか。
◇ぼくは15日の時評で、「人間の原点に立ち返り、文明への反省と母性の裸の愛、農耕社会の祈り」を提案した。
 それについての見解を次項でのべてみたい。

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2007年01月16日

不二家の驕りと国民

 洋菓子メーカーの不二家が存亡の危機にさらされている。
 期限切れの牛乳を使用したシュークリーム、消費期限のごまかし、国の細菌検査の基準を超えるものを出荷するなど、消費者の不安と怒りは高まるばかりである。
 かつて、国民は雪印乳業の集団食中毒事件を経験した。
 大企業のブランド商品に馴らされている消費者は企業の一方的宣伝に乗せられて、言わば飼い犬がドッグフードに飛びつくように、その商品を愛用してきた。
◇不二家の藤井林太郎社長は責任をとって、辞任を表明したが、不二家商品の不信感は、なだれ現象を呼んで、日本各地のスーパーや百貨店などから販売をボイコットされるに違いない。
 流通業界に与える影響、不二家自体の工場経営と従業員対策、さらには日本の経済界に与える波紋は計り知れない。
◇今回の不二家の食品管理上の数々の違反は、大メーカーの驕りそのものであり、絶大なる信用を逆手にとって、売れば儲かるの感覚で商品の安全性を無視してきた。
 いやしくも消費者の口に入る菓子類に、期限切れの原料を使ったり、消費期限を基準より長くしたり、社内基準の640倍もの細菌を持つ商品を出荷するなど、許すことの出来ぬ悪徳商法といわねばならぬ。
◇われわれ消費者は、ここに来て、一つの転換期として、一切の食品について、その安全管理を疑ってみる必要があるのではないか。
 例えば、消費期限の日付が正しく守られているかどうか。売れ残り商品の管理、処分はどうしているのか。
 あるいは原料と加工工程における化学物質などの適格性、無害性についての検査はどうしているか。抜き打ち検査や、その検査結果の公表など、正しく行われているか、などが問われよう。
◇現代の食品は、素材のまま販売されているのはごくまれで、大部分は程度の差こそあれ、加工されている。複雑な加工工程を要するものほど原料や添加物の安全性が問われなければならぬが、果たして政府や行政は十分な検査機能を保持し、的確な指導や検査を通じて、食生活の安全を保障しているであろうか。極めて疑問である。
◇これは、一反の責任は消費者にもある。最近は、手作りすることを放棄するようになり、一切の飲食物を店頭で購入することが恒常化した。その結果、メーカー側は、消費者の口に応える美食指向となり、化学薬品などをふんだんに使用して、うまみを付加する商品を開発した。それは味噌、醤油、酢類の日本本来の発酵食品にまで及び、さらには緑茶にまで加工工程を経て添加物を使用するようになった。
◇原料について言えば、農業生産物ばかりでなく、海産物までが輸入されているのが現状である。
 これらの食品原材料の輸入品が国の規制基準内安全性を保持しているか、どうかも関心の高いところであるが、残念ながら、この種の情報は国民に開かれていない。
 このさい、国民は毎日、食べている食品が、どこの国の原料で、どんなふうな加工処理がされているのか、安全基準に合致しているか、などと常に疑問を持ちつつ、出来る限りは、消費者自身の手によるいわゆる手作り料理、手作り菓子、飲料によって、作る喜びと、健康促進を図ることが大切ではなかろうか。

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2007年01月15日

末期現象と母性の愛

 東京の歯科医一家で、歯科予備校生の武藤勇貴容疑者が妹の短大生・亜澄さんを殺して、遺体をバラバラに切断した事件は猟奇じみて気分が悪くなったが、同様の殺人と遺体切断が同じく東京で発生した。
 今度のは、会社員の三橋祐輔さんが妻の歌織容疑者に殺され、遺体は切断された。夫婦喧嘩は犬も食わぬ、というが、この夫婦はまだ若いのに、喧嘩に明け暮れて、名は夫婦でも実体は他人に近かった。女は夫の暴力に耐えられなくなった、と言い、やられる前にやったのかもしれないが、その結果、長い刑務所暮らしをしなければならず、あたら30歳の花の人生を壊してしまった。おろかとしか言いようがないが、是か非か、かくすればかくなる、などの判断や常識が働けば、こんな大それた事件を起こすはずがない。
 不幸といえば不幸、哀れといえば哀れだが、そういうあり得べからざることが起こり、想定外の事件を起こすのが人間であり、人間界である。
◇歯科医大をすべってばかりで、最後に妹を殺した青年は成人したばかりの花の21歳である。歯科医が人生の目的だったかもしれないが、殺人の結果、これまた長い刑務所暮らしをするとなれば、すべての夢は川の流れの泡よりはかない。なんで、そんなバカなことを、と悲しむのは、ドロボウを捕らえて、縄をなうのと同じで、とり返しはつかない。
◇人間には、太古の昔から自己保存と自己防衛の本能が備わっている。
 そのために食を漁(あさ)るし、生命の危険を避けるため安全に心がけるし、万一のときは戦う。また分身を育て、発展させるための子をもうける。
 自己保存と自己防衛のために、絶えず、食糧を確保し、人間社会の生存競争にあって、常に優位、勝者の道を歩もうと腐心する。
 力を鼓舞し、身を装(よそお)う。賢明でありたい、美しくありたい、若くありたい、との願望も生まれながらにしてインプットされている。
 そうした人間の本性を完璧な城にするため、神さまは、補助的にいろいろな心象作用を付加された。
 負けん気、正義感、思いやり、勇気、美への憧れ、敵愾(がい)心、嫉妬心、猜疑心、などがこれであり、いずれも城を守る外堀、内堀の役割を果たす。
◇このような自己保存、自己防衛のための、さまざまな要素がからみあい、複雑に反映しながら、人間は自己完成をたどるのだが、たまたま、その働きが均衡を逸したり、あるいは機能しなかったり、脳神経が狂ったりするとき、想定外の事件が起き、社会的なショッキングニュースとなる。
 それは、あってはならないことであるが、神ならぬ身の人間界であるから、絶無というわけにはゆかぬ。
 いかにして、あってはならないことが、起きないようにするか。それが政治であり、道徳であり、教育であるが、残念ながら、それもこれもいびつ現象を迎えている。
 ひらたく言えば末期現象に限りなく近づいてきたと思えばよい。
◇文明の利器を十二分に活用し、無限とも思えるほどの物質の豊かさに酔っているわれわれは、その結果、天なるもの、神なるものの崇高さ、偉大さを忘れて、己れを反省し、神や自然に感謝することをしなくなった。
 精神の砂漠化が進行し、併せて、生活環境のもたらすもろもろの汚染で、脳神経のほか、肉体がおかしくなってきた。
 生き残りたいもの、神の御心に帰依するものは、いまからでも遅くない。人間の原点に立ち返ることである、それは文明への反省であり、わが子に対する母性の裸の愛情であり、農耕社会の祈りである。

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2007年01月14日

亥年と選挙(浅井よもやま話)

 今年はイノシシ年。新聞やテレビに「猪突猛進」という言葉が良くでる。これは(イノシシが前後を見ずに突進するように)向こう見ずに事をすることを指す。ところがこれは間違いで、本紙の元旦号の「イノシシクイズ」をみればわかるが、これまでの研究で、イノシシは警戒心が強く、実際は臆病で慎重派。常に周囲に気を配りながら行動していることがわかっている。
 また、イノシシの生態に詳しい農業技術振興センター湖北分場の山中成元さんによれば記憶力に優れ、学習能力が高く頭脳はサル以上に賢いという。亥年生まれの人を良くも悪くも「猪突猛進の性格」と例えるが、今後は改めなければならないかも。
◇12年に1度来る亥年には「亥年(いどし)現象」と呼ばれる政治現象がある。朝日新聞の政治担当編集委員だった故・石川真澄さんが名付けたものだが、この年の参院選は自民党が苦戦を強いられる、といわれる。
 1947年以降、統一地方選挙は4年に1度、参院選は3年に1度行われている。そのため4と3の最小公倍数の12年に1度、春の統一地方選挙と夏の参議院選挙が重なり、それが亥年にあたる。 
 地方議員たちは自らの死活問題である春の統一地方選に向けて活動をするため、夏の参院選では応援運動に注ぐ力が減ってしまう。自民党は地方有力者の集票に依存した政党のため、有力者の応援の影響をもっとも受けやすいため、自民党が苦戦を強いられる。
 ただ95年(亥年)までと状況が異なるのは「自民党と公明党が連立関係」にあること。06年10月の補欠選挙でも、公明支持層の8~9割が自民候補にまわり、自民の圧勝を招いた。これを考慮すると、今回は「逆・亥年現象」となり自民党が公明党の強力な支援を受け、堅調に戦う可能性もある。
 組織的集票力が乏しい民主党にとっては、無党派層を取り込む「投票率」が頼みだが、参院選の投票率は低いため、獲得議席は伸び悩み、減少するかも。
◇県内では市町村合併に伴い春の地方選の数は大幅に減少し、県議選では長浜と旧東浅井は選挙区がひとつになり、定数が(3)に改められた。
 改正に伴い、これまで旧長浜市から出ていた候補を東浅井の有権者が投票できるし、その逆も可能となった。今のところ旧長浜は、候補乱立の模様だが、東浅井区域は今ひとつ盛り上がりに欠けている。
 出馬予定者はこの時期、慌てて広報紙を配布したり、あいさつ回りで「顔売り」しているが、住民の間からは「この人たちが今まで何をしてきたか知らない」「~会や~式であいさつする時しか顔を見たことがない」「興味なし」と味気ない声ばかり。
◇昨年の知事選ではまったく無名だった嘉田さんが当選。「もったいない」が県民の心を動かした。今年は「新幹線新駅問題」が正念場を迎える。今回の県議選は候補者が嘉田県政とどう向き合うかが鍵といえる。湖北の住民は「凍結」を望んでいる。「山より大きいイノシシはいない」。政党のしがらみなどに拘らず、この声を届ける勇気ある者はいないのか。

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2007年01月12日

時評にプラスα(見聞録)

 今年は4年に1度の統一地方選。滋賀で注目されるのは県議選。武村―稲葉―国松の流れにクサビを打った嘉田由紀子県政の誕生により、新幹線の栗東新駅設置を推進する自民、公明が守勢に立たされ、嘉田支持派の民主、共産、社民、そして昨年の県知事選で活躍した市民派の躍進が話題となりそう。県政への新しい風が、波乱を含みつつ県議会にどう変化を生むのだろうか。
◇滋賀夕刊新聞社、滋賀彦根新聞社で記事を書いて今年で9年目を迎えた。「そろそろ定期的にコラムでも書いてはどうか」。新春早々、社長の一言で、滋賀夕刊の創刊以来、続いてきた「時評」欄を間借りすることになった。
 当面は、毎週金曜日に掲載の予定。50年近くこの場所にあり続け、森羅万象を取り上げてきた「時評」と比べられるとお手上げなのだが、「時評」とは違った視線で長浜、湖北、そして世の中を見つめ、読者の皆さんに話題提供ができれば、と、一歩を踏み出してみたい。
 タイトルの「見聞録」そのままに、見て聞いたものを書き綴りたい。加えるなら、「世界の記述」を残したヴェネツィア商人のように、冒険心を持って何事にも興味深く接したいとの気持ちも含んでいる。彼は中世ヨーロッパにおけるアジア観を一変させ、その後訪れる大航海時代に大きな影響を与えた。小欄も「一変させる」とは言わないが、「時評」が主役の滋賀夕刊に新鮮な変化をプラスできれば、と思う。
◇豊中で生まれ、栗東で育ち、大学生活を神戸で送った後、滋賀夕刊の見習い記者として長浜に住み付いたのも何かの宿命か。1年目は、雨と雪の多さにうんざりもしたが、それらが創り出す豊な自然が大好きだ。秀吉以来続く長浜の伝統文化にも圧倒された。そして、人に会い、自然に触れ、社会の仕組みを学んだ。すべてに新鮮味を感じ、その中で仕事をさせて頂いた。今後、週に1回執筆する小欄に、その感謝の思いを注ぎたい。
 なお、コラム執筆に並行して、滋賀夕刊のホームページ(http://www.shigayukan.com)を開設することとなった。滋賀夕刊に掲載した「時評」や記事に加え、四季を伝える写真やイベントの案内を紹介し、湖北地域を遠く離れ、故郷を偲ぶ方々にも、明るい長浜の話題を伝えられれば、と思う。

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2007年01月11日

親中、媚中派の不可解

 大変残念なことだが、日本の政治家や世論に関係の深いマスメディアの中には中国に対して臣下の礼をとっているのではないか、と思われるほど卑屈な態度のものがいる。
 俗に親中派といわれる人だが、このごろは親中派というよりも媚中(びちゅう)派といわれることが多い。
 媚中の媚は「こびる」意味を持つ。「媚(こび)を売る」というような使用例があるが、あまりいい意味には用いない。
◇日本の商社や経済界の中には、中国の巨大な市場に憧れを持つから、お得意大事と、この国のご機嫌うかがいに商魂を見せるのは自由だが、それが政治家や報道の世界にまでおせっかいをやいて、日本そのものが中国の属国になってしまうのでは、と心配するようになっては大変である。
◇一時、中国では反日運動が常識の範囲を超えて、せっかくの両国友好を破砕するに至ったが、その反日の焦点は小泉首相の靖国参拝だった。
 中国の反日は、靖国に限らず、国内の至るところに「抗日」、「反日」の記念館のようなものを建て、中国人民にあらゆる機会を利用して反日をPRしてきた。
◇日本における親中派や媚中派は、全く中国の代弁者のような役割を担って、ことあるごとに小泉さんの靖国詣でを批判してきた。そうすることによって、中国から点数を稼ごうとするあさはかな心根だが、腹立たしいのは、政治家がその尻馬になって、小泉叩きをしてきたことだ。
 彼ら一部の小泉叩きは、小泉さんの改革政治に反対するためのもので、一日も早く小泉さんをおろして、小泉さんに代わる従来型の派バツ政治を求めた。しかし、小泉改革に対しては表向きに反対できぬため、別の戦略で、中国を利用した。
 つまり、それが靖国反対のキャンペーンだった。
◇いま、安倍政権になったのをいいことに、これまでの反主流派は、けんめいに昔流の派バツ政治を模索している。その顕著な現れは、安倍さんの出現以来、ピタリと「靖国」がニュースから消えたことである。
 あれだけ、靖国反対だの、戦犯分祀だの、と騒いだ連中が急に沈黙して静かになった。
 一体、これまでの靖国騒ぎは何だったのか。はっきり分かったことは、あれもこれもすべては中国の尻馬に乗っただけである。ということは、中国の内政干渉に毅然たる態度をとる小泉さんが憎かっただけなのだ。
 逆にいえば、日本の政治家の小泉叩きや靖国叩きは、中国の内政干渉をう飲みにしたのと同然である。
 そして、その中国が今、てのひらを返したように、安倍首相を迎えようとしている。その腹は、ただ一つ。安倍さんの靖国詣でをおさえることだけである。情けないことに、日本の新聞の中には、「中国主席、来日の意向」などと見下げた見出しの記事を流している。
 その新聞が別の記事では「安倍首相の訪中を要請」とあちらの情報を伝えている。先方が日本へやってくるのは「来日」。こちらが中国へ行くのを「訪中」。この言葉の用い方、おかしいと思わないものがあれば、アホーとしかいいようがない。
 安倍さんが「訪中」なれば同様に中国首席も「訪日」でなければならぬ。
 この一文字の微妙さに親中、媚中の心が現れているが、この卑屈さは、臣下の礼とみられても仕方がない。

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2007年01月10日

便利のお陰で何もろた

 今の世は文明文化の花ざかり。この世に生きるわれわれは千載一遇の幸せものというべきだが、ひと皮むけば地獄に直結しているといえぬこともない。
 大自然の脅威はともかく、人と人、国と国が憎みあい、殺しあい、人が人を信じられぬ、言わば人以下の末期的症状が現れ始めた。
◇末期的現象、諸悪の根源は何か。ナンセンスと言うべきか、自己矛盾か。諸悪の因は文化生活のもたらした「便利さ」による。
 以下、ぼくはエン魔大王から人間界への通信を傍受した。問うているのはエン魔、答えているのは人間。
「人間どもは便利さを求め、快適、快適と有頂天になっているが、なんじゃ今のさまは。便利のお陰で何もろた」
「便利のお陰で時間をもろた」
「時間のお陰で何もろた」
「退屈もろた」
「退屈のお陰で何もろた」
「遊びをもろた。夜も昼も」
「遊びのお陰で何もろた」
「バクチに漫画、カーに酒、IT時代もそのお陰」
「ほかにもいろいろもろたやろ」
「変な病気や気の病(やまい)」
「まだまだあるやろ何もろた」
「脳みそ薄くしてもうた」
◇この問答を聞きながら神さまが涙を流しつつ「ほんにあわれや今の世は、あちこち事件があと絶たず。意味なく人が人殺す。犬畜生より劣る道。ゆめ遠からじ人間崩壊」。これは恐怖の神意である。
◇いま、アメリカでは桜が咲いて、早くも春かとびっくり仰天しているが、南極大陸では氷が解けつつ、生物に大きな影響を及ぼしている。
 6日、7日、日本を襲った爆弾的大嵐はエルニーニョ現象によるのでは、と言われているが、地球の温暖化がこのまま進めば、途方もない不幸に人類が苦しむであろうと予見されている。
◇今年の日本の新成人は日本の人口100人に1人の割合で、その率は最少であることが分かった。
 ぼくは成人式から帰る男女を京都で見たが、男か女か分からぬ顔や装束の姿を見かけたし、思わず顔をそむけるほどの化物のような女性を見た。
 男性の中にも親の顔が見たいと思われるようなひどい格好のものもいた。恐らく親も口出しが出来ないのであろう。うっかり「そんな格好をして」と咎めようものならバットで殴られるかもしれない、という不安があるのかもしれぬ。
 着るもの、身につけるもの、格好、その他、若者には若者らしい好みがあって当然だが、それはあくまでも人の常識の許容範囲であるべきで、見る者が嫌悪の気持ちや不快感をもつような服装や髪、化粧は避けるべきだが、それを親が指導できず、放任しているとあれば、子供のころからのしつけにさかのぼる。
◇教育しかり。学校現場のいじめや暴力、不登校その他の憂うべき状況は年々ひどくなるばかり。一つは学校側の教師の責任だが、それ以上に家庭のしつけに問題がある。
 それは便利を求める文化生活が知らず知らずのうちに一家団らんの美風を潰し、家庭崩壊の因になっているからである。
 他殺、自殺、強盗、放火、その他の破廉恥な事件、そして問題のいじめも、みんな、脳の狂いから生じていると見るべきで、これは他の病気と違って、クスリでは治らない。生活の根本にまで立ち至って考えねばならぬことである。

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2007年01月09日

テレビが少子化の因

 ものは言いよう。理屈はどこからでもつくが、長い年月を生きている警句や俚言、ことわざの類は反面教師として、われわれの生活に役立ち、生きゆく糧として存在感を失わない。
 日本でテレビが普及し始めたのは1955年(昭和30)以降だが、それは日本人の娯楽面での革命的怪物ともいうべきもので、これの普及と反比例して映画産業は斜陽化の道をたどる。
 しかし、時代を読む先覚者は馬鹿でなかった。評論家の大宅壮一はテレビの有害性を警鐘して「一億総白痴化」なる言葉を残した。
◇大宅説を吐き捨てるごとく、東京オリンピック、大阪万博を契機に上昇気流に乗った日本は世界の経済大国に飛躍し、1戸に1台のテレビは、茶の間はもちろん、寝室に、子供部屋にそして自動車にも取り入れられた。
◇大宅氏は、テレビが日本人を白痴化させると憂いたが、最近は別の角度からテレビの危険が言われる。
 それは、風が吹けば桶屋がもうかる式の面白い説で「日本の少子化はテレビの副産物」という。
 ここで、われわれは江戸、明治以降言われてきた「貧乏人の子沢山」を思い出す。これが正しければ、現代の豊かな社会は「お金持ちの少子化」となる。日本や米国、ヨーロッパの先進諸国は、いずれも少子化を国の危機として、その対策に腐心しているが、面白いことに、低開発国といわれている国々は人口の爆発的増加に悲鳴を上げている。
 中国は共産党政権になってから、いち早く人口問題を最大の政策に導入し、1夫婦1子を強制した。
 それでも中国は年々人口が増加し、今や13億を超えるといわれる。
 アフリカなどには、今なお上下水道はおろか、電気もなく、テレビなどの電化製品はもちろん、車のない国家が多い。
 しかし、文化的に遅れているといいながらも、子沢山である。どの夫婦も2けたは出産するが、死産児や乳幼児死亡率は高い。
 一昔前の日本も同様で、電化や車社会は近々半世紀の変貌といっていい。半世紀以前の非文化的社会がいわば「貧乏人の子沢山」時代だった。逆説的に言えば、豊かさを満喫し、お金持ちになった日本はその報いとして少子化を迎えた。
◇電気のない非文化的社会は、夜は寝るしかなかった。
 今は夜も昼並みになり、終夜営業する店もあり、工場も車も夜通し動くようになった。
 家庭では深夜テレビが夜の睡眠に立ちはだかった。
 仮想恋愛、仮想セックス、仮想暴力、その他、テレビやビデオ、パソコン、ケータイなどのIT化が、日本人のまっとうな神経や感覚を麻痺させてしまった。
 テレビはチャンネルの奪いあいから家庭内暴力の原因となり、当然ながら、夫婦は別々に好きな番組、子どもにもそれぞれ1台づつを設ける時代となったから、夫婦は寝室を別にするようになった。
 子をもうけない条件がますます多くなるというのは、家族が自己主張に生き、文明の利器をそれぞれが好き放題に使って、それに酔うからだが、そのつけが、ぼつぼつ、あらゆる形で現れ始めた。そして、そのつけは、幸せを求めたわれわれの心に不幸の鬼を芽生えさせる。

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2007年01月06日

新記録の正月初詣で

 警察庁が調べた正月三が日の神社・仏閣の初詣では9795万人で過去最高であることが分かった。昨年よりも422万人多く、この調子が続くと来年の正月は1億人を突破することになりそう。
 結構なことである。酒やテレビにうつつをぬかしているより、神社や寺で心を洗われ、新しい年の決意を誓い、家族や身の幸せを祈ることは尊い。
◇今年は1日が最高の日和に恵まれたほか、2日、3日と好天が続いたので、初詣での条件は上々だった。
 これからお賽銭の勘定だが、たくさんのアルバイトを雇ってお金を数えねばならぬところもあり、まあ、ひらたく言えば、笑いのとまらぬ「ほくほく景気」であろう。
◇仏教のなかでも、とりわけ門信徒の多いのは「浄土真宗」であるが、その開山・親鸞の教えがご文章(お文)に集約されている。
 そのなかには何回となく、雑行(ぞうぎょう)を捨てて、一心一向に阿弥陀仏を頼め。頼むものは皆救われる、とだれにも分かるようにやさしく説得している。100万の仏教書を読んでも信心の心がなければ救われない、と、これが鎌倉期以後、日本の広範な大衆の心をとらえた。
 このお文の中に繰り返し述べているのが「雑行」であり、「もろもろの雑行」とも表現している。他宗、他派への遠慮もあって、抽象的な言葉づかいとなっているが、要するに他の神社や仏閣に参詣したり、特別な行(ぎょう)や戒律などに心をとらわれるな、ということである。
◇これは、どの宗教でも共通していることで「横道するな」ということ。
 創価学会では他宗をすべて「邪宗」と退けている。極端なのは地蔵盆への参詣をも拒否する。
 神道のなかには仏壇を神棚に切りかえることもある。
 世界の宗教ではキリスト教、イスラム教、仏教が最も多くの信者を持ち、かつ、国際的に広く分布しているが、いずれも厳しい教理のもと伝統を継承している。
 しかし、いま、世界から復興が注目されているイラクは、イスラム教国家でありながら、その宗教の二つの流派、スンニ派とシーア派が敵(かたき)のように対立抗争している。
◇その点、穏やかなのは仏教であるが、それでも浄土宗や真宗が広がり始めた当初は法敵として、法然や親鸞が比叡山や奈良の興福寺の強圧のもと、当時の政権による島流しなどの迫害を受けた。
 法華経の日蓮の場合も同様で、逮捕されて、打ち首寸前の危難に会っている。
 神さま、仏さまは、すべてを愛し、一切にあわれみの光を与えているのに、その教えにひざまずく弟子や信者たちが、教理の解釈をめぐって争ったり、戒律や人事、その他の紛争が戦争にまでつき進んだ不幸は歴史の証明するところである。
◇「心」の救いを求め、愛を説く宗教人たちが、立場や教理にこだわって、憎み、そしり、傷つけあうのは、もとに戻れば、神や仏を冒涜(ぼうとく)する行為といえる。
 それを思うと、1億人もの国民が、日本国中の寺や神社に、たとい物見遊山的といえども初詣でするのはすばらしいことではないか。日本は神仏も応よう。国民も応ようというべきか。

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2007年01月05日

壊してならないもの

 文化が進めば生活が変わる。生活が変われば伝統や習慣、ものの考え方まで変化してゆく。
 正月を振り返ってみよう。元旦に年頭の挨拶回りをしなくなった。街頭で年詞を交わす風景も珍しくなった。
 子供らの凧(たこ)揚げ、羽根つき、すご六、カルタ遊び、こま遊びも見かけなくなった。
 餅搗(もちつき)も個々の家庭ではかげをひそめ、お節料理も昔なつかしくなってきた。
◇なぜ、こんなふうに正月風景がさま変わりしたのか。
 分析の仕方はいろいろあろう。
 日本人がお金持ちになったからという見方がある。お金持ちと正月の変化がどう関わりを持つというのか。
 正月の遊びの主流は子供であるが、その子供がめっきり減ってしまった。貧乏人の子沢山の逆現象といっていい。子供が少なければ隣り近所の子が誘いあう遊びが減る。
◇大人は正月の準備に追われたが、今は何もかもお金で整うので、合理主義のもとに餅もお節も店で買う。
 ふところが豊かになったので正月は家を出て旅行する。家々の主婦は暮れは迎春準備。正月は子供の相手や年始客の接待で体を休める暇もなく女正月を待つばかりだった。
 今は子供も大人も暮れから正月、テレビに釘付け。子供はゲームかパソコン。食べたいものは冷蔵、冷凍。いつでも、何でも好き放題。
◇初詣は、信仰と無縁で、腹減らしが目的。それもマイカーによる遊びが主体。正月は閑散として人の動きが停止した状態だが、どの家庭でも家に籠もってテレビ番。
 中には観劇、パチンコ、競馬、競艇、競輪、スキーなどのファンもあるが、あり余りの世に足らいで福袋買いや百貨店詣でもあり、だれもかれもがお大尽ぶる世相となった。
◇ケータイが生活文化となったから、年賀状はもちろん一般通信にも変化を及ぼし、メールが情報界を支配するようになった。人それぞれの社会的交流、ことに地域社会のコミュニケーションが劣化し、挨拶や互助の習慣が消えつつある。
◇このように万事お金に支配され、お金ですべてが充足する。徹底した個人主義社会が冷蔵庫のような温みのない、あるいは涙を忘れた似て非なる文化砂漠を招来した。
◇正月から立春にかけて、全国各地で社寺仏閣に関わる歴史的、伝統的祭り(おこない)やイベントが展開されるが、これとて、それらを担う若ものの郷土愛と地域文化への誇りとこだわりがあればこそで安倍さんのいう美しい日本がこの方面から崩れることのないよう壊してならないもののあることを銘記したい。

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  • 1月 26日(金)  【グラスギャラリー・マヌー】
     ガラスのお雛様展(~3月4日)
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